ラーの話である。どうも四球とか失策というのはネガティヴなイメージがあってよろしくない。自分がやって
も体裁が悪いし、プロ野球を見ていても、贔屓チームの選手がやると無性にハラが立つものである(^^;)。
    といって、相手チームの選手がやった場合でも、どうもイマイチ嬉しくない。相手のミスを喜ぶというのは
    人間としてどうか、と思ってしまうわけである(^^;)(^^;)。
      というわけで、少々後ろめたいが面白いのでやる(^^;)。

     まずはチームとして見てみよう。さて、1試合でいちばん多くエラーしたのはどれくらいかとお思いか?
    正解はなんと10個である。基本的に野球は9イニングしかないわけで、平均して1イニングに1個以上
    エラーが出たというわけだから、これはある意味すごい(^^;)。
     3例もあるが、うち2例は1リーグ時代、つまりは黎明期である。昭和21(1946)年というから終戦の
    翌年だ。5月27日の近畿グレートリンク(南海の前身)戦で阪急がやっている。もうひとつは昭和24(19
    49)年8月25日、対南海戦で太陽(大洋の前身)がそれぞれ記録している。いずれも、まだ終戦後間も
    なく、選手数が少なかった故の記録だと言えるかも知れない。

     で、3例めは2リーグ分裂後のことになる。球団数も増えて、それに伴い選手も増え、質も上がっている
    はずなのだが、この記録が生まれた。昭和30(1955)年8月1日のことで、やったチームはトンボ・
    ユニオンズだ。トンボとは、あのトンボ鉛筆のトンボである。このチームも、結成でいろいろあって、吸収
    合併や消滅を繰り返した不運というか貧弱なチームではあったので、情状酌量の余地はある。

     この日、川崎球場で行われた毎日オリオンズ戦で、トンボ守備陣は乱れに乱れた。内訳を書く。
    加藤一昭一塁手が3失策、高橋一雄捕手が2失策、山田利昭右翼手が2失策、そして三瀬雅康二塁手、
    河内卓司三塁手、青木惇捕手が各1失策で計10個となる。面白いのは、ファーストが3つ、サードと
    セカンドが各1つずつエラーしているのに、内野ゴロのトンネルやファンブルというありきたりのエラーは
    ひとつもなかったのである。
     さらに詳細を書くと、加藤一塁手は送球を受け損なったのが1つ、悪送球したのが1つ、内野フライを落と
    したのが1つで計3つ。高橋捕手は悪送球が2つ。山田右翼手はライト前ヒットをトンネルしたのが2つ。
    三瀬二塁手と河内三塁手はそれぞれ悪送球。青木捕手はなんと打撃妨害で失策をとられている。
    おまけに、エラーにはならなかったが、投手の暴投が3つ、捕手の捕逸が2つと、目も当てられない状態
    であった。
     そして毎日打線も20安打と容赦なく打ちのめしたので、スコアは13−0で毎日の圧勝となっている。

     まあ、はっきり言ってユニオンズはダメダメなチーム(^^;)だったわけで、この年はチーム合計でなんと
    202個ものエラーを記録している。この年のパシフィックは140試合制だったが、それにしても多い。
    だが、実は年間最多はこの202個ではないのだ。日本記録は昭和15(1940)年の南海が記録した
    252個である。この年は104試合しかなかったから、実に1試合平均で2.4個のエラーをしていた
    計算になる。2リーグ以後では、昭和25(1950)年の西日本パイレーツ(この年1年で消滅。西鉄に
    吸収された)が137試合で235個を記録した。こっちは1試合平均1.7個。こんなチームじゃ当然
    最下位かと思いきや、8球団中6位であった。

      ちょっと気が進まないが、選手個人も攻めよう(^^;)。
     まずは内野手といこう。なんといってもエラーが多いのは内野手である。これは当たり前の話で、もっと
     も打球を扱う機会が多いのだから当然なのだ。
      で、1シーズンでもっともエラーしたのは昭和15(1940)年の翼(旧セネタース。今の直系はない。
     強いて言えば西鉄、西武か?)にいたショートの柳鶴震(やなぎ・つるじ)。驚くなかれ、なんと75失策
     である! しかも103試合で75失策! これはちょっとすごすぎる(^^;)。
      もっとも、これも1リーグ時代の話ではある。では2リーグ以後は誰かというと、昭和25(1950)大洋
     の宮崎剛三塁手で、48失策。137試合ということを考えても多すぎますな。

      各ポジションの1試合あたりの最多失策だが、2リーグ以降は概ね3つか4つで、これは多数いる。
     これでは面白くないので、不本意ではあるが1リーグ時代まで遡る。すると、あるわあるわ(^^;)。
     木塚忠助という遊撃手をご存じだろうか? かつてホークスで名ショートの名を欲しいままにした好選手
     で、南海黄金時代を支えた「百万ドルの内野陣」の一角を為していた。小柄ですばしっこく、天性のショート
     だったろう。また、鉄砲肩、バカ肩と呼ばれた強肩ぶりも有名で、ゴロをさばいたあとの一塁送球が暴投
     となってしまい、ボールは一塁側のスタンドに入ってしまったという逸話まで残している。また、韋駄天
     としても名を売り、盗塁王も4度獲得した。

      その名人・木塚も最初から名人だったわけではない。木塚プロ2年目の話である。木塚はショートで
     有名だったが、もともとは投手なのだ。中学時代はエースで、門司鉄道管理局時代はサードをやってい
     る。南海入団後も1年目はサードだった。2年目の昭和24(1949)年9月29日、西宮球場で行われた
     太陽戦で、チーム事情からショートを守るよう言われた木塚は、慣れぬポジションで3つのエラーを記録
     する。こりゃアカンとベンチは木塚をサードに戻したものの、そこでもさらに3つエラーをやらかしてしまう。
     つまり1試合で6個のエラーである。モロに被害を被ったのがエースの柚木進投手で、この試合、これ
     らの木塚のエラーがきっかけになり、自責点ゼロの敗戦投手となってしまう。

      では1イニングの最多失策は、というとなんと4個というのがある。1イニングでひとりが4つもエラーした
     というトンでもない記録だ。昭和24(1949)年9月29日の西宮球場で、阪神の本堂保次二塁手が
     やってのけた。本堂と言えば、タイガースのダイナマイト打線の中で、渋い打撃で異彩を放った通好みの
     選手だ。無論、堅守でも有名。その彼が1イニングで4エラーなのである。マウンドにいたのはエースの
     若林忠志投手だが、気の毒なことに5回までノーヒットピッチングだったのである。なのに、6回に本堂が
     まとめて4つもエラーした(^^;)。

      お気づきかも知れないが、木塚の記録も本堂の記録も、同年同日の同球場で発生している。変則ダブル
     ヘッダーだったのである。好守で鳴らしたふたりがこうもエラーを重ねるくらいだから、その日の西宮球場
     のグラウンドはボロボロだったのではなかろうか(^^;)。

      外野手のエラーは、そうそうないだけに派手である。内野のそれと違って、まず間違いなく2塁、3塁を
     とられるので致命傷になりかねない。
      大下弘と言えば、川上と並ぶ強打者の人気者で、当時のイチローと言って良いそうである。ところが
     この大下、イチローと違って守備はまずかった。打撃は豪快そのものだったが、守りは心もとなかった。
     外野手の年間失策記録は14個だが、これは大下が記録している。昭和22(1947)年のことである。
     ちなみに外野手の1試合最多エラーは3つで、これも多数いる。もちろん大下も記録している(^^;)。
      年間14個の日本記録を作った昭和22(1947)年8月16日の阪神戦で、1試合3エラーを記録して
     いる。しかもこのエラー、フライを落としたものはひとつもなく、すべてライト前ヒットを後逸したものだ(^^;)。

      1リーグ時代の記録だが、大下とは逆に外野フライを1試合に3つ落とした選手もいる。南海の岡村俊昭
     外野手で、昭和14(1939)年の話。対阪神戦で、初回の2番、3番打者のライトフライを続けて落球した。
     これじゃダメだということでセンターに回されたが、7回にはここでも落球してしまった。

      外野手の落球と言えば衝撃的なものがある。昭和25(1950)年5月14日。後楽園球場で行われた
     大映−西鉄戦である。このゲーム、西鉄が木暮力三外野手のホームランなどで5−3でリードしたまま
     9回裏のスターズの攻撃を迎えた。

      1番から始まる好打順だったが、トップの山田潔はショートゴロで1死。2番の滝田政治がライト線へ痛打
     して二塁を奪った。3番の伊賀上良平はサードゴロだったが、西鉄の千頭久米夫三塁手が一塁へ低投
     してセーフ。滝田は三進、伊賀上も二塁へ到達する。そして4番の飯島慈弥が四球で歩いて満塁とする。
     しかし5番の加藤正二が三振にとられ万事休すかと思われた。大映の藤本定義監督は、最後の抵抗と
     して6番の山口富雄に代えて左の代打・渡辺一衛を起用する。

      ここで西鉄ベンチに不安がよぎる。木暮の守備である。もともと守備には心もとない。今日もエラーして
     いる。左の代打だからライトの木暮をレフトに回そうということなった。当時は、そう簡単に代えられるほど
     選手はいない。
      西鉄・渡辺はカウント1−1からなんとレフトへ打ち上げた。ライオンズベンチは仰天し、そして祈った。
     わざわざレフトの笠松徳吾郎外野手をライトに持っていったのに…。が、打球は平凡だ、木暮でもなんとか
     捕球出来るのではないか。自分でも守備に自信のない木暮の心境たるや察するに余りある。フラフラと
     飛んできた打球を追い、捕球位置についたが、打球をグラブに当てながら落球してしまう。「あっ」と思った
     時はもう遅い。2死だから走者は渡辺が打った瞬間に一斉にスタートしている。木暮が慌てて打球を追う
     中、塁上の全走者が相次いでホームイン、一挙にサヨナラ勝ちとなった。
      ホームランしてヒーローになるはずだった木暮は、一転悲劇の主人公となった。以降、プレーに精彩を
     欠き、この年限りで引退している。

      1試合での最多エラーは3つで、これはいくつもある。が、昭和59(1984)年に記録した西武の駒崎
     幸一外野手は、これをまとめて1イニングでやっている。8月12日の西武球場、対ロッテ戦の5回のこと
     だ。まず、ロッテ5番の山本功児一塁手のセンター前ヒットを後逸する(1つ目)。山本は二塁を回って三塁
     へ走る。慌てた駒崎はようやく打球に追いつき、三塁へ送球したが、これがとんでもない暴投。打者走者
     の山本は、この間に一気にホームインした(2つ目)。さらに袴田英利捕手のセンター前ヒットもトンネルし
     てしまい、1イニングで都合3個のエラーを犯してしまった。

      捕手というのは特殊なポジションで、通常のエラーの他に捕逸(パスボール)というミスがある。
     これを年間でもっとも多く記録したのが、かの野村克也(南海。昭和35(1960)年)と若菜嘉晴(阪神。
     昭和54(1979)年)で、17個である。
      これに絡んで不思議な話がある。昭和54年にこれだけ捕逸した若菜が、同年のダイヤモンドグラブ賞
     を受賞しているのである。これはどう考えてもおかしな話で、これだけパスボールをする捕手が守備で賞
     をとるというのはまずかろう。この年、若菜は打率が3割を超えており、そのことも記者投票に影響している
     のではないかとされた。打つ方も考慮するのならベストナインの方に選べば良さそうなものだが、ベスト
     ナインには中日の木俣達彦が選ばれている。どうもワケがわからない。
      まあ、ひとくちに捕逸といっても、投手に原因があることも多いから、これだけで守備がヘタだとは一概
     に言えないが、それはどの捕手だって同じである。若菜は強肩ということもあり、それもアピールしたの
     かも知れない。

      1試合あたりの最多捕逸は3つ。これは何人か記録しているが、近年でいえば昭和59(1984)年の
     巨人・山倉和博、昭和61(1986)年のロッテ・斎藤巧、昭和62(1987)年のヤクルト・八重樫幸雄
     と言ったところ。まあ、ロッテの斎藤の場合、もともとは内野手だったのに、アマ時代に経験があるという
     ことで、チームの捕手難を救うべくムリヤリやらされたようなところもあったので、気の毒と言えば気の毒。
      捕逸が近年多いのは、やはり落ちるタマ全盛だからだろう。

      ざっと記録を見てみて気づく人もいると思うが、投手や打者の記録というのはどんどん新記録というのが
     生まれている。一方、四死球や三振も新記録が出ている。
      それに対してエラーの記録というのはほとんど生まれない。逆に、連続守備機会無失策とか、最小失策
     数の記録は更新されている。これはどういうことだろうか?

      投手で見ると、各記録の更新がほとんど難しくなっている。勝利数、敗戦数、登板数、投球回数。被安打
     や被本塁打もそうだ。投手の数が増えて無理な登板が減っていることもある。投手自体が小振りになって
     いることもあろう。
      打者は記録が伸びている。本塁打数や打率などだ。

      これはよく言われるように、投手の練習に王道はなく、ウェイト・トレを除けばほぼ昔のままだからだろう。
     一方、打者はバッティングマシンの進化で練習量も質も飛躍的に上昇した。さらに「飛ぶボール」の問題
     もある。打者は機械が相手だからいくらでも打てるが、投手は無制限に投げるわけにもいかない。スポーツ
     医学も進歩して、投げすぎが寿命を減らすことがわかっているから無茶な練習や登板をしなくなっている
     ためであろう。

      ところが守備だけは、悪いところはなくほとんど良い方向に記録が伸びている。年間失策ひとつとっても、
     最多は前述したように南海の252個だが、最小は平成3(1991)年に記録した西武の38個である。
     130試合でわずか38個なのだ。104試合で252個の南海と比べて、その数の少なさがわかるだろう。
     なぜここまで飛躍的に進歩したのか。ズバリ、球場とグラブだろう。

      昔では考えられなかった専属のグラウンド・キーパーによって、徹底的に整備されたグラウンド。イレギュ
     ラー・バウンドを極力減らした人工芝。そして全天候型のドーム球場。自然現象による打球トラブルが、
     黎明期に比して極端に減っているのである。
      さらにグラブだ。昔から野球をやっている人はわかるだろうが、今のグラブはすごい。とても柔らかくて
     使いやすく、買った当日でも試合に使える。昔はこうはいかなかった。革の質が悪く、ガチガチに固かった。
     新品のグラブを買ったら、ポケットの部分にボールを抱かせてグラブの上からタコ糸をぐるぐるに巻いて
      固定し、バケツの水の中に浸したものだ。なぜこんなことをするのかというと、グラブにクセをつけるため
     である。こうしてボールのクセをつけないと、グラブが固くてボールが握れなかったのだ。その上でグラブ
     を乾かしてグリスを塗ったものである。練習に使えるまで1週間、試合に使えるまで1ヶ月くらいはかかっ
     た。今は昔、である。

      革質だけではない。形にしてもそうだ。今でこそ、各ポジション毎のグラブがあるが、当然、昔はそんな
     ものはなかった。せいぜい捕手と一塁手のミットが別になっているくらいのものである。その捕手のミット
     にしても、アンコが目一杯詰まっていて丸々しているのが普通だったらしい。さすがに私の時代には、
     そういうミットはなかったが、このミットだと、ミットの中心で捕球しないと落球してしまうため、当時はその
     ミットからアンコを減らしたりして自分好みにカスタマイズしたそうである。
      もっとも、だからこそフットワークがよくなるという面もある。阪神にいた土井垣武捕手は、このまんまる
     ミットを愛用したが、それだけに動きが良く、捕邪飛をとる名人と謳われた。逆に、大洋で秋山登投手と
     バッテリーを組んだ土井淳捕手はアンコを抜いた薄いミットを使ったそうである。

      そう言うわけで、プロ野球ではエラーの記録というのは近年少なくなる傾向にある。もし珍しいエラーを
     見ることが出来たら、それは幸運なことと言えるかも知れない。あまり怒らずバカにせず、大きな気持ち
     で楽しみましょうね(^^;)。


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