最終更新日:平成14年5月25日

日本人のルーツをさぐる旅

索引

 前書き
 第1章 マンモスハンター シベリアからの旅立ち
  1.日本原人へのアプローチ
  2.マリタ遺跡に見るマンモスハンターの闘
  3.移動するマンモスハンター
  4.土器を作るマンモスハンター
 第2章 大海原を越えた南の海の民
  1.巨大噴火に消えた黒潮の民
  2.港川人のふるさと
  3.移住する人々
  4.上の原の人々の行方
 第3章 海が育てた森の王国
  1.定住を可能にした対馬海流
  2.東京多摩ニュータウン遺跡の語るもの
  3.三内丸山遺跡の遺言
  4.森と共生する縄文人

 第4章 稲 知られざる1万年の旅
  1.稲作のルーツ
  2.長江下流域河姆渡と漁労
  3.稲作の対馬への伝播
  4.熱帯ジャポニカの栽培法
  5.温帯ジャポニカの発生
  6.稲作の日本への伝播
  7.日本での稲作の拡散
 第5章 そして「日本人」がうまれた
  1.新たなる渡来人と稲作
  2. 

 前書き
 これは平成13年に放映されたNHK「日本人遙かな旅」5回シリーズを中心にまとめたものであるが、今後の発見、私自身の見解を交えて編集しゆくつもりである。
 
 第1章 マンモスハンター シベリアからの旅立ち 映像

 1.日本原人へのアプローチ
 今から2万年から3万年前の氷河期、海面は現在よりも100メートル以上下がり、対馬海峡は川のように狭くなり、瀬戸内海は干上がり、日本列島は連なりサハリンを介して大陸とつながっていた。平均気温は現在より10度位低く、東京は針葉樹が点在する平原だったと考えられている。
 今のところ、これより以前日本列島に人類が住んでいた確実な痕跡はないようだ。これまで日本人のルーツは東南アジアにあると考えられてきたが、DNA分析を中心とする最新の研究によって新しい事実が判ってきた。国立遺伝学研究所に登録されている世界の人類に関する132民族の500万位のデータバンクのデータと縄文人の頭蓋骨の歯から取り出されたDNAを最新の技術で佐賀医大の研究チームが比較分析した結果は驚くべきものだった。
 29人中17人はシベリアに住むブリアート人マクソホン村の先住遊牧民から提供されたDNAデータと一致したのである。
そのほかに判った事は韓国人1人、台湾人1人、タイ人1人などであった。これから言えることは、直接の日本原人の大部分のルーツはシベリアにあるということであろうか。実際、テレビ映像で見た現在のブリヤート人のなんと日本人に似ていることか。日本人といって紹介しても、口を開かねば判らないだろう。
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 2.マリタ遺跡に見るマンモスハンターの闘
 東シベリアになるか、ウランバートルから800kmくらいになろうか、バイカル湖に近いブリヤート人居住区の近くで1928年にイルクーツク大学(考古学)のG.メドベージェフ教授らによって発掘された23000年前のマリタ遺跡からこの時代の人骨が見つかった。その人骨とともに発掘された物には動物の骨から作られた首飾り、楔形の石核から作られた石のナイフなどがある。この原石からは何枚もの石のナイフが作られた。この石のナイフで教授はモジャモジャの腕の毛をつるつるに剃って見せた。考える以上に実に鋭利である。
 この石核が北海道の嶋木遺跡でもみつかった。札幌大学の木村英明教授は、これによってシベリアが日本人のルーツの地と考えられるようになったと考える一人である。その他に、マリタ遺跡では七軒ほどの住居跡が発掘されている。40人位の集落で、住居は木でテントのように軸組みをして周りを大量の動物の毛皮で覆った構造であったと考えられている。
 現生人類は、特徴的な遺伝子配列の違いを比較分析する最新のDNA分析によって、今から20万年前にアフリカに現れたことが判っている。この分析によって、10万年位前に東南アジアを目指した集団、ヨーロッパ目指した集団、マンモスを求めてシベリアを目指した集団に分かれた。このシベリアを目指した集団が23000年前にマリタ集落を築いたようだ。この時代シベリアはマンモスが生息していたので緑の草原であったと考えられている。この地に生息したマンモスは高さ3.5メートル、重さ6トンもあり、寒冷化する大地に適応するように毛が生えていった。このシベリアには、このほかに洞穴ライオン、トナカイなどが生息していたようだ。
 この遺跡ではマンモスの骨に描かれたマンモス、頭から防寒頭巾をかぶったマンモスの牙に彫られた人物像などが発掘されている。
 永久凍土の中から発掘された子供のマンモスの胃から発見された泥、多くのマンモスが湿地や沼などから見つかっていることから、マンモスハンターは集団で水辺のぬかるみにマンモスを追い込んで槍などの武器で狩ったと考えられている。ロシアの物質分化し研究所(実験考古学)の考古学者であるE.ギーリヤ博士はマンモスハンターが使った特殊な槍を研究しているのだが、博士によって復元されたマンモスハンターが使用した槍は分厚い骨も打ち砕く強力なものだった。その構造は骨を削って作った槍の側面に鋭い細石刃を埋め込んだものである。
 この細石刃は原石に鹿の角を押し当てて鋭い石片を剥離させる、押圧剥離という方法で作られていた。このマリタ集落は約2万年前に突然終わりを告げている。
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 3.移動するマンモスハンター
  このマリタに住んでいた人々はどこへ行ったのだろうか。その手がかりになる遺跡が遠く東へ3千キロメートルも離れたサハリンのオボンキ遺跡に見られる。例の細石刃が見つかったのである。
 移動した理由は何であったろうか。これに対する回答がエニセイ川河口付近の永久凍土に閉じ込められた空気の成分の分布にあった。ロシア科学アカデミーが行った調査とこの空気の分析結果から3万年前から2万年前にかけて気温が10度も下がり、植生が変化したことが判った。その結果食料となる植物が急速に減少し、動物がアムール川に沿って東へと移動していった。それに伴って、一部はアメリカへ、一部はサハリンを介して日本へ、そして一部は中国へと移動していったと見られる。
 北海道千歳市にある2万年前の柏台T遺跡でも例の「細石刃」が見つかっている。この遺跡は移動生活をしていた焚き火の跡が見つかっている。この時代の「マンモス」の骨も見つかっている。この時代確かにマンモスハンターが日本列島にやって来ていたのである。
 2万年よりもずっと前は津軽海峡は海で隔てられていたが、今より2万年位前頃の氷河期最寒冷期になると気温は30度も下がり、津軽海峡は全面凍結となる時があった。この時を狙って氷の平原を南下する集団が現れた。そのピークは2万年前の頃だったようだ。日本列島に渡った人々は瞬く間に日本全土に広がった。こうして、2万年前の遺跡は日本全土に見られるようになるのである。この頃の日本はかつてのシベリアのように針葉樹が点在する草原だった。
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 4.土器を作るマンモスハンター
 最寒冷期を過ぎると温度は次第に上昇し1万5千年前頃には平均気温は7度も上昇し、海面も上昇した。この頃には日本列島は大陸と切り離されていたと推定される。氷河期には針葉樹の森だった森林もブナやナラが生い茂る広葉樹の森へと変化していった。1万5千年前の地層から見つかる化石からは大きくても鹿やイノシシ、ほとんどが狸やねずみなどの小動物である。この森林化が動物を追って生活していた人々を窮地に追い込んでいった。森林化に伴って祖先達の貴重な食料となるナウマン像やへら鹿などの大型獣が激減した結果、大型獣は狩り尽くされ深刻な食糧難に陥った。この事態を受けて人々は弓矢を発明し石の矢じりで動きの速い森の小動物を狩るようになった。小動物だけでは空腹を満たすことはできなくなって、食料を探し食べるようになっていく。しかし、森に大量にあるどんぐりはタンニンを含み、生でも、焼いても渋くて食べられなかった。
 東京都新宿区百人町で約1万2千年前の土器が発見された。どんぐりは煮る事で渋みが抜け食べられるようになる。エジプトやメソポタミヤより数千年も前に土器を手に入れることに成功した。人類最初の土器は1万3千年前アムール川周辺のシベリア(ガーシャ遺跡の土器)で生まれたという説が有力です。この土器はアムール川の魚を貯臓する容器として使われ比較的肉厚の土器だった。
 これに対し新宿の煮炊きに使われた土器厚さ5mm位の薄さでシベリアの貯蔵用の土器の1/3である。土器は薄いほうが効率よく煮炊きできる。が、薄いと割れやすいのである。この問題を鹿やいのししの毛を粘土のつなぎに使いシベリアの土器を煮炊きに効率の良い土器に改良していったのである。肉薄の土器作ることは現代の技術でも容易ではない。お見事という他はない。
 こうして、シベリアから来たマンモスハンターが作り出した土器はまたたくまに日本全土に広まって行くのであった。海上移動手段としての舟もしくはイカダが日本列島で生まれるのは何時であろうか。手段がなかったのなら土器は日本列島で独自に発明したことになる。手段がすでにあったのなら交流があり土器の製法が伝わったことも考えられる。1000年の差は長い時間である。十分に進歩する余裕があったろう。1万5千年前には黒潮に乗りイカダ若しくは舟を持つ南の民が日本列島への移住が可能になるとの推定のようだが、まだ確実な証拠(この1万3千年前から1万2千年前の時代の舟)は確認されていない。
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 第2章 大海原を越えた南の海の民
 1万2千年前南から来た人々が南九州で独自の文化を発展させることになるが、6千3百年前海底火山であった薩摩硫黄島が大噴火を起こし集落を埋め尽くすことになる。
 
 1.巨大噴火に消えた黒潮の民
 鹿児島県にある櫻島の錦江湾を挟んでその北側に標高250mの高台があります。1997年ここで考古学界を驚かす大発見がありました。およそ9千5百年前の縄文集落跡が発見されたのです。「上の原遺跡」と呼ばれる縄文集落跡である。この集落はおよそ50軒余りの大規模な集落で、多いときで50人位が生活していたと見られている。大型の壷型土器がこの時期すでに使われていた。
 この集落跡からは、南の島々で今でも使われている石をすり鉢状に敷き詰めた炉の跡が見つかっている。この石を熱く焼いて調理していたと考えられている。この他くんせいを作った設備と見られる2つの穴を煙道で結んだもの。これは一方の穴で焚き火をし煙道に誘導しもう一方の穴に魚などをつるしていぶしくんせいを作ったと考えられている。また、貝殻文様の土器、丸木舟の製作に使用したと見られる「丸のみ石斧」などが発見されている。この石斧・貝殻文様の土器は南九州から沖縄まで広く分布しているが四国の四万十川流域でも見つかっている。
 沖縄の具志頭村港川遺跡1万8千年から1万6千年前に生きた人9体分の人骨(港川人)が見つかった。これらの人骨はインドネシアのジャワ島のワジャク村ワジャク洞窟で発見されたワジャク人と似ていることを1889年オランダ人の人類学者ディフォアが発見した。眉間が出っ張っており、ほほがどちらも張り出しているという特徴をもっている。

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 2.港川人のふるさと
 ジャワ島は氷河期でも暖かく大勢の人々が集まってきていた。ここは世界的に知られる人類化石の宝庫です。この地には100を越える人類化石がある。海に囲まれたこの地に人類はどうやって来たのだろうか。これに対する回答はオランダの地質学者モーレングラーク博士によって明らかにされた。博士は今から約80年前(平成13年9月現在)ジャワ島周辺の海域を調べ重大な事実を発見した。海底に川の跡を発見したのだ。これによってこの一帯が陸続きであった事が明らかになったのである。従って、氷河期には現在より海面が100m以上も下がっており、ジャワ島をはじめインドネシア周辺には温かい広大な陸地が広がっていた。幻のスンダランドである。スンダランドの北部に位置するカリマンタン(ボルネオ)島の北部、うっそうとした熱帯雨林の奥地にこのニアー洞窟はある。石灰岩が溶けてできた高さ60m、広さは東京ドーム2個分の広さがあるとても広い洞窟である。ここに3万年以降に人々が暮らしていた痕跡がある。1958年に今から3万年前頃の人骨、サイやイノシシと言った動物骨などが発掘されている。氷河期の寒冷期、人々は暖かいこのスンダランドで暮らしたのだろう。最寒冷期の2万年前を過ぎると氷河期も終わり、この大陸が水没へと向かう過程で人々は海を越える術を獲得していったと考えられている。大海原を渡って各地へ移住していった。港川人は北方へ移住した一団の中にいたのだろう。
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 3.移住する人々
 この当時の人々はどのようにして海に漕ぎ出したのだろうか。スラベシ(セレベス)島は竹の原産地で100種類以上の竹が生息している。今でもこの豊富な竹を利用していかだを組み生活しているが、当時もこのようにいかだを河川や海上の交通手段としていたのであろう。スラベシ島に今も残るバジャウ族の海上集落は海上を移動して生活しており、今でも遠くは600kmも離れたところまで漁に出かけるようだ。彼らは潮の流れや海鳥の飛ぶ方向で自分たちの進路を見定められると言う。季節風や星の動き等から海を渡る方法も代々受け継いできたと言います。
 舟による移動が可能となっていたようなので、スンダランドが水没する中で、この地の人々は、土地も食料も減少してゆく訳だから、新天地を求めて、フィリピンへ、オーストラリアへ、インドシナへと移住して行ったと考えられている。フィリピンの北東部に浮かぶポリリェ島に住むドウマガット(「海から来た人」と言う意味)族は今でも丸木舟を作っている。海流漂流民の誕生である。そして、フィリピンから沖縄へは1000km以上を越える大海原が広がっていた。容易に越えられる距離ではない。DNA分析によってスンダランドから来た人の子孫であることが判っている。今では黒潮が運んだと考えられている。沖縄とフィリピンに共通したものに丸のみ石斧がある。丸木舟を製作し海を越えたのであろう。フィリピンの国立博物館には黒潮を介して沖縄と結びつける4千年前の丸のみ石斧が保管されている。
 沖縄で見つかった人体から小柄で栄養状態が良くなかった事が判っている。足腰は丈夫だったようだから、山野を歩き回り食物をかき集めたようだ。足の骨にはハリス線が見られので栄養失調で成長がたびたび止まったようだ。この地に生息していた琉球鹿はすぐに捕り尽くしたようだ。食べ物が不足したことが危険を犯して移住を決断せしめた構図が見えよう。2万年前までは氷河期の影響で、寒流が南下していたので、黒潮の流れに乗っても日本はるか南方で太平洋に行ってしまうので、日本には着かなかったが、1万5千年位前温暖化した後は、寒流の勢力は弱まり、暖流である黒潮が九州に近づき日本への移動ができるようになるのである。1万2千年前人々はこの黒潮に乗り南九州にやって来たと考えられている。南九州に上陸した黒潮の民。ここでは日本でもっとも早く照葉樹林が広がり始めていた。照葉樹林では生のままで食べられ灰汁抜きする必要もない椎の実が取れた。ヤマモモをはじめとする果実やイモなども手に入りました。南九州の人々はこうした森の恵みを得ることで安定した生活ができるようになり日本列島で初めて規模の大きな定住集落を築きました。
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 4.上の原の人々の行方
 温暖化した南九州は「椎の実」などが豊富に実った。上の原の人々は森を切り開いて食料を求めて移住する生活から定住する安定した生活へと生活を変えることに成功した。この遺跡は1997年工業団地の造成の際に発見された。上の原の遺跡はこれまでの縄文の常識を覆す大発見であった。9千5百年前南九州で上野原遺跡の定住生活遺跡からは丸のみ石斧磨製石斧が大小合わせて65個も出土した。これほど多くの磨製石斧は日本列島からは出土していない。用途に応じて大小様々な形に磨製石斧は変貌を遂げていったようだ。森を切り開くために使われた磨製石斧は丸のみ石斧と同じ敲打技法で作られていることが最近の調査研究の結果明らかとなった。敲打技法とは原石の表面を石でたたいて整形する技法である。また、強度を増すために磨かれていた。7500年前の大型の壷型土器も出土している。中央部が膨らんだ壷型土器の発見はその用途から穀物を作っていたと思われる。ヒエ族、ハトムギなどのジュズダマ属、アワなどのエノフラグサ属などの植物質に含まれる消えることのないガラス質であるプラントオパールが見つかっており、雑穀栽培をしていたものと考えられる。上の原集落は3千年も繁栄した。今からおよそ6千3百年前、鬼界カルデラの水面下100mからの大爆発によってその集落は火砕流に飲み込まれ分厚い火山灰の下へと消滅した。その爆発の規模は1997年フィリピン「ピナツボ火山」の爆発の実に15倍であった。人々は命からがら脱出していったと思われる。高知県大正町、和歌山県などでも磨製石斧、様々な土器とともに貝殻文様の土器が見つかっており、日本列島を東進して各地へ脱出していった痕跡と認められる。東京多摩ニュータウンでは4500年前の縄文中期の地層から249本の磨製石斧が発掘されている。港川人の頭骨と縄文人の頭骨は実によく似ており、港川人が進化してそのまま縄文人になったと考えてよい状況である。彼らが雑穀栽培、つまり農業をしていたことを考えると狩猟民であるマンモスハンターより人口は多かっただろう。して、混血が進む中でも数の多い南の民の血が色濃く縄文人に反映したことであろう。そのことが縄文人の骨相が港川人と良く似ていることと深い関係がある。
 
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 第3章 海が育てた森の王国
 今から1万3千年前から2300年前までの間の縄文時代の実像が今明らかになりつつある。富山県入善沖の日本海水深30mの海底に岩のようにも見える榛の木の株が静かに眠っている。この榛の木は最新のDNA分析結果からおよそ8000年前の物と分かっている。縄文時代この一帯はうっそうとした森が生い茂っていた。日本列島を覆い尽くすように広がっていた森、この森の中ではぐくまれたのが縄文文化です。氷河期が終わり温暖化が進み水位が上昇する中で水没していった結果当時の姿を今日に残すことができた訳だ。近年次々と発掘される遺跡から縄文人がその森を予想以上におおがかりに切り開き巨大な建造物まで築いていたことが次第に明らかになって来ました。豊かな森の文化が花開いた1万3千年前から2300年前までの約1万年にも及んだ森を中心とする文化が縄文文化である。
東京多摩ニュータウンの住宅建設と平行して、30年にわたって縄文遺跡の発掘が行われた。遺跡の数はおよそ800箇所日本最大規模の縄文遺跡である。ここから発見された住居跡は1000を超え土器など生活の痕跡も大量に発見された。そのうちの72遺跡の縄文時代の竪穴住居はおよそ直径8m位の竪穴が見られる。屋根は萱などで葺いていたものと考えられている。この地の人々は6千年前からこの地に集落を築いた。磨り石石皿などでどんぐりなどをすりつぶし食料としていた。
 
 1.定住を可能にした対馬海流
 産業技術研究所は秋田県沖2000mの海底に堆積した泥を採取して分析した結果、1万年前の層から緑色に変化、8000年前ごろの層に暖かい海に生息するケイソウが大量に含まれていた。このことから、8000年前頃に対馬海流が日本海に本格的に流れ込むようになった考えられる。このためにそれまで日本を覆っていた針葉樹は北へ追いやられ、暖かい地域に生息する落葉広葉樹が広がっていった。また、多種多様な樹木が生息し、山葡萄、くり、どんぐり、きのこなどの木の実が大量に得られるようになっていった。1年を通じて安定して食料が手に入るようになったのである。この大量の木の実が縄文人の定住を可能にした。
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 2.東京都「多摩ニュータウンの遺跡」の語るもの
 多摩ニュータウンでは大量の磨製石斧が発見された。また、福井県で5500年前出土した柄の頭の部分が袋状になった石斧の柄を参考に、石斧を復元した都立大学山田昌久助教授は縄文人の技術の高さに驚かされたと言います。柄の構造は頭の幅が薄く作られ、石を袋のように柄の頭が包む構造になっていて、木を切るのに合理的な構造になっていた。この石斧で木を切り倒し家を作っていった。伐採の実験では直径10cmの木で5分、30cmの木で3、40分で伐採できた。石斧は頭部が重いので遠心力が付き意外と破壊力があることも判った。竪穴式住居を復元することで、1軒に32本の木が必要なことも判った。家はおよそ20年で建て替えられ、これは木が再生する期間でもあった。縄文人は自然のリズムに合わせた生活をしていたことが分かる。
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 3.青森県青森市「三内丸山遺跡」の証言
 およそ5500年前、青森県に巨大集落が現れる。野球場建設の際にその全貌が明らかになる。広さ35ヘクタール、東京ドームが7つも入る広さである。集落の中心部には大型の建造物があった。直径が1m程もある栗の木の6本柱からなる高さおよそ15mはあったと推定されている神殿とも物見やぐらとも考えられている建物である。この高さだと青森の市街地が一望でき、現在の陸奥湾も見ることができる。当時は5mは海面が高かったようだから集落のすぐ近くまで海は来ていたようだ。当時は交易も盛んであったようだから遠く海上から目立つこの建造物は交易者にとっては良い目印だったに違いない。だいたい意味のないものは作らない。昔の建物はやたらと高いものが結構目に付く。地理上の目印としたに違いない。方位磁針や地図はなかったであろうからね。縄文の宝石といわれる海を超えてきたヒスイ、ヒスイは新潟県糸魚川周辺でしか取れません。従って、海を利用するなら、日本海を500kmを超えて運ばれてきたことになる。槍やナイフの材料となる黒曜石は北海道の十勝地方佐渡や長野県和田峠付近などが産地です。大昔は道路も未発達なので、遠距離輸送はむしろ海上輸送が主であったに違いない。縄文時代は自給自足の経済だったと考えられてきましたが、三内丸山には遠くの地域から物が運び込まれていました。近年の調査から大型住居を有する縄文集落は日本海沿岸を中心に数多く存在していたことも明らかになってきました。日本で最大規模の全長32mもある木造の住居跡も発見された。一度に200人以上入ることのできる広さで集会所ではないかと考えられている。数え切れないほどの土器も出土した。この地特有の細長い円筒形をしていた。様々な表情をした土偶も見つかっている。その数は1500点にも上っている。最盛期には500人は生活したと推測されている。国立歴史民族博物館 辻 誠一郎 助教授はこの地の土壌のサンプルから花粉に注目して分析したところ、5500年前から4500年前にかけて、ブナやコナラの花粉が激減して、栗の花粉が劇的に増えていたことが判った。自然のままにしていては50%以上にはならない。栗を栽培していたのだろうか。静岡大学の佐藤洋一郎助教授はこの花粉のDNAを分析したところDNAがそろっていた。栽培をしなければDNAそろわない。従って、栗の栽培が行われていたと言うことになる。
 この栗林があったからこそ、この巨大集落は存在しえた。安定した食料があったからこそ生活も豊かさを得、縄文のポシェットといわれる編み籠漆塗りの器耳飾りなども持つようになった。花粉分析から漆も栽培されていたことが判っている。この集落はおよそ4000年前突然消滅する。いったい何が起こったと言うのだろうか
 4200年前頃から栗の成長が悪化したようだ。して、集落は分散し人々は散住するようになる。自然はまたブナやコナラの広葉樹林に戻って行ったことが花粉分析から分かっている。自然の復元力は喪失していなかったのである。
 三沢市に隣接する小川原湖の堆積物から当時の環境変化を調べたところ、プランクトンの分析から今から4000年前の頃3度から4度の温度の低下があったことが分かっている。3度Cと言うと青森と稚内ほどの緯度の差に相当する。青森では稲作が可能だが稚内では稲作ができないことを考えると3度の差は大きいのである。栗の成長に深刻な影響があったということであろう。
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 4.森と共生する縄文人
 今から4000年前以降になると地球の寒冷化が進み、海水面が下がり、今まで海底であった所が陸地となり、この低地に新しい森が生じた。人々の新たな生活を伝える遺跡が関東平野の各地で発見されている。
 栗が取れなくなり食料が減少した結果、これまで見向きもされなかった森に大量にあるトチの実が利用されるようになった。トチの実はそのままでは食べられずアク抜きが必要であった。人々はこのトチの実を水にさらしてアク抜きし食料としていったのである。
 東京都村山市下宅遺跡にはこのトチの実のアク抜きをして食料としていた痕跡がトチの実と一緒に発掘されたザルなどに求められる。埼玉県川口市には水辺で見つかったトチの実のアク抜き施設がある。この施設は周辺の集落で共同して管理していた様子が集落と施設の配置の合理性から推定される。その構造は、縦9m、横2.4mもある巨大な施設でした。棚状になった水さらし場が複数あり、その1つ1つに筧を渡し水が行き渡るようにしています。人々は大量のトチの実を煮て磨り潰し、水にさらして食料に変えていたのです。自然の恵みをそのまま受け入れ、これと共生する道を見つけていったのです。
 
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 第4章 稲 知られざる1万年の旅
 北緯44°43′北海道遠別町、ここで日本列島最北の稲作が行われている。遠別町で五月田植えが行われている頃、沖縄の石垣島では刈り入れが行われている。ここでは年に三度収穫があるのである。稲の三期作である。
 今では日本全土にまで広がり日本文化ともなった稲作。これまで弥生時代に始まったと考えられていた日本の稲作は、発見された稲籾のプラントオパールの年代測定結果から縄文時代にまでさかのぼることが明らかになってきました。日本人と稲作の関わりの大発見です。
 
 
1.稲作のルーツ
 古くからルーツは雲南省と言われてきた。標高差が1000メートルもある棚田で栽培されている稲の種類は1000種類以上にも及ぶ。また、雲南の市場では豆腐や納豆も売られている。雲南は日本文化のルーツとも考えられてきた。近年中国雲南省大激子遺跡で発見された太古米は年代測定からおよそ4000年前の物であることが突き止められた。ところが日本の稲作の歴史の方が遙かに古いことが判った。島根県頓原町にある縄文遺跡である「板屋V遺跡」の縄文時代の土の中から稲のプラントオパールが見つかりました。これは、稲の中にある40ミクロン位の大きさの物質です。プラントオパールはガラス質で水に溶けず何千年経っても残っています。
 中でも朝寝原貝塚の稲のプラントオパールは約6000年前の物でした。日本の稲作は縄文早期の終わりから縄文中期の初頭には始まり途切れることなく続いてきたと考えられています。雲南省より更に早く約6000年前の縄文時代までさかのぼることが明らかになったのです。
 中国湖南省で1995年稲作の起源に関する大きな発見がありました。石灰岩の岩山の洞窟にある玉蟾(ぎょくせん)岩遺跡で12000年前に人が住んでいた痕跡があります。この人たちこそ野生の稲が食料になることを発見し最初に稲作を始めた人達だったと考えられています。土器や石器に混じって12000年前の地層から稲籾が出土しました。(現在のところ)世界最古の稲籾です。( )は私の挿入。この稲は芒(のぎ)と呼ばれる籾の先端が退化していることから野生種ではなく栽培種であることが確かめられた。(現在のところ)長江の中流域で稲作は始まったと考えられている。
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 2.長江下流域河姆渡と漁労
  5000年後稲作は長江を1000qほど下った中国の沿岸地域まで達します。中国湖南省から下った所にある、浙江省河姆渡(かぼと)遺跡の高床式集落跡で水没した穀倉の跡からおよそ7000年前の炭化した大量の稲籾が発見されました。この集落は湿地に何本も打ち込まれた柱の上に家は建てられ、その規模から数百人が暮らしていたと推定されている。
 この河姆渡では稲が重要な食料となっていました。出土した7000年前の土器に描かれているのはたわわに実った稲穂です。稲穂の絵としては世界最古の絵と言われています。更に、食料となっていた米が倉のあった場所から大量に見つかりました。遺跡が湿地にあったため腐らずに残ったもので、その量は150トンにも上っています。河姆渡の炭化米は静岡大学の佐藤洋一郎助教授(植物遺伝学者)がDNA分析をした結果、熱帯ジャポニカという原始的な稲だった。更に、同教授は日本の遺跡で発見された縄文米をDNA分析した。その結果は縄文晩期の佐賀県菜畑遺跡で見つかった稲もまた熱帯ジャポニカだった。
 河姆渡から日本列島までは東シナ海を挟んで800km余り、熱帯ジャポニカはこの大海原を越えたのだろうか。河姆渡の遺跡からは稲の他に動物の骨でできた銛(もり)や釣り針等、漁労の道具が稲と共に数百点見つかりました。7000年前河姆渡は海岸のすぐ近くに位置していました。海中の魚を銛で突いて捕っていたと考えられています。木製の舟のオール、河姆渡の人々は海に漕ぎ出す技術を身につけた漁労民でもありました。浙江省奉化の海岸には太古さながらの舟で漁をする人々が今も暮らしています。竹で編んだ筏(イカダ)を使い、引き潮と共に海に乗り出し潮が満ちると港に帰る漁を続けています。この漁民たちにとって日本列島はそれほど遠い場所ではありません。潮の流れや風の影響で九州あたりまで流されることがあると言います。今でもたまに日本まで流される漁師がおります。台風とか海が荒れたときです。現地の一人「沈 開号」さんの話では知っているだけでも7人の漁師が流されたと言うことです。太古の人々が海に乗り出すときに使った一つの道具が発見されました。河姆渡遺跡で出土した「移動式かまど」です。7000年前のものです。このかまどの上に土器を載せて米を炊いていました。いわば炊飯器です。これを積んで遠くの海まで乗り出したと考えられています。太古の昔稲が日本にもたらされたという可能性が浮かび上がってきました。
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 3.稲作の対馬への伝播
 漁労民と稲作の意外な一面は日本の対馬でも見ることができます。考古学的な調査によると人骨が見つかるのは日本で稲作が始まった6000年前以降のことです。対馬・佐賀貝塚から出土した人骨から、対馬に生きた人々は漁労民であったことが明らかになったのです。外耳道骨腫と言われる耳の突起です。水圧などの刺激によって軟骨が徐々に隆起したもので漁労民に多い特徴です。縄文時代対馬に姿を現した漁労民。その潜水の伝統は今も対馬の人々に受け継がれています。素潜りで海底のサザエやアワビを採っています。この潜水漁は数千年前から東シナ海一帯で行われていた漁労の技術です。これはその源は中国の漁労民にあると言われています。「須藤 公敏」さんは漁の傍ら海辺の水田で米作りもしています。しかしながら、対馬では縄文時代どのように米作りが行われていたか、記憶を辿ることはもはやできません。
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 4.熱帯ジャポニカの栽培法
 日本人の記憶から忘れられつつある幻の稲「熱帯ジャポニカ」。東南アジアのラオスの奥地に今も昔さながらの方法でこの「熱帯ジャポニカ」を作り続けている所があります。人口千人の「ナムガー村」です。村では種籾の選別が行われていました。熱帯ジャポニカは今のコシヒカリやササニシキと違いやや赤みを帯びています。この地方では蒸篭(せいろ)で蒸して食べています。粘り気が多くもち米のような食感です。熱帯ジャポニカの稲はその名の通り暑い地方を好み、このため温帯地域では見られなくなった今でもラオス奥地では変わらず食べられているのです。
 雨季を迎える4月、村では熱帯ジャポニカの米作りが始まります。まず、切り開かれた山の斜面に火をかけ耕作地を作ります。熱帯ジャポニカは水田ではなく、この焼畑で行われていました。木々を焼いた灰がそのまま養分となるため特に肥料をやりません。火をかけて数日後に種籾を巻きます。後は適度に雨が降り発芽し、5ヶ月後に収穫を迎えます。
 縄文時代に行われていた稲作もこのように焼畑のスタイルだったと考えられます。長い間、縄文時代日本の考古学者は稲作は無かったと考えてきたが、それは縄文時代の水田がなかったからでした(NHK説)。私は、単に見つかっていないためだと考えます。縄文時代の稲作は水田とは違って、焼畑でやるような、恐らく現在とはまったく異なった方法で行われていたと考えられます(NHK説)。 私は、これとは違っていると考えます、河姆渡、対馬などを考えると日本で独自に発見されたのでないならば、水稲の技術はそのまま伝えられたと見るべきである。単に水田遺構が見つからないだけ。また、丘陵で作るようになったのなら陸稲に変わったと考えるべき。ラオスが焼畑なのはその地に適合するように栽培法が変化しただけ。水田のようにする環境になく、十分な肥料も無く、亜熱帯で木々の成長も速く、幸い適度の雨が降る山間地では焼畑が最も合理的なのである。人間の知恵をもっと正当に評価すれば良いと考えます。日本は海に囲まれいるせいもあって沿岸地域は漁労が盛んです。ならば魚の食べかすも当然でたし、人畜の糞尿もあったであろう。また、日本はラオス程高温ではないから木々の成長も遅い、木々の再生には時間がかかるのである。日本で焼畑などをやっていたらはげ山だらけになってしまう。だから畑作に合理性があるのである。いずれにしても人間は環境に合った生活をしていたに違いない。だいたい9500年前の上の原では農業のように穀物栽培が行われていたことを考えると、焼畑はメインではなく所謂畑作が主に行われていたと考えられる。焼畑はむしろ平野部森林を新たに切り開いた後などの特殊な場合に行われたであろう。また、川のそばなどや沼地近辺の湿地などでは水田同様に当然水稲が行われたであろう。稲が育つ環境であれば良いのだから。何も水田である必要はない。そもそも水田は人工的に湿地を作った訳だから。自然の湿地でも問題はない。いずれにしても住んだ場所の環境に合った栽培法が採用されただろう。
 これとは別にもっと遥か以前に熱帯ジャポニカはあったと考えます。生息に最も適した場所ですなわち水没したスンダランドに既にあった。して原始栽培法も考案されていた。その後、人の移動とともに広まった。より環境の厳しい場所にと。こう考えるのが自然である。米作の遺構などというものは一番古いものが残っていなければならない理由はない。この遺構は連綿として続く稲作の一断片にすぎないのだから(以上私見)。
 稲のプラントオパールが見つかった地域は南九州東部宮崎平野付近、瀬戸内海沿岸の岡山平野近辺などです。実は稲作が始まった6000年前、地球の温度は3度から4度現在より高くなっていました。本来温かい地方を好む熱帯ジャポニカはこの温暖化の中で海を越えこの日本列島に根付くことができたと考えられるのです。
 
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 5.水田と温帯ジャポニカの発生
 縄文時代の人々は森や海で狩猟・採集をする傍ら、森を切り開いた耕作地で稲を作り始めました。背丈が高く穂が青く見えるのは「ひえ」です。稲は「ひえ」や「あわ」と一緒に植えられていたことも、プラントオパールの分析から分かってきました。日本列島で稲作の第一歩がこうして始まりました。これまで弥生時代からと言われてきた稲作は、今から6000年前の縄文時代にまでさかのぼることが分かってきました。しかもそれをもたらしたのは中国の魚労民である可能性も浮かび上がってきました。
 縄文時代にも新たな人々がやって来て、もともとこの地に無かった稲と稲作と言う技術を伝えたのです。熱帯ジャポニカと言う稲は温暖な地方にしかなじまず、日本列島全体には広がらなかったと考えられます。稲作が広く普及し、稲の民日本人が生まれるには更に水田と言う稲作技術の登場を待たねばなりませんでした。
 日本列島に熱帯ジャポニカが根付き始めた縄文時代、稲作の起源地である長江流域では大きな変化が起こっていました。長江下流域江蘇省では大きな変化が起きていました。江蘇省農業科学院の研究チームは中国で稲がどのように進化してきたのか調査を続けています。この調査チームは南京郊外の地層を掘り下げ年代の違う4つの土壌から炭化した米を見つけました。およそ7000年前から5500年前のものまでの、7000年前、6500年前、6000年前、5500年前の4種類の炭化米です。この中で、およそ5500年前の稲がほぼ現代米の大きさになっていました(NHK説)。私の考えはここが稲作の起源と断定するには難しいと考えます。単に収穫量が多く良い稲が他で栽培されていたので、ここでも栽培されるように移植されたとも考えられるからです。人々は舟で移動できるのであり、良い物は環境が許すならどこででも受け入れられるからです。地球上のすべての場所を掘り起こして調べたわけではないので、調べていない場所にもっと古い水稲種があるかも知れない。完全否定はできないからです。だから歴史は塗り替えられ新しい発見があるのです。起源地の有力な1つとなら言えるでしょう。
 農業科学院湯 陵華研究員はおよそ5500年前の米粒が大きく進化しているのは人々が水田で管理的に「稲作を始めた」(私見:稲作が行われていた)からだと考えています。「人為的な管理をしなければ、こんな米粒の進化は起こるはずがありません。」(私見:この命題は誤りである。管理しなくても進化が起こることは地球上の生命体が証明している。人間が管理しなくても進化してきた。だから人間がいる)。太古の人々は稲を湿地で育てると稲の生産性が飛躍的に上がることを発見し、(私見:現在でも陸稲はあります。水が得にくい場所などで。水田の方が収穫が多いことは事実のようではあるが飛躍的と言えるかどうかは疑問。単に収穫量が多かったので位が妥当な判断に思われる。これで畑より水田が選ばれるに十分である)、人工的な湿地、水田を作るようになったと考えられます(推定である。むしろいろいろな方法で栽培されていたのだと考えます。湿地や畑、後に人口湿地即ち水田が加わった。水は比熱が土の5倍以上あり太陽エネルギーを蓄える効果がある。元々稲は温かい地方を好んだ訳だから、暖かさを保持できる水の中のほうが稲は育つだろう。)。この水田と言う環境によってやがて遺伝的に新しい系統の稲に生まれ変わっていきます(NHK説)。要するにDNAが変化したわけだ。細胞分裂ではDNAはコピーされるだけだから、別の種に変わることは無い、種の変化はDNAが傷つけられ突然変異が起こった時に起こることは分かっている。水田で栽培されている熱帯ジャポニカもあることを考えると、ただ単に水田で栽培しただけでは変化はしない、宇宙線など何かの原因によって遺伝子が傷つけられ、環境に合っている稲のみが増えて温帯ジャポニカを作っていったと考えるのが妥当だ。環境に合わない物は死滅する(私見)。今私達が食べている温帯ジャポニカという系統の稲なのです。7000年前に発生した(私見:行われていた)水田は中国の揚子江流域を中心に広まって行き3000年前には朝鮮半島南端にまで達しました。この考えはすべて中国が中心と考える中華思想のもたらす帰結である。
 
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 6.稲作の日本への伝播
 朝鮮半島のサシチョンチョシは対馬から50kmのところにあります。水田の技術がこの地に伝えられた頃、縄文人たちがこの地に来ていたことが分かってきました。この地で3000年前頃の集落の遺跡からは炭化米とともに縄文土器など縄文人の生活道具などが数多く出てきたのです。独自の土器を持つ朝鮮半島の人々が縄文土器を使っていたとは考えられません(NHK説)。(私見:自分たちに無いものなら興味を持ち使ってみたくなるのが人情。今日の車を見れば分かろう。日本では優秀な車が生産されているが、外国産の車を乗る者はいる。だから彼ら自身が使っていたことを排除できない。排除しなくても良いのである。土器があると言うことは交流は少なくともあったことを示している)。トンサム洞貝塚から出土した縄文土器から分かることは、縄文時代日本列島に住む人々が朝鮮半島にやって来て水田と出会いその稲作技術を習得して帰った九州当たりの人が当然いたであろうと思われます。(NHK説)私見:この地に住んでいた人達が日本に行って、縄文土器を珍しいと思って持ち帰ったとも考えられる。また、日本の方が温暖で住みやすいことを考えると、移住する者がいてもおかしくはない。今日の国際結婚のように。要するに交流があったと言うことは人の移動も血の交わりもあったというべきであろう。交流はあったので、水田稲作が伝わったと考えられる。
 朝鮮半島から水田の技術を持ち帰ったと思われる縄文人、九州でもその証拠が見つかっています。九州唐津市で見つかった2600年前の菜畑遺跡日本最古の水田です。ここから出土した縄文土器(刻目突帯文)、その他ここから出土した生活用具が全て縄文人の物であることから、菜畑の水田は縄文人によって作られたと見られています。水田稲作はこれまで弥生時代、朝鮮半島や大陸からの渡来人によってもたらされたと考えられてきました。しかし、それよりも遥か以前に縄文人によってほぼ完成された水田が作られていたのです。
 こうした水田がやがて九州北部一帯に広まって行きました。穀物の中でもひときわ味も良く栄養価の高い米は森の木の実に代わって日本列島に米と言う新たな主食が誕生したのです。狩猟採集を中心とした縄文時代は終わり、水田稲作を基盤とする時代を迎えます。弥生時代の始まりです。およそ2600年前縄文晩期九州北部で水田を使った米作りが始まりました。馴染み深い稲作の原型が誕生したのです。この縄文時代晩期に続く弥生時代、朝鮮半島や大陸から新たに渡来した彼等によって水田稲作は一気に日本列島の広い地域に伝えられて行きます。九州北部から本州最北の地にたどり着くまで300年しかかかりませんでした。この水田稲作の急速な普及は、実はあの縄文の稲「熱帯ジャポニカ」が大きな役割を果たしていたのです。
 
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 7.日本での稲作の拡散
 九州北部から北へ2000km、青森県津軽平野です。北のこの平野で稲作が始められたのは今から1000年ほど前の平安時代だと考えられてきました。ところが、この津軽平野の田舎館村で今から2000年前の水田が発見されたのです。水田の跡は発掘当時のまま保存されています。水田稲作は西暦元年の頃北緯41度本州最北端の地にまで達していたことが判ります。
 当時稲作をしていた場所の分布を遺跡から見ると朝鮮半島で北緯39度、中国ではそれより南で、青森の津軽は世界最北端でした。稲は元々熱帯植物です。現在でも寒冷地に根付かせるためには品種改良を重ねねばなりません。なぜ2000年前の弥生時代寒冷地で稲作ができたのでしょうか。青森県田舎館村で出土した2000年前の津軽の炭化米をDNA分析したところ、なぜか温帯ジャポニカに混ざって熱帯ジャポニカが混ざっていた。熱帯ジャポニカは全国に12箇所の水田跡が見つかりました。植物遺伝学者である静岡大学の「佐藤洋一郎」さんは温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカが混ざって植えられていたのではないかと考え混植の実験を行った。2つの稲の集団を隣り合わせにして植えるとわずかにその雑種が生まれます。そこでその雑種を植え、観察した。40日後驚いたことに、両側に植えた親の稲よりも1ヶ月成長が早くなっていました。温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカから生まれた「早生の稲」。この奇跡が弥生時代に入って300年で本州最北の地まで稲作を広めることを可能にしたのです。2000年前の弥生時代、今日植物学で言う「植物多様性」を「米作り」をしていた人々は既に知っていたと言うことになります。
 津軽の水田跡には2000年前に北の台地に稲を根付かせた私達の祖先の足跡が数多く残されていました。大人の足跡に混じって子供の男女の足跡も見つかりました。2000年前の秋、家族総出の刈入れが行われていたのでしょう。水田には温帯ジャポニカに混じって熱帯ジャポニカが植えられています。水田の所々では休ませていた水田も見つかっています。地力を回復させるための知恵でした。こうした数々の知恵を積み重ねて、稲の民「日本人」が誕生したのです。
 毎年長崎県の対馬では太古から「赤い稲」の祭りが続いています。実った稲を米俵に入れ神社に奉納し、人々は豊かな収穫を感謝し来年の豊作を祈る。こうして稲を得た民はその感謝をこうした形で表しているのでしょう。全国に残る「稲荷神社」こそ農業の神「稲」に感謝する姿を表したものに違いない。今日では、日本の稲作は更に北上を続け、1901年遂に北緯44°43′北海道遠別町まで達しました。
 
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 5章 そして「日本人」がうまれた
 九州の空の玄関口福岡空港。1994年この空港の下から太古の日本人の姿を伝える貴重な発見がありました。ターミナルビルの建設中に掘り出された一体の人骨です。骨の特徴から2000年余り前の弥生時代日本列島にやって来た新たな渡来人であることがわかりました。日本列島にかつて無い規模で押し寄せた渡来人。彼等は進んだ水田稲作の技術を手に列島各地に広がり巨大な集落を築いて行きます。ところがそこには豊かな森を舞台に独自の文化を育んできた縄文人がいました。大きく文化を異にする渡来人と縄文人。近年両者の間に戦いが起きていたことも判って来ました。縄文人と渡来人との間に繰り広げられた激動のドラマ。その中で私達につながる日本人誕生の物語を探って行きます。
 
 
1.新たなる渡来人の足跡
 古来中国や朝鮮半島の進んだ文化を受け入れてきた九州、福岡。この町の郊外で一つの集落が発掘された。およそ2400年前の板付遺跡です。戸数10戸ほどの集落は深さ2m幅10mもある堀に囲まれていました。こうした環濠集落は縄文時代には見られない新たなタイプの集落です。その傍らからは水田跡が発掘されました。畔や水路が完備され、1枚の田の大きさが現在と変わらない本格的な水田でした。焼けて炭になった米(炭化米)も大量に見つかっています。縄文の遺跡には見られないこうした発掘結果から、日本列島に新たな人々が現れた可能性が浮かび上がってきました。
 1994年そのことを裏付ける人の骨が板付遺跡に近い福岡空港で発掘されました。2300年前の人骨です。水田稲作が始まった頃の集落から人骨が出土したのは始めてのことでした。この発見によって日本列島で新たな文化を担った人々の姿が明らかになってきました。骨の分析は九州大学と名古屋大学の共同研究によって進められています。損傷が激しかったため、研究チームはCTスキャンによって採取したデータをもとにコンピュータ上で骨の修復を試みました。九州大学、人類学者中橋孝博さんはこうして復元された骨の形を縄文人と詳細に比較しました。その結果新たな人々の顔つきは縄文人と大きく異なっていた事が判りました。福岡の人骨はかなり面長の印象です。一方縄文人はえらの張った四角い顔に見えます。計測の結果、顔の横幅は福岡のが93mm、縄文人は96mmと殆同じなのに、眉間からあご先までの縦の長さは福岡のは127mm、縄文人は105mmで、福岡の人骨は2cm以上長くなっていました。更に、横から見ると縄文人に比べ眉間から鼻にかけての隆起が低く扁平な形をしていることが判りました。この違いは断絶に近い違いで、生活の変化からの変化というより、異なった遺伝子をもつ集団が流れ込んできたと考えたほうが理解しやすい。このことは、顔形の違ったこれらの人々はルーツを異にするまったく別系統の人々であることを物語っているのです。
 これらの人々は一体何処からやってきたのでしょうか。その手がかりが山口県豊北町で見つかっています。山口県豊北町土井ヶ浜遺跡で砂浜だったこの地から福岡出土の人と同じ人々の人骨が大量に発掘されました。これまでに見つかった人骨は350体余り。福岡の人骨のおよそ百年後、今から2200年前ここに埋葬された人々です。発掘が進むにつれて、そこには奇妙な一致点があることが判ってきました。皆なぜか同じ方向を見据えるように葬られていたのです。遺体は西からおよそ20度北を向いた方角に顔を向けて葬られていました。視線の先を辿って行くと、朝鮮半島、そして中国大陸の山東半島と行きつきます。このことから土井ヶ浜の人々は中国大陸から渡って来たと考えられるようになったのです。それを裏付ける有力な手がかりが改革開放の進む中国山東省で見つかっています。山東省臨淄のマンション建築現場で土井ヶ浜遺跡とほぼ同じ時期の人骨が大量に出土したのです。この現場では最初の発掘で1500体、その後も断続的に3000〜4000体の人骨が発掘されました。山東省臨淄の遺跡では墓の中から保存状態の良い人骨が400体以上も掘り出されました。その後ここ10年余りの間に北京、西安など中国各地でも同じ時期の人骨の発掘が相次ぎました。この機会を捕らえ中国に渡り人骨調査したのが土井ヶ浜遺跡で発掘を続けて来た人類学者の松下貴幸さんです。松下さんは中国各地の研究所を回り発見された人骨を一体一体細かく計測しました。面長な輪郭、鼻が低く扁平な顔立ち、中国の人骨は一見して土井ヶ浜の人骨とよく似ていました。松下さんは類似性を科学的に探るため、計測データを基に人骨の比較分析を行いました。グラフ上で資料の点が近いほど類似性が高いことを意味します。土井が浜の人々は縄文人とは別のグループに分類されました。こうしたデータをグラフ上に表すと土井ヶ浜の人々は縄文人ではなく中国人により近かったのです。このことから言えることは、土井ヶ浜弥生人はほとんど中国人と変わらない。従って、「土井ヶ浜弥生人のルーツは中国大陸にあると言って良いだろうと思います」とは松下さんの言葉です。
 2000年以上前、遥か中国大陸から海を越えてやって来た人々。彼等が日本列島を目指したものは一体何だったのでしょうか。
 日本列島に渡来人が現れた頃中国大陸は春秋戦国と呼ばれる激動の時代でした。この時代小さな国が次々と滅ぼされ七つの強国へと統合されて行きます。500年にも渡って続いた戦乱。その一番の被害者は家を焼かれたり戦場に駆り出されたりした多くの民衆でした。春秋戦国時代の詩を集めた書物には戦争に明け暮れる支配者を嘆き国を捨てた人々の声が残されています。
 
 『三年汝に仕ふれども
 我をあえて顧みるなし
 ここにまさに汝を去り
 彼の楽土へ行かんとす
 楽土 楽土
 ここに我が所を得む』
 (詩経)より
 
 こうして、国を離れた者の中に日本列島を目指した者もいたと考えられています。
 (編者挿話)この時代、山東半島と言えば、中国の戦国時代、秦に統一される前、斉の国があった所です。戦乱の中で斉の国を脱出して日本に来たのだろうか。して出雲の国を建国。大国主の尊が大国である理由は、当時の中国の大国「斉」を指した言葉なのかも知れない。漢字は漢の時代に完成したのだろうが、その遥か以前斉の国に在ったのではないか、三つ目の巨人が漢字を発明したことになっているが、その巨人こそ大国主の尊、だからこそこんなにも日本で漢字が使われるのではないか。中国では略字に駆逐されようとしているのに。そして天孫族はこの後、漢の時代、紀元前50年前後の頃日本に移住して来たと。どこの国でもそうだが、国では征服者の言葉が話されるようになることを考えると日本語は彼ら天孫族の言葉だったに違いない。日本語の語順は中国語とは異なるので天孫族は中国人(漢人)ではないようだ。「かな」で表された表現法こそは天孫族の言葉だったに違いない。で、元来天孫族にとって外来語である「漢字」を日本語に取り込んだのだ。だから中国語と所謂「漢文」は全く異なるのだ。同じ文章を書いてあっても、およそ中国人と日本人では読み方そのものが異なる。「漢字」「かな」登場したこの順番が重要なのだ。この順こそ日本における支配者の交代を意味し、「国つ神」、「天つ神」に分けられて古事記に記された所以と思われる。国つ神とは天孫族から見た言葉で、以前の貴族ないし有力者、天つ神は天孫族の指導者達を指す言葉であると言って良いだろう。
 因幡の白兎の話がまた面白い。鰐を騙して川を渡ろうとしたウサギが不用意に騙したことを話したとたん皮を剥かれてひどい目にあったところを心のやさしい大国主の尊に助けられた話しだが、神話は喩え話しであることが多い。そこでこれを次のように解釈すると、これは大陸からの移住のエピソードであることが判る。鰐は船主である、因幡は稲場つまり水田耕作をしていた人達。ウサギは渡来人、この場合は天孫族。天孫族は船主を騙すようにして移住を試みたがばれて、身包み剥がされたと。何の事はない財産をほとんど奪われたのだ。この話を聞いた当地の領主であった大国主がその面倒を見たのだ。こんな恩義があったから天孫族が力を持った後も出雲の国の主を丁寧に扱った話が国譲りの神話となって残っている。出雲大社を創り大国主の尊を「神」として出雲大社に祭ったのである。ついで、「尊」とは尊い人を指し、「命」は普通の人を指すと「古事記」は言っている。
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 2.遺伝子の遺言
  私達の体内を流れる血液の中に実は太古の渡来の記憶が残されています。人類遺伝学者(東京大学教授)の徳永勝士さんは血液の中に含まれるヒト白血球抗原、通称HLAという物質を分析することで日本人のルーツを調べています。HLAとは白血球の表面にあって免疫反応を司るたんぱく質で分子構造の違いによって10000を越えるタイプに分かれます。徳永さんはまず現代日本人に最も多いタイプに注目しました。B52−DR2というタイプに着目しました。このタイプをもつ人々は西日本、韓国、中国北部に多く分布していることが分かりました。徳永さんはこのタイプをもつ人々が過去にこうした地域を経て、日本へ移動したと考えています。別のHLAのタイプからは長江流域からはB46−DR9のタイプの人が、中国南部からはB54−DR4のタイプの人が、朝鮮半島からはB44−DR13というタイプの人が日本にやって来たと考えています。
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