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あ、いよいよ真打ちだ(^^;)。今は参議院議員として国会でガンバっておられる
(ことと思うが)江本孟紀センセイのご登場です。
これも年代の差なのか、この事件をご存じないお若い方も多くなっているようなの
で、ここで是非取り上げたいと思っていた次第です。じゃあ今まで出さなかったのか
と言えば、単なる出し惜しみです(^^;)。江川事件もそうです(^^;)。
本題に戻しましょう。主演は江本孟紀クン、舞台は甲子園球場。江本投手は、
昭和50(1975)年のシーズンオフ、阪神の江夏豊投手らとの大型トレードを経て
古巣・南海からタイガースへやってきた。南海時代も、野村克也監督の長髪禁止令
に逆らい長髪で通したり、長髪を切ることを条件に年俸の上積みを要求するなど、
各種問題行動を起こしてはいた。この江本が、お家騒動のメッカ・阪神へやってくる!
タダで済むはずがなかった。
タイガースへ移った江本は、ローテーションの中心として阪神投手陣を支え、エース
の称号まで得るようになった。が、相変わらず問題発言を繰り返すなど、火種は抱え
ていた。そしてやってきた昭和56(1981)年の8月26日。甲子園球場、対ヤクルト戦。
先発のマウンドにいた江本は、既に不満を抱えていた。それというのも、開幕前に
中西太監督は、江本に抑えとして起用すると言っていた。そして江本もそれを了承し、
その気でいた。ところが、首脳陣に定見がなかった。チームの調子が悪く、リリーフ
エースたる江本の登板機会が少ない。そこで、早い回からのロング・リリーフをもさせ
るようになった。が、これも抑えの仕事のひとつではある。江本は、そう納得しようと
したかも知れない。が、さすがに4点も5点も差がついた敗戦処理をやらされたり、挙げ
句、「今年はない」と言われていた先発のマウンドにまで登らされると、さすがに心中
穏やかではなかった。
先発と抑えでは、体調管理も心構えもまるで違う。シーズン最中に、先発投手を抑え
に使ったり、その逆を平気でする監督がいるが、あれは投手のメンタル・ヘルスを全く
考慮していないと言われても仕方がないだろう。
そんな中で、江本はヤクルト戦のマウンドにいた。調子は良かった。快調に飛ばし、
3回を終えて1安打しか許さない。4回に、杉浦、八重樫の長短打を浴びて1点を失っ
たものの、その裏、打線が集中打を見せ、一挙に3点を奪って逆転した。さらに6回に
も加点して4−1とリードを広げたのだ。
そして迎えた8回表、ヤクルトの攻撃。この時点で江本の投球数は130球を越えて
いた。無論、多すぎるとは思わないが、そろそろリリーフの用意が必要な数ではある。
江本は、自らの体験上、リリーフの肩慣らしは終わっていると考えていた。事実、後で
確認してみると、江本が先発に回ったあとにリリーフ・エースを務めていた池内豊投手
は、この時点ですでに2回目の肩慣らしを終えていたのである!
案の定、スワローズ打線は1死後、疲れの見えた江本から3連打して2点差とした。
この時点で投球数は143。もうそろそろ限界であろう。見透かすように、阪神ベンチから
藤江投手コーチがマウンドに行った。交代かと思いきや、なんと江本続投である。
2死1,3塁から八重樫を三振にはとったが、その間に一塁走者に二盗を決められて
2,3塁。そして8番の水谷新太郎遊撃手のライト前タイムリーヒットで、とうとう同点に
追いつかれてしまったのだ。この時投球数152。いかにも多い。が、驚いたことに、阪神
ベンチはここでも江本を代えなかった。ようやくこの回を抑えきった江本は、もう疲労困憊。
勝利投手の権利が消えたこと、投手の心理や体調を見抜けなかった首脳陣・・・。
江本のハラワタは煮えくりかえっていた。8回表が終了し、ベンチに戻るやいなや、思い
切りグラブをベンチに叩き付けると、そのままロッカーへ戻った。どうも阪神首脳は、この
時点でも江本を代えるフシがなかったようだ。8回には打順が回らないので、そのまま
9回も行かせようと思っていたらしい。さすがに呆れてしまう。
が、江本はベンチを出ていき、ロッカーへ戻り着替えてしまった。一種の登板拒否である。
事件は、江本がロッカーへと向かう通路で起こった。
阪神番の記者たちは、江本の様子が尋常でないことにすぐ気づき、江本に続いた。
そして記者が江本にコメントを求めると、彼はこう言ったとされている。
「ベンチがアホやから、野球がでけへん!」
虎番記者は緊張した。江本がキレている! そして翌日、スポーツ紙の一面に、華々
しくこの言葉がヘッドラインを飾ることになる。
仰天し、舌打ちしたのは中西監督と阪神フロント、特に小津球団社長だった。
両者とも、すぐに江本から事実を確認し、内容次第では処分を臭わせていた。結果は
江本の引退となった。
後日、江本自身は、もはやこうなる(任意引退)しかないと語っていた。10日の謹慎を
食らったとして、その後調整し、再登板するまで1ヶ月以上かかる。シーズンは終わって
しまう、と。
球団側は、江本が素直に詫びを入れてくれば、度量の大きいところを見せて、謹慎
1週間と罰金で済ませるつもりだったようだ。ところが、予想もしなかった任意引退表明。
これには慌てた。なだめすかして翻意を促したが、江本の決心堅く、とうとう引退となる。
これが大体の状況である。
ここで「あれ?」と思った読者もおられるのではないだろうか? 江本は途中降板にハラ
をたてたのではなく、代えてくれなかったから怒ったのである。通常、先発投手は代え
られることは好まない。よほど疲労していても、投手交代には納得できない顔をするもの
である。ケガしてしていれば別だが、ウソでも交代はイヤだとするわけだ。ところが江本の
場合、逆である。もっとも、あの時、阪神ベンチが交代を告げれば、ポーズでは不満の姿勢
を示したであろう。しかし、交代指示には納得したはずである。
さらに江本は自著「プロ野球を10倍楽しむ方法」で、自分はあの発言をしていないと
言っている。確かに、中西監督をはじめとする首脳陣の用兵に不満を口にはした。が、
「ベンチがアホやから野球がでけへん!」などというまとまった一言は言っていないと言う
のだ。「アホ!」とか「ボケ!」とは言ったが、断片的なものだったと証言している。
しかし、当時の記事などを見ると、あの時、江本のそばには3人の記者がおり、その一言
を耳にしていると主張している。1人ならともかく3人が同時に聞いているというのだ。
確度は高いように思える。
筆者が判断するに、これは江本の弁が正しいように思える。極度の興奮状態だった江本
が、あのようなまとまった一言を言えたかな?という疑問があるからだ。だから、江本証言
にある「アホとかボケのような断片的な一言」しか言っていないという方が信憑性がある。
では3人の番記者が同時に聞いた、というのはどうか? これも筆者はかなり怪しいと見る。
実際こういう話がある。セ・リーグの某弱小球団のキャンプ取材に訪れていた番記者たちが、
紅白戦の取材を面倒がって、喫茶店で勝手にスコアをでっち上げてデスクに送ってしまった
ことが過去にあった。この時、真面目に取材した記者がひとりいて、彼はきちんと取材して
東京へ送ったのだが、他社とスコアが違う、サボらないでちゃんと取材しろ、とデスクに怒ら
れたそうだ。
こういう話を聞くと、記者3人が同時に聞いたから、というのも何だか怪しく思えてくるでは
ないか。
事実はどうあれ、この一言はプロ野球史上もっとも有名なセリフのひとつとなった。
江本はこれがきっかけで引退し、二度と球界復帰をしていないが、参議院議員選挙に出馬
し見事当選、今では国会議員のセンセイだ。江本にとって幸か不幸か。本人にしかわから
ない。
蛇足ながら、野球人出身の議員は江本が初めてのように
思われている人もいるらしいが、そうではない。東急で活躍し、「針の穴を通すコントロール」
と謳われた30勝投手・白木儀一郎投手がそれだ。彼は移籍先の近鉄・上林捕手に誘わ
れ創価学会に入信、その後、学会のバックで公明党から立候補、参議院議員となっている。