川事件最終幕。
昭和53(1978)年11月22日。予定通り、ホテル・グランドパレスにおいて、新人選手選択会議、
     つまりドラフト会議が開催された。前日の長谷川球団代表の発言通り、読売ジャイアンツはこの会議
     を欠席した。
      注目の江川に対し、一次抽選で南海、近鉄、ロッテ、そして阪神の4球団が重複指名した。
     4球団による抽選の結果、阪神が江川の交渉権を獲得した。この指名に対し、巨人は「巨人が
     欠席したドラフト会議は無効であり、従って阪神に江川交渉権獲得はない」と、コミッショナーに
     提訴した。

      この巨人の言い分がすごいじゃありませんか。勝手に「オレは出席しない」と言っておいて、会議
     の結果にケチをつける。しかも理由は「オレが出てないから」である。あまりにもバカバカしい意見
     なのでまともに反論する必要もないくらいだが、前述の佐藤教授は「予め会議の日程を知らされて
     おり、出席資格もあるにも関わらず、自らの都合や意志で欠席した会議の結論に不平を唱える
     資格なし」と述べている。当然であろう。

      しかし、態度を硬化した巨人は11月23日、「江川選手の地位保全」の仮処分申請を東京地裁
     へ提出
した。さらに、読売新聞、報知新聞、日本テレビなど、自らのマスコミ機関をフルに活用して
     「ドラフト改革」を主張し始めた。ドラフトの改革は無論必要ではあるが、あからさまに横紙破りをやっ
     てのけた読売グループに、改革を口にする資格はない。

      このあたりになると、セントラルの他球団もちょっと心配になってくる。まさか、リーグ脱退を本気
     でやるつもりじゃあるまいな、という危惧である。11月24日、自らを「巨人ファン」と公言して憚らな
     いヤクルト・松園尚己オーナー(こいつは、最下位になった長嶋・巨人にスワローズの主力投手
     だった浅野投手をプレゼントしたことでも知られる)が中心になり、緊急オーナー会議を開くものの、
     痛し痒し。巨人のしたことが許されることではないが、といって巨人にいなくなられても困る、という
     腰抜けぶりである。

      一方、金子コミッショナーは、両リーグ会長と三者会談を重ね、工藤パ・リーグ会長と鈴木セ・リー
     グ会長は大阪へ飛び、近鉄、南海、阪神サイドを話し合いを行なった。その間に巨人サイドは、弁
     護士をさらに5人増員して、法廷闘争に討って出る覚悟を決めた。
      なかなか出ない提訴状に関する回答に業を煮やした巨人は、12月12日、重大発表を行うと
     各マスコミに通達。しかし、会見は2度延期された上、急遽中止になった。裏には何があったの
     か?
      翌日13日、金子コミッショナーは、巨人・長谷川代表を呼び出して、再度事情聴取を行なった。
     そして、12月21日、コミッショナーは巨人の提訴状に対して裁定を下した。以下、全文である。

      裁定主文
        昭和53年11月21日、読売興業株式会社東京読売巨人軍が江川卓選手となした選手
       契約について、同日、セントラル野球連盟会長が、その承認を却下したのは野球協約に
       違反せず、撤回の必要性を認めない

       裁定理由
         1.読売興業株式会社東京読売巨人軍(以下、提訴球団という)の昭和53年11月21
           日付けでセントラル野球連盟会長がした承認却下処分の撤回を求める提訴(以下、
           甲提訴という)について、以下のとおり判断する。

         2.提訴球団は江川卓選手となした選手契約の有効性について種々主張するが、いず
           れも妥当性を欠く一方的かつ歪曲した解釈に立脚する誤った主張にすぎず、その主張
           を認める余地はない。


      いかがです。まさに「その通り!」と言いたくなる名裁定ですね。反論の余地なし、です。
     ただ、そのあとがいけなかった。

      名裁定を出した翌日、金子コミッショナーはとんでもない解決案を出した。12球団実行委員会の
     席上で、「巨人は江川を解き放ち、江川は速やかに阪神との交渉を受けるべし」。まあ、これは良い。
     しかし、その後「阪神は江川を入団させた後、江川をキャンプまでに巨人へトレードすることで
     解決をはかりたい」と言ってのけたのだ!
      どうも、12月13日に長谷川代表を呼び出したのはこれらしいのだ。後に、蓮見秘書がスポーツ紙に
     暴露した記事によると、「巨人側から、江川が巨人に入団することで解決するので、法廷に持ち込
     むこ
とは撤回して欲しい」という連絡が入ったらしいのだ。

      これを受けて、翌年(昭和54年)1月7日、江川は東京・芝のグランドホテルにおいて、阪神と入団
     交渉を行なった。相変わらず、江川のお供は船田事務所の人間(2人)であった。蓮見氏の暴露記事
     があったものの、阪神はスジ論を展開し、「今年の11月20日までは、江川の交渉権は阪神にある」
     と、強気な主張。一方、江川サイドは「巨人入団の意志は変っていない。二浪の覚悟もある」として
     交渉は平行線。以後、数回の交渉が持たれたが、進展は見られなかった。
      そんな中、今度は江川が内幕を暴露した。前年12月22日に行なわれた緊急の12球団による
     実行委員会の議事録をマスコミに公表したのである。無論、これは部外秘であって、江川の行動には
     モラルがないと言われても仕方がないだろう。

      この暴露により、球界首脳は世論からの猛反発を受けた。恐れをなしたコミッショナーは、この裁定を
     「指令」と表現していたが、のちに「強い要望」(一時、流行語になりましたね(^^;))とトーンダウンし、
     最後には「白紙撤回」にまで落ちてしまった。が、結果的には解決策が実行に移される。
      一方の阪神・小津球団社長は開き直って、「江川と契約後に巨人からトレード申し入れの話が出たら、
     話し合いに応じるのは礼儀」と述べた。つまり、外堀はすでに埋まっていたのである。

      そして1月31日。キャンプイン前日のこの日の午後4時、突如、江川は阪神と契約、小津球団社長ら
     とともに記者会見に臨んだ。すでに巨人とのトレードによる解決が世間に広まっており(そりゃそうだ。
     広めたのは、船田議員秘書の蓮見氏と江川本人なのだから)、取材に詰めかけたマスコミからは、「安
     芸のキャンプ(つまり、阪神キャンプ)には参加するのか」、「巨人とのトレードは本当か」という質問が
     集中した。が、江川は、キャンプについては、「そこまで話し合っていない」(つまり、すぐにトレードに出る
     つもりなのだろうが!)、トレードに関しては「聞いていません」(しらじらしいんだよ!)と答えたのみだっ
     た。
      その5時間ほど前、巨人のエース・小林繁投手は、宮崎キャンプに向かおうとした羽田空港のゲート
     で、球団職員に呼び止められ、球団事務所に連れ戻された

      運命の2月1日。プロ野球スプリング・キャンプ初日にあたるこの日の深夜0時16分。巨人の球団事務
     所において、巨人の長谷川代表と阪神・小津球団社長は、江川と小林繁投手の交換トレードが成立した
     と発表。自宅でコメントを求められた小林は、「喜んで阪神へ行きます。僕は野球が好きですから」と答え
     たとされる。コソコソと姑息な手段をとり続けた江川や、近鉄にトレードされるくらいなら引退してやると
     言って本当に引退した根性なしの定岡正二とはえらい違いである。

      一週間後の2月8日、またしても緊急の12球団実行委員会が開かれた。「このような無法を認めていい
     のか」「断固、トレードは反対」との意見も噴出したが、結局、「小林は江川との交換ではなく、独自に阪神
     への無償トレード」とし(ムリがありすぎだろうが(^^;))、「江川の選手登録は開幕以後とする」(つまり、
     キャンプには参加させない)、「この件は、特例であり、慣例および前例とはしない」ことなどを決めた。
      こうして、数々の禍根を球界に残して、江川は巨人入りした。

      巨人は、世論の批判が想像以上に強かったことで、江川の選手登録を6月1日まで延ばした。自主
     規制みたいなものである。小林の方は、阪神に入団するやエースとして君臨、特に巨人戦には異様な
     ファイトを見せ、このシーズンは8連勝負けなしとした。シーズン通算でも、自身最高の22勝を挙げ、
     最多勝と沢村賞を受賞した。江川は、6月2日の阪神戦に初登板初先発したものの、3ホーマーを浴び
     て敗戦投手となった。シーズン成績も8勝9敗であった。巨人も、江川が登録前までは首位にいたもの
     の、江川の登板が増えるにつれ負けが込むようになり、最終的には5位に終わっている。
      こういう見方は偏見だと言われそうだが、事実、人格者と言われたベテランの王貞治一塁手ですら、
     「あいつとプレーしたくない」と発言し、法政の先輩にあたる山本浩二(広島)は、「後輩だとは思ってい
     ない」と言ってはばからなかった(江川引退後、同じ日本テレビ解説者でありながら、長いこと山本と
     江川はコンビ解説しませんでした。山本側が拒否したのか、日本テレビが気遣ったのか)。

      確かに江川は10年にひとりの素質をもった投手だったろう。しかし、巨人在籍9年、通算135勝。
     少ないとは思わないが、巨人に、そして球界にあれほどの大損害をあたえてまで入団させなければ
     ならない選手だったのだろうか? 江川事件のせいで、読売、報知の両新聞は発売数が激減、長谷川
     代表は悪の代名詞のように思われた。阪神は、小津球団社長の定見のなさを披露し、結局巨人に追従
     するしか能のないところを見せてしまった。そして金子コミッショナーは世論の批判をまともに受け、「次
     のコミッショナーは法曹関係者にするように」と言い残して辞任した。
      今、テレビタレントのマネをしておちゃらけている江川や、偉そうに解説している江川を見て、複雑な
     心境になっているファンは数多いことだろうと思う。

  こぼれ話
    昭和53年ドラフトに巨人は参加しなかったわけだが、新人選手を採らなかったわけではない。ドラフト外と
   いう形で補強した選手の中に、明治大学の鹿取義隆投手(現・巨人投手コーチ)がいた。当時、明治のエー
   スは、中日に1位指名された高橋三千丈投手で、鹿取は2番手投手だった。しかし、丈夫で長持ち、リリーフ
   として巨人と西武で長年活躍したのはみなさんご存じの通りである。思わぬ拾い物で、江川事件がなかったら
   鹿取の活躍、というより巨人入団があったかどうか。歴史の面白いところですね。


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