本のオールスターはつまんねぇなあ、と思ってるのは私だけではないらしいが、今年の
ゲームは、なかなかどうして面白かったですね(2001)。それでも、メジャーのオールスター
    に、イチロー&佐々木が登場したとあっては、霞んでしまうのもやむを得ない。
     イチローはかのランディ・ジョンソンから初打席でヒットを奪い、佐々木は見事にクローザーの
    役割を果たし、アメリカン・リーグの勝利に貢献しました。
     さて、このオールスターゲームの誕生について書いてはどうか、という御意見を掲示板で
    いただいたので、ちょっとそれをやろうと思います。私らみたいな野球オタクみたいな人には
    当然知っているという前提でいたので、当初書く気はなかったのですが、その意見を聞いて
    知らない人の方が多いのだと反省しました。これからも遠慮なく忌憚のない御意見をお願い
    したいところです。

     アメリカでオールスター戦が初めて挙行されたのは1933年のこと。この年は、シカゴで
    万国博覧会が開催されることになっていた。そのシカゴに、何とか全米の注目を集めようと
    苦心していた男がいた。地元紙シカゴ・トリビューン紙のアーチィ・ウォード運動部長である。
     そんな時、トリビューン紙にシカゴ市内のある少年からの投書が来た。それに目を通した
    ウォード部長は、「これだ!」と叫んだ。

     少年の投稿の中身はこうだ。「カール・ハッベルが投げ、ベーブ・ルースがそれを打つ。
    そんなゲームが見たい」。
     ジャイアンツのエース・ハッベル投手は、左腕から繰り出すスクリューが武器の、ナショナル・
    リーグを代表するピッチャーだ。1929年にはノーヒットノーランを記録し、この33年には延長
    18回を完封勝利するなど、国民的ヒーローだった。
     一方のルースは、日本でも説明の必要のない全米のアイドルだ。数々のホームラン記録を
    打ち破り、1927年には60ホーマーを達成している。1919年のブラックソックス事件の悪夢
    を蹴飛ばし、野球人気復活の立て役者である。

     しかし、ハッベルはナ・リーグ、ルースはアメリカン・リーグであり、ワールド・シリーズにでも
    ならなければ対戦はあり得ない。だからこそ、野球ファンの誰もがみたい対戦であることも
    また事実だった。ウォードは是非とも実現したいと思った。難関であった。

     ウォードが考えたのは、ファン投票による両リーグのベストナインを選出し、彼らによるゲーム
    を実行することだ。問題なくハッベルやルースは選ばれる。
     このアイディアを聞いた時のコミッショナーであるケネス・M・ランディスは難色を示した。
    発想としては面白いが、両リーグの選手が集ってオールスター戦を行なうことは、メジャー
    最大のイベントであるワールド・シリーズの権威を貶めるものである、と考えたからだ。

     ならば、とウォードは今度は球団サイドから攻めた。オーナーたちに働きかけたのである。
    ファン投票にすれば、自分の球団のどんな選手に人気があるのか一目瞭然だ。当然、球団
    の宣伝にもなる。さらにゲームの収益は、選手の厚生基金に充てたらどうかという意見も
    つけた。これが効いた。
     まず選手の側から賛同の声があがり、続いて各オーナーたちも賛成した。こうなるとコミッシ
    ョナーだけ反対しているわけにも行かず、大リーグのもうひとつの売り物にすればよいと思い直
    した。それに、今年一年限りで終わるかも知れないではないか、ということもあった。正直な
    ところ、企画したウォード運動部長にしたところで、元はといえば万博前夜祭みたいな意味合い
    があったから、今年一回限りのつもりだったのだ。

     こうして第一回のオールスター戦が挙行された。シカゴのコミスキー・パークには、大方の予想
    を大きく上回る47,563人の観衆が集まった。両軍の監督は、ナショナル・リーグには元ジャイ
    アンツの名物監督であるジョン・マグロー、アメリカン・リーグは長老と呼ばれたアスレチックスの
    コニー・マックが務めた(当時は前年優勝監督ではなかった)。
     試合も、期待に違わぬ熱戦となり、少年の夢だったハッベル対ルースこそなかったが、そのルース
    がオールスター第一号ホームランを放つなどして、ア・リーグが4−2で勝利した。

     約束通り、収益金から45,000ドルが選手会に回されて選手も大喜びした。オーナーたちも、
    これだけ客が入るのであれば、各地持ち回りで開催してはどうかと提案し、かくてこの年限りの
    はずだったオールスターは、戦争による中断の1945年と、あのストライキで中止になった1994
    年以外は毎年行なわれた。

     さて、大リーグではこのような経緯から開催されたのであるが、さて日本はどうだったのだろうか?
    セパ両リーグに別れてのオールスター戦は、昭和26(1951)年からだが、元祖は東西対抗戦
    であろう。これは昭和12(1937)年に挙行された。もちろん、アメリカのオールスター戦のアイディア
    を拝借したのである。8チームを東西にわけ、どちらかが2勝するまで戦うものだった。現在の3戦
    制度は、これから来ているのかも知れない。
     ただし、出場選手の選出はファン投票ではなく、6名からなる審査員によるものだった。この第一回
    東西対抗は、3試合とも甲子園球場で行なわれ、東軍・沢村栄治(巨人)の3連投(!)も虚しく、
    2勝1敗で西軍が勝っている。
     昭和26(1951)年のオールスターからは、ファン投票並びに監督推薦、さらには記者投票に
    よって選手が選ばれている。

     ところで、日本ではたびたび問題になる組織的な大量投票問題はメジャーにはないのだろうか?
    結論から言うと、組織票というのはない。これは制度的な問題ではない。今年のイチローの獲得
    票数から見てもわかるだろうが、最高得票者は実に400万票くらい入るのである。これだけあって
    は、少々の組織票は問題にならない。10万票あっても、大した意味がないのだ。
     もっとも、大リーグも当初はかなり組織票問題があった。実力的には大したことがないが、人気
    だけはあるという選手が選ばれてしまう、という日本のようなことはやはりあった。しかし、上記の
    通りの大量票になると、それが無意味になってしまうのである。日本もこうなるのがベストだろう。
     ただ日本の場合、別に組織票でないのに、特定球団や特定選手に票が集まってしまう傾向が
    あるので、なかなかアメリカのようには行かないだろう。



*1  ブラックソックス事件
     1919年、大リーグというより全米を揺るがした八百長事件。ホワイトソックスの選手が、
    こともあろうにワールドシリーズにおいて八百長したことが判明、8名の選手が永久追放
    処分となった。ホワイトソックス・ファンの少年が、憧れの選手に向かって「ウソだと言ってよ、
    バーニィ!」と叫んだ一言がアメリカの野球ファンの気持ちを代弁していた。

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