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めての外国人監督が誰かご存じだろうか。それが今回の事件の主役であるジョー・ルーツである。
まず、ルーツ監督就任について遡ってみよう。昭和49(1974)年、巨人の連続優勝が中日によって
阻まれたこの年、広島は3年連続最下位に沈んでいた。指揮を執った生え抜きの森永勝也は、責任を
とるとして僅か1年で辞任した。当時、コーチに請われていたルーツもこの年限りで退団するつもりだった
らしい。2年契約だったが、シーズン終了後に、記者や通訳に、「もう球団は自分を必要としていない」と
述べて、辞意を表明していた。
ところが、森永辞任の2日後、急転直下で次期監督にルーツが指名されたのだ。
当時、広島は、日本球団としては非常に珍しく、親会社から完全独立して独立採算性を執っていた。
すなわち、赤字ならモロに球団運営に響くのである。親会社からの穴埋めが期待できないからだ。
本社から球団に送り込まれた重松代表は、本社・東洋工業の経理課長だった。ところが、お飾りのような
他球団重役と異なり、重松は就任翌日から、毎朝9時に球団事務所へ赴き、球団運営に熱意を示した。
彼が得た結論は、チームを強化してファンを呼び戻すことだった。そして、その任務に適任だと判断したの
がルーツだったのである。名代表と言えよう。
そこまで期待されていると知ると、ルーツは翻意し、監督に就任した。ルーツはドライかつ徹底的にチーム
強化に走った。生え抜きの渋谷一塁手、上垣内内野手を放出して、日本ハムから大下剛史二塁手を獲得。
さらに大石弥太郎、白石静生両投手を出して、阪急から宮本幸信、児玉好弘、渡辺弘基各投手を入団させ
る。ルーツ補強はまだまだ続く。安仁屋荘八投手と、阪神・若生智男投手の交換もやった。
これだけに派手に選手補強を加え、さらに自分と対立していた、これまた生え抜きで大OBだった長谷川
良平投手コーチを更迭してのけた。ルーツの本気さがうかがえる。
そして外国人補強。ルーツ自ら渡米して、日本野球に合うとして引っ張り込んだのが、ホプキンスとシェーン
だった。これも見事に大当たりだったのはご存じの通りである。
そして、これもファンなら誰もが仰天したことに、衣笠のコンバートがある。衣笠祥雄と言えば、当時は守備
なら王貞治以上と謳われた、カープの主力選手である。連れてきたホプキンスが一塁しか守れないことから
衣笠を動かすことにしたわけだが、これもかなりの決断が必要だったはずだ。それでもルーツは、命令で従わ
せることはしなかった。衣笠に実情を打ち明け、自分で判断して欲しいと委ねたのである。3日考えた衣笠は
コンバートを了承した。結果として、衣笠がリーグを代表する名三塁手になったのも周知のことだ。
あと、これは案外知られていないようだが、今のカープのカラーである赤。これはルーツが決めたことなの
だ。真っ赤な帽子にCのマーク。この赤は日の丸から連想したとルーツは言っている。
さて、例によって前振りが長くなったが、いよいよ本題に入る。時は昭和50(1975)年4月27日。カープは
阪神と戦うために甲子園球場へ赴いていた。この日はWヘッダーで、問題はその第一試合であった。
双方の先発投手のデキが良く、0−0のまま8回裏タイガースの攻撃に入った。すでに2死をとられていたが、
二塁にアルトマン、一塁に池田をおいて、打席には7番の掛布雅之三塁手が入っていた。好投していた広島・
佐伯は、カウント2−3からイン・ローのカーブを投げ込んだ。微妙なボールだったが、主審の判定は「ボール」。
顔を真っ赤にしてベンチを飛び出したルーツは、松下球審に詰め寄り、そのままバックネットまで押しやってし
まう。
ここで間に入ったのが一塁塁審の竹元。彼はこの試合の責任審判である立場から、割って入ったと述べて
いる。ところがルーツは受け入れない。自分は球審に抗議しているのであって、塁審のおまえには関係ない、
というわけである。そこまではいいとして、その竹元塁審を手で突いたのがよくなかった。竹元は、待ちかま
えていたかのように、ひと言「退場!」を宣告した。
この竹元の行動には裏があったと見る人もいる。実のところ、ルーツはセントラル審判団から「要注意人物」と
してマークされていたのである。三塁コーチをやっていたルーツは、たびたびボックスから出て指揮を執っていた。
当然、審判は「ラインから出るな」と言う。しかしルーツは、コーチャーズ・ボックスから出てはならないというルー
ルが明文化されていないことを楯に取り、これに従わなかった。さらに、抗議の時、通訳が一緒に飛び出ると、
「おまえは来るな」とベンチに返してしまい、英語で審判をまくし立てることをしている。
ルーツにはルーツで考えがあり、ここまで6勝8敗とチームが不振で、選手に活を入れるために、敢えて審判
に厳しくあたると言っていたらしい。さらに、これはルーツの被害妄想だと思うが、「審判がカープに不利な判定
を下している」と思っていたらしい。それやこれやで、ルーツと審判の関係は、かなり悪化していたと見ていいだ
ろう。
そこにこの事件。竹元が、いつか退場にしてやろうと狙っていた、というのは邪推だろうか。
事件に戻ろう。退場宣告を下されたルーツだったが、一向にベンチに下がろうとしなかった。ホームベース上
に踏ん張り、審判が何を言っても聞かない。「このままだとカープの放棄試合で0−9の負けになる」と言って
も動じなかった。「審判の不手際なのだから放棄試合もやむなし」というのである。
困り果てた審判団は、ちょうど記者席で観戦していた重松代表に泣きついた。審判に乞われては無視も出
来ず、代表はグラウンドに降りてルーツを話す。すると、意外にもルーツはあっさり引き下がって、試合が続行
された。
しかし、話はこれで終わらなかった。
第二試合の前、ロッカーに選手を集めたルーツは、「今後、カープの指揮は執らない」と宣言した。事実上の
辞任発言である。その言葉にウソはなく、第二試合開始前に球場を後にした。
事態を重視した球団は、翌28日、29日と、ルーツと会談を持った。都合3度にわたり、重松自身が慰留に
つとめたが、ルーツの意志は固かった。ルーツの言い分は、契約の際、グラウンドでは監督に全権が与えられ
るとしていたのに、28日の試合で、代表がグラウンドに乗り込んで監督の権限を侵したということである。
重松本人は、これまでのルーツ改革を認めており、翻意を促したものの、実らなかった。
選手たちはどうだったかというと、これが複雑だったらしい。「選手には挑戦だの諦めるなと言っていたのに
自分はなんだ。敵前逃亡だ」という意見があったり、あまりにも独裁的なルーツ(冗談でなく「ヒトラー」という
あだ名があったらしい)に反発を感じている選手もかなりいたようで、ホッとした雰囲気もあったと伝えられる。
しかしファンは残念だった。帰国するルーツを見送るために広島空港に詰めかけたファンは500名を超え、
別れを惜しんだ大段幕や声援でルーツに別れを告げると、ルーツも涙をこぼしたという。この時、ファンが叫ん
だ「カープは絶対優勝する。日本シリーズには来日してくれ」という言葉がズバリ的中したのも印象深い。
ルーツの衣鉢を継いだ古葉竹織ヘッドコーチが、「ルーツの遺産」を活かしつつ見事に初優勝を遂げ、以降、
カープを常勝軍団に育て上げたのは記憶に新しい。
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