最終更新日:平成15年1月14日

私の主張へようこそ!まじめに考えてみましょう。

第三部索引

 前書き
1章 偉人に学ぶ
 ・インゲマル・ステンマルク
2章 人生論
 ・「美しい」ということ
 ・「夢をもつ」ということ」
 ・「今を生きる」ことの意味

3章 社会論
  はじめに
 ・エイズは人類への福音か
 ・エイズ撲滅は知識と倫理観の確立に
 ・売春・買春は全て大人として
第二部



第三部前書き
  このページは,できれば生徒の皆さんに精神的栄養を与えることができたらうれしいと考えて,作成に努める考えです。少しばかり先に生きた者として,ここで出会ったしるしとして。「人は皆師なり」とは,私の好きな言葉です。人はどんな人でも一つ位自分より優れたところがある。その部分では先生だ。という程の意味です。私は,さらに一歩進めて,次のようにも考えることができると思っています。たといひとつも見出せず,まずいところしか見つからなくても,それはそれで反面教師の役割を果たすことができる。その意味で,これまた先生となる。私は,人に限らず,自然そのものが人間にとって豊かな感性を引き出す先生のようだとも感じています。古の多くの人もまた,自然から学んでいる。
いろは歌も歌いこまれた「人生論」です。
 色は匂いど散りぬるを,わが世誰ぞ常ならむ,うえの奥山今日越えて,浅き夢見し詠もせず(ん)。と,
京近辺で活躍した歌人の人生のはかなさを感じる歌であるが,これを歌にした歌人はすごく頭の良い人と考えます。無駄なく,50音で歌いきっているのだから。あなたならこれをどう思いますか。(失礼,これは私の解釈です。こう読めるという意味です。)
 

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1章 偉人に学ぶ(H14.12.16)
(1) インゲマル・ステンマルク
 12月14日(土) アルペンスキーの王者,インゲマル・ステンマルクの活躍の報道番組を通して感じたことの概要を記しておきたいと思う。
 彼は北欧,スウェーデン,ターナビー村に生まれた。16年間の選手生活で86勝をしたスキーの天才である。アルペンスキーでスウェーデンに初めて優勝をもたらした人でもある。彼は七歳の時からスキーを始めたとのことだ。昼間は学校があったから,帰ってきてからが練習だ。この村には,小さなゲレンデがあり,照明がついていて,いつでも自由に滑れたのが良かったと。手ほどきは父から受けたようだ。今日の彼を作ったのは精神力と何よりもスキーが楽しかったことだと述懐している。1980年のオリンピックで初めて金メダルを獲得。以来,七年連続で,回転・大回転で優勝する。
この彼の生まれたターナビー村は,以来これまでに七人の金メダリストを生んでいる。
 彼のスキー観は「自由にすべる」ということだそうだ。その他のスポーツはゴルフをたしなむ。スキーをやっていて辛かった事はとの問いに,余り感じていない様子で,訳は,彼自身「スキー人生は楽しい」と感じていたからであろう。
 夏のトレーニングは,自然の中で思いのままに実践したとのこと。特に,これと言った特別のメニューをこなしたわけではないとのこと。自転車で,綱渡り。時には一輪車で綱渡りをしたとか。あらゆる自然条件に合わせられるようにやったと。
 こんなところに彼の考え方が色濃くにじんでいよう。スキー場を借り切っての子供たちを対象としたスキー教室を通してドキュメンタリータッチで描かれた記録ではあるが,子供たちの感想は,彼は「やさしい人」,とのことだった。

彼の生きた環境と人生から私たちに伝わってくる「メッセージ」は何であろうか。
@ 環境を上手に活用し努力した。
A どんな環境にも耐えられるよう柔軟に対応した。
B 過去のどんなやり方にも縛られず柔軟に考え自分なりの方法を編み出した。
C ちょっとした変化を敏感に肌で感じ取り創意工夫でその変化を克服した。

などが浮かんできた結論である。上記のことは,これからを生きるであろう諸君が何かにあたるとき,指針となるものではなかろうか。学校生活を通して,具体的には学習,部活動,友達,先輩や先生との交わりの中で,単なる交わりではなく,その中は生きた教科書として,何かを学ぶ機会となるはずです。高校生活の三年間を有意義なものとするには,お互いが磨きあう場とすることが大切です,こういった視点が求められると思います。(H14.12.16起稿,合同HRで)

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2章 人生論

 初めに
 人間は進化の過程で自己の足跡を次の世代に残すことを通じて,文化・文明を形成してきた。その中で,現実にアクセスできる物理空間よりも遥かに広大な精神世界を作り上げてきました。他の動物とは遥かに次元の異なるものです。それが,宗教であり,思想です。学問としては,宗教学,哲学,芸術などです。さらに時代が進んで,科学的アプローチをするようになって,倫理学,数学,物理学,化学,生物学,工学,医学,心理学,論理学などに分化し専門化してきました。さらに現代では専門的に分化しています。そして,一般人にとっての素朴な思想として,人生論があると考えられます。この原始的な表現形式に神話や民話があります。人々は神話や民話を通じて,子供たちに守るべき道を教えてきたのです。だから,いわばこれらは民族の心,先人が子孫に残した遺訓なのです。そして,現在もさまざまな人の足跡として多くの人に生き方を垂れるのです。ここでは,われわれが生きる上での力となるであろう事柄を,主に,教育という視点に立って取り上げて見たいと思います。
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・「美しい」ということ

 君たちは「美しい」という言葉から何を頭に浮かべますか。
バラの花を見て「美しい」と感ずる。これも「美しい」です。が、この美しさの命は「短い」。それよりずっと長い花が朽ち落ちた世界が待っていることをやがて知るであろう。私たちは,花をつけたバラを摘んで花瓶に飾ることはしても,花の無いバラを飾ることは余り無いように思われます。バラの一年を考えるとき,さらに,花のついたバラの期間は短さだけが感じられはしまいか。この世に存在するどんな「美しさ」も、形の美しさを求める限り,この「美しさ」の持つ「はかなさ」を感じないわけには行くまい。
 ここに,インドの「国民の母」とまで言われた「マザーテレサ」の話をしましょう。彼女は決してインド人ではありません。イギリス修道会に身を投じた方です。その後インドに渡り,恵まれない人々のために,その生涯をささげた方だが,やがて彼女の生き方を慕う者は3000人にも及んでいます。現在もその活動は続いています。私は,これも「美しい」と考えます。して,この美しさは,人々の心に刻まれ感動を与え,それに続く輪となって受け継がれてゆく。どうでしょうか,先の「美しさ」に比べ,この美しさは永遠にも似たものを感じませんか。
 ひるがえって,諸君の日常生活を見てみることにしましょう。
 鏡を見ては,あれこれと,耳に,爪にと忙しい人もいるかも知れません。中には,頭髪の手入れに余念が無い。などと,該当しませんか。これらは上で言えば,表面上の「美しさ」を求める行為に他なりませんね。人に不快感を与えない程度の身だしなみはエチケットでしょうが。いずれ終わりが来る,追いつこうとしても追いつけない,追いかければ追いかけるほど遠のく「美しさ」を追い求めているように思われてしょうがありません。
 逃げることの無い永遠に続く,「美しさ」はどこにあるのでしょう。私は,「心の中に」こそ宿すことができると考えます。人に対する「やさしさ」「いたわりの心」などなどとして。これらは具体的な行為を通して少しずつ心の中で成長するものでしょう。最初からの偉人などはいません。一つ一つの行為を通じて人格が形成され,それとともに「人柄」が形成され自然と品格が備わるのでしょう。
 皆さんは,これをどう考えますか。やがて大人へと成長し,妻と,母と呼ばれるとき。あなたを見上げる人々から「どのように見える人」になりたいですか。教養の無い人は悲しい,自分の立場すら分からないままに一生を終える。私が,諸君に期待したいことは教養を身にまとい,思慮分別のある,心のやさしい人となることです。
 冬休みは,復習とともに人生を考えるひと時も持ってもらえれば,より充実した生活になるものと思われます。新年は,少し成長した諸君と会えることを楽しみにしています。(H14.12.16起稿 合同HRで)
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・「夢を持つ」ということ
 15.2.13 堀江 学 氏の講演から
 急きょ決まった講演であったが,氏の30歳まで生きた人生の証を聞く機会を得ることができたことは,生徒たちにとって得るところが多かったのではなかろうかと感じた次第である。ここに,その要点を記し,後輩の参考としたい。(編者)
 テーマは「夢」ということで話された。現在の児童生徒の「夢」を持っている割合は,氏の話によると,小学4年の頃までで100%,中学生で10%,高校生で3%という。現在の大成の生徒は何%であろうか,挙手によると30%位だったと(ひいきな数と思えたが)。氏においては「夢」を育ててくれた方は,祖父だったという話だった。始め幼稚園の頃は,プロ野球の選手を目指せと。次に小学校に行き少し太ったら,当時北海道出身の横綱「北の湖」関が活躍していた時代であったせいか,横綱を目指せと仰せになったと。小学4年生になって,スケートを始めたとか。小6でスケートでオリンピックを目指せと。当時活躍していた,黒岩明や橋本聖子のようにと。
 「夢」があれば,辛くとも,苦しくとも再び立ち上がれると。「夢」は絶対に諦めないこと。「才能がない」と,言って,諦めるなと。才能がある人が「夢」を実現するのではないと。心強い言葉である。「夢」を諦めず,「夢」をもち自分を信じて挑戦し,一歩一歩努力する者が「夢」を実現するのだと。氏は自分の体験を交えて,力説していた。まったく同感である。
 彼は自分を振り返って次のように言う。室蘭で生まれたが,室蘭は「スケート」は盛んではなかった。環境が問題なのではないと。「夢」を持ち続け,何度失敗しても,努力し決して諦めないことだと。
 中学二年の頃成績はさほどではなかった。スケートの順位は300番台だったと。中学三年のとき100番位だったと。このときの監督が良かった。おまえは「バネ」がある。大器晩成だ。と,励ましてくれたのが,スケート界に足を大きく踏み込む動機を与えたようだ。スケート界の登竜門「帯広白樺学園」に行かせてくれと,父に頼んだ。父は,「スポーツ」では飯は食えない。止めとけと言われた。母に頼む。「金が無いから私立には行かせられない」と,断られた。祖父に相談した,「どうしたら言いい」と。爺は言った,「二人の反対で諦めるくらいなら,止めとけ」と。で,再び父にお願いした。父は条件を出したと。全国で16番以内になったら行かせてやるよと。ここで,具体的な目標を持ったわけだ。2:14:88のタイムで果たせるかな約束の16位を掴んだ。17位との差は2/100秒だった。帯広白樺学園進学を勝ち取った瞬間である。
 学園のスケート部の監督が良かった。最初に言った監督の言葉が決まっていた。「君たちの夢と目標は何だ。自分の出したいタイムを紙に書いて,ベッドの上に貼れ」と。夢とか目標と言われて,すぐ応えられる人は少ないのではないか。
 「具体的な個人の目標」を中学では43.6秒だったから。目標を40.0秒に設定した。これは一年で達成した。この具体的個人目標を決め公言することは,本人の能力を引き出す効果があると。なるほどと思った。進学者なら具体的数値目標を宣言することに相当する。例えば全国模試でSS60.0を全教科取るなどとね。全体の目標は「アベック全国優勝」だった。
 夢・目標が定まれば,次に目指す目標が自然と決まる。小さな一つひとつの目標を達成して,この積み重ねで大きな目標を達成できると。千里の道も一歩からである。氏の好きな言葉だそうだ。現在の立場から目標を直接見ると途方も無くなかなか第一歩が踏み出せない。が,夢から見ると行動が起こせるとは氏の言葉だ。この第一歩を踏み出すのは,実は大変勇気のいることだ。
 人はどうすると,自信を作れるか。それは,氏の経験からは,「小さな成功の積み重ね」からだ。「小さな目標を掲げること」これが大切と。して,この目標を達成する。小さな目標なら比較的容易に達成できる。
 スタートラインに立つとき,どんな優秀な選手も「恐怖と不安にかられる」。これに勝つには,「俺は勝つ。俺は勝つ。」と,何べんも自分に言い聞かせるのだと。要するに,自己暗示にかけるのだ。勇気の出る言葉を自分にかける。これが自分に力を与えるのだと。なるほどと思う。人は常に孤独との戦いなのだと。
 学校では,「小さい成功」を積み重ね自信をつけることだ。 集団では,共通の目標をもち,成功という体験を共有することが,大切だ。ここから団結や一体感が生まれる。
 目標があると,達成できる。方法から考える。この目標は,書く。声に出して言う。イメージトレーニングをする。良い状況を想像する。悪いことは想像しやすいが,いいことは中々想像しにくい。そこで,技術がいる。自分の視野から見える形でイメージトレーニングする。イメージトレーニングで経験したことは実際の経験と同じ効果がある。ここで言う達成感を実感することは,自分のやる気を起こさせる魔法であると。
 始めは,上手な人の真似をする。次に,自分のアイデアや工夫を加える。これができるようになったときが,伸びる芽が出るときだ。
 自分にとっての最大のライバルは自分であると。怠けさせようとする悪い自分ないしは弱い自分と,困難に耐えて頑張ろうとする良い自分の二人が一人の自分の中にある。常に,この二人の葛藤のさなかにあると。いかに自分に勝つかが,自分の限りなく続くテーマということだ。
 氏の話は示唆に富んでいたと思う。学業を進める諸君にも実に参考になる示唆に富んでいる。ここから何かを感じたら幸いである。
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・「今を生きる」という意味


 これは年度始めに話した内容の要約である。人は日々を振り返ることによって成長するものであるが,常に心がけたいことです。


15.4.10
・ 健康上の理由から保健室利用が特定の生徒に偏っていたことが目に付きました。もう一度日常生活を振り返ってみて,健康管理に気をつけて欲しいと感じました。特に,十分な睡眠,栄養に配慮し偏食をしないこと。また,菓子などの間食は控えめにする。食事の前に手を洗う。帰宅したらうがいをする。その他必要な健康管理に気をつけることが大切です。
・ 学年末の成績不振者,時数不足者などがおりました。学習への取り組みが不十分だったということでしょうか。良く反省し,今年に生かしてください。家庭学習の習慣はできていますか。修学の目的は,教養ある社会人となるためのものです。今の機会を有効に活用し,悔いの無い高校生活にして下さい。


生活について
・ 中堅学年としての自覚をもって,ルールを守り規律ある生活をしてください。
注意 他のクラスには入らない。部の勧誘は部紹介の後,認められている方法ですることなどは,特に,後輩への配慮として留意してください。。
・ 予習・復習の習慣化を図る。
 継続は力なりです。毎日の積み重ねが極めて大切です。
 まずは教科書の完全理解に努めましょう。次に,数学で言えば,練習問題や章末問題を解いて理解を深めましょう。更に,問題集の問題にまで手を伸ばそう。参考書を使って更なるスキルアップを図りましょう。知識を学ぶことに喜びを感じたら,学習は苦痛ではなくなります。
・ 自己理解は済んでいるでしょうか。自分の進路について考え,研究し,情報を収集し,具体的な進路目標をいくつかリストアップしましょう。情報誌,インターネット探検,各種説明会の活用,キャンパス見学や体験学習に積極的に参加しましょう。目標を具体的に持つことこそが,学習への動機です。見学会に参加する際は休日を選び,担任へ届を出しましょう。
・ スキルアップを図ろう。
 現在,世の中は厳しい不景気にさらされています。急に改善する見込みは殆どありません。その中で,自分の未来を開くのは何でしょうか。人員削減で利益を出し生き残りを図っている企業が殆どです。このような環境で「選ばれる人材は何か」を考えてみましょう。役に立つ,いくつもの能力がある人ほど選ばれるのは間違いないでしょう。資格,人物,学力を含めての総合能力が問われます。あなたが経営者ならどんな人物を求めますか。これを考えれば,どんな人間が求められるか分かることでしょう。君たちが考えることは,このことを考慮に入れて自分の「付加価値を高める」ことだと思います。頑張りましょう。後悔しないで済むように。
・ 毎日の生活から人物は作られる。
 人物の能力や人格は毎日をどう過ごすかによって,善きにつけ,悪しきにつけ少しずつ形成されるものです。だらしない生活を続けていれば,だらしない生活をしても何とも思わない性格が出来上がります。人に親切にしていれば,穏やかな性格が形成される。また,服装や身だしなみをきちんとしていれば,清楚なすがすがしい人物像が形成されると言った具合です。
人間は変わった生活をすれば,始めは良心が痛んだり,不安になったり,これでいいのかなと疑問に思ったりします。が,このときに考えて行動しないと,後は何の疑問も感じなくなるようになっているのです。神経回路が,これでOKと受け入れてしまうのです。
例えて言えば,異臭のする部屋に入った当初は,これを認識できますが,そのまましばらくいると,何も異常を感じなくなることで分かるでしょう。ですから,常に客観的に,「どうかな」という意識をもって生活する必要があるのです。
皆さんが,周りから見て,感じのいい素晴らしい女性として成長するように絶えず磨きをかける努力をして欲しいと願っています。それこそが,幸せへの階段を一歩一歩確実に上がることだと考えるからです。皆さんはどう考えますか。心の豊かな人間になってください。
・ 読書をしよう
図書館は文化の泉とも言います。有用な書物が沢山あるからです。人間が経験できることは限られています。人の経験したことや学んだ成果を書物から学ぶということは,短時間に多くの擬似経験をすることになります。読むことによって理解を共有できるのです。但し,自分の肉とし,力とするためには,読んだだけでは不十分の場合があります。自分も「これはいい」と,感ずることのできる事柄は積極的に実践しましょう。実は,この実戦を通して本物となるのです。これをしなければ,単なる知識として,知識の一片として片隅に追いやられることになります。
 皆さんは,若さにあふれています。たとえ失敗してもやり直しが効く年齢です。恐れず果敢に挑戦する「チャレンジ精神」が極めて大切です。札幌農学校にアメリカから明治の初期に赴任したクラーク博士の言葉を,私は小学六年の国語の教科書で学びました。「少年よ,大志を抱け」という言葉です。私は今でも大切に思っています。
 人は,言葉により生き,言葉によって死ぬ。それゆえ,聖書では「言葉は神である」とも言っております。言葉を自由に操れることができることこそ,君たちの未来の可能性を無限に開くものと考えます。この一年を充実した一年としましょう。


メモ




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3章 社会論
 初めに
 ここでは,まったく新しい視点,自然の摂理という観点から社会現象を論じて,その解決策に迫ってみようと思う。
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・エイズは人類への福音か
 この問題を具体的に考える前に,その原因を正確に認識することから考えることにする。そうすることにより問題の本質に迫ることができると考えるからだ。
 エイズの発生は,私の記憶するところでは,アフリカで,ある人物が,猿と姦淫をしたことからエイズ菌に感染し,人類に猛烈な勢いで伝播していったと聞く忌まわしい病気なのである。そもそも動物は,同種の間では互いにそこに存在する菌については長い歴史という時間をかけて抗体ができているから,たとい感染しても発病することは無いのであるが,ここに抗体の無い異種の動物が交わったとするとどうなるか。結果は明らかであろう。抗体が無いから発病し,ひどい場合は死に至る。従って,自然の摂理は結果として,同種動物間で繁殖をするようになっていたのだ。こういうこともあったからであろうが,旧約聖書(第三篇,モーセ五書の一つレビ記。これは宗教書ではあるが,刑法も定めていた)では『獣姦した者は殺さねばならない』となっていたのである。つまり,抹殺を要する重罪であったのだ。現在の刑法はどうなっているのであろうか。私としては,多くの人が亡くなっているエイズ禍の現状を考えると,その影響は甚大なので,獣姦は死刑でも足りないくらいだと考えます。注:2親等以内の近親相姦,現在の同性愛者,隣家との浮気,その他もあるが,これらどれも同罪だったから,この問題についてはかなり厳しい定めと考えられるかも知れないね。
 感染経路はどうか,特定の夫婦間だけしか性交渉が無ければ,何れか一方が感染していなければ感染しないから,発病も無い。感染したとすれば少なくとも何れか一方が不貞を働いたからである。不特定多数の者と性交渉をしていた者は当然だが感染する確率が高くなる。死亡する確率もだ。して,子孫が絶える確率もだ。こう考えると,「自然の摂理」は間違いなく不道徳な者を歓迎しないことが理解できるであろう。
 これに対し,コンドーム等の避妊具を使えば百%感染を防止できると医療に携わる人たちは考えて,現在の対策は進められている。私は,これにだけ頼るのは極めて危険であると考える。なぜなら人間はそれほど冷静には行動できないからだ。もし,持ち合わせが不幸にしてなかったら,どう行動するか考えてみよう。一回位大丈夫と考えはしまいか。この甘さが命取りとなる。して,この危険に遭遇する確率もまた,不道徳な者ほど高くなる。だだし,非加熱製剤を利用させられた血友病患者は例外である。これは危険を承知の上,ほったらかしにした厚生省の担当役人と,非加熱製剤を販売し続けた旧みどり十字らの責任だ。これについては気の毒というしかないが。現在は加熱処理した血液製剤が使用されている。加熱することによりエイズ菌は死滅するのである。
 こうして考えてみると,このエイズ禍は,確実に不道徳な者の子孫を絶やす効果が高いと言うべきもので,人類の歴史の中で考えるなら,人間の進化と確実に方向を同じくしていると言えるであろう。
 従って,人間の進化という観点を考えるなら,エイズ禍は人類の進化を促進する作用を有するものと言えよう。
 どの道人間はいずれ死ぬべき運命にある訳だから,不道徳な者は,早く死ぬことによって,確実にそのDNAは葬り去られ,道徳心の高い者のDNAが残って行くことに貢献することにも事実上なっているとも思われる。
 予言の書によると,世紀末に『恐怖の大王』が降ることになっているが,繁殖のプログラムに介入する,この「エイズ」こそ予言のそれだと考えられなくもない。
 人類はこの「エイズ」という「ろ紙」を通過して,不道徳な者は間引かれ,更に高貴な存在へと進化するに違いない。

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・エイズ撲滅は知識と倫理観の確立にある
 今現在アメリカは純潔教育にシフトしていると言う。して,思春期の生徒の「経験者」は確実に減少していると言う。親がだめなものはだめと言うだけでも,子供は,何か分からないけれども,親がそう言うのだからそうなのだろうと,結局は,親の言うように行動するようになるという。「なぜ純潔か」に理由は要らない。その方が,あなたが幸せになるのです。と言えばそれでよい。確率論から言って正しいからだ。して,この倫理観の確立こそが究極のエイズ対策なのだ。間違いなく不特定多数との交渉が激減するからである。
 また,現在では,結婚の際は,互いに,この種の菌に感染していない旨の医療機関の証明書を添付しなければ,結婚できないように法律を変える必要もあろう。でないと,私が信用できないのか。などという悲劇を避けることができないからだ。また,感染した者が結婚し,感染させてしまう事態も考えられるからだ。
 また,感染していない者同士なら避妊の必要もない。
 だから,避妊具の勧めは,不道徳な性交渉の奨励のような側面があることに注意しなければならない。報道によると,とある東京だったと思うが,小学校の4年の児童に性教育として,何かを男性器に見立てて,コンドームの装着を女児にさせたというからひどいものだ。しかも,親には内緒にするよう児童に求めて。この教師は狂っているとしか言いようがない。親にも言えないようなものを教えるな。この教師,首になったとは書いてないから,今ものうのうと赤面もなく教壇に立っているのであろう。教育委員会も委員会だ。我々は色キチガイを作りたい訳ではない。こんな教育をするということは,したくなったら適当に相手を見つけてやりなさいと言っているようなものだ。1月13日の成人式では,コンドームを配った自治体があることをNHKは報道していた。まるで不道徳な性交渉を奨励しているような感じだ。これではエイズ禍が減ることはない。だいたいエイズにかかっていない健康な者ならコンドームは必要ない。結婚してから性交渉はすればよいし,結婚時にエイズにかかっていない事を医療機関の検査で証明してもらってから結婚すればよいのだ。倫理観の確立についての話が先である。2月18日の新聞報道によると,川崎市のとある小学校の女性教諭は,1年生に対して,性教育と称して,男女の性器の名称を教え,かつ書かせていたと。指導要領の逸脱と思われる。私自身としては,性に関する知識などは必要に応じ親が教えれば良いと考えている。小学低学年で教える必要などなく、中学からでも十分と思われる。もっと他に教える必要のあるものがあるであろう。そんなことに時間を割くということは,必要なことを指導する時間が削られているということだ。
 こんなことで,幸せな人生があるのだろうか。人間の経験は全て脳に刻まれるのだ。遊んだことも。して,エイズになったら,子供がいたら何と説明するのだ。子供を残して,死んでゆく自分は,子供まで感染していたら,子供の人生を奪うことに,何と詫びればよいのだ。高価なエイズ薬を一生途切れることなく医者の処方箋を守って飲み続ける。薬のために一生働きつづける。これは地獄だね。副作用はないのであろうか。一生飲み続けて副作用の出ない薬なんてあるのだろうか。所詮薬は,毒だ。劇薬だ。この事実を忘れてはいまいか。私は,本人は所業を悔いて,その身を黒変して死ぬのがその人の運命と考えるが。反面教師として効果があろう。「私と同じ事をして後悔しないで」という意味で,身を挺しての教訓となるからだ。この言葉は20歳位のエイズに感染した女子大生が報道番組で語った言葉であり、痛々しくも悲痛な叫びにも思えたので、敢えて載せたわけである。行動を気をつけてもらいたいからである。
それとは別に、医療保険制度について考えてみたい。エイズ患者はますます増えることが予想される。すると医療保険の支出が増えるわけだから徴収する保険料も増え続けることが予想される。受益者負担を原則とするならば、まじめな生活をしている者はエイズに感染する確率はきわめて低く、逆に不道徳なものは高いということが言えるのではなかろうか。従って、エイズのような病気は特殊な病気で、健康保険とは別に各保険会社の発売する医療保険に加入することによって補填するようにした方が公平と言えるのではなかろうか。普通の生活をしていてかかる病気ではないのだからである。これに相当するものは、梅毒、淋病などの性病も同様と考えられる。
 このように制度を変える事で,不道徳な者もいっそう注意をするようになろう。結果は道徳観の向上につながろう。それが皆にとって良いことと思えるのだが。ただし,非加熱製剤の被害者はこれとは別に,国と製薬会社の責任でエイズに関する部分は負担し、保障する必要がある。血友病そのものの部分は健康保険適用とすることで費用負担区分は問題ないと思われる。ただ,常識的に考えるなら,その他非加熱製剤被害者には損害賠償をする必要あるのは勿論であろう。
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・売春・買春は全て大人として処分が適当
 昔テレクラ,今出会い系サイト。いやはや時の移り変わりはめまぐるしい。今やここで,少女が誘いをかけ。馬鹿な男が話に乗る。春の売買が成立する。これに対し,大人のずるさと未成年者は責任能力がない無能者と考えてのこととは思うが、自ら誘った少女も被害者という。この年代の少女は実際に判断力が無いわけではない。法に疎いから保護のために無能者扱いをするわけだ。しかしながら、サイトへの書き込みの九割以上が少女の方からという実態を考えると、この少女を被害者と言うには、実態を反映していないのではなかろうか。売春をやるような少女はもはや少女ではないと考えるのだが。現行憲法では「女子は16歳以上で,親の同意があれば結婚できる上,この者がすぐ離婚しても,次に結婚するときは未成年でも親の同意さえ必要ない」と,いうことだから,性交をするようになった者は大人として認めるということを意味している。これは,決して16歳にならなければ性交できないということを意味してはいない。憲法でそう決めているに過ぎません。憲法の児童保護規定を自ら破る者は,破った段階で大人としての義務を負わせて良いと考えるのだが。これで売春に歯止めがかけられるのなら,それはそれでそれに越したことはない。自分から誘ったのなら,大人として扱うべきである。
 だいたいこの種の「春の売買」はどちらも同罪だが,責任は持ちかけた方が重い。話を持ち掛けなければその先の話しは無いのだ。だから,話を持ちかけたのが少女なら、少女の方も加害者なのだ。少女を甘やかすからこの種の事件が後を絶たないのだ。もう,まともな正常な考えに立脚してこの問題に取り組むときだと考える。この種の少女は経験によって脳に神経回路ができて,我慢できなくなるのだろうか。6年くらい保護観察処分にして,麻薬の中毒と同じように,絶つことをしなければ,また,同じ犯罪を犯すだろう。その結果は,不特定多数との交渉となり「エイズ」に感染する確率が高くなる。保護観察処分にすることは,いわばエイズから守ることにもなるから保護することにもなるでしょう。6年位鑑別所生活して頭を冷やさせ,性癖を直すことが必要と思われる。これは本人のためとも考えられよう。これをせず野放しにすることは,一見児童を守るように見えるが違うと考えます。この者達はまた,同じ事をする確率が高く,エイズ感染に追いやる結果となろう。そうなっては可愛そうだから敢えて厳しく言うのである。勿論、大人の相手も厳しく罰することは言うまでもない。
この問題は、どうしたらこの問題をより減らすことができるかが問われているのだと考えます。その意味で先般成立した法律は少女も処罰することになったことは良かったと思います。
 子供(児童・生徒)を守るということは,厳しさを求めることでもあるのだと思います。皆さんはどう考えますか。
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