長戦の記録で、日本でもっとも有名なものがこれだろう。
昭和17(1942)年5月24日、後楽園球場。この日は、なんと変則トリプルヘッダーが行なわれた。
    とはいえ、この当時、この程度のことはさほど珍しくなかった。その第三試合が問題の大洋−名古屋戦だ。
     大洋は、鉄腕投手・野口二郎、名古屋はその後打者に転向、強打者としても鳴らした西沢道夫が先発
    した。試合は、8回を終わって4−2と大洋がリードしていたが、9回2死1塁から名古屋の4番・古川清蔵
    左翼手がレフトへ同点2ランを放った。これが果てしない延長戦の導入部である。
     以降、両投手とも絶妙の投球を見せ、相手打線をピタリと封じる。大洋、名古屋ともに、ロクに走者も出な
    い有様で、野口、西沢はがっぷり四つで組み合ったまま動かない。その後、両軍仲良くスコアボードに16個
    ものゼロを並べ合った。

     さしものタフマンたちにも疲れが見えたのは延長26回である。名古屋は、簡単に2死をとられたものの、
    野口正明捕手のセカンドゴロを大洋・苅田久徳二塁手がトンネル。続く西沢道夫投手は、野口の速球を
    捉えて見事に右中間を割った。念願の決勝点、若い西沢(まだ20歳である)の好投に報いるため、一塁
    から一気にホームへ走った。一方、センターからの送球を受けた大洋の苅田。自分のエラーで決勝点を
    取られてたまるか、とばかりに、キャッチャーへ絶妙のバックホーム。捕手であり、元来足の速い方では
    ない野口が走者だったということもあるが、疲労もあったことは否めないだろう。本塁寸前でタッチアウトと
    相成った。
     今度は大洋がサヨナラのチャンスを迎える。27回裏のことだ。これまたあっさりとツーアウトになったが、
    佐藤武夫左翼手が左中間を突破する二塁打で出塁した。ここで代打の織辺由三が決め手とも思われる
    ヒットをセンター前へ打ち返した。二塁走者・佐藤は三塁を蹴ってホームへ向かったが、これまた疲労から
    か、三塁を回ったあたりで少しよろめいた。センターからのバックホームで、これまたタッチアウト。

     結局、28回を終わった時点で、責任審判の島球審が日没によるコールドを宣告。当時としては異例な
    がら引き分け試合となった。ちなみに試合時間はわずか3時間47分である(延長28回でっせ(^^;))。
     大洋・野口、名古屋・西沢ともに完投。野口の投球数344球、西沢は311球だった。

     さて、今の日本プロ野球はセントラル、パシフィックともに延長12回引き分けという情けない制度をとって
    いるが、大リーグはそんなにヌルくない。ナショナル・リーグは無制限(立派!)、アメリカン・リーグも午前
    1時まではやる(これで充分です)ことになっている。ただし、引き分けなどなく、同点だった場合はサスペ
    ンテッドとなる。
     ちなみに、メジャー最長時間試合は以下のもの。1984年5月8日に、シカゴ・コミスキーパークで行な
    われたブリュワーズvsホワイトソックス戦だ。これはアメリカン・リーグの試合なので午前1時で中断しな
    ければならないのだが、このゲームは延長17回3−3の時点で午前1時を回ってしまった。当然、規定
    によってサスペンテッドゲームとなる。なお、こういうケースのサスペンテッドは基本的に翌日予定の試合
    前に行なわれるのが普通だ。
     で、この試合も翌9日の予定試合前に挙行された。…なんだけど、簡単には終わらなかった。18,19,
    20回とゼロ行進となったあと、21回表にブリュワーズが一挙3点を奪い、決まったかに見えたが、なんと
    ホワイトソックスも地元の意地で3点取り返してしまった。さらに延長は続き、25回裏にホワイトソックスの
    3番・ハロルド=ベインズがサヨナラホームランして決着をつけた。この試合時間は、なんと8時間6分。
     この試合には、もうひとつ珍記録が生まれた。ホワイトソックスの勝利投手となったのはリリーフでこの
    日登板したトム・シーバーだが、シーバーはこの直後の正規の試合でも先発してそのまま勝ち投手とな
    っている。つまり1日2勝という珍しい記録を作ったのだ。

     メジャーではないのだが、世界最長と言われているのが3Aのポータケット・レッドソックス−ロチェスター・
    レッドウィングス戦で、1981年4月18日に行なわれたゲームだ。なんとこれが延長33回というから恐れ
    入る。時間にして8時間25分だ。
     この試合の状況を知ったリーグ会長は、午前1時の10分前になったところで、時間を気にし始めた。
    「午前1時で新しいイニングに入らないというルールがあったのでは」と、審判団に問い合わせた。しかし
    審判団は、同リーグにはそのような規定はないとして試合を続行。しかし市条例はどうだ? リーグの規定
    より市条例の方が優先するのだ。つまり、リーグ条例で午前1時まで出来るとしていたが、仮にこの街の
    条例でもっと前の時間で消灯令があれば即刻中止しなくてはならないわけだ。ところが、ポータケット市に
    そのような消灯令はなかった。試合続行である。…と続行したのはいいのだが、果てしなくゲームは続いて
    行く。とうとう午前4時になった。延長31回となったところで、音を上げた審判団はリーグ会長に電話で確認
    した。クーパー会長は状況を聞くと、「もう両チームに投手も残っていないようだし32回でうち切ってはどうか」
    と提案、実行され、32回でサスペンデッドとなった。続きは2ヶ月後の6月23日に行なわれたが、あっさり
    1イニングでケリがついた。レッドソックスの5番・コザのサヨナラヒットが飛び出たのである。
     なお、4月18日に32イニング行なわれた試合は、開始当初1740名の観客がいたが、午前4時7分の
    中断時にも20名の観客が残っていたという。ポータケットのモンドール会長は、この熱心でありがたいファン
    に敬意を表し、年間無料観戦パスポートを送ったという。粋な計らいだが、日本でこういう気の利いた球団
    関係者はおるまい。

     余談だが、アメリカのプロ野球(メジャーもマイナーも)は雨天中断が長いため、試合開始時間が遅れたり、
    中断時間が長引くので、結果として試合終了時刻が遅くなる傾向がある。さらに、正規の試合開始時間も
    19時10分とか19時40分と日本に比べて遅いということもある(なぜ遅いかというと、サラリーマンが仕事
    を終えて帰宅し、食事を済ませてから家族とゆっくり球場へ来られるように、という配慮だ。さらに、なぜ19
    時10分とか40分とかハンパな時刻なのかというと、これはTV中継に合わせているからだ。19時から中継
    が始まるとして、しばらくはCMタイムとなるので、それと重ならないようにしているのである。そのTV中継も
    気合いの入れ方がハンパでない。1985年7月4日に行なわれたメッツ−ブレーブス戦では、地元ニューヨ
    ークの局は、午前2時を過ぎても中継を続けていたのである。「まことに残念ですが、放送時間が…」などと
    抜かしたり、「スポンサーのご厚意で中継を続ける」とか言いながらCM三昧の中継ばかりしているどこかの
    国とは大違いである)。この雨天中断時間というのは、最低でも1時間15分以上と決められている。「最低
    でも」である。つまり、1時間15分待って駄目なら中止、ではなく、どんな状態でも1時間15分以上は待って
    から見極めなければならない、ということだ。ヘタすると10分、20分で簡単に雨天中止を宣言する日本とは
    根性が違う。まあ、これは観客も我慢強いということもあるけどね。日本で1時間も待った上に中止、なんて
    言おうものなら、「なぜもっと早く中止決定しなかったのだ」って騒ぎ出すヤツが必ずいるからね。

     ではアマにまで話を広げるとどうなるだろう。日本の野球(硬式)では、延長28回をしのぐ29回というのが
    ある。昭和34(1959)年5月2日、社会人野球京都大会の初日、それも第一試合でそれが起こった。
    カードは日本新薬(京都)−倉敷レイヨン(現クラレ)岡山戦だ。初回に、いきなり日本新薬が1点先攻したが、
    倉レも3回に同点とする。そしてこのままゼロ行進が続くのである。
     試合開始は開会式直後の午前11時で、終了がなんと午後5時14分で試合時間は6時間14分である。
    その余波で、予定されていた第二、第三試合は翌日に順延となった。延長29回に、日本新薬が決勝スクイ
    ズで勝利をモノにしたのだが、キッカケになったのは1死1塁から出たショートのエラー。これで疲れがどっと
    出たと、倉レのエースは語っている。
     ちなみに、1日おいた2回戦でも日本新薬は延長16回を戦って勝っている。2試合で44イニングというの
    もものすごい。



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