イトルで、複数の選手が同時獲得しづらいのが首位打者だろう。本塁打、打点は数字の
積み重ねなので、ダブる可能性はそう低くない。投手部門で言えば最高勝率や最優秀防
    御率などもこれと同じだろう。この手の「率」で競うものは、本塁打や勝ち星などと違って、
    ただ数を積み重ねればよいというものではない。だが、同時にふたりの首位打者が出てしま
    ったことがただ一度だけある。

     昭和44(1966)年のことだ。この年のパシフィック・リーグは、東映の張本勲外野手、
    近鉄の永淵洋三外野手、そして阪急の長池徳ニ外野手が絡み、激しい首位打者争い
    繰り広げられていた。

     開幕から永淵は絶好調で、4月、5月と常にリーディングヒッター争いのトップに居座って
    いた。やや調子を落とし、一時は9位まで低迷したが、6月中旬に再び首位に返り咲いた。
    ライバルの張本は、いまひとつ調子が上がらず、ベスト10からもれることもあったが、6月の
    終わりくらいから本調子になり、以後、快調に打ちまくった。
     その頃になると、3割8分の打率を誇っていた永淵に疲れが見え始め、夏場を迎え、8月の
    声を聞くころになると、永淵と張本のマッチレース状態になった。

     シーズンも押し迫った10月18日。この日、永淵はブレーブスとのダブルヘッダーで8打数
    2安打で3割3分4厘。トータルで482打数161安打だ。張本は、同じくダブルヘッダー(南海)
    を戦い、9打数4安打して480打数160安打の3割3分3厘で全日程を終えた。
     この時点で永淵がタイトル獲得のために残り試合を欠場するという、日本プロ野球名物の
    みっともないことをすれば単独首位打者になれたのであるが、なにせ近鉄はこの年、阪急と
    激しく優勝争いをしており、永淵も残り2試合を休むわけにはいかなかった。

     10月19日の近鉄−阪急戦。この試合に近鉄が勝てば20日の最終戦で優勝が決まり、
    阪急が勝てばそのまま優勝という大一番である。結局、試合は阪急がものにして優勝を決め
    た。そのゲームで永淵は4打数1安打。486打数162安打で打率3割3分3厘となり、1厘
    下げてしまった。
     翌日の試合で、2打数1安打か3打数2安打、4打数2安打。5打数2安打すれば単独の
    首位打者になれたのだが、三原脩監督は安全をみて永淵を休ませた。

     この結果、永淵が486打数162安打で張本は480打数160安打。計算してみればわか
    るが、両者の打数と安打数の最小公倍数は3。つまり1÷3の0.33333333・・・・となる。
    どこまでいっても0.33333・・・であり、史上唯一の2人首位打者誕生となった。

     閑話休題。首位打者で面白い例をもうふたつあげよう。
    昭和50年のパ・リーグ首位打者は、太平洋クラブ・ライオンズの白仁天外野手だったが、彼の
    成績は379打数121安打の3割1分9厘。プロ野球の規定打席は試合数×3.1である。
    この年は130試合制だったから、130×3.1で403打席が規定打席になる。白の場合、なん
    とジャスト403打席だったのだ。これもプロ野球初。後に、昭和56(1981)年のセントラルで
    阪神・藤田平、平成3(1991)年のパシフィックでロッテ・平井光親が達成しています。

     上記の白はギリギリで首位打者になれたのだが、実は規定打席に達しなくても首位打者に
    なれるケースもあるのだ。公式野球規則に「必要打席に満たない打者でも、その不足数を
    打席数として加算し、なお最高打率になった場合には、その打者が首位打者となる」という
    項文がある。さすがに一軍公式戦ではまだこの制度が適用されたことはないのだが、ウェスタ
    ン・リーグで5例、イースタン・リーグで1例起こっている。イースタンは昭和47年のヤクルト・
    長井繁夫内野手、ウェスタンの第一号は昭和45年の中日・坪井新三郎内野手がこの制度を
    適用されている。
     ちなみに、坪井新三郎選手の息子が、現在、阪神で活躍中の坪井智哉外野手である。

 ※なお、1987年のセントラル・リーグでも。打率.333でふたりの首位打者が誕生しています。
   篠塚 利夫(巨人) 115試合 429打数143安打 .333
   正田 耕三(広島) 123試合 393打数131安打 .333

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