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本にも、大リーグに負けない、胸を張れる記録がいくつかある。その中のひとつが、今回
ご紹介する代打ホームランだ。
代打の切り札、という選手がいる。水島新司の漫画「あぶさん」の景浦安武みたいなものだ。
今だと誰になるのだろうか。去年あたりから売り出し中の、ヤクルト・青柳あたりがそうかな?
昔を振り返ってばかりいると年寄り扱いされそうだが(^^;)、昔は「代打」というとすぐにピンとくる
選手が何人もいた。
パシフィックの代表格が、阪急の高井保弘だろう。ガッチリというよりはぽっちゃり気味の体型
をブレーブスのユニフォームに包んでいた彼は、見た目通り守備が苦手だった。守る時は一塁手
が多く、まれに外野を守ることもあったが、危なっかしくて見ていられなかった。当然、脚力もない。
しかし、打つ方は一流であった。
大リーグの通算代打ホームランの記録は、パイレーツのJ・リンチが持つ18本。この記録に
追いついたのは昭和50(1975)年6月7日のこと。西宮球場で行なわれた対ロッテ戦の9回裏、
今津光男遊撃手の代打で登場した高井は、ロッテ・成田文男投手からレフトスタンドにソロホー
マーした。これが世界タイ記録。
そして同年8月27日、仙台宮城球場(ロッテの元本拠地)でのロッテWヘッダー第一戦。いきな
り初回、負傷した森本潔三塁手の代打で出てきた高井は、金田留広投手から左中間スタンドに
叩き込んだ。これが通算19本目の世界新記録となった。
ちなみに、入団2年目の昭和42(1967)年9月2日の近鉄戦で、坂東里視投手から放った第
1号ホームランから始まって、昭和57(1982)年に引退するまで、代打通算で27ホーマーした。
なお、27ホーマーは世界記録なのだから、当然日本記録でもあるのだが、代打で20本以上の
本塁打を放った選手は高井以外いないのだ。
さらに高井は、昭和49年のオールスター戦に代打として監督推薦で選ばれたのだ。そして、
0−2とリードされた第一戦、二死1,2塁のチャンスに代打として出場すると、ものの見事に
サヨナラ3ランをかっ飛ばしたのである! まさに代打のプロにふさわしい。
では今度はセントラル代表と行こう。中日の大島康徳(現日本ハム監督)を最右翼として問題
ないだろう。昭和51(1977)年、この年、大島は代打で7ホーマーを記録した。これは、かの
高井ですら記録できなかった、1シーズン内の最多代打本塁打なのだ。ちなみに、大リーグでは
ドジャースのJ・フレデリックが記録した6本だから(それも70年近く前の話)、これも立派な世界
記録。
なお、シーズン代打本塁打7本の記録を作った年の大島のシーズン本塁打数は14本。つまり
高井と違って、スタメン出場でもそこそこ打っていたのである。確かに若い頃は、代打になると
好機に長打を飛ばす魅力はあったが、好調を買ってスタメンで起用すると妙に打てなくなるという
ところがあった。さらに、お世辞にも守備が上手とは言えないマイナス面もあった。主なポジション
は、サードかファースト。外野も守った。しかし、当時のドラゴンズは、三塁手に島谷金ニ、一塁手
に谷沢健一と大物が守っていた。外野も、勝負強い井上弘昭、俊足好守のローン・ウッズ、強打
のトーマス・マーチンが布陣しており、食い込む余地もなかった。
しかし、ここで転機が訪れる。昭和51年のシーズンオフ、正三塁手の島谷が阪急へ出されて
しまったのだ。トコロテン式に大島がポジションに座ったが、周囲の不安をよそに打率.333で
27ホーマーを記録、がっちりとポジションをモノにしたのであった。
レギュラーになってからも大島は痛快な記録を作っている。この年の8月9日、ナゴヤ球場での
巨人戦で、1イニング2ホーマーという離れ業をやってのけたのだ。6回裏の攻撃で、先頭打者
として巨人先発のクライド・ライト投手から右中間スタンドへソロホーマーすると、打者一巡で回って
きた次の打席で、今度は小俣進投手から左中間スタンドへ満塁ホームランしてしまった。
大島のすごいところは、この1イニング2ホーマーというのが2度目だったということだ。昭和47
(1972)年8月2日のヤクルト戦(神宮球場)で、やはりソロと満塁の2アーチを叩き込んでいる。
もうひとり紹介しよう。佐藤竹秀外野手。近鉄、ヤクルトで活躍した選手だ。
佐藤のすごい記録とは、代打満塁本塁打をなんと3本も打っているということだ。
昭和49年に1本と昭和51年に2本。なお、代打満塁本塁打を2本以上打っているのは、3本打っ
たこの佐藤の他は、江藤愼一の2本があるだけという、価値有る一発なのだ。
※ と、ここから2002年3月に書いた修正です。
平成12(2001)年のシーズンに、代打満塁本塁打の新記録が出来た。それも、セ、パ両リーグ
でである。まずセントラル。広島の町田康嗣郎外野手が通算4本目の代打満塁本塁打を記録した。
そしてパシフィックのオリックス・藤井康雄外野手。彼はなんと、このシーズンに3本もの代打満塁
本塁打を放ったのだ(無論、日本記録である!)。通算の代打満塁本塁打が、これで一気に4本と
なり、町田と並んだ。
さて、代打者の誰もが夢見るもの。それは恐らく代打サヨナラホームランだろう。
中でも、代打逆転満塁サヨナラホームランという、ホームランにつく定冠詞がすべてついた一発と
いうのは代打にしか出来ないが、これを記録したのはわずか3人のみ。
いちばん有名なのが、巨人の樋笠一夫だろう。昭和31(1956)年3月25日、後楽園での中日
戦でのこと。先発・大矢根博臣投手に抑えられていた巨人打線は9回に反撃、無死1,2塁の好機
を迎えた。ここで中日は大事を見てエース・杉下茂を投入したが、これが裏目。杉下は広岡を遊ゴロ
に仕留めたが、これを岡島博治遊撃手が失策。無死満塁で樋笠が登場、見事に杉下の速球を捉え、
レフトスタンドにサヨナラホームランした。
あとの2人は、同じ年の6月24日に甲子園で阪神・藤村富美男が広島戦。そしてもう1本が巨人
の広野功。昭和46年5月20日にヤクルト戦で放ったもの。なお、この広野は中日時代に巨人・堀内
恒夫投手からも逆転満塁サヨナラホームランしているが、これはスタメン出場だった。
満塁ではないが、サヨナラホームランも気分のいいものだろう。
昭和43(1968)年8月24日。神宮球場で行なわれたヤクルト−中日戦。4−3で中日1点リードで
迎えた9回裏ヤクルトの攻撃。二死走者二塁で代打に豊田泰光が登場。豊田はカウント1−3からの
5球目をレフトスタンドへ運ぶサヨナラホームランを打った。さて、その翌日。3−3で迎えた10回裏の
ヤクルトの攻撃。一死一、二塁のチャンスで再び、代打に豊田登場。カウント0−2から打ってでた豊田
の打球は、なんとまたしてもレフトスタンドへ消えて行った。つまり、2試合連続の代打サヨナラホームラン
というわけである。面白いことに、打たれたドラゴンズの投手は2日とも山中巽投手だった。
さて、時は移って昭和52(1977)年。舞台は同じく神宮球場。ということは、主役はまたしてもヤクルト
の選手だ。その名は若松勉外野手。6月12日と13日に行なわれた広島戦で、脚の故障でスタメンから
外れていた若松は、2試合連続の代打サヨナラホームランを飛ばしている。
代打ホームランで面白い記録をひとつご紹介する。世界のホームラン王・王貞治は「無事これ名馬」
を地で行った選手でもあったが、さすがに晩年は身体のあちこちに故障が目立ち、欠場することも多く
なった。そんな昭和54(1979)年の8月下旬、ゲーム中に右足首を故障した王はしばらく試合を欠場し、
終盤に代打で出るという形を繰り返していた。そして9月12日、阪神を後楽園に迎えたゲームの8回裏、
2−1とリードした場面で二宮至左翼手の代打で王が登場した。王は、阪神のリリーフ・池内豊投手か
ら見事にライトスタンドへ飛び込むホームランを放ったのだ。
・・・。なんだよ、王がホームランしたって珍しくもなんともないぞ、という意見はごもっとも。しかし、実は
王はそれまで代打ホームランは1本も打ったことがなかったのである。というよりも、通算868ホーマーを
記録していながら、代打ホームランはこの1本だけなのだ。王が持っていない本塁打記録は、代打
ホームランとランニングホームランだけ、なんて言われていたくらいだった。そのうち、代打ホームランは
なんとか記録したものの、ランニングホームランだけはついに1本も打てなかった。
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