人的には、投手の価値は勝ち星よりも防御率だと思っている。相手に5点取られようが、味方
が6点取ってくれれば勝てるのだし、1失点に抑えていても、相手投手に打線が零封されたら負ける
    からだ。要するに、勝利投手というのは運の要素もかなりある。無論、いくら防御率が良くても
    勝てないというのは、味方打線が得点するまで我慢が利かないという判断もできないわけで
    はないので、防御率だけが優れた投手を見分ける条件だとは言わないが、私自身は防御率
    をもっとも重視している。
     とはいえ、シーズン負けなしという記録には脱帽せざるを得ない。

     昭和56(1981)年、セントラルの大洋から交換トレードで間柴茂有投手が日本ハムへ移籍
    してきた。間柴は大きなカーブと鋭いシュート(今で言うスクリューだったんだろうなあ)を武器に
    するサウスポーだ。大洋時代は、どちらかというと頼りない投手で、2ケタ勝つことは滅多になく、
    負け数の方が常に上回るタイプである。もっとも、これは当時の大洋が弱小チームだったことも
    多分に影響しているのだが。
     この間柴が、とんでもない記録を作るとは、プロ野球関係者はもとより日本中誰も思っていな
    かったろう。

     なんとこの年、間柴は27試合に登板して15勝0敗という成績を上げた。15連勝という記録
    ももちろんすごいが、なにしろ1敗もしていない。つまり、シーズンを通して勝率10割という信じ
    難い記録をやってのけたのである。1シーズン、正規の規定投球回数(当時は130試合だったの
    で、規定投球回数は130回)をクリアした上、勝率10割という成績を残すのはかなり難しい、と
    いうよりも、ほとんど不可能であろう。それをやってみせたのが間柴なのだ。

     ちなみに、この勝率10割という記録は、昭和12(1936)年秋のシーズンで、阪神の御園生
    崇男(みそのお・たかお)投手が15試合に登板して11勝0敗という成績を残して以来の出来事
    で、もちろん2リーグ制になってからは初であり、現在に至るも間柴ひとりの記録である。
     過去の最高勝率は昭和34(1959)年に南海の大エース・杉浦忠投手が作った38勝4敗
    (69試合)の勝率9割0分5厘であり、常識で考えてもこれを破る記録は出ないだろうとされて
    いたのだが、野球というのはわからないものだ。

     間柴の成績を細かく見ると、対近鉄戦7勝、対南海戦5勝の他は、対ロッテ、対西武、対阪急戦
    では、各々1勝ずつ上げたに過ぎない。近鉄と南海をお客さんにしただけで、他チームには思うよ
    うに勝てていない。さらに、投球回数は150回2/3と、規定投球回数はクリアしているものの、
    27試合に登板し15勝した割には多くない。
     とまあ、ケチはいくらでもつけられるのだけど、いずれにしたってシーズン負けなしでの15勝と
    いうのは素晴らしい記録だし、この間柴の活躍もあって、この年、ファイターズはパシフィックを制
    したわけだから、それはいいだろう。

     ちなみに間柴は、翌年の開幕第3戦(近鉄)に先発し、これも勝ち投手となったため、連勝記録
    を16まで伸ばしたが、次の登板となった南海戦で敗戦投手となり、記録を止めている。


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