〜南海(ダイエー、ソフトバンク)ホークス編〜
1960年代 〜名監督のもとに好外国人選手あり〜
2リーグ分裂以後も、名門の名を欲しいままにしたホークス。その第一次黄金時代とも言うべき時代が60年代
です。実力もあるが、一癖も二癖もある選手たちを指揮統率してきたのが、名将の誉れ高い鶴岡一人でした。
人情に厚い温情派の親分肌として知られる氏ですが、その裏、実に緻密な計算のもとに立てられた戦術を駆使
し、チームを勝利に導きました。そのカリスマ性は日本人選手だけでなく、荒っぽくプライドの高い外国人選手たち
をも魅了していったのです。
鶴岡さんは、高給で招いた実力者たちの心情を見抜いていました。彼らは自分に自信を持っており、日本を
蔑むような素振りも見せます。しかしその反面、彼らは孤独であり、寂しいのだということも理解していました。
そこで鶴岡監督は、来日する外国人選手たちに、家族も同伴して日本へ来るよう薦めました。そして初めて異国
を訪れた選手と家族を招き、天ぷらやすき焼きで接待したのです。カウンターではなく座敷で、他に人がいない
状況を作ることも忘れません。中にいるのは、鶴岡監督と選手、家族、そして通訳のみ。彼らが日本の料理に満足
し、リラックスしてくるのを待って、おもむろに語り出すのです。
「なあ、あんたをわざわざアメリカから呼んだんは、ホークスを強くしてもらいたいからや。好成績を挙げてチームに
貢献してくれたなら、帰りの飛行機の切符は一等(古いですね(^^;))にしようやないか」
そしてこう付け加えます。
「だから、あんたが大阪で気分良う暮らしてもらうために、ワシは何でもするで。奥さん、なんぞ困ったことはおま
へんか? 球団があてがったアパートはどや? 子供の学校で困ったことはないか?」
鶴岡さんは言います。「ここで向こうは本音を見せまんのや」
早速、遠慮がちながら、選手の奥さんから注文が出ます。
「言葉が通じず、買い物にも困っている」
「子供が学校に馴染めない」
「アパートの壁紙が破れている」
などなど。日本人から見ればどうでもいい、そんなものは自分で何とかしろ、とでも言いたいような問題かも知れ
ませんが、彼らにとっては深刻です。鶴岡さんは答えます。
「わかった。そんなら、奥さんが慣れるまで買い物には通訳を連れてってええ。学校の件も球団から話をする。
アパートの壁紙は、さっそく明日にでも張り替えさせますわ」
それだけではありません。外国人選手の奥さんの誕生日には花を届けさせる。子供のバースディにもプレゼント
を贈る。今でこそ珍しくもない行為ですが(長嶋さんとか原さんとかね)、これは鶴岡さんが始祖ではないでしょう
か。こうした親切に感激した奥さんや子供は、夫に言います。
「あなた(パパ)、あのボスのためにしっかり働きなさい!」
『将を射んと欲すれば、まず馬から射よ』を地でいっていたわけですね。こうした監督に率いられた選手たち。その
活躍は約束されていたといっていいでしょう。
リチャード・キーオ(Richard Keogh)
56年のレッドソックスを皮切りに、インディアンス、セネタース、レッズ、ブレーブス、カブスと渡り歩いた苦労人。
来日したのは33歳の時で、メジャーでは主に外野を守っていたが、ホークスでは一塁手をやらされた。守備も打撃
も何とか及第点といったところで、際立った活躍を見せたわけではなかった。しかし打率は低かったものの、本塁打
17本はチーム2射位の成績で、欠かすことのできない戦力でもあった。後年、タイガースで活躍したキーオ投手の
実父。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
キーオ | 左左 | 一 | 68 | 南海 | 134 | 450 | 42 | 104 | 46 | 17 | 37 | 83 | 9 | .231 |
ジョー・スタンカ(Joe Stanka)
ホークス史上に残る外国人選手にして大投手。意外なことに、ハイスクール、大学時代はバスケットボールの
選手だった。オクラホマ農工大中退後、ドジャースのマイナーに入団する。メジャーに上がったのは59年の9月
で、ホワイトソックス。そこで1勝したものの、すでに順位決定後であり、実力のものとは言い難かった。それを
本人も見越していたのか、ホークスの招聘に応じた。
スタンカは一家で来日し、家族共々、上記したような鶴岡流操縦法にすっかり魅了されて、大活躍することと
なる。初年度からいきなり17勝を挙げてエースにのし上がると、以後もコンスタントに好成績を挙げた。今の
プロ投手には思いも寄らないタフネスぶりで、毎年のように200イニング以上投げている。
素晴らしい成績を残しただけでなく、日本人的に「意気に感じる」投手でもあった。今でも語りぐさになっている
日本シリーズでの2完封がそれだ。1964年の日本シリーズは、宿敵巨人を打ち破ったタイガースが出てきた。
この年のシリーズは、29勝した阪神バッキーと、26勝した南海スタンカの両外国人エース同士の対決がクロー
ズアップされていた。初戦をホークス、2,3戦をタイガース、4戦をホークスが獲り、5戦目にまた阪神が勝って
王手を掛けた。実はここからがこの年のシリーズの見せ場だった。一気に日本一を決めようとした阪神はエース
バッキーをマウンドへ送る。一方、もう負けられないホークスもエースのスタンカを立てて敵地甲子園に乗り込んだ。
この試合でスタンカは素晴らしい投球を見せ、阪神を2安打に封じ込んでシャットアウトした。これで3勝3敗の
イーブンである。さあ決戦の第7戦。ホークスは誰を持ってくるのかと思いきや、なんとマウンドに現れたのは昨日
完封劇を演じたばかりのスタンカであった。2試合連続の先発である。さすがに連投の疲労甚だしく、いくつか
ピンチを迎えたものの、見事に阪神を完封してしまった。シリーズでの2試合連続完封は史上初で、以後もまず
達成できそうにない大記録だ。なおスタンカは初戦でも完封しており、シリーズ3完封というとんでもない記録も
同時に作っている。日本一を決めたあと、スタンカは鶴岡監督に続いてナインから胴上げを受けた。
スタンカと日本シリーズといえば、こんな話もある。1961年のことで、この時の相手は巨人だった。
巨人の2勝1敗で迎えた第四戦は後楽園球場で行われた。3−2とリードした南海、最終回のマウンドにスタンカ
が登った。降板した投手が残した死球の走者が一塁にいる。だがスタンカは落ち着いて坂崎を三振、国松を一塁
ゴロに仕留めて2死とする。そして代打の藤尾も一塁フェアフライ。ゲームセットと思いきや、なんと一塁手の寺尾
がこれを落球。続く長嶋も三塁内野安打して、たちまち満塁になってしまった。次打者宮本を2−1と追い込んで
投げ込んだ外角のタマをボールと判定されて色を失った。捕球した野村捕手もビックリしたような顔で審判を見上
げ、勢い込んで抗議。スタンカもマウンドを駆け下りて猛抗議した。だが、手は出さないようにと両手を後ろに回して
いたのは、さすがにメジャーリーガーか。結局、判定は変わらず、スタンカも諦めたが、そうそう冷静になれるわけ
がない。2−2からの5球目が甘い外角のストレートで、これを宮本はライト線へ打ち返したのだ。2死でスタートを
切っていた走者は次々とホームイン、一挙にサヨナラ負けである。打たれたスタンカはカバーするためにホームへ
走ってきていた……のだが、捕手の後ろには回らず、そのまま主審に向かって突撃していた(^^;)。巨漢の外国
人選手に体当たりされた主審は吹っ飛び、すっ転がされながらも、ゲームセットを宣告した。南海ナインは収まらず、
主審を取り囲んでこづき回すなど、大乱闘となった次第。選手も場内も騒然となる中、ただひとり冷静だった鶴岡
監督がナインに割って入り、選手たちをなだめて、なんとか主審は退場することが出来た。
そのスタンカの運命が大きく変わったのが65年である。日本在住6年目、すっかり異国での生活にも慣れた
スタンカ一家だが、ここで悲劇が待ちかまえていた。長男ジョーイ君の事故死である。その夜、遅くまで勉強して
いた彼は、シャワーを浴びて寝ようと思い、浴室へ向かった。しかし、1時間経っても出て来ない。不審に思った
夫人が行ってみると、ジョーイ君が裸のまま倒れていた。ガスの不完全燃焼で、一酸化炭素中毒になったので
ある。救急車が駆け付け、病院で懸命の治療を受けるも、ジョーイ君は帰らぬ人となった。スタンカ一家の悲しみ
はいかばかりだったか。鶴岡監督を始め、ナインたちも、彼らのエースにかける慰めの言葉すら思い浮かばなか
った。傷心の家族を、このままにしておくことは出来ないと、スタンカは帰国、そして退団を希望した。もう野球は
やめて、家族の傷を癒したいと思ったのだ。いかに鶴岡親分とはいえ、これを断ることは出来なかった。ホークス
は、慰留こそしたが、最終的にはスタンカの希望を受け入れざるを得なかった。
彼の実力を惜しんだ日本の球団はいくつかあり、入団要請はあった。スタンカに、もはやその気はなかったが、
夫人や子供たちが「日本でまた頑張ろう」と薦めてくれたこともあり、熱心に誘ってくれた大洋に入団することと
なった。しかしスタンカの喪失感は大きく、往年の投球とは程遠かった。それでも、そんなことは彼の実績に何ら
水を差すものではない。通算100勝は、来日外国人投手として初めての快挙だった。
なお、スタンカはその大柄な身体を活かした打撃も得意で、代打で60年に7試合、61試合に7試合、63年に
7試合、64年に8試合、65年に8試合、66年に1試合出場している。通算で7本塁打を記録した。
選手名 | 投打 | 年 | 所属 | 試合 | 勝 | 敗 | S | 回 数 | 完投 | 完封 | 四死球 | 三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
スタンカ | 右右 | 60 | 南海 | 38 | 17 | 12 | − | 240.0 | 11 | 4 | 103 | 174 | 84 | 66 | 2.48 |
61 | 〃 | 41 | 15 | 11 | − | 231.3 | 9 | 2 | 81 | 176 | 93 | 85 | 3.30 | ||
62 | 〃 | 38 | 8 | 10 | − | 206.3 | 5 | 0 | 80 | 131 | 93 | 83 | 3.61 | ||
63 | 〃 | 34 | 14 | 7 | − | 186.3 | 7 | 4 | 67 | 89 | 63 | 53 | 2.55 | ||
64 | 〃 | 47 | 26 | 7 | − | 277.6 | 15 | 6 | 83 | 172 | 93 | 74 | 2.40 | ||
65 | 〃 | 34 | 14 | 12 | − | 172.6 | 4 | 2 | 61 | 76 | 69 | 63 | 3.28 | ||
66 | 大洋 | 32 | 6 | 13 | − | 144.6 | 4 | 0 | 50 | 69 | 75 | 67 | 4.16 | ||
計 | 7 | 264 | 100 | 72 | − | 1459.0 | 55 | 18 | 525 | 887 | 570 | 491 | 3.03 |
ジェームス・トーマス(James Thomas)
61年のヤンキースを皮切りに、ドジャース、レッドソックス、ブレーブス、カブス、アストロスと渡り歩いて南海
入りした。188センチ88キロという巨漢の白人選手で、来日当初から絶好調。開幕から4試合で16打数10
安打と打ちまくり、「さすがメジャー」と唸らせたが、どうしたことか、これ以降はさっぱり。時々、思い出したよう
に打つことはあったが、成績としてはどうということはなかった。解雇するほどの成績ではなかったが、「若返り」
と称してベテランを切っていたホークスは、このトーマスもその対象とした。
選手としてよりは管理者として優れていたようで、89年にはフィリーズのGMに就任している。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
トーマス | 右左 | 一 | 69 | 南海 | 109 | 395 | 34 | 104 | 50 | 12 | 24 | 31 | 2 | .263 |
ケント・ハドリ(Kent Hadley)
実力者ではあったが、アメリカではチャンスのなかった典型的な選手。ロイヤルズでもヤンキースでも、レギュラー
一塁手のケガでスタメンに入り、好調な打撃を見せるものの、彼らが復帰すると再びベンチ、あるいはマイナー行き。
62年の開幕早々、またしても3Aに落ちると、さすがにハドリもガックリした。そこに日本から声が掛かる。かの地な
ら、スタメンで出られる。その希望を持って、ハドリは見知らぬ異国へ渡ることとなる。
190センチの長身、88キロのガタイだったが、性格的には極めて温厚でユーモアもある。出身がアイダホのポカ
テロという田舎町で、穏やかな性格だったこともあり、たちまちのうちに日本選手たちとも打ち解けていった。
成績の方も文句なし。来日早々、初戦の第一打席でいきなりライトスタンドに放り込んで見せて、鶴岡御大を喜ばせ
ている。出番を与えて貰うだけでも嬉しかったハドリは、伸び伸び活き活きと日本でプレーした。2年目には30ホー
マー、84打点という見事な記録を残し、オールスター戦にも選出されている。
日本人好みの真面目な選手で、決して自分を特別待遇するようなことは言わなかったし、練習も怠らなかった。
日本風に「ケンちゃん」と呼ばれ、親しまれていたが、本人もその呼び名が大層お気に入りだったそうである。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ハドリ | 右左 | 一 | 62 | 南海 | 110 | 413 | 39 | 110 | 56 | 11 | 18 | 68 | 4 | .266 |
63 | 〃 | 137 | 518 | 67 | 153 | 84 | 30 | 37 | 97 | 1 | .295 | |||
64 | 〃 | 149 | 525 | 63 | 138 | 70 | 29 | 52 | 99 | 3 | .263 | |||
65 | 〃 | 131 | 470 | 67 | 112 | 86 | 29 | 25 | 77 | 0 | .238 | |||
66 | 〃 | 127 | 438 | 44 | 122 | 53 | 18 | 42 | 89 | 3 | .279 | |||
67 | 〃 | 127 | 431 | 39 | 92 | 47 | 14 | 31 | 98 | 4 | .213 | |||
計 | 6 | 781 | 2795 | 319 | 727 | 396 | 131 | 205 | 528 | 15 | .260 |
半田 春夫(はんだ はるお)
中日編60年代を見よ。
ジャック・ブルームフィールド(Jack Bloomfield)
近鉄編60年代を見よ。
カール・ピート(Carl Peterson)
55年ホワイトソックス、57年にオリオールズで遊撃手として17試合に出場したのみ。はっきり言って
マイナー選手である。176センチ78キロと中肉中背で、日本人に混じっても、ちっとも目立たなかった。分厚い
黒縁メガネをかけた白人選手で、学者然とした風貌を備えていた。来日した61年の時点で、すでに36歳の
大ベテランであったが、成績的には立派だったと言えよう。とても長打力があるとは思えない体つきなのに、
年々ホームランが増えて、最終年には24発も放ったのだから上出来と言えよう。勝負強く、三振も少ない
日本人好みのタイプだった。
彼の特徴はそのプレー姿勢だろう。トレードマークは「全力疾走」。凡打を打ってしまった時でも一塁に本気
で走るのはもちろんのこと、攻守交代の際にもグラウンドとベンチの間を全力疾走していた。日本人てのは
こうしたプレーが好きなのだね。ファンも、ピートがグラウンドへ走り出たり、ベンチへ駆け戻るだけで拍手を
送ったという。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ピート | 右右 | 三 | 61 | 南海 | 103 | 336 | 50 | 98 | 42 | 12 | 43 | 36 | 3 | .292 |
62 | 〃 | 124 | 462 | 82 | 134 | 75 | 22 | 49 | 55 | 5 | .290 | |||
63 | 〃 | 130 | 465 | 67 | 112 | 69 | 24 | 47 | 54 | 3 | .241 | |||
計 | 3 | 357 | 1263 | 199 | 344 | 186 | 58 | 139 | 145 | 11 | .272 |
ドン・ブラッシンゲーム(Don Blasingame)
1955年にカーディナルスでメジャー昇格を果たすと、レッズ、セネタース、レッドソックスなどで12年間
大リーグで活躍した。来日したのは35歳の時で、最後の一花を日本で、という思いがあったのかも知れない。
そもそも彼を呼んだのも、ブレイザーの持っているメジャー仕込みの野球知識を欲した面が強かったのも
知れない。だからコーチ半分という意味合いがあったのではなかろうか。従って、実際のプレーで目立った
ものがないとしても、それは目をつぶるということもあったろうが、それは杞憂に終わった。
もともとメジャーでも二塁守備の名手として知られていたが、日本でもそのプレーぶりを遺憾なく発揮、随所
に大リーガーらしさを示した。併殺時の正確な送球、体勢を崩した状態で打球を掴んだあとの送球の正確さ、
バックアッププレーの確実さは、ホークスナインというより首脳陣を感心させた。
打撃の方はそこそこだったが、守備やその他の部分での貢献を考えれば必要充分であったろう。実際、67
年の来日以来、3年間すべてオールスターにも選ばれているのだ。その守備だけでも見るべきものがあった
ということだろう。
現役引退後も彼の頭脳を惜しんだ球団からコーチとしてチームに残ることを要望され、それに応じた。
ホークスでヘッドコーチ、監督をこなし、阪神でも監督をこなした。いわゆる「シンキング・ベースボール」の
始祖である。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ブレイザー | 右左 | 二 | 67 | 南海 | 128 | 478 | 61 | 128 | 28 | 5 | 40 | 38 | 5 | .268 |
68 | 〃 | 134 | 513 | 64 | 141 | 39 | 4 | 37 | 31 | 3 | .275 | |||
69 | 〃 | 104 | 365 | 46 | 102 | 19 | 6 | 29 | 35 | 5 | .279 | |||
計 | 3 | 366 | 1365 | 171 | 371 | 86 | 15 | 106 | 104 | 13 | .274 |
ジョニー・ローガン(Johnymes Logan)
51年レッドソックスを皮切りに、ブレーブス、パイレーツを経て64年に南海入り。
メジャーでサードのレギュラーを張り、通算1503試合出場という実績は何なのか、というくらいの低空飛行
だった。37歳での来日だから、いくら選手寿命の延びた現代でもロートルの感は否めなかった。
日本シリーズでは、そこそこ活躍したという話だが……。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ローガン | 右右 | 二、三 | 64 | 南海 | 96 | 254 | 23 | 48 | 23 | 7 | 20 | 41 | 1 | .189 |