〜阪神タイガース編〜
1990年代 〜泥濘期 夢よもう一度…〜
85年の、夢のような優勝は過去のものとなりました。それから続くはずだった「黄金期」は夢幻となった
ことに、ファンが気づくにはそう長い時間は必要なかったのです。
その兆候は、獲得する外国人選手たちにも現れていました。80年代以上の、使い捨ての時代。中には
見捨てられてもやむを得ない選手もいましたが、ならばなぜそんな選手を獲得したのか。国内ドラフトも
含め、選手補強がまるでなっていなかったようです。
監督のクビをすげ替えて満足する時代はとうに終わりました。根本的な改革を為さない限り、この球団の
発展はないかも知れません。
リチャード・ウィッグス(Richard Wieligman)
パリッシュ、キーオの陰に隠れていた第三の外国人選手。つまりは保険である。28歳と比較的若く、
アメリカでもメジャー経験はない。球団としても、外国人打者としてはタイトルホルダーであるパリッシュに
多くを期待していたので、それでもよかったのだろう。タイガースにとっては、ウィッグスが出場するような
事態は避けたかったろうが、得てして不幸は起こるもの。パリッシュは途中退団してしまうのだ。愕然と
したが、ウィッグスはこういう時のためにいるのだ。早速ファームから引き上げて起用した。
が、そもそもその程度の期待度で獲得した選手が活躍しようはずもない。昇格したはいいが、彼の
バットからは快音か聞かれなかった。ブリブリと力任せに振り回すだけ。スタメンのチャンスも何度か与え
られたが、2割に満たない打率、ホームランはわずかに1本ではお払い箱もやむを得ない。
ちなみに本名はウィリグマンと発音する。ウィッグスは登録名。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ウィッグス | 左左 | 外 | 90 | 阪神 | 26 | 47 | 2 | 9 | 4 | 1 | 5 | 16 | 0 | .191 |
ラリー・パリッシュ(Larry Parrish)
ヤクルト1980年代を見よ。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
パリッシュ | 右右 | 三 | 89 | ヤクルト | 130 | 493 | 75 | 132 | 103 | 42 | 40 | 129 | 2 | .268 |
90 | 阪 神 | 105 | 381 | 56 | 95 | 80 | 28 | 48 | 98 | 0 | .249 | |||
計 | 235 | 874 | 131 | 227 | 183 | 70 | 88 | 227 | 2 | .260 |
マーヴェル・ウィン(Marvell Wynne)
どうも阪神というのは、長距離砲の他に、このウィンやアレンのようなアベレージヒッターまでも
外国人選手に期待するフシがある。にも関わらず、この手の打者で長続きした選手はいないのだ。
ウィンもその不幸な選手のひとり。
83年にメジャーに昇格すると、8年間大リーグで活躍する。そのころももちろん中距離打者として
ヒットを重ねていたわけだ。タイガース入りしたのは91年で、球団としてもトップバッターか3番あたり
を期待していた。
開幕からスタメンで出場、リードオフマンであったが、いかんせん成績が伴わなかった。ホームラン
を期待されているわけではないから13ホーマーはともかく、打率.230、盗塁わずかに6はいただけ
なかった。甲子園での巨人戦でサヨナラヒットを放つなど、一瞬のきらめきのようなものはあったが、
打てない記憶の方が多かった。守備走塁も平均以上ではなく、1年解雇は仕方ない。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ウィン | 左左 | 外 | 91 | 阪神 | 123 | 453 | 40 | 104 | 44 | 13 | 19 | 96 | 6 | .230 |
ジェームス・パチョレック(James Paciorek)
横浜1980年代を見よ。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
パチョレック | 右右 | 一 | 88 | 大洋 | 130 | 497 | 58 | 165 | 76 | 17 | 35 | 59 | 6 | .332 |
89 | 〃 | 118 | 435 | 48 | 145 | 62 | 12 | 34 | 45 | 2 | .333 | |||
90 | 〃 | 133 | 527 | 78 | 172 | 94 | 17 | 31 | 47 | 3 | .326 | |||
91 | 〃 | 114 | 442 | 52 | 137 | 75 | 11 | 35 | 49 | 0 | .310 | |||
92 | 阪神 | 129 | 512 | 73 | 159 | 88 | 22 | 44 | 73 | 0 | .311 | |||
93 | 〃 | 74 | 263 | 24 | 64 | 36 | 7 | 32 | 45 | 1 | .243 | |||
計 | 698 | 2676 | 333 | 842 | 431 | 86 | 211 | 318 | 12 | .315 |
トーマス・オマリー(Thomas O’Malley)
阪神ファンにとってもヤクルトファンにとっても忘れがたい選手のひとりだろう。三塁守備には若干不安
もあったが、左打席から繰り出す強烈なラインドライブは魅力だった。
79年のドラフト16位でプロ入り。わずか3年後にはメジャーに昇格する。しかし、大リーグでは定住の
地は得られず、強打の内野手を探していた阪神のオファーを受けることになった。来日当初から、彼独特
の明るい性格と茶目っ気たっぷりのユーモアで、すぐにナインとも打ち解け、ファンにも親しまれた。
「ハンシンファンハ、サイコーヤ!!」の雄叫びは有名でしたね。
1年目からいきなりその打棒は炸裂、外国人打者には珍しくコンパクトなスイングで日本球界にマッチ
する。初年度からフル出場、3割をクリアし、21ホーマー、81打点は立派。見事にベンチやファンの
期待に応えて見せた。以後もコンスタントに打ち続け、93年には首位打者のタイトルを獲得する。
にも関わらず、どういうわけか94年限りで整理されてしまう。年齢34歳だったが、まだまだやれたし
不可解である。球団の言い分としては、例によって「長打力がない」。だが、本音のところは、毎年継続
して好成績を残しているため、その年俸がネックになったのだろう。
そんなオマリーを他球団が見過ごすはずもない。同一リーグのスワローズがすかさず契約する。
オマリーはタイガースを見返すように打ちまくり、不足と言われたホームランを31本放ってみせるなど
溜飲を下げた。さらにこの年はヤクルト優勝の原動力ともなり、日本シリーズでも大活躍する。
小さめのヘルメットをかぶり、ガムを噛みつつ、打席に入るその姿は迫力があった。
そのヤクルトも2年後には退団。これは本人にメジャー復帰の希望があったからだとされている。
97年にはレンジャースと契約したが、スプリングキャンプで1軍枠から洩れてしまい、この年限りで
引退している。
いずれにしても、在籍6年オール3割クリアはすごい成績。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
オマリー | 右左 | 三、一 | 91 | 阪 神 | 130 | 476 | 61 | 146 | 81 | 21 | 59 | 83 | 0 | .307 |
92 | 〃 | 111 | 381 | 55 | 124 | 62 | 15 | 96 | 70 | 3 | .325 | |||
93 | 〃 | 125 | 434 | 60 | 143 | 87 | 23 | 77 | 71 | 1 | .329 | |||
94 | 〃 | 124 | 430 | 61 | 135 | 74 | 15 | 90 | 74 | 2 | .314 | |||
95 | ヤクルト | 125 | 421 | 83 | 127 | 87 | 31 | 98 | 54 | 6 | .302 | |||
96 | 〃 | 127 | 461 | 56 | 145 | 97 | 18 | 75 | 70 | 3 | .315 | |||
計 | 742 | 2603 | 376 | 820 | 488 | 123 | 495 | 425 | 15 | .315 |
かくり・たてお(郭李 建夫)
92年、バルセロナオリンピックでのヒーローのひとり。台湾野球を銀メダルにまで押し上げた殊勲者
だった。恐らく事前契約していたものと思われるが、五輪終了後に阪神と契約、タイガース初のアジア人
外国人選手となる。初年度、2年目と、そこそこの成績を残しはしたものの、期待の大きさからすると
阪神にとっては不満だった。心機一転、96年にはリリーバーに転向させてみたが、防御率は相変わらず。
15セーブを記録したものの、やはり今ひとつ。リリーフエースとしては安定性がなく、守っているバック
も、起用する首脳陣も不安だったろう。
97年はケガも絡み、98年には郭李を見限ったフロントがメイ、リベラを入団させたため、ますます
出番が減り、その年限りで帰国した。
その後、98年シーズン後に台湾プロ野球の和信に入団し、台湾ナショナルチームにも選抜された。
さらにその年のアジア大会では再びエースとして君臨、銅メダル獲得の原動力となった。
あまりパッとした活躍はできなかったが、日本プロ野球での経験は無駄にはならなかったと見るべき
だろう。引退後は指導者の道を進んでいる。
選手名 | 投打 | 年 | 所属 | 試合 | 勝 | 敗 | S | 回 数 | 完投 | 完封 | 四死球 | 三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
郭 李 | 右右 | 93 | 阪神 | 27 | 5 | 4 | 2 | 51.3 | 0 | 0 | 28 | 48 | 24 | 21 | 3.68 |
94 | 〃 | 49 | 7 | 5 | 2 | 86.0 | 0 | 0 | 41 | 70 | 32 | 30 | 3.14 | ||
95 | 〃 | 30 | 5 | 12 | 0 | 115.0 | 3 | 2 | 68 | 92 | 48 | 43 | 3.37 | ||
96 | 〃 | 45 | 8 | 9 | 15 | 104.3 | 1 | 1 | 51 | 81 | 47 | 42 | 3.62 | ||
97 | 〃 | 5 | 0 | 0 | 0 | 4.6 | 0 | 0 | 4 | 3 | 4 | 3 | 5.79 | ||
98 | 〃 | 11 | 2 | 1 | 0 | 13.6 | 0 | 0 | 13 | 5 | 9 | 7 | 4.61 | ||
計 | 167 | 27 | 31 | 19 | 375.0 | 4 | 3 | 205 | 299 | 164 | 146 | 3.50 |
ロバート・ディアー(Robert Deer)
オマリーという左の好打者を獲得した阪神。今度は右の強打者を求めた。うまい具合にアンテナに
引っかかった選手がいた。84年にメジャー昇格後、大リーグ通算226ホーマーという長打力を誇る
ディアーである。願ってもない大物獲得に、フロントも首脳陣も狂喜乱舞。これで優勝もイタダキと思った
かも知れない。
絶大な期待で迎えられ、4番に据えられたディアーだが、いざ打席に立たせてみると、「ん?」。
当たらないのだ。バットにボールが。コントロールが良く、変化球で勝負してくる日本人投手にとまどい、
ボックスでは空振りを繰り返した。まともに当たれば抜群の飛距離を残したが、緩い大きな変化球、
特に落ちるタマがまるで打てない。ディアーの焦りも募ったろうが、彼を使うベンチも困った。鳴り物
入りの入団だが、打率が2割にも届かないのではお話にならない。当然のように1年で解雇。
その後帰国、95年は3A暮らしだったが、翌年7月にはパドレス入りした。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ディアー | 右右 | 外 | 94 | 阪神 | 90 | 192 | 21 | 29 | 21 | 8 | 34 | 76 | 0 | .151 |
スコット・クールボー(Scott Coolbaugh)
オマリーの後釜というわけである。パドレス、カーディナルスを経て阪神入りする。
なにせ、首脳陣にもナインにもファンにも、オマリーの活躍がはっきりと頭に残っている。そんな中、
プレーしなければならない点は、クールボーにも同情の余地はある。だからこそ、ベンチもオープン
戦、開幕当初の大不振にも目をつぶって我慢した。その甲斐あってか、オールスター以降、特に
8月以降は目の覚めるような活躍ぶりで、十分に主力打者としての働きを見せた。結果的に.278
の22ホーマー、77打点だが、これはほとんど夏以降の成績だといってよい。
これなら来季はもっと期待できるだろうと、首脳陣もほくそ笑んだ。
ところが翌年も、春先はまるで打てなかった。もっとも、これは去年もそうだったので、今年も我慢
するのかと思いきや、「去年は例外」とばかりに早々と見切りをつけ、6月にはグレンとセットで解雇
した。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
クールボー | 右右 | 三 | 95 | 阪神 | 127 | 468 | 56 | 130 | 77 | 22 | 57 | 102 | 1 | .278 |
96 | 〃 | 48 | 167 | 14 | 35 | 16 | 2 | 14 | 39 | 1 | .210 | |||
計 | 175 | 635 | 70 | 165 | 93 | 24 | 71 | 141 | 2 | .260 |
グレン・デービス(Gllen Davis)
彼もオマリーの後釜である。クールボーかグレン、どちらかがオマリー並の働きをしてくれれば、と
思っていたのだろう。ところが、クールボーは開幕から大スランプ。グレンはさほどでもなかったが、
それでもオマリーには遠すぎた。打率は.256と低かったが、それでもホームランはなんとか23本、
打点も77あり、クールボーと同様、慣れればもっとやれるとの考えから来季も契約する。
なのにグレンも開幕からまるでダメ。クールボーよりさらにひどく、開幕ベンチ入りからも外れてしま
った。半月後には1軍復帰し、5月1日には、甲子園の横浜戦で代打サヨナラ満塁ホームランを
放つなど、印象的な働きを見せた。しかし、それも一瞬で、相変わらずの粗っぽい打撃は一向に
直らなかった。業を煮やした首脳陣に、クールボーともどもアメリカへ追い返された。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
グレン | 右右 | 一 | 95 | 阪神 | 120 | 453 | 47 | 116 | 77 | 23 | 42 | 79 | 1 | .256 |
96 | 〃 | 33 | 114 | 10 | 27 | 18 | 5 | 14 | 24 | 1 | .237 | |||
計 | 153 | 567 | 57 | 143 | 95 | 28 | 56 | 103 | 2 | .252 |
クレイグ・ワシントン(Craig Worthington)
6月10日にW退団となったクールボー、グレンに代わって入団した新外国人選手。クビにした
両外国人ともにスタートダッシュの悪さに泣いた阪神だったが、このクレイグは違った。来日する
と、いきなり3番サードを任されたが、その期待に応えて快打を飛ばした。その後も安定して3割
をキープ、これは思わぬ拾いもの、最下位を走るチームの起爆剤になるかと思いきや、1ヶ月ほど
で、やや息切れ。その後、8月に右足肉離れを起こして欠場、登録を抹消されると、そのまま9月
には解雇されてしまった。なぜ?(^^;)
まだわからんでしょう、そんな短い期間じゃ。しかも試合中の故障だし、それまではそこそこ打って
たわけだし。何を基準に解雇してるのかワケがわかりません。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
クレイグ | 右右 | 三 | 96 | 阪神 | 22 | 75 | 15 | 20 | 12 | 3 | 15 | 11 | 0 | .267 |
ケヴィン・マース(Kevin Maas)
クレイグと同様、先にクビになった両外国人の代わりとしてセットで入団した選手。
90年にヤンキースに昇格しており、それなりに期待はもたれていた。クレイグ3番、そしてマースは
4番ファーストに据えられた。クレイグもそうだったが、このマースも来日当初からバリバリと打って
主軸としての期待に応えている。
ただ、長打力はそれなりにあったのだが、打てるポイントが少なく、それを日本投手に見抜かれる
と弱点ばかり集中的に攻められて、徐々に成績が下がっていった。
中途解雇にはならなかったが、シーズン終了と同時にお払い箱となった。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
マース | 左左 | 一 | 96 | 阪神 | 63 | 241 | 23 | 59 | 42 | 8 | 27 | 60 | 1 | .245 |
マイク・グリーンウェル(Mike Greenwell)
タイガース史上、もっとも輝かしい経歴をもった外国人選手であろう。ただし、大リーグにおいて、だが。
82年レッドソックスのドラフト3位で入団すると、早くも3年目にはメジャー昇格、いきなり5番を任された。
その翌年にはWシリーズにも出場している。オールスターは88,89年に連続出場した。そして、メジャー
での通算打率が3割を超えるのである。タイガースに入団したときは34歳。まだまだやれるはずだった。
絶大な期待を持って迎えられたグリーンウェルだが、オープン戦直前のキャンプ中に故障、阪神サイド
が引き留めるのも聞かずに、「治療のため」と称して帰国してしまう。呆気にとられた首脳陣だが、待つ
しかない。
開幕1ヶ月後の5月3日に、ようやく再来日したものの、5月10日の巨人戦に自打球を当てて右足の甲
を骨折。記者会見を開くと、なんと引退表明。引退理由が「神のお告げ」ではファンも球団も納得しまい。
帰国後は、フロリダに「グリーンウェル・ファンパーク」と名付けた、甲子園球場の20倍以上の広さを
持つ遊園地を開園している。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
グリーンウェル | 右左 | 外 | 97 | 阪神 | 7 | 26 | 2 | 6 | 5 | 0 | 3 | 0 | 0 | .231 |
ダネル・コールズ(Darnel Coles)
中日1990年代を見よ。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
コールズ | 右右 | 三 | 96 | 中日 | 130 | 513 | 77 | 155 | 79 | 29 | 60 | 79 | 0 | .302 |
97 | 阪神 | 63 | 231 | 28 | 56 | 28 | 7 | 14 | 40 | 0 | .242 | |||
計 | 193 | 744 | 105 | 211 | 107 | 36 | 74 | 119 | 0 | .284 |
リード・シークリスト(Reed Scrist)
シーズン前に獲得したハイアットが不調のうえケガがちだったため、代役として6月に入団させたのが
シークリストだ。初出場の同月21日には、東京ドームの巨人戦で代打で出場、見事にタイムリーヒット
を放ってみせ、ファンに強烈にアピールした。その後レギュラーに定着、オールスター前までは3割を
たもったが、オールスター以降は人が変わったように打てなくなった。スタメンはもとより、代打でも
打てなくなってしまい、8月には登録抹消。シーズン中の9月8日にクビとなる。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
シークリスト | 右左 | 三 | 97 | 阪神 | 25 | 52 | 4 | 10 | 4 | 0 | 9 | 18 | 0 | .269 |
フィリップ・ハイアット(Philip Hiatt)
新三塁手として獲得したのがハイアット。前年、3Aで本塁打、打点の2冠王をとったのだが、実は
シーズン180三振というとんでもない記録も同時に作っていた。普通、ここに不安を抱くと思うのだが、
当時のタイガースはどうだったのだろう。
開幕してからも、増えるのは三振ばかりで打率は低空飛行。ツボにはまればホームランだが、そんな
に日本プロ野球は甘くない。おまけに腰痛の持病があることも判明、ここで阪神もハイアットに見切りを
つけたようだ。
真面目に練習する姿勢を評価する声もあったので、代役のシークリスト入団後も在籍していたが、
成績は一向に伸びないため、閉幕後に解雇。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ハイアット | 右右 | 三 | 97 | 阪神 | 67 | 206 | 26 | 42 | 30 | 11 | 29 | 64 | 3 | .204 |
ボブ・マクドナルド(Bob McDonald)
不足気味の左腕を少しでも補おうと入団させたサウスポー。とはいえ、5月下旬にテストで入団させ
たのである。それゆえに、さほど期待もしていなかったろうが、それにしても実力不足は否めなかった。
6月の1ヶ月だけ1軍で投げたのだが、ボロボロに打ち込まれた。こりゃダメかも知れんてことでファーム
に落とした。しかし、ここでも9試合に投げて0勝3敗と打たれまくってジ・エンド。これで本当にヤンキース
で投げたのかと思われたピッチングだった。
閉幕を待たずして、ハイアットとともに9月8日にクビ。
選手名 | 投打 | 年 | 所属 | 試合 | 勝 | 敗 | S | 回 数 | 完投 | 完封 | 四死球 | 三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
マクドナルド | 左左 | 97 | 阪神 | 9 | 0 | 1 | 0 | 7.3 | 0 | 0 | 4 | 9 | 6 | 6 | 7.36 |
ポール・クリーク(Poal Creek)
左投手日照り対応として、シーズン前に入団。ストレートはさほどでもないが、スライダーのキレで
勝負するタイプだった。日本向きだとしてかなり期待されたが、開幕早々に左肩を故障する体たらく。
当然ファームに落ちたが、ケガが癒えたあとに登板すると、2軍では抜群のピッチングを展開した。
喜んで1軍に引き上げると、これがパッとしない。
結局、この繰り返しで、1軍で勝ち星をあげることは出来なかった。2軍では十分以上に通用し9勝
をあげてファーム優勝の原動力にはなったが、1軍での成績がこれでは…。
選手名 | 投打 | 年 | 所属 | 試合 | 勝 | 敗 | S | 回 数 | 完投 | 完封 | 四死球 | 三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
クリーク | 左左 | 98 | 阪神 | 7 | 0 | 4 | 0 | 28.6 | 0 | 0 | 25 | 24 | 21 | 18 | 5.65 |
アロンゾ・パウエル(Alonzo Powell)
中日1990年代を見よ。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
パウエル | 右右 | 外 | 92 | 中日 | 88 | 302 | 44 | 93 | 35 | 13 | 23 | 59 | 4 | .308 |
93 | 〃 | 97 | 394 | 63 | 125 | 66 | 27 | 36 | 76 | 3 | .317 | |||
94 | 〃 | 110 | 423 | 61 | 137 | 76 | 20 | 47 | 73 | 3 | .324 | |||
95 | 〃 | 101 | 389 | 63 | 138 | 69 | 19 | 33 | 60 | 1 | .355 | |||
96 | 〃 | 130 | 518 | 63 | 176 | 67 | 14 | 46 | 69 | 1 | .340 | |||
97 | 〃 | 106 | 379 | 36 | 96 | 56 | 14 | 38 | 56 | 0 | .253 | |||
98 | 阪神 | 78 | 204 | 24 | 52 | 28 | 9 | 24 | 50 | 1 | .255 | |||
計 | 710 | 2609 | 354 | 817 | 397 | 36 | 247 | 119 | 13 | .313 |
デヴィット・ハンセン(David Hansen)
90年にメジャー昇格、ドジャース入りする。93年には全米オールスターの一員として来日している。
さらに95年には野茂とともにプレーもしている。
実績もある上にやる気も満点、インセンティブ契約にタイガース優勝を盛り込んだのもの話題になった。
7月には3試合連続ホームランするなど一時的な活躍はしたが、長続きしなかった。そこそこ勝負強い面
もあったと思うが、率、本塁打ともに期待はずれで、この年限りで解雇された。
99年にドジャースへ入り直し、00年には年間代打本塁打7本を放って、大リーグ新記録を作った。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ハンセン | 右左 | 三 | 98 | 阪神 | 121 | 400 | 42 | 101 | 55 | 11 | 44 | 89 | 0 | .253 |
デジ・ウィルソン(Desi Wilson)
メジャーに上がったのは96年シーズンの一部のみ。あとはファーム暮らしである。29歳になって
いたが、阪神は若さと適応力に期待した。ウィルソン本人も、「日本で打撃技術を磨く」と謙虚な姿勢を
見せた。そのせいというわけではなかろうが、開幕からファーム暮らしとなる。
パウエル、ハンセンを抜くことはできず、1軍に上がることは滅多になかった。身長204センチ、体重
104キロというがっちりした体にも関わらず、ミートポイントが悪いのか、とんと長打力がなかった。
真面目な選手だったが、この成績では1年解雇もやむを得ないか。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ウィルソン | 左左 | 外 | 98 | 阪神 | 16 | 24 | 0 | 4 | 3 | 0 | 0 | 7 | 0 | .167 |
ダレル・メイ(Darrell May)
98年のオープン戦終了間際に入団。ローテーションの中心として投げた。1年目は4勝9敗と
振るわなかったが、これは貧弱なバックのせいといった方がいいだろう。とにもかくにも、懸念の先発
投手、それも待望の左腕が手に入ったのだ。翌年も先発陣の柱として活躍する。
が、ふがいない打線、穴だらけの守備陣にウンザリしたのか、判定を不服として審判に暴行して
出場停止になるわ、悪し様に首脳陣(特に野村監督)批判をやってのけるわ、モラル面に問題あり
とされた。
最後には、ノムラのもとではプレーできない、きちんと援護してくれるチームがいいとして退団する。
99年、念願の巨人に入団、熱望していた強力なバックを得たメイは十分に力を発揮、12勝をあげ
たうえ、防御率もグンと良くなった。翌年も2ケタ勝ったが、長嶋監督の投手起用に不満を持ち、
メジャー復帰を希望して01年限りで退団した。
選手名 | 投打 | 年 | 所属 | 試合 | 勝 | 敗 | S | 回 数 | 完投 | 完封 | 四死球 | 三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
メ イ | 左左 | 98 | 阪神 | 21 | 4 | 9 | 0 | 129.6 | 1 | 1 | 61 | 94 | 55 | 50 | 3.47 |
99 | 〃 | 18 | 6 | 7 | 0 | 112.3 | 0 | 0 | 42 | 113 | 56 | 53 | 4.25 | ||
00 | 巨人 | 24 | 12 | 7 | 0 | 155.3 | 3 | 3 | 43 | 165 | 52 | 51 | 2.95 | ||
01 | 〃 | 26 | 10 | 8 | 0 | 159.0 | 1 | 0 | 50 | 168 | 74 | 73 | 4.13 | ||
計 | 89 | 32 | 31 | 0 | 556.3 | 5 | 4 | 196 | 540 | 237 | 227 | 3.67 |
リベラ(Bienvenido Rivera)
ドミニカ出身。87年ブレーブスに入団し、93年にはフィリーズで13勝してWシリーズ制覇に貢献
した。95年に右肩を故障し翌年は3A暮らし。97に台湾プロ野球入りして5勝5敗24Sの成績を
残した。そこを阪神に目をつけられ98年に入団。2メートル110キロの巨漢で、太りすぎを懸念する
声もあったが、2勝3敗27Sと立派にリリーバーとしての成績をあげた。翌年はやや成績を落とした
ところに、8月には右ヒジを故障し、アメリカへ渡って手術。完治の見込みなしと判断して、そのまま
解雇した。
選手名 | 投打 | 年 | 所属 | 試合 | 勝 | 敗 | S | 回 数 | 完投 | 完封 | 四死球 | 三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
リベラ | 右右 | 98 | 阪神 | 44 | 2 | 3 | 27 | 53.0 | 0 | 0 | 19 | 45 | 14 | 14 | 2.38 |
99 | 〃 | 29 | 1 | 1 | 12 | 25.3 | 0 | 0 | 6 | 29 | 4 | 2 | 0.71 | ||
計 | 73 | 3 | 4 | 39 | 78.3 | 0 | 0 | 25 | 74 | 18 | 16 | 1.84 |
マーク・ジョンソン(Mark Johnson)
95年にメジャー昇格。来日当時は32歳で、まだバリバリ活躍できる若さだった。外野手登録だった
が、しばしば一塁も守った。開幕から突っ走った中日を捉えて、阪神が首位に躍進した5月には7ホーマー
して主砲として働いた。以後、タイガースの調子が落ちると、同じように打率も低下し、後半はスタメン
から外れることも多かった。それでも、最下位に喘ぐ阪神において、4番としてそこそこ頑張った方だ
ろう。まだ若かったし、思ったより三振も少なく、またいいところで打っていたように思えたので、1年
限りでクビにするような成績でもなかったのではなかろうか。
筆者がよく憶えているのは99年の名古屋ドームでの中日戦。ドーム最終戦だったのだが、この
試合は2−1で中日リードのまま9回を迎える。マウンドは抑えの宣だったが、走者2人を置いて、
代打に出たジョンソンが逆転3ランをかっ飛ばしたのである。
もっとも、この試合はその裏に山崎が再逆転のサヨナラ3ランを打ち込んで、中日が劇的な勝利を収
めたのであるが、絶対的なリリーフエースの宣から代打で逆転ホームランを打った、ということで、この
ジョンソンは本当に印象的な選手だった。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ジョンソン | 左左 | 外、一 | 99 | 阪神 | 125 | 376 | 52 | 95 | 66 | 20 | 56 | 78 | 1 | .253 |
マイク・ブロワーズ(Mike Blowers)
ジョンソンと同時期に入団したが、メジャー選手としてはブロワーズの方が格上。球団としても
4番として期待した。春先から5月にかけては、その期待通り打撃好調で、首脳陣を喜ばせたが
長続きしなかった。長打力が自慢なだけに、力任せに振り回すシーンが目立ち、必然的に三振も
多かった。6月、7月と調子が戻らなかったため、ファームに落としたものの、契約書に「1軍以外
ではプレーしない」という項目を楯に反発、球団と対立した。結局のところ、どうにもならず、2年
契約だったが、8月に解雇された。当然のように違約金を払ったのは阪神である。やれやれ。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ブロワーズ | 右右 | 一 | 99 | 阪神 | 73 | 259 | 31 | 65 | 43 | 10 | 33 | 78 | 0 | .251 |
クルト・ミラー(Kurt Miller)
90年にパイレーツのドラフト1位で入団。その後マリーンズに移籍し、94年には21歳8ヶ月でメジャー
入りしたが、これは同球団でのメジャー昇格最年少記録だった。98年は3Aながら14勝を挙げ、翌年
の6月末、ぎりぎり(外国人選手契約は6月いっぱいまで)で阪神入団。先発投手陣の一角を任された
が、思うような成績はあがらなかった。ただ、同年8月22日の巨人戦では自ら決勝ホームランを放って
勝利投手になっている。
それでも、わずか2勝しかできず、防御率に至っては6点近かったため先発投手としては失格の烙印
が押され、翌年はリリーフとしての仕事が回ってきた。しかしながら、、これも毎試合のように失敗を
重ね、5月末にはとうとう2軍落ち。当然のように、その年限りで整理された。
選手名 | 投打 | 年 | 所属 | 試合 | 勝 | 敗 | S | 回 数 | 完投 | 完封 | 四死球 | 三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
ミラー | 右右 | 99 | 阪神 | 11 | 2 | 4 | 0 | 52.6 | 0 | 0 | 22 | 35 | 36 | 35 | 5.98 |
00 | 〃 | 17 | 1 | 1 | 12 | 17.0 | 0 | 0 | 11 | 22 | 15 | 14 | 7.41 | ||
計 | 28 | 3 | 4 | 39 | 69.6 | 0 | 0 | 33 | 57 | 51 | 49 | 6.33 |
フランクリン(Micah Franklin)
日本ハム1990年代を見よ。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
フランクリン | 右両 | 三 | 99 | 日本ハム | 131 | 428 | 67 | 102 | 80 | 30 | 86 | 125 | 2 | .238 |
00 | 〃 | 5 | 15 | 2 | 3 | 0 | 0 | 5 | 6 | 1 | .200 | |||
00 | 阪 神 | 8 | 29 | 5 | 5 | 5 | 2 | 6 | 13 | 0 | .172 | |||
計 | 144 | 472 | 74 | 110 | 107 | 32 | 97 | 144 | 3 | .233 |