〜ロッテオリオンズ編〜


 1970年代   〜球史に残る名助っ人登場!〜

   黎明期は散々でしたが(いろんな意味で)、この70年代はチームとしても優勝しているし、補強した外国人選手
  たちも大当たりでした。オリオンズ(外国人選手)の黄金期はこの時代だったのかも知れません。
  反面、短期に終わった選手も多かった。なにせこの時代、73年〜78年までは「天皇」こと、かの金田正一氏が監督
  を務めていたわけですから。74年には見事にリーグ優勝、そして日本一になったのですが、我慢の出来ない彼の短気
  な性格のおかげで、あっさり解雇された選手の、なんと多いことか。また、とにかく「走れ走れ」のカネダ式猛練習に
  音を上げる選手もいました。人気者のカネやんでしたが、球団にとっては痛し痒しだったことでしょう。


  フランク・ジョンソン(Frank Johnson)

    多分、記念碑的な選手。サンフランシスコ・ジャイアンツに所属していた外野手であるが、なんとSFジャイアンツと
   ロッテの間で交換トレードが行われ、その結果来日したのである。ジャイアンツに留学していた浜浦徹が首脳陣の目
   に止まり、ロッテに譲渡を迫ってきたのである。ロッテとしては、交換トレードなら応じる用意があるとしてジョンソンを
   獲得したのだ。
    内外野すべてを守れるユーティリティ・プレイヤーとして期待されたが、主力打者だったロペスの後釜としては、いか
   にも力不足で、おまけにシュアさにも欠けており率も残せなかった。守備面では評判通りの器用さで重宝したものの、
   守備固めのために契約したわけではなかった。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ジョンソン 右右  外 72 ロッテ 101 298  31  69  39   13   36  60   2 .232

  ジェームス・ラフィーバー(James Lefebore)

    古くからのロッテ・ファンには懐かしい名前。1965年にドジャースに昇格すると、二塁手のポジションを獲得し
   157試合に出場、12ホーマー、69打点をマークして新人王を獲得した。バリバリのメジャーリーガーとして73年
   にロッテ入団、来日する。オリオンズでは主にファーストを守った。

    その実力は期待通りで、初年度から29発放ってチームの主力打者となる。74年にはロッテの日本一に大きく
   貢献した。体力的な限界を感じ、75年のシーズン途中で引退を表明したが、75年のマクナリティ、バチスタ、ロザ
   リオ、76年のブリッグスと、揃いも揃ってダメだったため、76年には再度現役としてプレイする。ただし現役はこの
   年限り。チームの評価も高かったため、翌年はロッテのコーチとして働いた。

    帰国後の78年はドジャースのコーチ。その後、85年には3Aの監督として優勝、89〜91年にはマリナーズの
   監督、92〜93年はカブスの監督を歴任した。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ラフィーバー 右右  一 73 ロッテ 111  400  50 106  63   29   32  60   1 .265
      74  〃  82  279  37  79  52   14   28  32   1 .283
      75  〃  47  151  13  39  24    9   13  19   1 .258
      76  〃  90  268  22  65  37    8   25  36   2 .243
 計         330 1098 122 289 176   60   98 147   5 .263

  ウィリアム・マクナリティ(Willam McNulty)

   主軸のラフィーバー引退に泡を食った球団が急遽入団させた一塁手。69年にアスレティックスに昇格している。
  期待された長打力そのものは、確かにラフィーバーに匹敵あるいはしのぐものがあったが、なにせ粗かった。
  一発当たればホームランだが、三振の量産は目を覆うばかり。当人も、来日当初は自信満々で活躍を約束した
  が、後半はすっかり自信喪失気味だった。打率が2割にも届かない有り様では致し方あるまい。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
マクナリティ 右右  一 75 ロッテ  64 195  24  37  27   13   18  52   1 .190


   スティーヴ・マクナリティ(Steve McNulty

    メジャー経験はなく2Aの出身。77年キャンプで入団テストを受け、合格入団した。捕手のミットにドスンと
   収まる速球はいかにも重そうで、期待は膨らんだ。しかしそれもキャンプまで。紅白戦、オープン戦でも案外と
   パッとせず、シーズンに入ると化けの皮が剥がれてしまう。練習時の半分も力が発揮できないのだ。特に走者を
   背負ってしまうと途端に意識してしまい、連打を浴びた。典型的なブルペン・エースだったわけである。
    いくら練習で良くても実戦で仕えなければ意味がない。5月下旬には解雇。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
スティーブ 右右 77 ロッテ   7   0  1 20.0   0   0   17  17  15   14 6.30

  ラファエル・バチスタ(Rafael Batista)

   彼もラフィーバーの代役として獲得された。マクナリティがまるで使えなかったので、あっさりと見切りをつけて
  新たに入団させた一塁手だ。いかにラフィーバーの存在が大きかったかがわかる。73〜75年アストロス。
  シーズン途中の入団で、初出場の6月3日南海戦で、江本からいきなりホームランして来日第一打席本塁打を
  放っている。今度はいけるかと期待した首脳陣は、すぐさま失望に沈む。まあ、打てないこともあるが、それ以上
  にケガが多すぎた。やれ腰が痛い、肘を痛めた、膝の古傷が、と騒ぎ、連戦に耐えられなかった。あんまりあちこち
  ケガが出るので仮病ではないかという疑いまで出た。当然、ロクに使えずあっさりクビ。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
バチスタ 左左  一 75 ロッテ  48 137  12  28  13    3    8  26   1 .204

  ジミー・ロザリオ(Jimmy Rossario)

   ラフィーバー・ショック回避のため、打線強化として期待された。71年ジャイアンツに昇格したメジャーリーガー。
  スイッチの強打者ということで期待もされたが、これもダメ。やはり粗い打撃で、日本投手に翻弄されてしまった。
  打率は2割そこそこで、ホームランは1本も打てなかった。これはダメだということで、5月下旬にクビ。
   その後、76年にはブリュワーズでメジャーに復帰、15試合に出場している。だからということでもないだろうが、
  なんと77年には新生ライオンズが日本に招いた。慢性的な選手不足に喘いでいた太平洋クラブだから、なんとか
  半レギュラーの位置を占めたが、強振・大振りの悪癖は直っておらず相変わらずの三振の山だった。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ロザリオ 右両  外 75 ロッテ  24  92   3  19   4    0    2   9   4 .207
      77 太平洋 107 257  27  56  18    5   30  57   5 .218
 計         131 349  30  75  22    5   32  66   9 .215

  ジョン・ブリッグス(John Briggs)

   前年(75年)に、ロザリオ、マクナリティで典型的な「安物買いの銭失い」をやってのけたオリオンズ。それに
  懲りたのか、今度は大物を引っ張ってきた。フィリーズ、ブリュワーズ、ツインズと11年間に渡りメジャー暮らしを
  してきたブリッグスを獲得したのである。口ひげとモミアゲのたくましい偉丈夫な黒人選手で、キャンプから見せた
  圧倒的なパワーは、この年の来日外国人選手ナンバー1の評価も得た。
   開幕してからもそのパワーは発揮され、4月は6ホーマー、17打点を稼ぎ、リーグ1位の成績を収めている。
  首脳陣も喜んだ。ところが。

   長年のメジャー暮らしだったブリッグスには、メジャー(1軍)での猛練習が信じられない。若いうち、マイナーで
  猛練習を積むのは当然だが、身体も出来上がり実力もある1軍選手がマラソン選手ばりに走ってばかりいることが
  理解できない(当然と言えば当然だが)。ブリッグスの調子が落ちると、早速カネやんは「走れ」と来る。長いシーズン、
  調子が落ちることもあるのは当たり前で、そんな時期に身体をいじめても何にもならないというのがブリッグス(という
  か、メジャー選手)の主張だから、これはかみ合うわけがない。

   猛練習を拒否するブリッグスにカネやんはわめき散らす。まったくブリッグスには理解不能だった。すっかり調子を
  落とし、またゆっくり休養も出来ない。見た目よりは神経の細い男だったのだろう、彼は食欲不振に陥り、医者にか
  かると、神経性のものと診断された。野球どころではない、ということで6月には退団、帰国する。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ブリッグス 左左  外 76 ロッテ  47 163  18  37  24    7   21  44   4 .227

  レロン・リー(Leron Lee)

    実績、滞在年数、そして人望と、どれをとっても日本球界最高の外国人選手であったと断言していいだろう。
   メジャー経験はあるが、大した実績は残っていない。69年にカーディナルスでメジャー入りすると、71年にパドレス、
   74年インディアンス、75年ドジャースを経てロッテ入りすることとなる。実力的にもメジャークラスだったと思われる
   が、あくまでも控えの左翼手扱いで、レギュラーがケガをすると出番になり、ちゃんとした成績を残すのだが、彼ら
   が復帰すると、途端にベンチあるいはマイナーに落とされてしまった。75年にドジャースにいたのだが、翌年の構想
   からは外れ、76年オフには自由契約。やむなくリーはマイナー契約に甘んじようとしていたが、引退してオリオンズ
   のコーチになっていたラフィーバーから日本行きを促され翻意、急転ロッテ入りする。

    レギュラーとして毎試合出場出来るというのは、リーにとっても大いなる魅力だった。積極的にナインとも混じり、
   日本野球に慣れようと努力した。そしてその苦労は正しく実ることとなる。初年度の77年には、いきなり本塁打王
   と打点王を獲得し、主力打者として大活躍する。また、80年には.358という高打率で首位打者も手にし、打撃
   3部門をすべて極めている。ちなみに、打撃3部門ですべてタイトルを獲った外国人選手はリーが史上初。
    82年にケガの影響で出場試合が少なかったが、それ以外は最終年を除いてすべて3割クリア、そして打撃ベスト
   10入りを果たすという、驚異的な打撃術を誇っていた。39歳を迎える87年にはさすがに衰えを見せ、長打力も
   なりを潜めた。しかしながら.272を残したのはさすがと言えよう。
    事実、リー本人はまだまだ出来ると思っていたそうで、88年も契約するつもりだったが、球団から構想外を伝え
   られてしまう。ならば移籍したいので任意引退ではなく自由契約にするよう要求、それは叶えられたが、リーを獲得
   しようという球団はとうとう現れなかった。

    183センチ86キロの重戦車で、がっちりとした体型と猪首。やや腹が出ていた面は否めないが、その分腕っ節は
   丸太のような黒人選手だった。そのくせ、性格的には極めて温厚篤実で、当時の国光通訳などは、彼を人間的にも
   激賞していた。来日以来の知日家、親日家で、奥さんも来日後に射止めた日本女性である。

    R・ホワイティング氏の著書によると、これだけの選手にも関わらず、監督やコーチ、チームメイトから邪険にされる
   ことも多く、彼を悩ませていたようだ。日本式猛練習には、不満ながら耐えていたが、チームが勝てない理由を自分
   にされることには閉口していたようだ。気さくで気っ風も良いリーだったから、若い選手には慕われたが、頭の固い
   ベテランたちには疎まれていた面もあったらしい。特に、当時ともにクリーンアップを担った有藤道世三塁手とは口を
   利いたこともなかったそうだ。リーが、というより有藤がリーを無視する状態だったと言われる。当然、有藤監督の
   時代、彼らがうまくいくはずがなかったろう。
    80年、山内和弘監督のもと、ロッテは前期優勝しプレーオフに出場したが破れている。この年、リーは首位打者
   を獲得する活躍でチームに貢献したのであるが、当の山内監督は「リーがもっと打てていれば後期も勝てた」と
   発言し、リーにショックを与えている。それを伝え聞いたリーは、ひとりトイレで泣いたそうである。さらにこの年、彼は
   タイトルを獲ったにも関わらず、チーム関係者で彼を祝福したのは通訳ひとりだったという、信じがたい話もホワイティ
   ング氏は述べている。

    通算4000打数以上の選手で、通算打率.320は日本人選手も含めて、日本最高打率となっている。
   オールスターにも4度出場し、パシフィックの顔でもあった。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
リー 左左  外 77 ロッテ  124  468  74  148 109   34   39 106   9 .317
      78  〃  126  461  76  146  88   30   49  86   3 .317
      79  〃  126  471  79  157  95   28   43  61   2 .333
      80  〃  127  489  88  175  90   33   36  58   1 .358
      81  〃  125  447  58  135  71   19   51  57   5 .302
      82  〃   84  322  53  105  60   15   39  37   1 .326
      83  〃  126  479  71  152  82   25   42  63   2 .317
      84  〃  129  485  84  150  88   31   65  62   5 .309
      85  〃  115  451  87  148  94   28   54  53   1 .328
      86  〃  129  483  75  160  94   31   55  55   1 .331
      87  〃  104  379  41  103  41    9   41  52   3 .272
 計         1315 4934 786 1579 912  283  514 690  33 .320

  レオン・リー(Leon Lee)

    言わずと知れたリー兄弟の弟。兄は、控えとは言えメジャーリーガーであったが、レオンはマイナーの経験
   しかなかった。同じようにアメリカで燻っていたレオンを説得し、日本に引っ張ってきたのは兄のリーだ。
   兄貴が活躍したからと言って弟も出来るとは限らないと、冷笑する他球団もあった。実際、オリオンズ自体も
   半信半疑だったかも知れないが、フタを開けてみると大当たり。リーの大手柄だったわけで、安い年俸でこれ
   だけの選手を獲得できた球団フロントも、笑いが止まらなかった。
    初年度から.316を打って主軸として大活躍。ホームランこそ19本だったが、73打点あれば文句はなか
   ろう。さらに、翌年からは持ち前のパワーを活かした長打力も遺憾なく発揮、2年目35ホーマー、3年目には
   41ホーマーを記録した。80年度は打率.340で、首位打者を獲った兄に次ぐ打率2位となる。

    兄とともに、このままオリオンズ一筋で仲良く活躍、とは行かなかった。5年目に打率が3割を切ると、球団
   からトレードを打診された。しかし、いくら3割を切ったといっても.283であり、22発の78打点。何が不満なの
   かと言いたいところだが、球団としては成績の問題ではなかったらしい。契約更改の際、兄とタッグを組んで
   交渉してくるということで辟易としていた面があったそうである。で、成績が少々下がったから、ちょうど良いと
   言うのが真相かも知れない。
    レオン自身、兄と離れるということで失望したが、せっかく日本球界に慣れたところだったので、甘んじて
   移籍は受け入れた。新天地はセントラルのホエールズだった。折しも、本拠を川崎から横浜へ移し、かつての
   巨鯨打線からスーパーカー・トリオを前面に出して生まれ変わろうとしていた大洋だったが、一発長打も欲しか
   ったわけである。

    移籍したセ・リーグでもレオンの打棒は陰ることなく発揮され、初年度から30発、98打点を稼いで見せた。
   この年は3割を切っていたが、翌年は.321をマーク。ただし、本塁打、打点は少々落ちた。しかし3年目には
   .303の31ホーマー、110打点をあげて面目躍如した。バラ色のオフを過ごすはずだったレオンだが、球団
   から驚天動地の通告を受ける。自由契約である。レオンは信じられなかった。チームで最高の成績だし、自分
   としてもベストの結果だと思っていたからだ。球団から聞かされた解雇理由は、「成績の割に、チャンスに弱く
   一流投手から打っていない」という呆れたもの。
    併殺が多いのは右の強打者の宿命だし、一流投手が調子の良い時に打てないというのは、これまた至極
   当然の話であろう。しかも在籍した3年間、ほぼ全試合に出場しているのだ。これがクビの理由になるという
   ことが信じがたい。

    呆然としたレオンだったが、声をかけてくれたチームがあった。ヤクルトである。その恩顧に応え、移籍初年
   の86年には.319で34ホーマーを放ってみせた。この年は、かのボブ・ホーナーが大旋風を巻き起こしており、
   レオンの大活躍は、このチームメイトの存在で幾分かすんでしまった。ホーナーが去った翌年も、無論レオンは
   残り、3割を打って22発、73打点と活躍した。まだまだ衰えは見せていなかったと思うが、スワローズはレオン
   に衰えが目立つとして自由契約とした。どうも、球団に恵まれていないとしか言いようがない。
    奇しくも、兄と同じ年に解雇されることとなった。

    レオンも、兄と同様、性格は穏やかで模型飛行機を作るのが趣味。大人しい好青年で、滅多なことでは
   怒らなかった。日本で監督をするのが夢だった兄はかなわなかったが、弟のレオンが果たした。2003年に、
   成績不振を理由にシーズン途中で解雇された石毛宏典監督に代わり、ヘッドコーチだったレオンがブレーブス
   の指揮を執っている。なお、レオンの息子であるデレク・リーはバリバリのメジャーリーガーである。
    余談になるが、リー兄弟にはレオンの下にも弟がいる。彼も野球をやっており、リーらの奨めでオリオンズの
   入団テストを受けたが、こちらは不合格となっている。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
レオン 右右  一  78 ロッテ  128  471  59  149  73   19   26  74   6 .316
      79  〃  128  484  77  147  93   35   43  66   4 .304
      80  〃  107  486  85  165 116   41   53  48   2 .340
      81  〃  128  395  50  119  62   13   40  41   1 .301
      82  〃  128  481  50  136  78   22   39  65   0 .283
      83 大洋  128  472  83  136  98   30   66  68   1 .288
      84  〃  130  480  66  154  84   21   65  60   6 .321
      85  〃  128  462  65  140 110   31   77  77   6 .303
      86 ヤクルト  130  483  73  154  97   34   79  79   2 .319
      87  〃  120  453  60  136  73   22   60  60   0 .300
 計         1255 4667 668 1436 884  268  505 638  28 .308