〜近鉄バファローズ編〜
1960年代 〜屈辱的な低迷期〜
弱かった。とにかく弱かったのがこの年代の近鉄だ。なにしろ、セパ分裂後の1950(昭和25)年から
4年続けての最下位(7位)。54年には4位になったが、翌年はまた順位を下げて5位。とにかく惨憺たる
成績でした。なにせ勝率が3割にも届かないことがしばしばあり、記録的な弱さを露呈してしまっていました。
国内は2リーグに別れ、そうでなくとも既存選手、新人選手ともに枯渇状態で、早急な戦力補強は、外国人
選手を頼るしかありませんでした。そんな弱小チームのために来日した選手たちは、どんな顔ぶれだった
のでしょうか?
甲斐 友治(かい ともはる)
とにかくチーム力を上げないことには話にならないパールズは、補強を海外に求めた。ハワイの日系二世
選手を呼び寄せようということになり、リストアップされたのが近鉄の第一号外国人選手である甲斐だ。
もちろんメジャー経験などはなく、ハワイ・レッドソックスの外野を守っていた彼を近鉄が引き抜いたのである。
シーズン途中の来日だったが(4月半ば)、すぐに4番を打たされた。174センチ79キロと、当時の日本人
平均身長よりは上だったろうが、とても大柄とは言えず、またパワーもなかった。しかし、甲斐以上の打力を
持った選手はパールズ内には皆無で、彼が4番を打たざるを得なかったのだ。
それでも甲斐は活躍した。初年度.327はリーグ2位の成績だったのである。ホームラン7本は主軸として
は不満だろうが、もともと甲斐はホームラン打者ではない。2年目は成績が落ち、本人もハワイへの帰国を
希望し、2年で退団した。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
甲 斐 | 右右 | 外 | 52 | 近鉄 | 82 | 303 | 28 | 99 | 45 | 7 | 15 | 14 | 5 | .327 |
53 | 〃 | 79 | 154 | 9 | 39 | 18 | 1 | 8 | 10 | 1 | .253 | |||
計 | 2 | 161 | 457 | 37 | 138 | 63 | 8 | 23 | 24 | 6 | .302 |
レン・カスパラヴィッチ(Len Kasparovitch)
ハワイリーグの選手で、メジャー経験はない。27歳と若かったので、ローテの中心にと期待された。
シーズン途中の来日だったが、その時点でチームは首位。その勢いに乗ったのか、最初の2試合で
2連勝した。以後、チームにボロが出て負け続け、どんどんと順位を落としていくと、それにつられるよう
に勝てなくなっていった。とはいえ、この弱体チームで2点台の防御率を保っている。それもあって2年目
も契約したが、今度は1勝も出来ずに終わってしまった。もっとも、その年も2点台だから、いくら抑えても
打ってくれないという、当時のチーム事情が窺える。
選手名 | 投打 | 年 | 所属 | 試合 | 勝 | 敗 | S | 回 数 | 完投 | 完封 | 四死球 | 三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
カスパラヴィッチ | 右右 | 53 | 近鉄 | 26 | 6 | 10 | − | 144.0 | 5 | 0 | 61 | 51 | 65 | 46 | 2.88 |
54 | 〃 | 25 | 0 | 5 | − | 69.6 | 0 | 0 | 27 | 51 | 25 | 22 | 2.83 | ||
計 | 2 | 51 | 6 | 15 | − | 213.6 | 5 | 0 | 88 | 102 | 90 | 68 | 2.86 |
ロン・ボトラ(Ron Bottler)
入団した時は捕手だったものの、折からの投手不足で翌年には投手に転向させられた変わり種。
もっとも、捕手時代も打力がなく、4番を任されたにしてはまったくの期待はずれだったこともある。
肩は強く、それなりに速球が投げられたせいか、転向初年には4勝している。しかし翌年には大負け
して、見切りをつけられた。
ボトラ最大の功績は、ブルームをバファローズに紹介したことだろう。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ボトラ | 右右 | 捕、一 | 59 | 近鉄 | 103 | 346 | 31 | 81 | 45 | 8 | 28 | 58 | 2 | .234 |
60 | 〃 | 36 | 56 | 2 | 20 | 6 | 1 | 1 | 6 | 0 | .357 | |||
61 | 〃 | 31 | 40 | 0 | 7 | 0 | 0 | 3 | 5 | 0 | .175 | |||
計 | 3 | 170 | 442 | 33 | 108 | 51 | 9 | 32 | 69 | 2 | .244 |
選手名 | 投打 | 年 | 所属 | 試合 | 勝 | 敗 | S | 回 数 | 完投 | 完封 | 四死球 | 三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
ボトラ | 右右 | 60 | 近鉄 | 25 | 4 | 5 | − | 102.6 | 4 | 0 | 51 | 54 | 43 | 34 | 2.97 |
61 | 〃 | 24 | 2 | 11 | − | 115.0 | 3 | 0 | 51 | 57 | 67 | 57 | 4.46 | ||
計 | 2 | 49 | 6 | 16 | − | 217.6 | 7 | 0 | 102 | 111 | 110 | 91 | 3.76 |
グレン・ミケンズ(Glenn Mickens)
メジャー経験はほとんどなく、53年にドジャースでわずか4試合に登板したのみ。3A投手だったが、シュート
を武器とした変則投法は日本向きだった。いきなり2ケタ勝利してチームのエース格となり、2年目はさらに勝ち星
を伸ばした。スリークォーターやサイドから投げ込む多彩な変化球に打者を戸惑わせ、この2年はチーム勝利数の
1/3を稼いでいる。60年などはチーム全体で31勝しかしていない中、ミケンズはひとりで13も勝っているのだ
からスゴイ。チーム勝率.331なのにミケンズの勝率は.565なのだから絶対的なエースだろう。防御率が良い
のも特徴で、打たせてとるピッチングが功を奏したのであろうが、その割りに勝てなかったのは当時のチームが
弱体だったことに他ならない。
勝利数という点ではあまり恵まれなかったミケンズだが、最終年の63年には、南海戦で日本球界初の「1球
勝利投手」になっている。
選手名 | 投打 | 年 | 所属 | 試合 | 勝 | 敗 | S | 回 数 | 完投 | 完封 | 四死球 | 三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
ミケンズ | 右右 | 59 | 近鉄 | 38 | 11 | 13 | − | 234.6 | 10 | 2 | 51 | 119 | 79 | 63 | 2.41 |
60 | 〃 | 37 | 13 | 10 | − | 253.3 | 15 | 2 | 69 | 179 | 87 | 63 | 2.23 | ||
61 | 〃 | 26 | 5 | 11 | − | 145.0 | 7 | 1 | 31 | 89 | 61 | 39 | 2.42 | ||
62 | 〃 | 39 | 8 | 9 | − | 190.0 | 4 | 2 | 53 | 115 | 93 | 59 | 2.79 | ||
63 | 〃 | 29 | 8 | 8 | − | 85.6 | 0 | 0 | 29 | 44 | 42 | 33 | 3.45 | ||
計 | 5 | 169 | 45 | 51 | − | 908.6 | 36 | 7 | 233 | 546 | 362 | 257 | 2.55 |
ジャック・ブルームフィールド(Jack Bloomfield)
登録名はブルーム。アメリカではマイナーのみで、メジャーに上がったことは一度もなかった。前年度
入団したボトラの紹介で近鉄入りしている。3Aに上がるのがやっとだった彼が日本では大活躍なのだ
から、当時のレベルが知れよう。左打ちのコンパクトなスイングは日本球界に馴染みやすかったのかも
知れない。その分、一発長打の魅力はなかったが、それをカバーして余りある打率を残した。近鉄時代の
62,63年には連続首位打者を獲得し、同時にベストナインにも選ばれている。一向に成績が上がらず、
最下位街道まっしぐらのチームに於いて、孤軍奮闘の働きをした。調子が上がらず思うようなバッティン
グが出来なかった時には、絶妙のドラッグバントを決め、これで打率が大きく下がらずに済んだ。また、
左打者ながら、たまに右打席に立って投手を幻惑させたこともあった。
気の強いところもあって、61年に西宮球場での阪急戦で、ファンのヤジにキレたブルームは、一塁側
内野フェンスを乗り越えて殴りかかったことがある。しつこく「ヤンキー・ゴーホーム!」とヤジられて頭に
来たらしい。当然、退場処分だが、ファンに方にも問題があろう。
64年のシーズン終了後、契約で揉めて近鉄を退団、ホークスに入団する。ここでもその打棒は健在で、
南海優勝に貢献している。
帰国後はカブスのコーチを務め、アストロズのスカウトになっている。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ブルーム | 右左 | 二 | 60 | 近鉄 | 58 | 183 | 22 | 51 | 17 | 5 | 22 | 27 | 5 | .279 |
61 | 〃 | 108 | 354 | 44 | 105 | 32 | 7 | 33 | 41 | 7 | .297 | |||
62 | 〃 | 112 | 401 | 56 | 150 | 74 | 12 | 39 | 35 | 6 | .374 | |||
63 | 〃 | 121 | 439 | 62 | 147 | 62 | 9 | 45 | 50 | 3 | .335 | |||
64 | 〃 | 124 | 429 | 55 | 126 | 69 | 13 | 44 | 37 | 4 | .294 | |||
65 | 南海 | 74 | 248 | 39 | 75 | 36 | 9 | 21 | 28 | 0 | .302 | |||
66 | 〃 | 113 | 350 | 50 | 103 | 33 | 6 | 48 | 49 | 2 | .294 | |||
計 | 7 | 710 | 2402 | 328 | 757 | 323 | 61 | 252 | 267 | 27 | .315 |
ビル・グリフィン(Bill Griffin)
3A経験のみのマイナー選手。この年の6月にテスト入団した。メガネをかけた神経質そうな顔つきで、
左腕からのサイドスローという変則投法が持ち味だった。折からの左投手不足の中、先発陣の一角にと
期待されたものの、球速がなくとても通用しなかった。登板はすべて中継ぎで、ヒョロヒョロしたボールを
コーナーに決めるというコントロール重視のピッチングだった。この程度の投手なら日本人で充分との
判断で、1年限りで解雇。
選手名 | 投打 | 年 | 所属 | 試合 | 勝 | 敗 | S | 回 数 | 完投 | 完封 | 四死球 | 三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
グリフィン | 左右 | 63 | 近鉄 | 20 | 0 | 2 | − | 30.3 | 0 | 0 | 13 | 12 | 20 | 13 | 3.77 |
チャールズ・エイブラハム(Charls Abraham)
58年メジャー昇格以降、フィリーズ、カーディナルス、ドジャース(この時、Wシリーズ出場)、オリオールズ、ロイ
ヤルズ、インディアンス、またロイヤルズと転々とした挙げ句、64年に近鉄入りする。
何しろ経歴がすごい。メジャー7球団を渡り歩いた実力派という触れ込みだったのだが、近鉄フロントは少し落ち着
いて調べるべきだった。チームを転々としたということは、詰まるところ、どこでも定位置を獲れなかったことに他ならな
いのだ。Wシリーズに出ているとは言っても、シーズン中の移籍で、たまたま優勝争いをしているドジャースに来たと
いうだけの話である。実際に試合に出てみるとあっさりメッキが剥がれた。特別悪い成績ではないものの、取り立てて
どうこう言える成績でもない。これならわざわざ外国人選手に頼らなくとも、と思うのも無理はない。
プレイではともかく、別のことで有名になっている。9月3日に行われた大阪球場での南海戦で、打席のチャックは
スタンカの投じたブラッシュボールに激怒。その打席で2ベースをかっ飛ばして溜飲を下げたはずなのに、二塁ベース
上でスタンカを嘲るような言動をしたことで今度はスタンカが逆上した。売り言葉に買い言葉で、一気に格闘戦へ発展
した。もちろん両者退場。
登録名は「チャック」。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打 数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
チャック | 右右 | 外 | 64 | 近鉄 | 110 | 300 | 36 | 79 | 41 | 15 | 29 | 55 | 3 | .263 |
カール・ボレス(Carl Boles)
1962年にSFジャイアンツに昇格し、66年に来日した。180センチ79キロの、がっしりした体格を
持った黒人選手で、パールズに生まれたほとんど初めての長距離打者だった。黒人の身体能力の高さを
象徴するような選手で、パワーもあり柔軟な筋肉を持ち、そして脚も速かった。言うことなしの三拍子揃った
選手で、近鉄はいい買い物をしたものだ。初年度こそ打率が低かったが、26ホーマーはもちろんチーム
トップ。翌年は3割を打ち、31ホーマーして堂々の4番ぶりだった。3年目に故障して成績を落とし解雇
されたが、拾われた西鉄でも4番を打って活躍したのだから、クビはちょっと早まった感がある。
ライオンズでも3年活躍し、4年目もと思っていただろうが、折からの「黒い霧事件」の余波で、チーム色を
一新するとの口実で解雇された。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ボレス | 右右 | 外 | 66 | 近鉄 | 124 | 463 | 60 | 121 | 57 | 26 | 33 | 57 | 14 | .261 |
67 | 〃 | 114 | 417 | 73 | 127 | 76 | 31 | 41 | 43 | 3 | .305 | |||
68 | 〃 | 72 | 235 | 21 | 59 | 25 | 5 | 16 | 24 | 2 | .251 | |||
69 | 西鉄 | 115 | 405 | 42 | 98 | 56 | 18 | 22 | 48 | 4 | .242 | |||
70 | 〃 | 119 | 402 | 48 | 102 | 59 | 28 | 35 | 36 | 4 | .254 | |||
71 | 〃 | 33 | 116 | 21 | 33 | 21 | 9 | 15 | 8 | 3 | .284 | |||
計 | 6 | 577 | 2038 | 265 | 540 | 294 | 117 | 162 | 216 | 30 | .265 |
ボブ・ジェンキンス(Bob Jenkins)
マイナー経験のみ。登録名「ジェンク」。190センチ90キロの巨漢選手で、シーズン開幕してから
自分でバファローズに売り込んできた。「150メートル飛ばせる。もちろん3割打てる」というセールス
トークを信じたのか、5月半ばに入団する。ところが、やはりというべきか、とんでもないスカで、ほと
んど使えなかったらしい。後半はベンチを温めるのみで、あっさり1年でクビ。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ジェンク | 右右 | 外 | 62 | 近鉄 | 48 | 133 | 12 | 28 | 16 | 4 | 6 | 30 | 1 | .211 |
ジミー・ジェンタイル(Jimmy Gentile)
ジェンタイルでわからないだろうが、登録名「ジムタイル」と聞けば、記録ファンなら誰でも知っている
名前だろう。
57年にドジャース入りし、60年にはオリオールズでレギュラー獲得。翌61年には46ホーマーを放ち、
主砲として活躍した。以後、アスレティックス、アストロス、インディアンスを経て近鉄入りした。メジャーの
実績充分の大打者ということで、バファローズの期待も多大だった。
来日した時は、白のスーツに紫のシャツ、ピンクのネクタイにソフト帽と、まるで禁酒時代の派手なギャ
ングような身なりでやってきて、迎えに来ていた球団関係者の度肝を抜いた。
184センチ94キロの巨漢と言えば聞こえはいいが、明らかに太りすぎで、ロクに練習していなかった
だろうことが知れた。恐れていた通り、いきなり開幕戦で膝を負傷する。やっとこさ治ったと思って5月18日
の阪急戦でスタメン復帰した。その第一打席でいきなりホームランしたのはよかったが、なんと一塁へ走り
出した途中でひっくり返ってしまった。ナインが「なんだなんだ」とすっ飛んでくると、なんと左脚ふくらはぎの
肉離れで歩行不能状態。どうにもならんということで、安全進塁権ながら審判は代走の起用を認めた。
ホームランを8本打っているのに得点が7しかないのはそのせいである。
ホームラン以外の得点がないということは、走者としてはまるでダメだったということだろう。歩いて一周
出来るホームランですらホームへ戻ってこられないようなザマでは話にならず、怒りを込めて1年でクビ。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ジムタイル | 左左 | 一 | 69 | 近鉄 | 65 | 86 | 7 | 22 | 16 | 8 | 16 | 23 | 0 | .256 |
ディック・ディサ(Dick Desa)
千葉ロッテ1960年代編を見よ。
ジーン・バッキー(Gene Bacpue)
阪神1960年代編を見よ。