岡達郎。巨人の名ショート時代を知る人は、もはや少なかろうが、お荷物球団だったヤクルト
を初優勝させ、西武に移ってからは、その常勝監督ぶりで、野球ファンなら誰でも知っている
    著名野球人である。監督時代後半からは、シニカルな面ばかり強調され、選手には肉抜き食
    を奨励(というより命令)しておきながら、自分は中風に罹るなど、あまり良い印象はなかった。
    それでも、筆者としては名監督のひとりとして是非あげておきたい。
     その広岡達郎、現役時代のエピソードである。

     まず現場から再現しよう。時は昭和39(1964)年8月6日、場所は神宮球場、カードは
    国鉄−巨人戦である。国鉄先発は、巨人戦に闘志を燃やすエースの金田正一。この試合でも
    金田の左腕は冴え、巨人打線をピタリと抑え、6回を終わって2−0で国鉄リード。
     そして巨人の反撃は7回表から始まる。この回先頭の4番・長嶋茂雄三塁手は金田の速球
    を捉えると、見事にレフト線へ叩きツーベースを放った。続く5番の柳田俊夫右翼手の二塁ゴロ
    で三進。迎える打者は6番の広岡達郎遊撃手だ。しかし金田はまったく動ぜず、初球、2球目
    とストライクを放り、あっというまにツーナッシングに追い込んだ。ここで事件が起こる。

     金田が3球目を投げると、なんと三塁走者の長嶋がホームへ向かって走り出したのである!
    無論、スクイズのサインなど出ていない。長嶋のホーム・スチールだ。しかし本盗など滅多に
    成功するものではない。ものの見事にタッチ・アウト。呆然とする広岡。さらに広岡は4球目を
    気のないスイングで空振りして三振。巨人のチャンスは潰え、試合もそのまま負けた。
    広岡の気持ちはいかばかりか。「そんなにオレが信用できないのか」。打席からベンチに戻った
    広岡は、怒りにまかせてヘルメットを、そしてバットを叩き付けてそのままベンチを出てロッカー
    へ戻り、あろうことか球場をあとにして帰宅してしまった
     あの広岡さんでも、駒田みたいなこと(^^;)やってたんですねぇ。

     ちなみに広岡は、この後すぐに2軍行きを命じられ(この辺も駒田と同じだ)、兼任コーチという
    肩書きも外され、このシーズンは1軍復帰することはなかった。

     さてこのホーム・スチール、果たしてベンチのサインだったのだろうか? この件に関して
    書かれたいくつかの書物を紐解いてみると、例外なくサインではなかったとしている。
    長嶋自身の証言もあるし、そもそも1死三塁で2点差である。広岡が思ったように、打者を信頼
    していないのであれば代打を起用すれば良いだけのこと。なにも2点差で無謀な本盗を試みる
    価値はないだろう。そしてスクイズのサインも出ていなかったことが確認されている。

     つまり長嶋の独断だったわけである。金田への揺さぶりという意味も含め、とにかく1点欲し
    い、という観点から走ったということだ。いかにも無茶だし、さすが長嶋(^^;)と言えないことも
    ない。ちなみに長嶋の盗塁は、271回試みて成功190,失敗71で成功率7割0分1厘と、
    かなり高いのは確かだ。巨人選手の中でも、歴代4位という見事なものだ。まあ、ホーム・スチ
    ールに限って言えば、6回走って2回成功の、成功率3割3分3厘。低いには低いが、広岡の
    打率よりは高いという見方も出来ないではない。

     広岡としては心中穏やかでないことはわかるが、沈着冷静な紳士で通っているエリートには
    ふさわしくない態度ではある。しかし伏線はあったのだ。
     実は2日前の8月4日の国鉄戦で、ほぼ同じような事件があった。
    やはり国鉄が2点リードして迎えた7回表の巨人の攻撃。2死ながら三塁に長嶋がいて、打者
    は広岡。国鉄のマウンドにいた半沢士郎投手が、簡単に広岡をツーナッシングに追い込んだ
    3球目。なんと長嶋がホームへ走ったのだ。広岡は唖然として見送った。そして平岩嗣郎捕手
    はタッチしなかった。ではホーム・スチール成功かというと、そうではない。ルールを思い出そう。
    この場合、第三ストライクを捕球した時点で3アウトチェンジになってしまうのである。この時の
    投球がボール球であれば本盗成功だった可能性もあるが、ストライクでは仕方がない。
     しかし、この走塁のせいで広岡が打てなかったことだけは事実である。

     いかがだろうか、こんなことを続けてされたら、どんなにおとなしい人でも怒るのはムリはない
    のではなかろうか。人一倍プライドの高い広岡であれば、激怒するのも当然だろう。
     無論、これはどういうことかと首脳陣に問いただせば真相はわかるのかも知れないが、当時、
    監督は雲の上の人であり、普通の選手はまともに口など聞けないし、采配について口を出すなど
    もってのほかである。まして川上哲治というひとは、そういうことをいちいち説明する人ではなかっ
    た(そうだ)。
     ただ、これは長嶋の独断であり、ベンチの采配無視という面もあったのだから、長嶋を叱責し
    ていれば、広岡も納得はしたはずである(そりゃ長嶋に対しては不信感を持つだろうが)。
    それを巨人は、川上はやらなかった(少なくとも表向きには)。
     従って、「やはりあれはサインではなかったのか?」「川上は広岡を信頼していない」という話
    が出てくるわけだ。

     では、広岡はそれほど打てなかったのか。通算成績を書けば、在籍13年で2割4分、117
    本塁打である。新人の年は3割1分1厘、15本塁打と打ちまくり、新人王のタイトルを獲得して
    いるが、以降、3割を打ったことは一度もなく、打撃ベスト10に顔を出したのも13年中わずか
    2度に過ぎない。長嶋と組んだ鉄壁の三遊間の守備はともかく、確かにバッティングにはあま
    り期待は出来なかった。そのことは広岡自身がいちばんよくわかっていただろう。だからこそ、
    あの2度のホーム・スチールはベンチのサインに違いないと思ったのだろう。

     もちろん、こう公然と反発されては、管理者たる川上とて面白くない。9連覇前の巨人は1年
    おきの優勝に甘んじており、川上としてもチームを引き締める必要がある。間の悪いことに、
    広岡はちょうどこの頃、知り合いの記者に懇願されて週刊誌に連載記事を持つことになった。
    インタビュー形式で広岡がしゃべったことを記者がまとめる形なので、広岡が直接執筆したわ
    けではなかったが、その中でベンチの采配を批判する内容をしゃべったのである。広岡として
    は悪意はなく、純粋に巨人を愛する気持ちからだったということだが、タイミングが悪すぎた。

     川上は広岡を、造反およびチーム機密の漏洩(週刊誌記事)を犯したと判断した。チーム内
    の和を乱し、いち選手の分際で監督批判までやってのけた許し難い存在になったわけだ。
    といっても広岡は、衰えたりとはいえ長嶋・王と並び称する看板スターだ。早稲田大時代から
    神宮のスターとして鳴らし、名門・巨人でもスター街道を歩み続けただけに、東京では絶大
    な人気を誇る選手だ。おいそれとクビにも出来ない。となると出来ることはただひとつ。
    トレードである。秘密裏に話は進められ、昭和40(1965)年のキャンプに入った。

     しかし広岡はそのことを何も聞いていない。知り合いの新聞記者に教えられて仰天した。
    相手が近鉄ということまで決まっているというのに、本人には何も知らさないとはどういうことか。
    チームがオープン戦で九州へ行っている時に、広岡は東京へ戻り、正力亨オーナーと、大正力
    こと初代オーナーの正力松太郎へ直訴した。「トレードしないで欲しい。巨人の広岡として
    死なせてくれ」と。
     巨人選手として死にたいと訴える広岡の意気を感じた松太郎は、即座に広岡残留を決定、
    川上に伝えた。今度は川上が呆気にとられる番である。拍子抜けと言ってもいい。おまけに
    オーナーの意向で、仲直り食事会なるものまで催された。川上と広岡、そしてコーチング
    スタッフによる宴会というわけだ。話はちょっと脱線するが、巨人という球団は、こういう茶番
    が本当に好きなようである。西本聖投手と皆川投手コーチの確執が問題になった時も、
    フロントの示唆で仲直りゴルフなるものをやらされている。大の大人が、こんなもので和解
    できると考える方がどうかしている。形だけ作れば良いとでも思っているのだろうか。
    バカバカしい話ではないか。

     オーナーの肝煎りがあったとなれば、川上としても放出は出来ない。とはいえ、火種が燻る
    のは当然である。それでも広岡が、川上に有無を言わせぬほどの活躍が出来れば問題は
    なかったが、そうは世の中甘くない。この年(昭和40年)は103試合に出場、.229に留まっ
    た。さらに翌昭和41(1966)年は、わずか11試合のみに出場、打率1割9分に終わる。
    この成績では巨人に残る理由もない。シーズンオフに寂しく引退している。

     この後、広岡は評論家の道を歩むわけだが、川上の広岡排斥は徹底していた。キャンプ
    取材でアメリカ・ベロビーチに来た広岡だったが、なんとグラウンドに入れない。球団関係者
    以外はお断り、というわけだ。外から見ようとしても、広岡が来ると「練習やめ」の指示が飛ん
    だ。この命令、川上がいない時でも行なわれたというから驚く。無論、選手やコーチも、広岡
    との接触は堅く禁じられた。おまけに、敷地内のホテルの宿泊すら禁じられたというから、
    これはもう執念に近いものがある。
     例外は親友だった森昌彦(現・横浜監督)捕手のみで、その森にしても「なぜ言いつけを
    破って広岡に会うのか。サインを漏らしているのではないか」という疑いをたびたび掛けられた
    という。

     もっとも、このふたり、後ほど和解している。3年の評論家生活を終え、根本睦夫に呼ばれ、
    広島のコーチを2年務めたあと、広岡本人が川上に電話して直接会い、凝りは消えたとされ
    ている。その証拠になるかどうかわからないが、広岡野球は川上のそれに酷似ている、とい
    う意見が一般的だ。徹底した管理体制がそれだというわけだ。
     ただ、長嶋に関してはどうかなあ。広岡さんて、どう見ても長嶋が好きなようには見えません
    よね。あの件だけではないと思うけど、ソリが合わないのかも知れないですね。

  P.S.
     この件で、面白い見方をしている人がいる。川上監督の茶坊主的存在だったT氏(さすがに
    仮名にさせてください(^^;))である。この人の主張は、「あのホーム・スチールの件は、広岡
    さんの深謀遠慮があったのではないか。つまり、長嶋独断として長嶋を責めてもあまりおいし
    くはない。大スターたる長嶋を必要以上に敵視すれば、むしろ状況は自分に不利になる。
    それよりも川上監督のせいとして批判し、評判を落とせば、今度は自分に監督の目が出て
    くると思ったのではないか」というものである。さすがにうがちすぎだと思うんですがねぇ(^^;)。
    というか、さすが茶坊主ってところかな(^^;)。

  P.S.2
     広岡ものの本の中で、筆者がもっともお奨めするのは「巨人を超えた男(著・越智正典)」・
    恒文社である。読みやすく平易で、くまなく事件事象を拾ってフォローしている。この事件を
    含め、裏話的なことも盛りだくさんの好著。もっとも、もう廃刊になってることは確実だなあ。
    文庫化してもらうか、図書館にでも行かなきゃ読めないかも。


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