監 |
督は選手を選べるが、選手は監督を選べない。プロ野球に限らず、上司と
部下の関係はどこも似たようなものだが、昔はなかなかすごい話があった。
本題の前に、中日ドラゴンズであった事件を書く。
昭和39年秋、球団改革を進めていた中日は、新監督に生え抜き以外のOB
を招くことに決めた。そして、翌日に記者発表という段になって、その前夜に
その案を選手へはかったのである。
選手は、中利夫(後に監督)派と江藤慎一派の二派に別れ(!)て協議し、
そのそれぞれから「次期監督は西沢道夫氏(生え抜きで温情派)にお願いし
たい」と要望があった。驚いたことに、球団はその要請を飲んでしまうので
ある!
これで強くなると考える方がどうかしている。ちなみに、この時、フロントが
考えていた監督とは、後に監督就任し、昭和49年に20年振りの優勝をもた
らすことになる与那嶺要であった。
さて、本題に戻ろう。監督排斥事件である。
昭和41(1966)年10月14日。場所は西宮球場。主人公は西本幸雄。
西本が阪急監督に就任したのが昭和38年。以降、6位、2位、4位、5位と
チームは相変わらずパッとしない。
西本は、鉄拳も辞さぬ熱血監督として知られる。今の解説者姿を見ている
と、優しいおじいちゃんというイメージだが、後の近鉄監督時代も、羽田や栗橋
といった主力選手たちに容赦なく鉄拳を振るっている。白髪のおじいちゃんの
時でさえそうなのだから、若かった頃はギラギラしていたのだろう。
そんな西本は、チームがピリッとしていない、オレに反発している選手もいそ
うだ、と感じていた。そして昭和41年のシーズンも終了した。阪急は5位に終
わっていた。彼はある考えを持って秋季練習に臨んだ。
西本は、秋季練習初日の冒頭に、選手全員を集めてとんでもないことを口に
した。
「俺を信用できると思っている者は○を、もうついていけないと思う者は×を記
入してくれ」
と言って投票用紙を渡した。選手はもちろん、コーチ陣もびっくり仰天。西本は
自分の信任投票をやってくれ、と言ったのである。
そしてその結果は・・・。
○、つまり信任が32票、×、不信任は11票、白票が4票であった。
西本はその結果を見て覚悟を決めた。監督不信の選手が11名もいてはとても
やっていけない、と辞意を表明することにした。白票の4票を不信任予備軍と考
えても過半数は信任だ、との見方もあるが、チームプレーが基本の野球という
競技において、1/3が監督を不信に思っていたと考えれば、西本の気持ちも
わかろうというものだ。
球団は慌てて後任監督の人選を急ぎ、西本にもその相談をしていた。
それまでこの件には全くのつんぼ桟敷で、寝耳に水だったのが、名オーナーと
して名高い小林米三オーナーだ。
チームの再建には西本しかいないと見ていたオーナーは、だからこそ、ここ
数年の不振にも敢えて目をつぶっていたのだが、いきなりこの事件が起こった
ので大層驚いた。
慌てて、「どれだけかかっても良いから西本を慰留せよ」とフロントに指示を下す
と同時に、選手やコーチたちには「あの事件のことは口外法度とする」と厳命した。
オーナーのこの姿勢に加え、フロントの全面的バックアップ。ここまでされては人情
に篤い西本が感動したろうことは、想像に難くない。
オーナーの意気に打たれた西本は、秋季・春季と猛練習を重ね、見事に翌昭和
42(1967)年に、阪急を初優勝に導いたのだ。
今では考えられない事件なれど、さて、あの球団のあの監督の信任投票をやった
ら、不信任だらけじゃないかな、という人もいますねぇ(^^;)。