代的なチームとして誕生したオリックス・ブルーウェイブ。ユニフォームといい、経営する親会社と
いい、良い意味でも悪い意味でも現代的なチームである。身売り前のチームの顔だったエース・
    星野伸之投手はセントラルの阪神へ移籍、そしてオリックス時代の大スターだったイチローは、夢
    だった大リーグへと渡っていった。これから先、果たしてどのようなチームに生まれ変わるのか、
    注目の集まるところだ。

     さて、このオリックスの前身チームである阪急ブレーブスは、オリックスとはまるで異なり、初期の
    ユニフォームの色も相まって、「灰色のチーム」と呼ばれていた。チームは弱く、選手も集まらず、
    当然勝てないため、お客も来ない。まさに灰色のチームだった。その阪急を基礎から建て直したの
    が西本幸雄であり、そのチームに確固たる強靱さを加えたのが、名将と名高い上田利治である。
     投手に山田久志、足立充宏、山口高志、野手に加藤秀司、R・マルカーノ、福本豊らを揃えた
    チーム力は抜群で、昭和50年代最強の布陣と言って差し支えないだろう。
    このメンバーを持って、上田監督率いるブレーブスは、昭和50年にパシフィックで優勝、日本シリーズ
    で広島を撃破して以来、3年続けて日本一に輝いた。特に、昭和51(1976)、52(1977)年は、
    念願だった巨人を打ち破っての連覇だっただけに喜びもひとしおだったろう。

     問題のシリーズは、その翌年、昭和53(1978)年。対戦相手は、セントラルで初優勝を果たした
    広岡監督率いるヤクルト・スワローズである。
     新たな名門ブレーブスに、知将に統率された新興チーム・スワローズとの対戦は、戦前の予想に
    おいては圧倒的にブレーブス有利であった。当然であろう。
     しかし、スワローズは堅さを見せることなく、のびのびと戦い、ブレーブスと五分に渡り合った。そ
    して、誰もが予想しなかった3勝3敗の五分となり、大一番の第七戦が後楽園球場で行なわれるこ
    ととなったのだ(10月22日)。

     エース・山田を前日のゲームで使ったため、ブレーブスはこの一戦を大ベテランの足立光宏投手
    に託した。もう後がない、というゲームで決まって登板を命じられるベテラン投手は、この大事な試合
    でも見事な投球で強打のヤクルト打線を封じていた。一方のスワローズも、エースの松岡弘投手が
    登板し、阪急打線を料理する。0−0のまま緊迫した試合が続いていく。
     そして5回裏にヤクルトが、2死2塁のチャンスをつかむ。ここで打順は、ヤクルト優勝の立役者であ
    る、トップバッターのヒルトンだ。しかし、冷静な足立はヒルトンの強打を許さず、内野ゴロに仕留めた。
    しかし、後楽園の人工芝、打球が高くバウンドする。ブレーブスの二塁手・ロベルト・マルカーノは必死
    に打球に飛びつき、一塁へ好返球を返した。きわどいタイミングだったが、塁審の判定は「セーフ」。
     この判定に激昂した加藤秀司一塁手が、塁審に猛抗議している間に、走者は一気に生還した。
    この場合、プレーは続行中なのでこれは加藤のボーン・ヘッド。抗議するならタイムを要求するべきだ
    った。これがケチのつけはじめだったのかも知れない。

     そして迎えた6回裏ヤクルトの攻撃。1死後、打席に立ったのは主砲・大杉勝男一塁手だ。
    ブレーブスのマウンドを守るのは相変わらず足立。5回に不運な失点がったが、調子そのものは悪く
    ない。カウント1−1からのシュートを捉えた大杉の打球は、ぐーんと伸びてレフトスタンドへ向かった。
    ポールすら越える大飛球となったが、それだけに打球の判定が難しかった。
     しばらくの躊躇の後、レフト線審の富沢宏哉審判は右手を大きく回して「ホームラン!」。大杉は
    大喜びで飛び跳ねるようにダイヤモンドを回りだした。

     血相を変えて抗議に飛び出したブレーブス・ベンチ。中でも上田監督は先頭に立って猛烈に抗議
    した。レフトを守っていた箕田浩二左翼手も「どこを見ている!ファールじゃないか!」と猛抗議。
    さらにレフトスタンドの観客の中からも「今のはファールじゃないの」という意見が多かったそうだ。

     一方、マウンドの足立は別の観点からファールと見ていた。理由は2つあった。ひとつは、大杉に
    打たれたのはファールを誘うためのシュートのボール球であり、どううまく打ってもファールになるはず
    だ、という経験値からのもの。そしてもうひとつは客観的な理由だった。
     足立は言う。「あれはファールですよ。ちゃんした証拠もあります」
     証拠?    「ええ、ヤクルトのベンチです」
     それは?  「あの時、私はファールになると思ってたのであまり打球は見てなかったんです。
             だから、逆にヤクルトのベンチを見てたんです。大杉君が打った瞬間、ベンチは総出
             で打球を見てました。その後、残念そうにまたベンチに戻ったんですよ」
     戻った…   「そうです。もしホームランだと思ったのなら、ベンチに戻る理由ないじゃないですか。
              その後、線審がホームランと宣告したのでまたベンチを出たんです」

     上田監督はそこまで知らなかったが、とにかくファールと見ていた。納得行かない。それに、この
    1点は致命的にすらなる可能性がある。抗議は執拗に続いた。守っていた選手たちも引き揚げさせ
    た。この抗議は10分や20分ではない。なんと1時間19分に渡ったのである!
     困ったのはTV局だ。放映していたのは日本テレビだったが、なんとこの抗議をずーっと中継し続け
    たのだ。当時、グラウンド・マイクもなく、いったいどうしてここまで揉めているのか、ファンや視聴者は
    わからない。

     同じく困った審判団も、何度も協議して、一度は阪急の没収試合をも検討したが、さすがに日本
    シリーズで放棄、没収試合にすることも出来ない。上田監督が出した妥協案、「富沢審判の退場、
    線審交代案」も、もちろん受け入れるわけにはいかない。

     球場関係者もリーグ関係者も困った。日本シリーズ最終戦のため、機構やリーグ首脳も多数集まっ
    ていたため、阪急サイドの球団代表やオーナー代理と、工藤パ・リーグ会長を挟んで話し合ったが
    結論は出ない。とうとうコミッショナーが登場、阪急側と協議の結果、事態収拾のため試合続行を
    決定した。が、上田監督は「ウン」と言わない。なんと金子鋭コミッショナーが上田監督に頭を下げ
    る、という事態まで発生したが、それでも上田監督は「NO」と断った。とうとう金子コミッショナーがキレ
    てしまい、「上田クン! 私がこれだけ頭を下げてもダメか!」と、禿頭に青筋を浮かべて激怒してし
    まう(このシーンや音声はTVカメラも捉えており、私もナマで見てました(^^;))。
     ここまで来てしまうと、逆に上田さんも折れるに折れにくくなってしまったのだろう。一方の金子さん
    はすっかりキレてしまって、コミッショナー裁定で試合を続行することを強行に決定した。

     こうなってしまえば阪急サイドも致し方ない。ゲーム再開の運びとなったものの、1時間半近い中断
    になったのだ。阪急の足立はもう投げられる状態ではなくなってしまった。急遽、左腕の松本正志投手
    を登板させたが、勢いに乗るヤクルトは、5番のチャーリー・マニエル右翼手が松本の速球をレフト
    スタンドへ運んで試合を決定づけてしまった。さらに8回、ホームランにケチをつけられた形になった
    大杉が、今度は文句のない見事な一発をレフトスタンド中段へ叩き込んでダメを押した。
     試合はこのまま4−0でヤクルトが阪急を押し切って4勝3敗とし、初の日本一に輝くこととなる。
    なお、この試合後、上田監督は辞表を提出、阪急監督を辞任している。


注釈:メールにてKまさんより、足立投手と松本投手の名前が違うのではないか、とのご指摘を受けました。
   調べ直した結果、指摘通りだったことが判明、謹んで修正させていただきます。Kまさん、ありがとうござ
   いました。

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