烈な印象を残した外国人選手は数あれど、この選手は最右翼であろう。
今でこそ現役大リーガーが来日することも珍しいことではないが、昭和52(1977)
    年に中日入りしたウィリー・デービスは、当時としては考えられないほどの実績を
    引っさげて登場した。

     1960年にドジャースの一員となると、14年間レギュラーで活躍し、その後エク
    スポズ、レンジャース、カージナルス、パドレスに移籍した。
     大リーグ17年間の通算成績、.279、本塁打182、打点1079、盗塁396とい
    う素晴らしいものである。おまけに、ワールドシリーズに3度、オールスターにも2
    度選ばれた、現役パリパリのビッグ・ネームだったのだ。

     これほどの大物が日本に来るというのは考えられなかったが、デービスが契約
    でゴネて、とうとう自由契約になったところをドラゴンズがかっさらった、というところ
    らしい。これは後年のヤクルト・ホーナーも同じパターンである。

     しかし、このデービス、メジャーの誇り高く、日本の風習になじまないこともあって
    名うてのトラブル・メーカーと化した。
     いきなり来日予定日に遅れてしまう。これは家族のビザがとれない、ということ
    だったが、来日してキャンプに参加するも4日でアメリカに帰ってしまう。エミー夫
    人が風邪をひいたとかでハワイに行っていたというのである。練習でも完全なマイ
    ペースであり、休日の打撃特訓の約束も、「休みに練習なんかしない」とすっぽか
    す有り様。

     他にも奇行だらけで、宿舎では早朝から日蓮宗(あの「南無妙法蓮華経」)
    を大声で唱え出すものだから、他の選手もびっくり。それが毎日なのである。
    実のところデービスは、かなり熱心な日蓮宗の信徒で、自分の子供にも日蓮上人
    からとって「ショーニン」(shonin)と名づけるくらいなのだ。日蓮宗のことがあった
    から来日したのではないか、という憶測があったくらいだ。

     日本の大きな湯船をアメリカ風に石鹸だらけにして使い、選手の顰蹙を買うと、
    今度は使ったあとに栓を抜いて空っぽにしてしまう(^^;)。記者のインタビューで
    も、ロッカーでオールヌードで応じるなど、日本人は面食らってしまった。
     まあ、これはデービスにも言い分はあって、メジャーのロッカールームなんて、み
    んな裸でいますもんね。最近になって、女性のレポーターの入室を許可したヤン
    キースなどのロッカーあたりは、こういうことはなくなってるみたいですけどね。

     でまた、日本の野球や風習を見下しているところも多少なりともあったものだから
    当時のチーム・リーダーだった高木守道と大喧嘩した、なんて話も伝わっている。

     ただ実力的にはやはり大したもので、随所にメジャーらしさを見せてうならせた。
    思い出深いのは5月14日、ナゴヤ球場での巨人戦。3−2と中日がリードして迎
    えた7回裏ドラゴンズの攻撃。
     二死満塁と高橋良昌投手を攻めて、打者はデービス。ここで投手は西本聖に代
    わったが、その西本のストレートを捉えたデービスの打球はライト上空に上がった。
     右翼手・二宮は背走を重ねて飛びついたが及ばず、打球はフェンスに当たった。
    転んだ二宮のカバーに回った柴田勲中堅手がボールを中継の王貞治一塁手に
    転送、王が捕手の吉田に投げようとした時には、既にデービスはホームインして
    いた。
     なんとランニング満塁ホームランである。

     「オレが二塁走者の時は単打でホームを踏み、オレの前に打球が飛んだら二塁
    走者はホームで刺す」と豪語するだけあって、その俊足・強肩ぶりも発揮した。
    センター前にゴロで転がる二塁打も筆者自身2度見ているし、その肩で走者を刺
    したこともたびたびあった。

     が、なにしろ気分屋であり、気がのらない時の怠慢プレーは目に余るものがあっ
    た。さらに、同僚のトーマス・マーチン選手を3A選手と見下して相手にせず、マー
    チン自身もデービスに対してかなり萎縮していたようだった。

     そのデービスに不運が舞い込む。8月2日の広島戦(広島球場)。センターに飛
    んだ大飛球を追いかけたデービスは、フェンスにぶつかりながらこの打球を好捕
    した。が、その時にフェンスに左手をぶつけてしまい、手首を骨折してしまったのだ。
    この時点でのデービスの成績は、72試合288打数88安打.306、本塁打25、
    打点63であり、かなりのものだった。
     が、デービスが抜けて以来、目に見えてドラゴンズが好調になり、最下位あたり
    をウロウロしていたチームが3位にまで上がった。さらに、デービスに萎縮してい
    たマーチンが爆発的に打ちまくったのである。

     実力的にはいかにも惜しいが、中日首脳はデービスが在籍することによるマイ
    ナス面が大きすぎるとして自由契約にした。翌年、クラウンライター(西武の前身)
    に入団したがその年限りで日本を去っている。
      日本での通算成績。
 77年 72試合 288打数 88安打 .306 本塁打25 打点63 盗塁10 三振18
 78年127試合 509打数149安打 .293 本塁打18 打点69 盗塁12 三振24
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    199試合 797打数237安打 .297 本塁打43 打点132盗塁22 三振42

     この成績を見て気づくのは、三振の少なさである。年間100試合出ていて三振
    が20前後というのはかなり少ない。日本人選手でも、かなり少ないはずだ。まして
    外国人選手では、横浜大洋にいたフェリックス・ミヤーンがこれに近いくらいで他
    には見当たらない。
     ミヤーンはコツコツ当てる打者だからわからないでもないが、デービスは長打力
    もあるのに三振が少ないのだ。早打ちということもある。四球は2年間で22。
    それにしても2年で44三振というのは少ない。審判の判定にカリカリしたことなど
    なかったのだろうか?



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