た夏が、8月が来た。この時期、甲子園でもそうだが、何かと戦争と関連づけて
物事が語られる傾向にあり、そのことを鬱陶しく感じている人も多かろう。だが、年に
    一度くらい、過去の戦争に思いを馳せることも意義のないこととは言えまい。

     石丸進一投手。昭和16(1941)年、折しも太平洋戦争開戦の年、12年に入団した
    兄・石丸藤吉の後を追うようにして名古屋軍(中日の前身)に遊撃手として入団するも、
    翌年にはその強肩とバネを評価され、投手に転向した。転向したその年に、いきなり17
    勝19敗という成績をあげ、非凡なところ見せた。さらに、翌18年には20勝12敗を記録、
    当時、わずか4名しかいなかった名古屋軍投手陣の中で主軸の役割を果たした。
    その昭和18年10月12日に、阪急相手にノーヒットノーランも達成している。

     当時、若者は誰であろうと軍に招集された。ましてプロ野球選手のような頑健な体格を
    していればなおさらである。当然のように、石丸も招集を受けた。海軍であった。
    石丸は航空科を志望し、予科練に入る。予科練を出ると少尉に任官、希望通り零戦に
    搭乗することとなったが、戦闘機としてではなかった。特攻機である。

     昭和20(1945)年。九州・海軍鹿屋基地に配属されていた石丸少尉に、5月21日、
    とうとう出撃命令が下った。午前10時。出撃直前に、何を思ったか石丸はグラブとボール
    を持ち出した。そして、元チームメイトで、法政大学野球部で一塁手をつとめていた本田
    耕一少尉に、キャッチボールの相手をつとめてくれるよう頼んだ。
     石丸はそれから約30分の間、黙々と本田を相手にピッチングを繰り返した。本田の言に
    よれば、「現役時代と球威は少しも変わらない。一球一球に思いを込めていた」投球だった。

     最後のストレートを本田のグラブに投げ込むと、石丸は用意していた鉢巻きを締めた。
    そこに書かれた言葉は「我、二十四歳にして尽きる。忠孝の二字」。
     愛機に搭乗した石丸は、3機編隊の編隊長として先頭を飛んだ。基地上空を旋回すると、
    遺品として鉢巻き、グラブ、そしてボールを順番に落として飛び去った。
     そして、激戦の沖縄上空で散華した。
    残された遺書には、「もう一度、後楽園球場で投手板に立ちたい」と書かれていた。


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