ラフト絡みの事件をいくつか書いている(今後も書く予定)が、ドラフトに関しては賛否両論
あろう。ではもし、ドラフト制度がなかったらどうなるのだろうか? そのシミュレーションとも言う
   べき事件があった。

    昭和28(1953)年。この年の高校野球全国大会・夏の甲子園に、四国の名門・松山
   商業が出場した。この松山商に、プロ注目の好投手がいた。空谷泰(そらたに・やすし)
   である。
    空谷は、真っ向から投げ下ろす本格派の右腕投手で、その重い速球は超高校級という
   評判をとっていた。そして高い評価通り、甲子園でも順調に勝ち進んだ。

    初戦は抽選勝ち、2回戦の秋田高を2−0、3回戦の御所実業を4−0、準決勝の明治高
   を2−0と、いずれも完封で退けた。そして決勝戦では、同じ四国勢である土佐高と対戦し
   た。台風並みの強風の中、空谷は立ち上がりを攻められ、2点を先取された。一方の松山
   商は8回にようやく1点を返し、9回も走者1,2塁ながら2死を奪われた。ここで打者は3番
   のエース空谷である。2−3まで粘った6球目を叩いたが、フラフラと力ない打球がセンター
   へ舞った。万事休すと思いきや、折りからの強風でボールが押し戻され、センター前でポトン
   と落ちるラッキーヒット。起死回生の同点打となった。そして延長13回に松山商が決勝の1
   点を奪い、優勝をモノにした。

    キレの鋭いカーブと豪速球、さらに持って生まれた強運にも惚れ込んだプロは、連日の松
   山詣でを行なった。空谷に接触した球団は10チームにものぼり、空谷サイドでも動きが取れ
   なくなってしまった。空谷はもちろんプロ志望ではあったものの、特定の球団に入りたい、と
   いう希望もなかったから、各球団ともに決め手を欠いた。そこで「誠意」を見せようと、空谷家
   へ目白押しとなったわけである。

    空谷家と空谷の後援会は相談の結果、空谷自身に希望球団がないことから、異例の
   入札制で入団するチームを決めることにした。無論、前代未聞ではあるが、各球団ともに
   平等なチャンスは与えられたわけだ。
    どのチームも、情報網を駆使し、他球団がいくらをつけるか調査してまわった。そして、
   中日は200万円の契約金で臨むことにした。ところが、事前調査の結果、南海も同額の200
   万円という値をつけていることが判明、急遽210万円に変更した。さらに、空谷のチームメイト
   でもある小川滋二塁手も同時に獲得する、という条件までつけた。

    この結果、空谷側は中日の条件が最良であると判断、ドラゴンズへの入団が決まった。
   しかし高野連は、このような入札制は不健全であり、しかも高野連サイドに何の連絡もなかった
   として態度を硬化、松山商業に対して1年間の公式戦出場停止処分とした。
   ちなみに当時の200万円ですが、現在の物価を考えると当時と今とでは50倍では利かないと
   思われますので、恐らく1億〜1億2千万円くらいになるんじゃないですかね。
    これを契機に、ということもないんですが、うなぎ上りに高騰する契約金に音を上げたプロ側は
   ドラフトへの道を歩むことになります。

    ちなみに、当の空谷ですが、持ち前の重い速球でルーキーイヤーから活躍、7勝4敗と、まず
   まずの成績を上げた。制球力に問題があったものの、年を追うごとに成長を続け、昭和33年
   には20勝11敗の好成績を収めた。杉下に継ぐエースに、と期待されたものの、どうしたことか
   以降まったく振るわず、昭和36年には西鉄にトレードされた。ドラゴンズ時代の通算成績は、
   208試合に登板、63勝57敗、防御率2.53。



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