最終更新日:平成14年7月23日

中国における遺跡と文明の曙

索引

 前書き
 第1章 遺跡等の記録
  1.玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡
  2.仙人洞遺跡/吊桶環(ちょうとうかん)遺跡
  3.彭頭山(ほうとうざん)遺跡
  4.城背渓文化
  5.裴李崗(はいりこう)文化
  6.河姆渡(かぼと)遺跡
  7.馬家浜(まかほう)文化
  8.大渓文化
  9.仰韶(ぎょうしょう)文化
 10.紅山文化
 11.城頭山遺跡
 12.馬家窑(まかよう)文化
 13.良渚(りょうしょ)文化
 14.石家河(せっかが)遺跡
 15.龍山文化/大汶口文化
 16.二里頭文化
 17.三星堆遺跡

 第2章 国の曙
  1.良渚における王の存在検証
  2.石家河における王の存在検証
  3.三皇五帝
  4.伝説の夏王朝
  5.殷(いん)=商(しょう)
  6.周(しゅう)
 第3章 分析法
  1.放射性炭素14Cによる年代測定
  2.プラントオパール分析
  3.花粉分析
 第4章 人物
  1.徐福
  2. 
  3. 
 第終章 参考文献
  1.長江文明の曙

 前書き
 第1章は中国で発見された遺跡の記録である。年代の古い遺跡から新しい遺跡の順に配列してある。第2章で古代史とのかかわりを分析する。
 本文の中には中国の地名のため特殊な文字が使われている個所があります。このためネットスケープでは正しく表されない個所があります。エクスプローラ6.0では正しく表現されることが分かっています。正確を期す場合はエクスプローラでご覧ください。

 第1章 遺跡の記録
 1.玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡(BC14000-12000)
 長江中流域、湖南省道県で1993年と95年の2回にわたって発掘された洞窟遺跡。洞窟内から稲の籾殻が発見され、年代測定の結果、紀元前14000年〜12000年と推定された。少なくともその頃から稲の栽培が始まったことが証明され稲作の起源が一万年を越えることが明らかとなった。
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 2.仙人洞遺跡/吊桶環(ちょうとうかん)遺跡(-BC12000)
 長江中流域と下流域の境目に位置する江西省万年県で、1993年と95年に中国とアメリカの合同調査隊によって発掘された、旧石器時代晩期から新石器時代初期にかけての洞窟遺跡。石器や大型動物の骨による骨製器などとともに、丸底土器の破片、栽培稲の痕跡が発見された。放射性炭素年代測定法によって両遺跡とも紀元前12000年を下らないとされた。湖南省道県の玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡とともに最古の稲作文化遺跡の一つ。
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 3.彭頭山(ほうとうざん)遺跡(BC7000)
 長江中流域、湖南省澧(れい)県の、洞庭湖の西に広がる澧陽平原で1988年にに発見された、紀元前7000年前の稲作文化遺跡。環濠集落であり、住居跡、ごみ捨て場、墓、丸底の土器、そして炭化した稲粒や籾殻が発掘された。同平原で彭頭山遺跡を標準とする、彭頭山文化に属する十数カ所の遺跡が発見されている。この彭頭山文化が城背渓文化、大渓文化といった長江中流域文化に継承されていく。
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 4.城背渓文化(BC7000-6000)
 長江中流域、湖北省枝城市一帯で紀元前6500年頃までに発達した稲作文化である。城背渓文化は、紀元前7000年〜6000年に繁栄期を迎えた。大渓文化に引き継がれてゆく。
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 5.裴李崗(はいりこう)文化(BC7000-6000)
 黄河中流域、河南省新鄭県裴李崗遺跡を標準とする、紀元前7000〜5000年の、粟(あわ)作農業を主体とする新石器文化。河北省武安県磁山の同時代の遺跡と合わせて、磁山・裴李崗文化ともいう。基本的には粟・黍(きび)・稗(ひえ)を栽培していた乾燥地帯の農業を中心としたもの。分布範囲は河南省全域に広がっていた。黄河流域本拠地の文化。賈湖遺跡においては、その農業に必要な農耕の道具、石器(舌型シャベル、鋸歯刃の鎌、石板状臼など)も全部一式そろっていたが稲も栽培していた。
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 6.河姆渡(かぼと)遺跡(BC5000-4000)
 河姆渡遺跡は浙江省余姚(よよう)県の遺跡。紹興の東方約80km、杭州湾の南岸に位置する。1973年から78年にかけて2810m2が発掘された。大量の稲籾、籾殻、稲の茎、葉堆積し、更に稲作工具である木製の柄をつけた170個余りの骨耜(鋤先)が出土した。放射性炭素測定により、紀元前5000年〜4000年と推定され、稲作についての学説に根本的な変革を迫ることになった。
 洪水に遭った民家も出てきている。土間には稲の束が置いてある。梅原猛さんの見た目には、機織の機械がたくさんあり、土器には蚕の絵などが描いてある。また、おびただしい動物の骨、象の骨がたくさんあります。その他、鰐、虎、豹の骨などおびただしい動物の骨を見ると周囲は森林だったようです。
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 7.馬家浜(まかほう)文化(BC5000-3800)
 江蘇省太湖周辺から浙江省の北部に主として分布する羅家角(らかかく)遺跡、馬家浜遺跡、長江下流域の圩墩(うとん)遺跡などの紀元前5000〜3800年と推定される新石器文化の呼称。河姆渡文化に次ぐ発展段階を示し、稲籾、炭化した穀粒や河姆渡遺跡とは系譜の異なった骨耜(こつし)などが出土している。一般的に、河姆渡文化→菘沢文化→良渚(りょうしょ)文化という稲作文化の編年がいわれている。
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 8.仰韶(ぎょうしょう)文化(BC5000-3000)
1921年に黄河中流域の河南省澠池県仰韶村で発見された遺跡を標準とする、紀元前5000年から3000年にかけての、新石器時代の文化。磨製石器を主とし、栽培粟類中心の農耕や漁撈・狩猟経済などがかなり発達し、豚・羊・牛などの家畜も飼っていた。陝西省中部から河南省西部、山西省南部にかけての黄河流域で同文化の村落遺跡が多数発見されている。1954年〜7年に発掘調査された陝西省市の半坡遺跡が最も著名な例で、多種多様な彩陶土器や貯蔵穴、住居址、集団墓地跡などが発掘され、現在は半坡博物館として公開されている。仰韶文化は通常、この半坡類型と河南省三門峡市で発掘された、彩陶の文様や住居址などに特色をもつ廟底溝類型の二つに大別されるが、この二つの類型に属する遺物が同時に見つかる遺跡もある。
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 9.大渓文化(BC4500-3500)
 長江中流域、湖北省枝城市一帯で栄えた城背渓文化を継承する。美しい彩文土器を特徴とする稲作文化である(紀元前4500年〜3500年)
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 10.紅山文化(BC4500-3500)
 中国東北部の新石器文化。遼寧省西部、内蒙古東南部、河北省北部に分布している。彩陶文化の系統で黒彩による平行線の間に三角形や渦文を入れる彩文土器がある。石器は細石器を特色とするが、それ以外に各種の玉器がある。句形柄刀、環、釧、筒形、雲形、句竜形、小動物などである。
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 11.城頭山遺跡(BC4500-3500年前後) 中国最古の城塞都市
 長江中流域の湖南省澧県の城壁都市遺跡。1991年の調査によれば、直径325mの丸みを帯びた正方形で、屈家嶺文化時代(紀元前3500年)に、大渓文化時代(紀元前4500年〜3500年前後)の環濠集落を埋め立てて築かれている。河原石敷きの道路や運河、船止場跡などが発見され、甕棺を主とした墓地の存在もあり、澧陽平原の南部を支配した政治センターとみなされている。1994年から1999年まで発掘を続けており、新たに水稲田、祭壇、陶窯跡が発掘された。
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 12.馬家窑(まかよう)文化(BC3500-3000年)
 ここで中国最古の青銅器のナイフが出土している。
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 13.良渚(りょうしょ)文化(BC3300-2200年)
 浙江省杭州市の北、余杭県良渚鎮一帯を中心に、南は銭塘江を越え、北は江蘇省の北端近く、西は太湖畔の無錫(むしゃく)に至る約5万Km2の広大な地域で発見、発掘された一連の遺跡文化の総称。1936年頃から発掘が始まり、すでに400近い遺跡が発見されている。主な遺跡は、江蘇省呉県草蛙山(そうあいざん)遺跡、張陵山遺跡、武進県寺墩遺跡、浙江省嘉興市雀幕橋遺跡、杭州市水田畈遺跡、上海市馬橋遺跡、青浦県福泉山遺跡、浙江省余杭県反山遺跡、瑶山遺跡、および莫角山遺跡跡群など。良渚文化は稲作農業を基盤とする高度に発達した中国最古の都市文明を形成した。とくに良渚鎮一帯の莫角山遺跡には東西700m、南北450mの巨大基壇とさらにその上に建築されたと思われる宮殿、神殿の三つの基壇が発見され、また近くの反山、瑶山の墓地などから発掘された極限まで精緻に加工された玉j(ぎょくそう)・玉鉞(ぎょくえつ)・玉璧などの玉器が、良渚文化の特質をよく表現しているといわれている。さらに太湖南畔の湖州銭山漾遺跡からは、きわめて細かく加工された絹糸による織物や麻織製品も出土している。これらの玉器には饕餮文が中央に施され、饕餮文と饕餮文の間には神像の彫刻文様精細に穿たれている。
 しかし、紀元前2000年代末期頃、黄河流域にいわゆる夏王朝が出現する前夜ともいうべき時期に、良渚文明は突如として崩壊する。
饕餮文(とうてつもん) 殷・周青銅器の器体中央に施された装飾文様の一つ。饕餮とは、「飽くことを知らない貪欲な動物」とされている。突出した眼球、大きく裂けた口、顔の両側から脚が出でいるという、誇張された威嚇的な文様であり、呪力・魔力をもち、邪霊を防ぐ護符ともされた。
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 14.石家河遺跡(BC3000-2000)
 長江中流域、湖北省天門市にある。紀元前3000年から2000年にかけての長江中流域最大級の都城遺跡。外周に広い環濠をめぐらせ、南北1.3km、東西1.1kmの面積を盛り土による城壁が囲んでいる。北西部には環濠から水を引き込んだり、船も用いた運河の跡がある。城内中心部には宮殿跡と思われる遺構も発見され、紅陶鉢といわれる大型の土器、ミニチュアの動物や人物の塑像、紡績関係の用具、精緻な玉器、銅鉱石や銅片などが出土している。
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 15.龍山文化/大汶口文化(BC2500-2000)
 1928年に山東省歴城県龍山鎮で発見された遺跡を標準とする紀元前紀元前2500〜2000年にかけての晩期新石器時代の文化。黒陶土器を特色とする龍山文化遺跡は黄河中・下流域に主に分布し、仰韶文化に次ぐ時代を代表するとされてきたが、1959年、山東省寧陽県と泰安県大汶口の境に位置する大汶口遺跡の発掘調査があり、この遺跡を標準とする大汶口文化が龍山文化と仰韶文化の間に位置することが判明した。青銅器としては、ここで青銅の針などが出土している。
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 16.二里頭文化(BC2000頃)
 洛陽東約30km、河南省偃師県で1959年から発掘調査された殷前期ないしはいわゆる夏王朝晩期(紀元前2000年頃)の遺跡を標準とする文化。東西2.5km、南北1.5kmの遺跡からは巨大な基壇と宮殿址、住宅、墓などとともに、土器、初歩的な青銅器、玉基、漆器、骨器などがおびただしく出土した。肥沃な土地での粟・稗中心の農業に、小麦の栽培が始まっていたことも判明した。この時代本格的に青銅器が出現する。青銅器製造工場跡が発見されている。鋳型も見つかっているがその鋳型の青銅器そのものは発見されていない。鋳型から作られる器はかなり大型で直径30cm以上ある。
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 17.三星堆遺跡
 長江上流域、四川省成都市から北へ約40km、広漢市の近郊にある南興鎮三星堆村で、1984年、南北約2000m、東西約1600mの、総面積2.6km2の巨大城壁都市遺跡が姿をあらわした。そして86年夏、その遺跡から2つの土坑が発見され、そこに総重量一トンを超える500点以上の破壊された青銅器、玉器、象牙、金製品などが出土した。特に、その青銅遺物が、これまで考古学史上まったく見たこともないユニークかつ非現実的な形をなしていることが驚きであった。殷代末から西周初期、紀元前11世紀末から9世紀前半までの間に、何らかの理由で破壊され埋められたものと思われる。四川地方の古代蜀の歴史を記した東晋時代の『華陽国志』という文献にある蚕叢という蜀の王が、三星堆の青銅遺物に見られる飛び出した目玉、すなわち縦目の持ち主であったとされるなど、その歴史的実相や精神世界が次第に明らかにされつつある。
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 第2章 国の曙
 1.良渚における王の存在検証(BC3300-2200)
 莫角山の東西700m、南北450mの巨大基壇、その上の宮殿、神殿とうの3つの基壇。これを囲む城壁の存在はここを中心として政治・宗教・戦争指導者の王の存在を意味する。この城壁は前後4回にわたって築かれる。一回目 大渓文化中期、二回目 大渓文化末期、三回目 屈家嶺文化の初期、四回目 屈家嶺文化の中期。
 玉器の存在
 玉j(そう)、これは宗教の宝器。宗教用の道具の一つ。非常に良くできていてしかも大きい。身分の高さを物語っている。
 玉鉞(えつ)、これは権力の象徴としてその後の、夏・殷・周の各王様も所持していた。玉鉞は軍事統制権を象徴している。
 玉璧、これは富の象徴。完璧という言葉はここから生まれる。完璧は元々傷一つない玉壁のこと。
 シルク、きわめて大量の織物が副葬されている。
 漆の棺、きわめて立派なもので、他に多量の漆器が副葬されていた。

 蚩尤(しゆう)
 伝説上の東方九黎(れい)族の首領。勇猛で、戦いを好み、河北省南東部の涿鹿というところで炎帝と黄帝の連合軍と戦い、敗れて殺されたとされている。蚩尤は北方の勢力から見れば、凶々しい、反抗する悪神ということになるが長江流域の文明圏を背負って、黄河流域の文明圏の拮抗し、劇的に戦った伝説的人物として、何らかのかたちで良渚文化と深い関わりをもつと思われる。
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 2.石家河における王の存在検証(BC3000-2000)
 この時代中国最大の城塞都市。南北1300m、東西1100m、巨大な環濠に囲まれる。
 城内に、宗教・祭祀関係の遺跡多数。現在までに発掘された宝物は、玉器も数多くありますが内容、質からいって良渚の王に及ばない。今後、王の宝物が見つかるのは時間の問題と思われる。この石家河こそ史記にも記される三苗民族と現在は見られている。
 三苗民族
 長江中流域で紀元前3000年前半から末期にかけての複合民族共同体。尭・舜・禹に代表される黄河流域の勢力と死闘を繰り返した。
◎三苗は江・淮・荊州の地にあってしばしば政治を乱した。そこで舜は巡幸から帰ると、尭帝に言上し、(中略)三苗を西方の辺境三危に移して、西戎の風俗に同化させ…。(新釈漢文大『史記』五帝本紀第一―明治書院刊、吉田賢抗訳による)
◎さきに三危に追放された三苗のうち、なお、不善をやめないものがあったので、それを分けてもっと遠くへ放逐した。(同上)
◎(禹が舜帝に言うには)九州の外の蛮族の地方にいたるまで、東西南北の方面ごとに五人の長を立てて、みな帝の教命をふんで功績が挙がることができました。ただ、三苗だけは頑迷で、帝につき順(したが)うことをしません。(同上、夏本紀第二)
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 3.三皇五帝
 中国古代伝説上の帝王。三皇とは伏羲・女媧(か)・神農(炎帝)。五帝とは黄帝、顓頊(せんぎょく)、帝嚳(こく)、尭、舜の五つとするが異説もある。この内の黄帝と炎帝の連合軍が蚩尤(しゆう)を討って天下を統一し、度量衡や衣服の制を定めたとされる。
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 4.伝説の夏王朝(BC2000-1500年)
 黄河中流域、いわゆる中原に成立した中国最初とされる王朝。伝説的人物・禹によって創始され、最後の王・桀の暴虐無道の政治により殷王・湯に滅ぼされた。
 夏王朝の出発点はBC2000年といわれる。良渚の終わりがBC2200年頃と考えられる。また、夏王朝の創設者禹は黄帝の曽孫と言われるから、大体黄帝の時代と良渚の終わりは重なる。で、伝説的な蚩尤王朝を滅ぼして中国を統一した。そして、稗・粟地帯と稲作地帯を合わせた中国という大帝国を最初に作ったと考えられる。して、これらの長江文化を受け継いでゆくことになる。玉器(玉j、玉鉞、璧玉)、饕餮文、漆、巨大な基壇をつくる技術などはその後の王朝、殷、周、戦国時代、漢代までその命脈を保つことになる。
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 5.殷(いん)=商(しょう)
夏を滅ぼした湯王によって紀元前1500年頃、黄河中流域に創始された確認できる中国最古の王朝。紀元前1000年代、紂王のとき、周の武王に滅ぼされた。20世紀初頭から河南省安陽県の殷墟で甲骨文が発掘され、その後も、河南省、山西省などで殷代の遺跡が次々と発掘調査されている。
殷墟(いんきょ)  黄河流域の河南省安陽市郊外から、二十世紀初頭に発掘された殷王朝後期の遺跡。青銅器や骨器の製造址、居住区、墓地、宮殿宗廟区などから構成されている。最も重要な出土物は17000余の甲骨片で、そこに刻まれた甲骨文字によって殷王朝の実在性が証明され、その時代の社会や文化が解明されていった。
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 6.周(しゅう)
 夏・殷(商)につぐ中国第三代の王朝。紀元前1027年頃、武王が殷を滅ぼし、黄河上流の陝西省西安付近に都をおいた。紀元前770年、平王が都を今の河南省洛邑に遷するまでを西周、それ以降を東周とする。一般に東周の前半を春秋時代、後半紀元403年から秦始皇帝による統一までを戦国時代とよび。その間も周王室としては存続していた。
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 第3章 分析法

 1.放射性炭素14Cによる年代測定
 生物の遺存体の中で壊変・減少し、約5700年で半減する放射性炭素の量を測定することにより年代を決定する方法。40000年前まで測定可能。
15.5.20加筆
 生物に含まれる炭素の放射性同位体(C14)が,死後,一定の速度で窒素に変化していく性質を利用した年代測定法。C14の濃度の半減期は5730年。AMS法(加速器質量分析法)は,加速器によって同位体の原子一個一個を検出して正確に測定する。
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 2.プラントオパール分析
 イネ科植物の一部の細胞は、ケイ酸が厚く沈澱し、植物の死後も土壌中に残る。これをプラントオパールといい、種によって形状が異なるため、堆積時の植生やイネ栽培の有無がわかる。
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 3.花粉分析
 地層中に残る花粉や胞子の種類、構成比などによって、その地層の形成時の植生や気候を推定する方法。栽培植物の花粉によって農耕の存在も検証できる。
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 第4章 人物

 1.徐福 伝説から実在の人へ・秦の始皇帝の時代の法士
 司馬遷の『史記』の「秦始皇本紀」などに徐福(あるいは徐市(じょふつ))の記述がでてくる。神仙思想に強く引かれる始皇帝に対し、徐福は、「海中に蓬莱(ほうらい)、方丈、瀛州(えいしゅう)の三つの神山があり、そこに陛下のために(不老不死の)神仙を求めたい」として、数千人の童男童女を伴い渡海すると申し出たが、約を果たさなかった。巨万の費用を使いながらいつまでも仙薬を得られない徐福に激怒したが、結局は許され、徐福は再び三神山を目指して渡海したという。1982年、江蘇省連雲港市にかつて徐福村と称していた地が発見され、徐福を実在の人物として顕彰し、日本との間で文化交流も行われている。また、日本では紀伊半島の熊野、佐賀県、丹後半島、男鹿半島など二十数カ所に徐福伝説が広がり、佐賀市には徐福を祭神とする金立神社があり、熊野の新宮市には江戸時代に建立された「徐福の墓」もある。
徐福一行は金・銀・銅・水銀・機織などの技術をもった集団であったという説もある。
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 2. 
  
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 第4章 参考文献

 1.長江文明の曙 角川選書 徐 朝龍著


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