丹波 黒井城

石垣で山城で国指定史跡


さて、第一回目は丹波が誇る巨大な戦国城郭、黒井城です。
学生時代の友人Mが丹波の出身で、あるとき、こうつぶやいていました。

「赤井は、強かったんや・・・」 

その謎めいた言葉を耳にしてから幾年月。やっと「強かった赤井さん」の古蹟を訪ねることが出来ました。
んー、初めて行ったのが2002年の7月と古いので、今回は2006年7月31日に行ったときのことを
書いてみようかな。それでも、もう何ヶ月も前のことになりますが・・・



黒井城
保月城・保築城とも。南北朝期に春日部を領有していた赤松貞範が築いたのが始まりとされています。
今に残る城跡は戦国後期〜織豊期のものなので、天文23年(1554)から城主となった荻野悪右衛門
(赤井直正)が築いたものだと思われます。以後、赤井一族の拠点として機能し、何度か戦いの舞台とも
なりますが、天正7年(1579)に明智光秀の攻撃で落城。黒井城は織田家の支配下に入り、斎藤利三
が城主となります。本能寺の変後は堀尾吉晴が入りますが、天正12年(1584)に赤井時直(直正の弟)
ら赤井氏の残党が立て籠もる事件があったことから、それ以前に堀尾吉晴は黒井を去り、城は廃城に
なっていたものと思われます。廃城後はどうなっていたんでしょうね?石踏の段にあった山門とか顕彰碑
とか、気になるんですけど。






では、出発しましょう!



7月の旅といえば、やっぱり青春18きっぷですよね。行き先は定番の田舎町。
私は昔から田舎への憧れが強く、都会よりも、大自然よりも、さびれて時間が止まってしまったような田舎町が
好きです。
ぼんやりしていたら時代の波に乗り損ねた・・まあそれでもいいや、のんびりやろう。というマイペースぶりが
私の心の琴線に触れまくるのです。これって、負け組ってことでしょうか?




JRの黒井駅を出ると、目の前に黒井城がそびえています。

黒井城です

おおっ!黒井城!
なんと総石垣ですよ。曲輪がたった二つしかないけど・・・しかも周囲には、この黒井城に関する説明が何もなく、
何がやりたかったのか、いまひとつよくわかりません。
まあ、町の玄関口(だった)黒井駅のまん前に城のモニュメントを置くぐらいだから、黒井城は地元の人に愛されて
いるのでしょうね。
駅前のモニュメントというのは、その町の精神や誇りを表しているところが多いのです。
そして、もう一つ・・・




誰か立ってます。

幼き日の春日局。
そう。はじめは何でここに春日局の像があるのかと思いました。
よく考えてみると、斎藤利三が黒井城主だった時期があるんですね。
黒井城というと、どうしても赤井直正のイメージが強くて、斎藤利三は出てこなかったなあ。
ましてや、その娘となると・・・。
でも黒井では、赤井直正よりもこの人の方が持ち上げられているんでしょうね。
片桐且元や中川清秀を期待して茨木に行ったら川端康成が出てきてびっくりという感じでしょうか。




サンウエキを名乗るスーパーで飲み物と弁当を購入し、いざ、出発!
黒井の町は、いい感じに田舎町です。
古い家はあまりなかったのですが、新しい家も少なくてよしって感じです。





少しくたびれた街並み

黒井の町。
このあたりが旧黒井城下らしいですね。
城下にはいくつかの寺があり、なかでも興禅寺という寺が春日局生誕地ということになっています。





なんだか強そう

興禅寺です。
どうしても城郭にしか見えないんですけど、それもそのはず、斎藤利三の下館跡だそうです。
黒井氏の時代はどこに居館があったのか気になるところですが、山上の主郭部も織豊時代の改修を受けて
いるので、よくわかりません。ま、この下館跡も寺になったおかげで残ったんじゃないでしょうか。


ちなみに、前回来たときは興禅寺の門前に設けられている休憩所で休息したのですが、
今回は尺八か何かを吹いている人が立て籠もり中だったので、中に入らず普通にスルーしました。
中は大河ドラマ「春日局」のロケ風景や出演者のみなさんが残していったサインとかが展示されていたと
記憶しています。





煙もくもくです

上の写真もそうですが、なぜかこの日の興禅寺は朦々と煙が立ちこめていました。
煙たくて、とてもゆっくりしていられません。まったく、休憩所には入れないし、寺からは煙で追い出されるしと、
さんざんでしたね。帰れ!と言われているんでしょうか。





さて、それではいよいよ城跡へ。





きれいに整備された登山口

はい、登山口にやってきました。
国指定史跡の文字も誇らしげで、いいですねえ。
近世城郭以外の城跡で史跡指定を受けているのは少ないですからね。それだけ質が高い史跡ということですよ。
普段、石碑だけとか、石碑さえ建ってない城跡を歩いている身としては、国指定史跡黒井城は畏れ多いくらいです。


ここからは右の階段か、左の登山道かを登ってゆくわけですが、右側の階段というのが、トレーニングに最適な
長大さなので、体育会系ではない私は左の登山道から登りました。





こっちがいいな

ここから登ります。
写真の中で看板が訴えていますが、ここから先トイレはありません。というか、ここにもトイレはありません。
興禅寺の前の休憩所まで戻りましょう。戻るのかよ!


ちなみにこの登山口では、黒井城に関する資料を手に入れられます。春日町歴史民俗資料館で作っているもの
らしいのですが、これがまた最高に出来がいいのです。写真と解説ぐらいならどこのパンフでもやっていますが、
ルートと曲輪を色分けした地図、
出郭まで載ってる縄張り図、
出郭の位置まで明記してある全景写真、
旧道と支城の位置関係が分かる周辺図
、と揃っているのは素晴らしすぎです。
縄張り図さえ載っていないパンフが星の数ほどある中で、ここ黒井城は妙にレベルが高いです。
どこの城跡に行ってもこのレベルのパンフが置いてあったら、日本は素敵な国になりますね。





しんどいっ!

ぜえ、ぜえ、やっと見えてまいりました。
「石踏の段」と呼ばれる郭です。山城の宿命とはいえ、猛烈にしんどいんですよ、これが。
全体が赤塗りという謎の休憩所?でひとやすみ。


赤塗りです


山門ですね

ああっ、写真撮る前にシャツを片づければよかった!
汗だくのシャツを干しているあたりが真夏の城歩きらしい光景ですね。シャツを脱いで、ここで弁当を広げ、
ごろんごろんとくつろぎます。もうほとんど自分の部屋です。誰もいないし・・・


と思っていたら、地元のおじさんらしき人が現れてびっくりしました。
少し話をしてみると、しょっちゅうこの山に登ってるとか。で、下に置いてあったパンフとか、この城跡のことを少し
褒めたら・・・


「下のパンフレットは、わしが補充している」


ぶほおっ!当事者かいっ!
前回来たときに同じ場所で入手した地図を持って来ていたので、彼に見せたら
「これもたくさん刷った」
というようなことを言っていました。ツワモノですねえ。
歴史民俗資料館の人でしょうか?この日は月曜日だったので私は資料館に行ってなかったのですが・・・





町が見渡せます

石踏の段からの眺望
手の平で掬えそうな町です。丹波らしい、山に囲まれた風景が広がっています。





石踏の段です

石踏の段は、こんな感じ。
右奥に見えるのは赤井直正の顕彰碑です。かなり風化していますが、文字もちゃんと読めます・・・・
って、読んでないけど。
赤井直正は司馬遼太郎の『貂の皮』では脇坂安治に討たれたことになっていますが、病死という説もありますね。
直正が亡くなって、はじめて織田軍は黒井城を落とすことが出来たということなのでしょうか。
脇坂家の代名詞になっている貂の皮は、今も播州龍野の龍野神社というところに現存しているそうなので、
赤井直正と脇坂安治の間に何らかの関係はあったみたいです。
ところで前回といい今回といい、ことごとく夏に来ているわけですが、紅葉シーズンになれば色鮮やかな風景が
楽しめるんじゃないでしょうか。18きっぷでは季節的に無理ですね・・・・





さあ、出てきました。
お待たせしました。
全国に1万人いるといわれる石垣ファンの皆様、いよいよここからが石垣の世界です。
ページの半分以上をわけのわからないレビューに費やしてまいりましたが、ようやく今回の主役たちが登場です。
まずは三の丸の石垣。この石垣の左側が虎口で、門跡の石列があります。東曲輪跡の看板が立っていますが、
看板の立っているところが東曲輪です。後ろの石垣は三の丸の石垣ですのでご注意。わかりにくいですが、
右端は継ぎ足したような感じですね。





看板、寝てます。

続いて二の丸の石垣。
同じく三の丸と書かれた札が立って・・・いや、寝ころび気味ですが、これも看板のある曲輪が三の丸だ
という意味です。
同じく左側が通路になっているのですが、ここの虎口は二回、直角に折れています。
この石垣も、さきの三の丸石垣と同様に櫓台だったようですが、ごらんの通り上部の破壊が進んでいて、
下の部分しか石垣は残っていません。整備する際に、かなり復元したんじゃないでしょうか?
ちなみに大和の高取城では、この位置の石垣がものすごく立派です。





看板、落ちてきてます。

内側から見た二の丸
さっきとは逆方向から撮っているので、突き当たりが櫓台。右奥が虎口で、三の丸に連結しています。
下草は伸びていますが、木が切ってあるので非常に見やすくていいですね。
時折吹いてくる風と、見晴らしが最高!です。
が、直射日光をまともに浴びるので、とろけそうなぐらい暑かった。





一番のみどころ
二の丸と本丸をつなぐ帯曲輪の石垣
ここの石垣が一番残りが良く、見ごたえのあるあたりです。
城下からよく見える位置なので、立派な石垣を築いたのでしょう。
本丸・二の丸・三の丸は、おおまかに見ると同じような連結をしているので、縄張りの面では面白味に
欠けます。ひとまわり大きいとはいえ本丸も二の丸と同じ規模で、連結も同じ。
地形の制約を受ける山城で、ここまで単一な構造というのも逆にすごいと言えます。





いいですねえ
で、これがトップの画像。
上の写真と同じ石垣です。気分がいいのでもう一度載せてしまいますね、ふおっふおっ。
一部、木の生えているあたりの石垣が失われているのですが、但馬竹田城のように復元はせず、
破城されたままの姿で整備してあるようです。
これがひと昔まえなら、石垣は完全復元、おまけに建物も格好いいやつが建てられていたことでしょうね。





真ん中に道が・・・

二の丸から見た本丸です。
左へ行くと、上の写真にある石垣作りの帯曲輪を通って本丸虎口にたどり着きます。
この写真だと真ん中に入り口があるようですが、後世の道のようです。





堀切状の空堀から

上の写真と同じ石垣です。アップで撮ってみました。
黒井城に限らず、石垣の城に行くとメモリーカードいっぱいの石垣写真が残ります。
これを後になってから、どこの石垣をどこから撮ったものか判別するのは至難の業なんですね。
石の色・形・並びと周囲の風景を手がかりに・・・・この一枚も判別に苦労したものです。





看板、ここでも寝てます。

そして、本丸です。
ようやくたどり着きました。本丸です。
ここも日陰がないので、容赦なく暑いです。でも耐えます。がんばります。
石碑にある保月というのは黒井城の別名ですね。でもなんで保月(保築とも)なんでしょうか?
史跡として公には「黒井城」で、『信長公記』にも「黒井」とありますが、登山道の入り口など地元の人が
建てたっぽいものでは「保月城」となっていますね。地名でしょうか?
そして、ここの看板も、やはり寝ころんでいらっしゃいます。





西曲輪

っと、ここまでで引き返しました。
写真に写っているのが本丸です。
保月城址の石碑も見えますね。・・・・見えますよね!わかりにくいけど。
この先に戦国っぽい遺構が残っているという西の丸があるのですが、帰りの電車の時間もあるし、
涙を呑んで引き返すことにしました。
縄張り図で見る限りでは、櫓台や堀切、さらには縦土塁や、等高線に対し平行に走る土塁などがある
みたいで、ちょっと異質な感じが期待できそうなのですが・・・





いかにもな山城

とか言いながら、なかなか帰らない。
周囲の曲輪を、行ける限り回ってみました。ここは東出丸ですね。
このあたりは完全に土の城で、主郭部とは明らかに差があります。
この付近で城内のルートが集約されているので、繋ぎの為の重要な場所だったと思われます。





草、はえすぎ・・・

太鼓の段まで回ってきました。
前回来たときはそうでもなかったのに、今回は草が生い茂っていて大変でした。
ここは先程の東出丸と石踏の段のちょうど中間にある曲輪です。今回行かなかったのですが、主郭部の
北側に北の丸と呼ばれる細長い曲輪もあり、これらの曲輪がほぼ同じ高さで主郭部を囲んでいます。
北の丸、石踏の段、太鼓の段、東出丸などの諸曲輪を横に連結させることで、平城でいう外郭のような
役割を果たしていたんじゃないでしょうか。
斎藤利三が黒井城主だった頃とほぼ同時代の安土城にも、主郭部を囲う外周通路のようなものがあった
みたいです。





戻ってきました

で、石踏の段に戻ってきました。
ちなみに前回は古墳野郎が同行していたので、黒井城のあと、隣の市島に寄って三ツ塚遺跡という史跡を
見学しました。塚(古墳)が三つ並んでいるから名付けられたらしいのですが、実際はなんと寺の跡で、
西塔・金堂・東塔の基壇が土に埋もれていた!ガーン!といった代物だったわけですが、
なかなか面白いので、時間が余ったらそちらにも行ってみてください。



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