れはルールの問題である。一見クイズめいてはいるが、実際に起こっている。
昭和35(1960)年、4月10日の後楽園での国鉄−巨人戦。8回表(この
   ゲームは後楽園で行われたのであるが、国鉄の持ちゲーム)の巨人は、2死
   ながら1、2塁として、国鉄の巽投手を追い込んだ。打者は強打の宮本敏夫。
   水原監督がハワイから引っ張ってきた2世選手だ。巽は、苦労して宮本を2−3
   まで持ってきたが、もはや限界。国鉄・宇野監督はアンダースローの森滝義巳
   
投手にスイッチした。

    抜群の長打力を持った宮本だが、反面、荒っぽい。巨人・水原監督は、ここが
   勝負と踏んで、左打ちの国松を起用した。横・下手投げには左打者というセオリー
   通りだ。
    しかし、国松は森滝の外角へ逃げるシュートについていけず、空振りの三振に
   終わった。

    上記の場合、2ストライクまでを奪ったのは巽なのだから、巽に奪三振がつき
   そうなものだが、実はこういう規則がある。
   「カウント途中から投手交代して、0−2,1−2,0−3,1−3,2−3から
   四球になった時以外は、すべて救援投手の責任となる

    つまり、上記のようなカウントから四球を与えた場合以外は、ぜんぶリリーフが
   やったことになるというわけだ。故に、この場合の森滝は2−3から代わって登板
   して三振を奪ったのだから、これは森滝の手柄となる。逆に、この時、ボールを
   投げた場合は、巽が四球を出したことになるわけで、巽とすれば釈然としない
   だろう。

    ちなみに、打者の方はどうだろう。2−3までの宮本とそこから1球だけ引き継い
   だ国松だが、投手の例からすると、もしかして国松が三振したことになるのだろう
   か。
    さにあらず、宮本の三振になるのだ。

    ルールによると、「打者が2ストライク後、退いて代わった打者が三振に終
   わった時は、最初の打者に三振を記録する
」とある。従って、宮本の三振で
   ある。同じケースでも、投手と打者では記録の判定が異なることは、ままある
   ことなので注意されたい。


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