〜ヤクルトスワローズ編〜


 1990年代   〜玉石混淆〜

   好選手を獲得するのが上手なことには変わりないようですが、この年代になると、さすがに当たりはずれが激しくなって
  きたようです。それにも増して、好成績を残しているのに「なぜこの選手を?」という解雇劇が目立ちます。一年目が良く
  て継続契約したものの、二年目には成績が落ちて解雇というパターンも。一年目良かったのは確かなのですから、もう
  少し我慢して使ってやってもよかったのでは、という選手もいました。他に、投手力が不足していたのはわかりますが、
  それにしても半端な投手を獲得し、「やっぱりダメだ」で放り投げるケースが多いように思えます。この時代、メジャーの
  球団も増え、なかなか好選手が来日しにくい状態であったことは確かですが……・。


  ドウェイン・マーフィー(Dwayne Murphy)

    73年、ドラフト15位でアスレティックス入り。78年に同球団でメジャーに昇格した後、レギュラーを獲得し、
   タイガース、フィリーズなどに移籍しながら、大リーグ通算166本塁打した強打者。185センチ84キロの
   がっちりした体格の黒人選手で、実績充分と期待された。しかしながら、実はスワローズ入りする前年は
   故障でシーズンのほとんどを棒に振っている。ヤクルト球団はその点をどう見ていたのか疑問である。
    案の定、パッとしない。結局、去年と同じ右膝を再度故障し、欠場するハメになる。それ以前の成績も
   大したことがなく、ケガの具合も芳しくなかったため、8月で解雇されている。
   実は筆者もほとんど記憶にない選手である。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
マーフィー 右左  外 90 ヤクルト  34 109  19  25  22    5   32  34   1 .229

  マイケル・ロックフォード(Micheal Rochford)

   82年のドラフト1位でレッドソックス入りしたサウスポー。しかし、多大な期待に反し、思うように成績が上がら
  ない。メジャー昇格したのは88年で、しかも大リーグ3年間で通算8試合に登板しただけ。マイナー(3A)暮らし
  がほとんどだった。そんな中、6月で退団したバニスターの後釜を探していたヤクルトに入団、来日した。
  2試合ほど先発したが、いずれも打ち込まれKO。仕方なく中継ぎに降格して使われたものの、やはりここでも
  さっぱりだった。愛想を尽かされ、8月には解雇。192センチ93キロという巨体だったが、何とも力感のない
  フォームで、球威もなかった。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
ロックフォード 左左 90 ヤクルト   9  0  3 23.0   0   0   10  17  24   22 8.61

  フロイド・バニスター(Floyd Bannister)

   73年アスレティックスのドラフト3位指名を拒否して、アリゾナ州立大へ進学する。そこで75年に全米大学選抜
  に選出され、来日する。そこで日本大学選抜チームを相手に2試合に先発、15イニングを投げて25三振を奪う
  快投を披露している。その後76年のドラフト1位でアストロズに入った。翌年、早くもメジャーに昇格すると、以後、
  マリナーズ、ホワイトソックス、ロイヤルズに於いて13年で133勝142敗という安定した成績を残した。この間、
  79年には、メジャーリーグ選抜の一員として再び来日している。
   しかし、順調だった大リーグ生活も、89年6月の左肩故障とその手術によって躓き、マイナー落ちしてしまう。
  そこを拾ったのがスワローズであった。だが案の定、左肩の故障は完治しておらず、本領を発揮できないまま
  入団した90年の6月で退団している。それから91年にエンゼルス、92年にレンジャースでメジャー登板している
  ものの、大した成績は残せなかった。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
バニスター 左左 90 ヤクルト   9  3  2 49.0   0   0   25  31  25   22 4.04

  ティモシー・バートサス(Timothy Birtsas)

   82年のドラフト2位でヤンキース入団。85年にアスレティックスでメジャーに上がり、その年は10勝して主力
  投手の仲間入りした。だが、活躍できたのはその年だけで、88年にはレッズに出され、91年に日本へやって
  きた。201センチの長身投手だったが、体重も110キロもあり、どう見ても太りすぎだった。どうもメジャーでダメ
  だったのも、このせいだったらしく、アスレティックスで2ケタ勝ったときは、もっとスマートだったそうだ。
  同じ肥満体投手の江夏を彷彿とさせたせいではなかろうが、スワローズは抑えとして起用するつもりだったらしい。
  しかし、たっぷり贅肉のついた腰は重そうでキレが悪く、制球もままならなかった。先発もさせてみたが、1試合
  だけ完封があるものの、あとはKOばかり。こりゃとても使えないということで、8月にはクビ。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
バートサス 左左 91 ヤクルト  18  3  5 85.0   1   1   43  72  56   53 5.61

  ジョニー・レイ(Johnny Ley)

    79年、アストロスのドラフト12位、81年にメジャー昇格を果たした。パイレーツ、エンゼルスと渡って、91
   年に来日した。180センチ82キロの、アメリカ人選手としては小柄な黒人選手。しかしその敏捷さ、バネの
   良さはさすがと唸らせるものがあった。パンチ力には欠けたため、存在は地味だったが、二塁の守備も良く、
   打率も満足のいくものだった。もともと一発長打を期待した選手ではなかったのだから、充分に合格点であ
   ろう。
    ところが2年目。レイが日本の慣れるのと同時に、日本投手もレイの打撃を見抜きだしていた。コンパクトな
   振りだが、インハイに弱点があり、そこを速球でつくと脆かったのだ。制球の良い日本の投手に弱点を攻めら
   れ、打撃不振に陥ってしまう。とうとう4月29日には、スランプを理由にスタメンを外されてしまったのだ。
   しかし、これはレイも納得していたらしい。打ててないのは事実なのだから。それでも、日々の練習で徐々に
   感じを取り戻してくる。そうなると試合に出たくなるのは当然である。しかし、レイの代役だった桜井が思いの
   ほか打撃好調。もともと守備要員だったから、守りも堅実だった。首脳陣としては、せっかく桜井が良い調子
   なのだから、これを崩したくはなかったらしい。気持ちはわからないでもないが、それではレイも納得しない。
   出場させろ、いやまだだ、の押し問答は、レイが押し切られてしまう。面白くないのはレイである。メジャー時
   代には、満塁で死球を喰らった時でも、怒り心頭でピッチャーに突撃していったくらい気性の激しい選手だ。
   アタマに来た彼は、5月2日の巨人戦、試合前に帰宅するという職場放棄をして見せた。レイにしてみれば、
   精一杯の抵抗といったところだろう。だが、こんなことをされたら、かのノムさんだって面白くない。両者の感
   情的な対立は極限に達し、とうとう7月19日付けで退団することとなった。表向きは、持病の腰痛ということ
   になっていたが、真相はこれらしい。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
レ イ 右両  二 91 ヤクルト 110  415  62 124  51   11   44  50   0 .299
      92   〃  49  153  13  29  13    2   13  16   0 .190
  計      2   159  568  75 153  64   13   57  66   0 .269

  ジャック・ハウエル(Jack Howell)

    83年、ドラフト外でエンゼルス入りし、早くも85年にはメジャーデビューを果たしている。ヤクルトに入団
   したのは92年だが、いきなり大活躍している。スワローズファンには印象深い選手ではないだろうか。
   ただ、このハウエル、一筋縄ではいかない選手だったようである。181センチ91キロのというガタイの白人
   選手なのだが、どうにも下半身が細かった。上半身はウェイトトレで鍛えていたようだが、走り込みはほとん
   どしていない体型にしか見えなかった。その上、名うての「根性なし」。ユマでの春季キャンプで、いきなり
   「脚が痛いから練習を休みたい」と訴え出てくる。なんじゃそら、とトレーナーに話を聞いてもぼやくばかり。
   治療するにも、ただの炎症で全治何日という診断が出るものではなかったのだそうだ。それでもハウエル
   は、「いや、シーズンに入ったらそんなことは言わない。だから休ませてくれ」の一点張り。野村監督も
   渋々認めたが、この嘘つきは開幕後にも同じことをやってのけるのだ。今度は5月に、「熱がある」と言って
   来たので検温してみると、これが36.8℃。つまり平熱である。甘えるな、と、追い返すと、また翌日同じ
   ことを言ってくる。計ってみると37.2℃。微熱と言えば言えなくもないが、誤差の範囲内であろう。
   さすがにアタマに来たノムさん、出場を強要したそうな。

    成績的には文句のない立派なものである。長打力はあるし、勝負強い。92年の優勝時には、MVPにも
   選ばれている。この年の獲得タイトルだけでも、92年に本塁打王、首位打者、ベストナイン。おまけにサイ
   クル安打まで記録している。守備だけはまずく、三塁の他、一塁や外野もやらされていたが、それでも打
   力で充分にカバーしていたろう。にも関わらず、成績は年々下降の一途。あまり素振りには見せなかった
   が、そんなに日本でやる気はなかったのだろう。愛想を尽かして見切りを付けたスワローズに対し、拾った
   巨人。日本のメジャー球団と期待したハウエルだったが、大差ないことに失望したのか、「家庭の事情」を
   理由にシーズン途中で退団してしまった。その後すぐにエンゼルス入りし、メジャー復帰しているところを
   見ると、やはりアメリカに帰りたかったのだろうな。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ハウエル 右左  三 92 ヤクルト 113  387  67 128  87   38    47  86   3 .331
      93   〃 121  396  72 117  88   28    91  83   3 .295
      94   〃 105  363  54  91  56   20    65  74   4 .251
      95 巨 人  66  219  35  61  41   14    39  66   1 .279
  計      4   405 1365 228 397 272  100   242 309  11 .291

  ジョニー・パリデス(Johnny Paredes)

    82年にプロ入りしたが、エクスポスとタイガースでメジャー経験が若干あるだけで、ほとんどマイナー暮らし
   だった。179センチ75キロと、ほとんど日本人と代わらない体つきで、守備、走塁は光るものがあった。
   とはいえ、やはり打撃がまったく期待はずれなのが大きかった。まだ30歳だったので、93年も契約する
   話もあったようだが、打力不足を指摘され、それはならなかった。非力なのはともかく、87年に3Aで43
   盗塁した割には、日本ではほとんど走れていないのもネックとなった。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
パリデス 右右  三 92 ヤクルト  53 157  22  38  12    3   15  30   1 .242

  レックス・ハドラー(Rex Hudler)

    78年プロ入りし、84年にメジャー昇格、以後、ヤンキース、オリオールズ、エクスポス、カーディナルスと
   渡り歩いた。セントルイスでは、かの世界一の名遊撃手オジー・スミスと二遊間コンビを組んだこともある。
   183センチ89キロの体格に似合わず、思いのほか堅実なバッティングで日本向きだった。器用な選手で
   はなかったし、守備も巧い方ではなかったのだが、何しろ懸命で泥臭いプレーをしてファンには受けた。
   打率は3割を打ったし、ホームランこそ少なかったものの、まずまずの成績を挙げたが、例によって「長距離
   砲が欲しい」という球団の思惑と異なったため、わずか1年で解雇となる。もったいない。彼の実力が本物
   だったことは、翌年すぐにエンゼルスでメジャー復帰したことからもうかがえる。

    なお、ハドラーと言えば、やはりミミズであろう(^^;)。若いファンにはわからないかも知れないが、この
   ハドラー、ミミズや蝉を食って、日本のファンやマスコミを驚かせたことがある。もちろん食用ミミズだったし、
   ミミズや蝉を食う習慣のある国も珍しくないので、別に悪食だったわけではない。外国人にとって、日本人
   が魚をナマで食ったり、クジラを食うのが奇異に見えるのと同じであろう。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ハドラー 右右  二 93 ヤクルト 120 410  48 123  64   14   39  77   1 .300

  ジェラルド・クラーク(Jerad Clark)

    84年ドジャースのドラフト23位でプロ入り。88年パドレス、93年ロッキー図を経てヤクルト入りした。
   クラークといえば、やはりバファローズのクラークが有名だが、スワローズにも同名選手がいたのだ。192
   センチ93キロと、近鉄のクラークを凌ぐ体格(こっちは182センチ90キロ)だったが、気の荒さもそれ以上。
   早くも開幕3戦目には、広島・佐々岡からの死球を巡って暴行。退場処分を受け、出場停止一週間を喰ら
   った。出場試合数を考えれば、成績的にはまずまずかと思われるのだが、フル出場できなかったのは、
   ケガが多かったせいなのだ。膝や背筋を痛めて欠場することしばしばで、これさえなかったらそこそこの
   結果は出せた選手ではないかと思われる。もうちょっと様子を見てもいいと思ったが、この年限りで解雇。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
クラーク 右右  外 94 ヤクルト  99 376  61 110  53   20   37  66   3 .293

  ヘンスリー・ミューレン(Hensley Meulens)

    85年のドラフト外でヤンキース入り、89年にメジャー昇格。以後はマイナーとメジャーを行ったり来たりだが、
   92年には3Aで26ホーマー、100打点を記録している。オランダ領アンチル諸島の出身で、アフリカ系や東南
   アジア系とも違う顔立ちの褐色選手だった。キリッとした精悍な顔つきで、日本でも女性ファンが多かった。
   94年にロッテへ入団したものの、粗い打撃が好まれずわずか一年で解雇。そこを拾ったのがスワローズだった。
   成績自体はロッテ時代と大差なかったものの、一発長打の魅力は充分で、同僚のオマリーとともにヤクルト
  打線を引っ張って、見事に優勝へと導いた。典型的な「ガイジン打者」で、荒っぽく三振も多いが、当たればホー
  ムラン。守備はそこそこで脚もそこそこ。平均的な助っ人選手だったと言えるだろう。
   そのヤクルトを解雇されたのが31歳の年だったが、日本での三年間はどこでも似たような成績だった。逆に
  言えば、残して置いてもこれくらいの働きはしたはずであり、どうしてクビなのかよくわからない。もっと良さそう
  な選手が獲れると思ったのかな。
   ミューレンはアメリカに戻った後、97年にエクスポスでメジャー復帰。翌年はダイヤモンドバックスに移籍したが
   どちらでも主に3A暮らしだった。2000年シドニー五輪では、オランダのナショナルチームに選抜され、4番で
   サードを守っている。予選のキューバ戦では、逆転タイムリーヒットを放って、見事に王者を破っている。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ミューレン 右右  三 94 ロッテ 122  431  49 107  69   23    40 135   8 .248
      95 ヤクルト 130  438  74 107  80   29    64 134   6 .244
      96   〃 128  439  47 108  60   25    49 140   1 .246
  計      3   380 1308 170 322 216   77   153 409  15 .246

  テレンス・ブロス(Terrence Bross)

   大成する選手というのは、何をやらせても出来る人間なのだろう。実際、ブロスも野球を始めたのはハイスクー
  ルに入学してからである。しかも3年生の時にバスケットにのめり込んでしまい、進学したSt.ジョーンズ大でも
  バスケを続けた。そこで全米ベスト4にまで勝ち進み、かのシカゴ・ブルズから入団要請も受けていた。だが
  どうしたことか、メッツに指名されるとバスケを捨て、野球の道に進んだ。91年にメジャー昇格、ジャイアンツ移
  籍、93年にパドレスへ移ったが、とうとう大リーグでは1勝も出来なかった。

   バスケや大リーグの名門チームに誘われたプライドは大きく傷つき、傷心のブロスは日本に活路を求めた。
  95年、ユマにキャンプに来ていたヤクルトでテストを受け、見事に合格、異国の土を踏むことになった。
  ここしかないと覚悟を決めていたのか、入団初年度からブロスの素質は大きく花開いた。開幕早々から
  ローテの中心投手として活躍、9月9日の巨人戦ではノーヒットノーランを達している。しかも、出した走者は
  死球の走者ひとりだから、これはほとんど完全試合に近かった。205センチの長身から投げ下ろす剛球で
  相手打者をねじ伏せ、14勝を稼いでヤクルトの優勝に貢献した。なお、この年は防御率のタイトルも獲って
  いる。
   ブロスのまずかったのはこの後で、どうも少し天狗になってしまった感がある。日本球界を舐めたわけでは
  なかろうが、年を追うごとに成績が落ち始め、反比例して我が侭が目立つようになってきた。跳ね上がる年俸
  のことも加味し、これ以上置いておく意味は薄れたとして、97年で自由契約。条件面に折り合わなかったと
  される。そこを拾った西武は大きな期待をかけたのだが、力はさっぱり発揮できず、シーズン途中で解雇、
  帰国している。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
ブロス 右右 95 ヤクルト  32 14  5 162.3   5   3   60 139  43   42 2.33
    96   〃  23  7 12 137.0   2   1   46  97  61   55 3.61
    97   〃  23  7  8 115.3   0   0   56  89  73   64 4.99
    98 西 武  11  2  3  42.3   0   0   24  28  28   27 5.74
  計    4  89 30 28 457.0   7   4  186 353 205  188 3.70

  ルイス・オルティス(Luis Ortiz)

    91年、レッドソックスドラフト8位で入団。93年にメジャー昇格し、94年にレンジャースへ移ったが、パッと
   しなかった。96年は3A暮らしだったが、そこで3番を打ち、好成績を収めたところをスワローズに目を付けら
   れた。501打数で、わずか67三振と確実性が買われたのである。182センチ88キロの、精悍としたカリビ
   アンで、いかにも俊敏そうな体格だった。登録名は、当初「ルイス」だったものの、同時期、先に巨人がルイス
   選手を登録していたため、開幕前急遽オルティスに変更している。
    アメリカで堅実性を誇ったバッティングも日本ではさっぱり通用せず、変化球に翻弄され続けた。確かに三振
   は少なかったが、同時に安打も少ないのでは如何ともし難い。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
オルティス 右右  一 97 ヤクルト  20  29   3   5   7    0    2   7   0 .172

  ジミー・テータム(Jimmy Tatum)

    85年、パドレスのドラフト3位でプロ入り。そこでは芽が出ず、92年、ブリュワーズで初メジャー。以後、
   ロッキーズ、レッドソックス、再びパドレスへ戻り、97年にマイナー落ちした。サッパリだったオルティスに
   代わって6月に入団した。チームメイトの強打者・ホージーの陰に隠れていたが、188センチ100キロの
   巨体に似合わず、明るく剽軽な人柄で、ナインの人気者だった。出場機会こそ少なかったが、これはブロス、
   ホージーが主力だったため、外国人枠に引っかかってしまったためだ。それでも打率は3割、13ホーマー
   は立派だろう。長打率は.640もあり、これはホージーすら上回ってチーム最高だった。
    普通なら、当然、2年目も契約するだろうが、何せブロスとホージーが頭抜けていたし、テータムの方も
   ファームに甘んじるつもりはなかったから、仕方のないことだろう。それにしても惜しい選手だった。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
テータム 右右  一 97 ヤクルト  51 139  27  43  25   13   19  28   4 .309

  ドウェイン・ホージー(Dwayne Hosey)

    87年ドラフト13位でホワイトソックス入り。95年にレッドソックスで大リーグ昇格を果たし、レンジャースを
   経てスワローズ入りした。178センチ80キロの日本人とさして変わらぬ体型だったが、全身、これバネの
   塊といった感じの精悍な黒人選手だった。ところがキャンプで練習ぶりを見て、首脳陣は失望する。もともと
   守備に難があるとは聞かされていたが、フライはポロポロ、ゴロはジャッグル。肩も弱いし、散々だった。
   せめてスイッチの打撃だけは、と思ったものの、これもブリブリ振り回すだけでからっきし。またしてもハズレ
   外国人か、と暗澹たる気持ちで開幕を迎えたが、どうしたことか大活躍。キャンプでは死んだフリでもして
   いたのかと言いたいくらいのバッティングを披露した。守備は相変わらずだったが、左右の打席から強烈な
   打球を生みだし、とうとうこの年のホームランキングまで獲得してしまった。さらに、期待していなかった脚
   の速さまで見せつけ、打って走れる4番打者として他球団の脅威となっていた。

    キャンプでまるでダメだったにも関わらず干されなかったのは、その性格によるところも大きかったろう。
   とにかく明るく元気で、人当たり抜群。ベンチのムードメーカーだったのである。ナインからも愛され、「太郎」
   というニックネームを貰ってご満悦、スパイクに「たろう」と平仮名で刺繍するほどだった。打ち出すようにな
   ってからはファンの受けもよく、ファンに貰ったプリクラのシールをベタベタとヘルメットに貼りまくっていたのを
   憶えている人も多いだろう。
    翌年はケガもあって成績が落ちたが、クビするほどではない。金銭面で折り合わなかったというが、日本
   での好成績に気をよくしたホージー自身に、メジャーへの色気があったのではないだろうか。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ホージー 右両  外 97 ヤクルト 137  498 101 144 100   38   68 107  20 .289
      98   〃 107  317  35  74  42   13   42  84   4 .233
  計      2   244  815 136 218 142   51  110 191  24 .267

  エリック・アンソニー(Eric Anthony)

    アストロズのドラフト34位(!)でプロ入り。メジャーデビューしたのは89年の7月で、94年にはマリナーズで
   レギュラーを掴みかけている。。その後、95年にレッズ、ロッキースへ移籍し、97年にドジャースで、98年には
   3A落ち。
    不振のムートンの代わりとして、その年の7月に来日した。安打数の割りに打点が多く、勝負強かった面はあ
   ったようだが、確実性に欠けた。故障も多く、スタメンで出られない試合も増え、中途半端なまま、この年限りで
   解雇。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
アンソニー 左左  外 98 ヤクルト  44 151  20  37  31   12   18  53   0 .245

  マーク・エーカー(Mark Acre)

   91年ドラフト外でアスレティックス入りする。94年に初昇格したものの、その後は鳴かず飛ばす。マイナーと
  メジャーの間を行ったり来たりのエレベータ投手。97年には、3Aながら3勝11Sの好成績を挙げ、98年に
  ヤクルト入りした。203センチ109キロの巨漢投手で、ブロスに次ぐ主力にと期待されたが、さっぱりだった。
  前半戦はまるで投げられず、後半になってチャンスを貰い、先発した9試合で好投。しかし打線の援護がなく
  未勝利に終わった。しかし、防御率も良く、来年に化けるかもとの期待を持たれて翌年も契約更新。
  ところがオープン戦たけなわの3月に右肩を痛めてリタイア、そのままファーム落ちした。その後も故障の具合
  が芳しくなく、5月に帰国して手術したものの、結局そのまま自由契約となった。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
エーカー 右右 98 ヤクルト  12  0  2 69.3   0   0   37  58  20   18 2.34

  ライル・ムートン(Ryle Mouton)

    91年のドラフト5位でヤンキースに指名される。以後、95年にホワイトソックスでメジャー初昇格した。
   その年いきなり3割を打ってレギュラーを獲得している。メジャーでクリーンアップを打った29歳の若手打者
   ということで期待は大きかったが、これもまたスカ。193センチ109キロという、戦車のような黒人選手だっ
   たが、目立ったのは三振ばかり。コントロールの良い日本投手に対してからっきしダメだった。日米のストラ
   イクゾーンの差違にも相当苛立っていたようで、開幕早々、判定を不服として審判に暴言を吐き、退場処分
   を受けている。まあ、確かにまるでダメではああったが、6月23日にはウェーバー公示され、他の球団も
   欲しがらなかったため、結局、離日している。なお、帰国後は、オリオールズでメジャー復帰した。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ムートン 右右  一 98 ヤクルト  30  87   7  21  12    3    9  27   0 .241

  リッチ・バチェラー(Rich Batchelor)

   88年のホワイトソックス7位指名、89年のヤンキース38位指名をいずれも拒否。そして90年のドラフト外で
  やっとヤンキース入りした。だんだんと評価が落ちているのが気になると思うが、スワローズはどう見ていたの
  だろうか。93年にカーディナルスでメジャーに上がったが、すぐにまたマイナー落ち。但し、94年からの3年間
  で、154試合も登板するタフネスぶりも見せた。その後、96年にメジャーで2勝するものの、またマイナー落ち。
  典型的なエレベータ選手だったが、99年に故障したエーカーの代わりを求めていたスワローズに入団、来日
  した。
   しかし日本でもやはりダメで、僅か7試合に中継ぎで投げただけですぐに故障した。右膝の半月板損傷で
  9月には治療、手術のために帰国。そのまま解雇。なんか、こんな選手ばっか(^^;)。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
バチェラー 右右 99 ヤクルト   7  0  0  5.6   0   0    2   2   5    5 7.94

  ジェイソン・ジャコム(Jason jacome)

   日本での登録名はハッカミー。91年ドラフト12でメッツ入りし、94年に大リーグへ上がった。95年ロイヤルズ、
  97年インディアンスへ移ったが、メジャーでは結果を残せなかった。98年、3Aで14勝したところ、スワローズに
  目を付けられ、日本に招聘された。異国の水が合ったのか、ハッカミーは見違えるような投球を見せた。
  もともとスピードのあるタイプではなかったが、スライダー、シンカーのキレはそこそこよく、何より打たれても四球
  を出しても崩れにくかった点が評価された。力でねじ伏せるピッチングではなく、ピンチを招いてもうまく切り抜け
  るねばり強さが信条だった。目を見張るような投球をするわけではないが、投げさせればそこそこの結果を出し
  てくれる投手だったのだ。実際、調べていて「やはりな」と思ったのは、1試合も完投がないことだ。それこそ
  彼らしいと言えるのではないか。
   エースとして君臨する投手ではなかったが、貴重な左腕先発投手としてローテーションの一角を立派に務め
  ていた。初年度12勝は上出来で、スワローズは2年目も契約、ハッカミーも期待に相応しいピッチングで首脳陣
  の信頼を得ていた。ところが、好事魔多し。2000年の8月に、利き腕の左親指を骨折してしまい、以後のシー
  ズンを棒に振ってしまった。まだ30歳だったので、ケガさえ治ればと思ったが、ヤクルトは彼と契約を結ばなか
  った。ハッカミー自身は日本球界でやっていく意志を持っていたので、ウェーバーに載せてもらい、ロッテが交渉
  した。両者は条件に合意したものの、結局、「家族の事情」と称して、ハッカミーは日本を去った。帰国後も球界
  復帰していないところを見ると、親指の怪我は思いのほか重かったのかも知れない。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
ハッカミー 左左 99 ヤクルト  26 12  6 140.0   0   0   48  92  76   70 4.50
    00   〃  24  8  6 118.3   0   0   27  68  47   44 3.35
  計    2  50 20 12 258.3   0   0   75 160 123  114 3.97

  トーマス・オマリー(Thomas O’Malley)

    阪神90年代を参照のこと。


  マーク・スミス(Mark Smith)

    91年のドラフトでオリオールズから1位指名を受け、プロ入り。94年にメジャーへ上がり、97年パイレーツ
   へ移ってから、99年ヤクルト入り。189センチ93キロの、がっちりした、というよりはずんぐりしたした体格の
   白人選手(93キロは眉唾だと思う)。見た目通りのパワーの持ち主で、4月9日のカープ戦では1試合3ホー
   マーを記録するなど、4月は.312、8ホーマー、15打点と絶好調だった。ところが、どうしたことか5月に入る
   とからっきしで、まるで打てなくなる。要は弱点を見破られたことで、インハイの速球とアウトローのスライダー
   で揺さぶられると非常に脆かったのである。もっとも、スミスの方は日本のストライクゾーンがよくわからなか
   ったようで、たびたび判定に食いついていた。インコースが日本はだいぶ甘いと思ったのだろう。
    それでも20発するなど、投手が失投してくればすかさず一発叩き込む力はあったから、1年でクビにする
   こともなかったと思う。だってまだ29歳だったんだよ。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
スミス 右右  外 99 ヤクルト  98 293  38  76  55   20   29  83   3 .259

  ロベルト・ペタジーニ(Roberto Petagine)

    女傑の年上女房で一躍有名になった選手ですね(^^;)。90年ドラフト外でアストロズ入りし、94年にメジ
   ャー入りを果たすが、以後は上がったり下がったりのエレベータ選手。3Aでは実力的にずば抜けており、
   97年には.317、31ホーマー、100打点、翌年も.331、109打点をマークしている。これほどの実力者
   を見逃すはずもなく、ヤクルトが獲得している。そもそもペタジーニの場合、所属したメッツやレッズに、強力
   なレギュラーがいて一塁のポジションが獲れなかっただけのことだったから、チャンスさえ与えてやれば活躍
   していたはずである。
    185センチ84キロという均整の取れた体格の彼はベネズエラ出身。ハングリーさでは日本選手の比では
   なかった。一軍スタメンというチャンスが与えられるや否や、途端にバリバリ打ちだしたのである。性格的に
   は至って真面目でおとなしく、ホージーなどと違って、グラウンドでは寡黙なほどに物静かな選手だった。
   故に、実はヒーローインタビューなんかも苦手だったらしい。それでも一所懸命な堅物で、真面目な人だった
   から、嫌われることはなかった。ペタジーニで特筆すべきは、その選球眼の良さであろう。成績を見てもわか
   るだろうが、三振が少なく四球が多いのだ。同タイプのハウエルやホージーの成績と比較してみれば一目
   瞭然である。日本野球への順応が早かったということもあろうが、ボール球に手を出さないということが首脳
   陣の信頼を買うこととなったのである。とにかく、毎年毎年、打撃タイトルとベストナインの常連で、彼がいれ
   ば7,8年は外国人選手と一塁手の心配はないとまで言われたのである。
    その後の、契約問題、巨人への移籍等はご存じの通り。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ペタジーニ 右両  一 99 ヤクルト 134  452  97 147 112   44  123  91  10 .325
      00   〃 136  484  91 153  96   36  101 116   7 .316
  計