囲炉裏 第一話

紅葉も終わり、針葉樹の所々に枝だけが目立つようになったある日、 久しぶりに田舎を訪れた。車から降り立った途端、風の冷たさに身を 竦ませる。足元で 乾いた冷たい風が木の葉の船を音を立てて運んで ゆく。一番に静かな季節かもしれなかった。 稲田も既に刈り入れが終わり、切り株から再び伸びた稲の葉も黄色 く枯れている。休耕田に根を張った茅も、所々刈り取られて来年の屋 根の補修の為に束ねて立てられていた。 玄関に立って、ふと家の上に建っている幼なじみの家を見ると、当 人が雪除けを組んでいた。向こうも気付いたらしく、仕事の手を休め て坂道を下りてくる。 「達者だっけか?」 「おお」 「いつまでいられらあと」(いつまで居られる?) 「明日の朝帰る予定だけど」 「だけら、今晩行かあね」 それだけ言うと、彼は仕事へと戻って行った。 母を街に建てた家へと引き取ってから、一年間誰も住む事の無かっ た木造の家は三ヶ月前に来た時のまま、埃だけが積もっていた。 ずっしりと重い鎧戸をガタガタと開けて、冷たく凝っていた空気を 追い出す。 台所の端に引き込んだ清水を汲んで、ぱりぱりになった雑きんを探 しだして床の掃除を始める。一年前には黒光りしていた床も、生活の 気配と同時に艶を無くしていた。床板を上げて、塞いでいた囲炉裏を 出す。既に電気も電話も切ってあったのでこれで夜を過ごすつもりだっ た。もちろん、ライトくらいは持ってきているが。 窓は開け放ったまま、燃料を拾いに出る。一晩位なら、屋根裏に積 んである薪は使わなくて済むだろう。 近くの雑木林で集められるだけの小枝を拾った後、杉の枯れ枝を腕 いっぱいに集めた。軍手といわず厚手のシャツに目一杯引っ付いた杉 の枯れ葉をつまんで取る。 暗くなってから仕事をするのは嫌だったので、早々と座敷に布団を 敷いてしまう。 雑木林に入って小さく尖った椎の実を持ってかえるつもりで拾い集 めた。もっともしいの実と呼んでいただけで、本当の名前は知らない。 山がゆっくりと薄紅に染まる。振り向けば、見事な夕焼け。濃くなっ てゆく朱が闇と溶け合って、青味がかった闇にさざめく銀の砂。 時間も忘れて眺めていた。空を見上げなくなってどれ位。星が煌く ものだと言う事すら忘れていた気がする。 「なー、何してらあと」(お前、何をしてるんだか) 懐中電灯を片手に、ラップをかけたどんぶりを持って、幼なじみが 呆れ顔で立っていた。 「星を眺めてたんだよっ」 「すっげ、似合わねえ」 「向こうにいると、空なんか見ないから」 「でもそ、っけんめーると、汚ねってが。めーすぎて星座なんて判ら ねあ」(だけど、こんなに見えるとキタナイ。見え過ぎて星座なんて判らん) 「俺だって星座なんて判らんぞ」 彼がガハハと笑う。 懐中電灯を頼りに家の中に入って、開け放してあった窓を閉める。 家の中はすっかり冷え切ってしまっていた。 「こいだけしかぼよ、ねあか?」(これだけしか小枝はないのか?) 「足りると思ってるんだが」 「まこつが、アンボ持って後から来らあって」 「え・・・」 「こっちに帰って来たあよ。知らねっけか?」(知らなかったか?) 「知らなかった。今何をしてる?」 「土方シ・・のつもりで入ったがんに、温泉で受け付けしてらあって」 (土方のつもりで入社したのに、そこの経営の温泉で働かされてる) 街に土建屋は二店しかないし、一昨年新しい温泉センターが出来たみ たいだから多分そこの事だろう。 灰の上に杉の枯れ葉を積む。小枝を乗せて取りあえず、バランスを 取る。新聞紙をねじった焚き付けから、炎が舐めるように赤茶と黄色 の杉の葉に燃え移ってゆく。パチ、パチパチと次第に大きな音をたて て爆ぜる枯れ葉から伸びる炎が小枝を包む。赤い炎がふわりと大きさ を増して、燃え移った事を知る。燃えきってグズグズと崩れてゆく杉 の葉と小枝を追加しながら、妻が持たせてくれたはずの弁当を探す。 クーラーボックスを開けると、割り箸の束と紙コップが、保冷剤に 挟まれた日本酒と共に入っていた。ついでにつまみも。一人にやける。 (コップも皿も箸も、探せばあるはずなのだが) 「そうそ、でえこ煮貰ってきたすけそ」(大根の煮物) ラップを剥がしたどんぶりからは未だ湯気が立っている。 酒がそれじゃ足りないと言って、幼なじみが家に取りに帰った間に、 弁当を一人で食べる。 大根は懐かしい味がした。街で食べるものと作り方に差があるとも 思えないが、どこかが違うのだと思った。空気、だろうか。感傷的に なっていると思う。 幼なじみが一升瓶を2本抱えて戻ってきた。 「おーい。いくらなんでも、そんなに飲まんぞ」 「ああ、こっちは土産んが。持ってけってあそ」 そして、ドン! と力強く座り込んだ。 「ほれ」 さっさと手酌で自分の紙コップに注いで、片手で一升瓶の口を突出す。 実に見事な手際でナミナミと溢れんばかり、でも一滴も零さずに杓を してくれる。慎重に口元に運ぶ私をみて、彼は笑う。 「何上品な飲みかたしてらあと」 ぐいっと飲み干して、また笑う。日に焼けて目尻に笑い皺を刻み込ん だ顔は、脂肪が削げ落ちて頬骨を高く見せる。細く見える腕は筋肉の 筋が浮いて力強くうねる。骨張った手の丸い指先が口元に酒を運ぶ。 ふと、炎に照らされて白く浮く自分の手を見て笑ってしまった。こ れが生き方の違いなのかと。 何時の間にかしゃべれなくなっていたはずの方言で話す自分が いた。あんぼはすでに囲炉裏の灰に埋めてある。三人とも、もう ずいぶんとできあがっていた。 「なあ、なあして戻ってきたあが?」 一抱えもある大黒柱に寄りかかった姿勢でまこつに尋ねる。 「おれの嫁さんがそ、田圃仕事が楽しってあで、こっち来てもいっ て言ってくれたすけそ」 照れくさそうに耳の後ろをかく。 「まあ、そいがあでも。土方するつもりでそ、大特とったあでも なしたあでら、っけん湯入りにくるショの受け付けしてらあって」 ヘヘヘ、と笑う。あたりめをつまみながらまこつが聞いた。 「なあのかあちゃん、達者かね」 近頃とみに小さくなってきた母親の背中を思い浮かべた。 「ああ、達者だでね」 「おら家のかあちゃん、茶飲み友達居なくなったすけ、ちった寂 しがってらあね」 幼なじみが座り直しながら口をはさむ。 「・・・・こっちへ帰って来てあみてだでも、ちっとそ、面倒みらん ねし、なあしたらいあでら」 愚痴が口をついてでる。期待していた訳ではないと言い切れない けれど。 「なに、様子くれえ、見に来らあね」 幼なじみが簡単に言い切ってくれる。 「おう、デイサービスだってあらあね。毎週湯入りに連んてって くんらあ」 2人して顔を見合わせ「なあ」と肯きあっている。 嬉しかった。実際、1年前まではそうしていたのだが、そう言っ てくれる事で気持ちが少し、軽くなる。 「冬は、ちっと無理だすけ、春になったらそうさせてもらわあね」 そうして三人で乾杯をし直した。 母親の小さな手が三角錐の小さな木の実に爪をたて、なかから 白い粒を取り出す。 「昔、ねら良く食ったっけね」 「そうだね」 背を丸めて一粒一粒ゆっくりと口へと運ぶ。 「来年、春になったら、田舎へ帰りたいですか?」 母親が手を止めて、顔を上げる。奇妙に歪んでいた。 「いあかね?」 「冬はこっちに来てもらうけどね」 それきり、目を閉じた母親を見て、胸が痛んだ。 春になって、約束は叶えられずに終わる事となった。 近年まれに見る大雪に、守るべきものを持たなかった家は雪の 重みに耐え切れずに屋根が陥没してしまった。 住めなくなった家は そのままにしておけず、つぶしてしまう 事になった。 母親が家を眺めていた。何も言わず。ただ、家が視界に納まる 位置まで下がって見つめていた。 「・・・いいかね?」 パワーシャベルを運んできたまこつが遠慮がちに尋ねる。母親が 小さく、肯いた。 地響きを立てて鋼鉄の腕が振り上げられる。ミシミシと屋根にめ り込んだ時、母親は俯いた。肩が細かく震える。 頼りなく小さな小さな背中が後悔を掻き立てる。 声をかける事も出来なくてただその背中を見つめていた。
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