〜横浜ベイスターズ編〜
1980年代 〜玉石混淆〜
本拠地を横浜に移し、地味でケバかったチームカラーを明るいブルーに変え、心機一転を図ったこの時代。
牛込効果もあり、優良外国人選手に恵まれましたが、チームとしては相変わらずの弱体ぶり。巨鯨打線は
川崎時代から引き継ぎましたが、投手陣が壊滅状態でした。職人選手が減り、わかりやすいプレーが功を
奏してファンを集めたものの、強豪チームの引き立て役という役どころは変化なし。
来日した選手たちもまさに玉石混淆でした。ポンセ、パチョレックという二大巨星が輝きますが、それ以外は
地味そのもの。成績として悪くはないが、今ひとつ食い足りないという選手が多かった時代でした。ま、レスカーノ
というとんでもない大ハズレもいましたけど(^^;)。
ジェイムズ・アドゥチ(James Adduci)
77年、ハイスクール時代にフィリーズにドラフト(28位)されるが入団拒否して進学。4年後カーディナルスの
7位指名で入団する。83年には3Aで打点王を獲り、メジャーに昇格するものの、いわゆるエレベータ選手で、
3Aとの往復が多かった。87年6月の入団だが、これは球団がレスカーノに騙されて、その代役として彼を獲得
したためである。193センチ90キロの巨漢で、パワー・バッティングを期待された。
打つ方も守る方もそこそこまとまっており、特に大きな欠点はなかったが、逆に特筆すべきものもなかった。
長打力、打率、打点と、どれをとっても中途半端で、もうひとつだった。この程度なら日本人選手を育てた方が
良いということで、シーズン後半はベンチ・ウォーマーに降格。この年限りで退団した。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
アドゥチ | 左左 | 外 | 87 | 大洋 | 82 | 280 | 35 | 75 | 48 | 13 | 27 | 73 | 1 | .268 |
フィリップ・ジェームス(Philip James)
SFジャイアンツを経て80年に大洋入り。この年の春季キャンプは渡米してメサで行なったホエールズだが、
そこで入団テストをして合格したのがジェームスである。31歳と働き盛りで動きもいい。中軸を任せる打者と
して大洋は期待した。結果的に1年のみの在籍なのだが、さてクビになるほどの成績だろうか? 確かに、
打率は少々物足りないが、まだ若く伸びる要素はあった。長打力もそこそこあったし、6番あたりを打たせれば
それなりの存在感があったのではないだろうか。
そしてこの選手、脚があった。盗塁は少ないが、シーズンに2本もランニングホームランを記録している。
ファンとしては面白い選手で、クビにすることはなかったと思っている。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ジェームス | 左左 | 外 | 80 | 大洋 | 111 | 368 | 58 | 99 | 57 | 21 | 49 | 75 | 2 | .269 |
マーク・ブダスカ(Mark Budaska)
メジャーの実績はほとんどなく、78年と81年にアスレティックスで合計13試合に出場したのみ。
結論から言うと、これは見事な失敗作で、牛込さんは誰に騙されたんだろうか。前評判は、「スイッチヒッター
の強打者。長打力と勝負強さを兼ね備えた強肩外野手」ということだったらしい。これが本当なら万能選手と
いうことになるが、そんな選手がいたとして、アメリカが手放すわけがない。
フタを開けて首脳陣はビックリ仰天。聞かされていた話の中で、本当だったのは肩が強かったことだけ。
守備そのものはヘタクソだった。長打力は呆れるくらいなかったし、そもそもロクに打てなかった。レスカーノ
と並び、この年代最大のスカ野郎。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
マーク | 右両 | 外 | 82 | 大洋 | 86 | 212 | 18 | 44 | 17 | 3 | 22 | 59 | 1 | .208 |
ジェリー・ホワイト(Jerry White)
西武編80年代を見よ。
レオン・リー(Leon Lee)
千葉ロッテ編70年代を見よ。
ラルフ・ラコック(Ralph LaCock U)
70年のドラフト1位でカブス入り。早くも2年後にはメジャー入りしている。77年にカーディナルスへ移籍し、
80年にはワールドシリーズにも出場した実績のある一塁手。そもそもアベレージヒッターなのだが、狭い日本
の球場なら20〜30ホーマーも期待できるのではないかと思わせるものがあった。まあ190センチ95キロも
ある大柄な選手だったしね。
しかしやっぱり一発の魅力はなく、日本でもわずか10本塁打に終わった。バット・コントロールはさすがで、
左右に打ちわける技術は持っていたし、三振も少なかった。それでも、全体としては今ひとつといった成績で、
これに加えて一塁守備がヘタクソで、だいぶ味方の足を引っ張った。そのまずい守りを補うほどの打力では
なかったため、あっさり1年で解雇。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ラコック | 左左 | 一 | 81 | 大洋 | 90 | 300 | 36 | 82 | 36 | 10 | 41 | 41 | 0 | .273 |
マイケル・ラム(Michael Lum)
中国系アメリカ人。67年にメジャー入り(ブレーブス)し、主に代打屋としてチームに貢献した。その後、
3球団を渡り歩き、82年に日本へやってきた。元々が中距離打者でホームランの魅力には乏しかった。
それでも田代富雄と3、4番を組み、打線を引っ張った。一発も打点も少ないのだが、勝利打点は8あり、
これはチーム内では田代に次いで2位である。それでも、やはり物足りなく、成績はどれももう少しといった
感じ(それにしてもこの時期の連中は、みんなこのタイプである)。
変化球に弱く、左腕も打てなかった。特に巨人の角三男投手は天敵で、7打数5三振と散々だった。
1年で解雇。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ラ ム | 左左 | 一 | 82 | 大洋 | 117 | 450 | 48 | 121 | 46 | 12 | 31 | 70 | 2 | .269 |
シクスト・レスカーノ(Sixto Lezcano)
ブリュワーズ、カーディナルス、パドレス、フィリーズ、パイレーツと渡り歩いて大洋に引っかかった。
メジャー現役バリバリのプエルトリカンで、チームの期待も大きかった。175センチ75キロと日本人と
変わらぬ体格で、褐色の肌と瞳には活力があった。開幕直前に入団が決まって来日、長打力はなか
ったが、4月は好調に打っていた。ところが5月に大スランプに陥り、22打席ノーヒットですっかり自信
喪失、記者会見を開くと涙ながらに「体力の限界」を訴え、引退、退団した。
まあ34歳ではあったけど、あまりのことに球団も選手も呆然。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
レスカーノ | 右右 | 外 | 87 | 大洋 | 20 | 69 | 4 | 15 | 7 | 3 | 3 | 17 | 0 | .217 |
ダグラス・ローマン(Douglas Loman)
84〜85年にブリュワーズ昇格し、翌年に大洋入りした。左打ちの好打者で、外野守備も上手だった。
一発の魅力にはやや欠けたものの、4番の田代が歩かされた後の「掃除屋」としてその勝負強さを
アピールした。三振も少なく日本向きで、クリーンアップを任せてもいい選手だったと思う。なのになぜ
1年で辞めたのか。実はこれもレスカーノのせいなのだ。
ローマンは前年の成績優良と見なされ、翌年の契約も勝ち取っていた。しかし、大物(とされていた)
レスカーノの入団により、外国人選手枠の問題で押し出されてしまったのである。前年の実績がある
ローマンは当然不満である。幾たびか球団と話し合いを持ったが、ローマンは「成績を残しているのに
2軍というのは納得できない」と主張(当然だわな)、対立した。結局、大洋はローマンよりレスカーノを
とり、結果として大失敗してしまうのだった。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ローマン | 左左 | 外 | 86 | 大洋 | 126 | 470 | 53 | 137 | 75 | 14 | 33 | 54 | 14 | .291 |
ジェームス・トレーシー(James Tracy)
80〜81年カブスで活躍、83年に来日した。190センチ88キロの白人選手で、地味めではあったが
大洋には欠かせない選手となった。チーム事情で、打順も3番から7番までこなし、打率3割を残した
のは立派だった。レオン、田代と組んだクリーンアップは強力で、低迷していたチームを3位に引き上げる
原動力になった。この調子なら翌年は3割、25発、80打点と期待されたが、シーズン開幕当初に退団、
帰国した。原因は監督だった。
当時、大洋の指揮を執っていたのは関根潤三。これが何を張り切ったのか、キャンプではカネダ方式
の「走れ走れ」訓練。これをレオンやトレーシーにまで強要したことで、すっかり信用を失った。おまけに、
そのハード・トレーニングが原因で膝を故障してしまう。また、何の断りもなく、試合途中で引っ込めたり
する起用法にも大いに不満を持っていた。そこへ持ってきて、4月14日のヤクルト戦で、例によって交代
を指示されると一気に爆発、ベンチを出ていってしまった。そして牛込を通して退団を表明、慌てた球団
が引き留めると、「関根監督の解任」を条件に復帰を匂わせた。しかしこれは出来ない相談で、それは
トレーシー自身もわかっていただろう。ただ、一言いっておかねば我慢できなかったのであろう。
人間的にも好人物で、おとなしくて神経も細かかった。趣味が手編みで、刺繍やテーブルクロスを作る
などお手の物だった。そのトレーシーがドジャースの監督に就任し、当時を知る人間を「あっ」と言わせた
のが2001年だった。人心掌握術に優れた彼は、マイナー指導者から上り詰め、メジャー監督を勤める
までになったのである。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
トレーシー | 左左 | 外 | 83 | 大洋 | 125 | 469 | 61 | 142 | 66 | 19 | 34 | 74 | 3 | .303 |
84 | 〃 | 3 | 9 | 1 | 2 | 2 | 1 | 2 | 1 | 0 | .222 | |||
計 | 2 | 128 | 478 | 62 | 144 | 68 | 20 | 36 | 75 | 3 | .301 |
ジェームス・ピータース(James Peters)
メジャー経験なしの3A選手。190センチ82キロの長身黒人選手で、ギョロッとした目が印象的だった。
スラリとしたスマートな体形で脚が長かった。見た目通り、脚が速く、また肩も強かったので、外野手とし
ては合格品だった。チームが期待したのはホームランだったが、そういう選手ではなかった。それでも、
打順は主に6番、7番あたりだったが、そこそこ働いた印象がある。1年で切る成績でもないと思ったの
か、球団は翌年も契約することにした。ところが翌年には、ラム、マークというメジャー経験者が入団した
ため、外国人枠に押し出されてファーム落ち。第三の外国人に甘んじた。そのため、2年目は14試合ほ
どしか出場機会がなく、この年限りで整理された。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ピータース | 左左 | 二 | 81 | 大洋 | 123 | 308 | 37 | 84 | 40 | 15 | 34 | 88 | 8 | .273 |
82 | 〃 | 14 | 19 | 1 | 2 | 3 | 1 | 1 | 7 | 0 | .105 | |||
計 | 2 | 137 | 327 | 38 | 86 | 43 | 16 | 35 | 95 | 8 | .263 |
ジェームス・パチョレック(James Paciorek)
ポンセと並び、80年代最高の外国人選手だろう。メジャー昇格は来日前年で、ブリュワーズで48
試合経験した。まだ28歳という若さで、ここまでの実力を兼ね備えていた選手が来日したことに驚く。
これも牛込情報網の効果か。
1年目からバリバリ打ち出し、大洋打線の5番を勤め上げた。初年度.332、2年目.333と好打率
をマークし、いずれも打撃ベスト10の2位だった。そして3年目も打ちまくり.326で念願の首位打者
タイトルを獲得した。見事なヒット・メーカーぶりで、初年度から5年続けて3割をクリアしている。さらに
一塁守備も一流で、92年にはダイヤモンドグラブ賞に選ばれている。
にも関わらず、なんと大洋はパチョレックを切ったのである! にわかには信じられない話だが、これ
だけ打っていたにも関わらず、言うに事欠いて「ホームランが少ない」と来た(--;)。年齢的にもまだ
31歳。何が不満だったのかさっぱりわからない。
この実力者を他球団が見逃すわけがない。絶好の拾い物をしたのは、同じセントラルの阪神だった。
パッキー(愛称)は移籍後も打ちまくり、阪神打線を支えた。少ないと言われたホームランも、92年には
22本塁打してホエールズを見返すことも忘れなかった。また、勝負強く91年、92年には最多勝利打点
のタイトルも獲った。他に、ベスト9にも88,90,92年に選出されている。
93年は体調を崩し、シーズン半ばの8月に退団、帰国している。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
パチョレック | 右右 | 一 | 88 | 大洋 | 130 | 497 | 58 | 165 | 76 | 17 | 35 | 59 | 6 | .332 |
89 | 〃 | 118 | 435 | 48 | 145 | 62 | 12 | 34 | 45 | 2 | .333 | |||
90 | 〃 | 133 | 527 | 78 | 172 | 94 | 17 | 31 | 47 | 3 | .326 | |||
91 | 〃 | 114 | 442 | 52 | 137 | 75 | 11 | 35 | 49 | 0 | .310 | |||
92 | 阪神 | 129 | 512 | 73 | 159 | 88 | 22 | 44 | 73 | 0 | .311 | |||
93 | 〃 | 74 | 263 | 24 | 64 | 36 | 7 | 32 | 45 | 0 | .243 | |||
計 | 6 | 698 | 2676 | 333 | 842 | 431 | 86 | 211 | 318 | 11 | .315 |
カルロス・ポンセ(Carlos Ponce)
これまたメジャー経験は少ない。85年にブリュワーズで21試合に出場したのみである。こういう
実力者を引っ張ってくるのが牛込さんは抜群にうまい。ポンセ獲得には裏があったらしい。所属していた
ブリュワーズがメジャー登録40人枠から外してしまっていたのである。これは彼の力からして、どう考え
ても変で、どうもブリュワーズがミスで登録し忘れたのではないかとも言われている。これに目をつけた
牛込がポンセに直接連絡をとり、口説いたというのが本当のところらしい。まだ26歳で、当然メジャー
への憧れもあったのだが、牛込の熱意と10万ドルの契約金、さらに2万ドルを支度金に出すという
条件でポンセは異国へやってくることになった。
牛込としては、来日させさえすれば、ポンセの実力には何の疑いも持っていなかったそうだ。事実、
初年度から.322、27発、105打点という素晴らしい成績を上げた。一発長打はそれほどでもないと
思われていたが、88年にはホームラン王のタイトルを獲ったみせた。勝負強さは評判通りで、4番の
名に恥じない成績を残し続けた。タイトルは、88年の本塁打、87,88年の打点、ベスト9である。
打つ方は文句のつけようがなかったが、守備は本人も自信がなかったようである。86年は主にファー
ストとサードを守っていたが、本人から「内野手のスローイングに自信がない」と申し出があり、外野に
転向した。
典型的なプエルトリカンの顔つきで、スーパーマリオのルイージそっくりだった。そのお陰で子どもたち
にも大人気で、「マリオ」と呼ばれて本人も気に入っていたようだった。
89年あたりから衰えが目立ち始め、90年には第三の外国人選手扱いで2軍暮らしが長かった。
90年限りで退団。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ポンセ | 右右 | 外、一 | 86 | 大洋 | 128 | 469 | 79 | 151 | 105 | 27 | 50 | 64 | 18 | .322 |
87 | 〃 | 130 | 492 | 75 | 159 | 98 | 35 | 54 | 73 | 9 | .323 | |||
88 | 〃 | 130 | 497 | 79 | 145 | 102 | 33 | 54 | 69 | 5 | .292 | |||
89 | 〃 | 130 | 512 | 69 | 135 | 81 | 24 | 41 | 91 | 12 | .264 | |||
90 | 〃 | 15 | 57 | 3 | 11 | 3 | 0 | 3 | 12 | 0 | .193 | |||
計 | 5 | 698 | 2027 | 305 | 601 | 389 | 119 | 202 | 309 | 44 | .316 |