風雨有情  fuuuujyou   

   VOL65  

 実践哲学研究会会報
     2010.4月発行
                                        

 

 

 

 

許すが勝ち

 ふと、遠い昔のさも無い出来事が頭の中に浮かんでくることがあります。私が19歳の時です。船乗りとして初めてのアメリカからの航海を終えて、1ヵ月半ぶりに日本の港に着いた時の事です。船内はあわただしく賑わっています。ちょっとした興奮状態です。船員にとって入港の時は、お祭りのようで、誰しもが嬉しいのです。忙しく調理室で仕事をしている私のところへ、酒に酔った機関員が入って来ました。そして、「おい、ボーイ、コックが船乗りならば、とんぼ、ちょうちょも鳥のうちだ」などと言いながら絡んで来るのです。普段、言葉も交わしたことも無い人です。これは新参者の私に対するいじめです。戸惑うと同時に無性に腹が立ってきました。元気のいい、若い時です。殴りつけてやろうか、とも思ったりしましたが、先輩にそんなことをしたら、叱られるのは私の方です。なだめるふりをして絡み合い、高さ10mもある甲板の上から海に一緒に飛び落ちてやろうかとさえ思った、激しい気性の私でした。

 それから時が経ち、64歳の私です。今思えば私は何一つ悪くないと思って腹を立てたのですが、彼には新参者の弱者に対していじめを行わなければならない理由が有ったと思うのです。心待ちにしていた妻が会いに来てくれなかったのかもしれない、届いた手紙の封を開けたら、うれしくもない便りだったのかもしれません。皆が港に着いた喜びに沸いている船の中で、彼一人の心の中だけが悲しみに満たされていたに違いない、そうであるならば、かわいそうな人だったのです。人の行うことにはみんな何かしらの理由があるのです。それが何で有るのか、他人の私には知る術もありません。その人の問題だからです。私の問題ではないのです。ならば、私が彼の心の闇の世界に引き込まれて、腹を立てることは何も無かったのです。人の抱える問題で、自分が腹を立てたりすることは愚かしいことでした。

思い起こしてみれば、普段の生活の中にこんなことはいっぱいあることです。船を下りて故郷盛岡に帰り、レストランを始めました。お客様の中で独身の私に思いを寄せてくれた女性もいたようです。でもその人とは縁が無く、私は今の妻と結婚したのです。何年かして、その人と街でバッタリと会ったのですが、私の顔を見るなりプイと横を向くのです。一瞬私は不愉快な思いをしました。その人に私が何か悪いことでもしたのでしょうか。デートの一回もしたことも無く、その女性を騙したり裏切ったこともありません。何で私が恨まれなければならないのでしょう。このこともあなたの問題であって、私の問題ではないのでした。

人に対して腹を立てている人の話しを聞いていると、たいていの人は、人の発した言葉によって傷ついているようです。でもよく聞いてみると、言葉を発した人も相手の人を傷つけようとして言っているのではなく、親しくなりすぎて自分と同一化したり、より認めて欲しいというような甘えの心が出てきて、つい押しの強い言葉が口から出てしまったりするようです。初めて出会った人に対しては、そのような振る舞いは、まずしません。ここまでなら許されるだろうというような親しき故の互いの甘えの図柄だったりします。  

相手の人に嫌味なことを言わせたことの原因の一部は、実は自分の方にもあったのかもしれません。ですから自分の心が楽になるためには、些少のことは許した方が良いでしょう。でも世の中には越後屋とお代官様のような、本当にどうしようもなくひどい悪もいます。こちらは何も悪くないのに、ひどい仕打ちを受けることもあります。でもそんな人ほど実はあっさりと許した方が良いのです。自分にとって大悪人と思われる人は、私にだけ意地悪を仕掛けているのではありません。あっちでもこっちでも色々な悪いことをやっているのです。誰が見ても常識から外れている、ひどいと思われている人は、いずれ自ら世間や天からの裁きを受けることになるからです。そんな人を恨んでも何の得にもなりません。イラつく心は相手に任せて、自らの心の中は静かにして暮らしたいものです。そのためにも許すが勝ちなのです。

 

ポイント

@    身近な人とのトラブル、腹立ちはあまり鋭くトンガラずに、ゆったりとした心で水に流しましょう。

A    どうしようもなく性悪な人ほど時間がかかりますが、必ず自滅するか、自らが苦しい思いをすることになります。相手の毒に染まらずに、心静かにして、放っておきましょう。

                                  任天山人