川 |
崎球場がなくなることになった。掲示板にも話題が出た通り、あのロッテ−近鉄戦
が思い出深いが、私にとって、それに優るとも劣らない事件があった。
昭和52(1977)年4月29日。GWで観客の賑わう川崎球場では、大洋(横浜の
前身)は阪神を迎えてのデーゲームを行っていた。ゲームは、ファンの期待に違わぬ
熱戦で、9回表を終了して7−6とタイガースがリードしていた。
最終回、ホエールズ最後の反撃は、1死ながら1塁に代走の野口善男外野手が
いた。打席に入ったピンチヒッターの清水透内野手は、左中間に長打コースの大飛球
を放った。タイガースの佐野仙好左翼手は、脱兎のごとく左中間へ走り、この打球に
対し、フライング・キャッチを試みた。見事に打球をグラブに収めたものの、頭からフェンス
に激突してしまう。川崎球場のフェンスは剥き出しのコンクリート(当時。現在はラバーが
張られている)である。佐野は倒れたまま動かない。ようやく追いついた池辺巌中堅手は
佐野を見てゾッとした。白目を剥き出し、口からは泡を吹いている(頭蓋骨陥没骨折)。
これはただごとではないと、池辺は大声で佐野の異変を告げた。タイガースの野手が
大急ぎで現場へ走る。ベンチからも選手やコーチが駆け出した。
一方、大洋の野口は冷静だった。佐野の捕球を線審の宣言で確認すると、タッチアップ
で一塁からスタートを切った。野口は、無人の内野を走り抜けホームへ駆けた。野口が
三塁を回ったあたりで、田淵幸一捕手がようやく野口のプレーに気がついた。大声でバック
ホームを要求し、池辺も気づいて佐野がしっかりと握っていたボールを取ると田淵へ返球
したものの間に合わず同点の生還となった。
タイガース・ベンチはこのプレーに対し、「佐野の事故は、野球規則に定められている突発
事故にあたる。故に佐野が倒れた時点でボールデッドになるはずであって、野口の生還は
認められない」と主張した。これに対し審判団は「あくまでインプレー中であり、タイムはかけ
られない」と対応した。記録員は「守備側が攻撃側のプレーに無関心でいる間に得点した
ものだからフィルダース・チョイスである」と判断した。
外野フライで一塁走者が生還するプレーは、過去にも例がある。昭和38(1963)年8月
22日、広島球場での広島-巨人戦。巨人、無死1,2塁で打者の船田和英三塁手がセンター
へ大飛球を放つと、カープの大和田明中堅手が背走して追いかける。見事に捕球したものの、
フェンスに背中から激突し転倒。この間に2人の走者が相次いでホームイン、打者の船田に
犠飛と2打点が記録されている。
話を戻すと、大洋のプレーに問題はないのだが、フェンスがコンクリート剥き出しでは選手
のプレーが危険になる。この事件をきっかけに、プロ球団が使用する球場は、外野フェンス
にコンクリートや鉄板を使用している場合、ラバー等を張って安全をはかる、という規則が出来
た。さらに、プレー中であっても、選手の生命に関わる負傷があった場合、審判員は状況に
応じてタイムをかけられる旨、ルールが改正されている。
ちなみに当の佐野だが、治療、リハビリの後、1年後に見事チームに復帰、セ・リーグ初の
勝利打点王を獲得するなど、勝負強い打者としてタイガース打線を支えた。
追加情報−
上記の犠飛と野選の判定に関してですが、セットポジションを運営されている篠原さんより
新たな情報をいただきました。以下の通りです。
当初、公式記録員は佐野の失策を記録したそうです。その後、人事不省に陥った選手に失策
はつけられないということで野選に変更を申し出たということらしいのです。
ルール上、プロ野球の記録の変更は24時間以内ということになっているはずですが、このとき
の変更(訂正)は数日後だったそうです。故に、翌日の新聞に載った記録では失策扱いになって
いたのだとか。
さらに篠原さんによると、線審がボールの確保を確認してアウトのジャッジをしたあと阪神ベンチ
に向かって手招きのポーズをしたそうです。通常、インプレイでベンチの選手がグラウンドに入るこ
とはありえないわけですから、この手招きポーズが「タイム」の宣告、つまり「ボールデッド」である
という阪神サイドの主張を後押ししたようです。
その線審は処分されていましたけど、よく考えると、緊急事態だから、そうしたのでしょうから、
非人道的な処分のような気もします。まあ、それはさておき、阪神は提訴を条件に試合再開に応
じて、その提訴はいつものように却下されたそうです。
ルールの解釈としては審判サイドが正しいんですね。ルールブック上の「突発事故」というのは、
死球やフェンスオーバーのHRのような安全進塁権が与えられている場合のことで、通常のプレイ
進行中にタイムをかけることは無理です。
以上です。篠原さん、貴重かつ興味深い情報をありがとうございました。
戻る