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小串鉱山跡探検ツアー


オードヴィーから車で1時間ほどのところにある産業遺跡、小串鉱山跡地を実際に歩いて回るツアーです。小串鉱山は昭和46年まで操業していた硫黄鉱山で、最盛期には国内第2位の生産高を誇り、2000人を越える人々が長野・群馬県境の山深い土地に鉱山町を作って暮らしていました。当時の暮らしを想像しながら、今は一面の荒野となった跡地を散策してみませんか?

●催行日
 2011年8月30日〜10月31日(但し、10月連休は除く)
 探検の前日もしくは当日にオードヴィー宿泊の方に限ります。
 期間内のご希望の日程をご予約の際にお知らせ下さい。
 尚、日程により催行出来ない場合もございますので予めご了承下さい。

●タイムスケジュール(全日程共通)
  9:00 オードヴィー出発(車で移動)
 10:00 毛無峠(※1現地集合可・ここより徒歩)
 10:30 地蔵堂到着(約2時間ほど跡地を見学します)
 12:30 地蔵堂にて昼食
 13:30 地蔵堂出発
 14:00 毛無峠(ここから再び車で移動・※2現地解散可)
 15:00 オードヴィー到着

 ※1 当日にオードヴィーご宿泊の場合
 ※2 前日にオードヴィーご宿泊の場合

●参加費
 お一人様辺り2000円(弁当付)
 自家用車で自走のご参加は1000円(弁当付)
 現地についての簡単な資料を配布いたします。

●その他
毛無峠から跡地まで片道30分ほどを歩きますので山歩きに適した靴でご参加下さい。
現地の水は飲めませんので飲料水は必ずお持ち下さい。
あきらかに悪天候が予想される場合は中止致しますが、小雨程度でしたら決行する場合もございますので雨具は必ずお持ち下さい。
保険は、必要に応じて、各自でお願いいたします。
事故、けが、病気等につきましては、応急処置および関係機関への連絡以上の責任は負いかねますので、予めご了承ください。

●小串鉱山イメージCM

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Special Thanks Mr,AOE

毛無峠と破風岳

峠に今も残る空中ケーブルの鉄塔

毛無峠から見た鉱山跡地

跡地にある地蔵堂

荒地には鉱山時代の名残が

■小串鉱山概要 

【黎明期】 
この地から硫黄が産出される事は古くから知られており、宝暦年間の古文書に毛無峠付近で硫黄の露天採取を行った記録が残っている。これにより鉱山の起源は少なくとも江戸時代にまで逆上ることができると考えられている。 
本格的な硫黄採掘が実施されたのは大正5年頃、小野喜之吉氏という人物が御飯カルデラ中に硫黄鉱の露頭を発見し、大日本硫黄株式会社を創立して採鉱精錬を開始したのが始まりである。その後、山下秀実、加田金三郎氏の経営を経て東洋硫黄株式会社と社名を変更した。当時は、毛無峠北側の長野県地籍に鉱区があった。採掘量は年間1000トン、従業員数は150名程度であった。毛無峠北側の鉱床を堀尽くした同社は大正12年、峠を越えて群馬県側に鉱区を移設する。これが小串鉱山の原型である。 

【初期の小串】 
昭和4年、三井系企業の”北海道硫黄株式会社”に小串の鉱山経営が譲渡され、潤沢な資金の元、高品位と恵まれた鉱床によってその生産高は飛躍的に伸びた。標準年間採掘量が15万トンをみるにいたり、当時、日本一の硫黄採掘量を誇った岩手県の松尾鉱山に次ぐ全国2位の大鉱山へと成長を遂げる。 鉱山経営が軌道に乗る中で鉱山労働者やその家族などが次々とこの地に移り住むようになり、長野と群馬県の県境近く標高1630メートルの高地に鉱山町が形成された。日本各地に同種の鉱山町はあまたあるが、これほどまでに標高が高く気候的にも厳しい立地は特殊な例であった。 

【小串の地変】 
この鉱山町に大災害が発生したのは昭和12年11月11日午後3時半頃のことである。突如鉱山北側の斜面が、幅約500メートル、長さ1キロメートルにわたって一気に崩落し建物35棟が埋没、15棟が焼失した。この災害によって245名の尊い生命が一瞬にして奪われ、その惨状は筆舌に尽くせないものであったと伝えられている。 
被害の甚大さから一時は再起不可能になるのではと囁かれた小串鉱山だが、日中戦争から太平洋戦争に向かう硫黄需要の高まりの時代と重なり、災害後の復旧は迅速に進んだ。ニ年後の昭和13年には操業が再開され、その後の最盛期には人口2,100名、従業社員数675名を数えるまでなった。土砂崩れ災害現場を避けた一帯には新たに生活区が設けられ、居住家屋の他、集会所や商店や神社、診療所に小中学校、更には幼稚園までもが出来た。 

【最盛期から閉山まで】 
昭和25年の朝鮮戦争時には硫黄価格が1トン当7万円にはね上がり「黄色のダイヤ」と呼ばれる需要のピーク期を迎えるが、昭和30年代の半ば以降、石油精製過程から生産される“回収硫黄”が安価に流通するようになって天然硫黄の需要は下降線を辿り、日本各地の硫黄鉱山が相次いで閉山。戦争を挟んで四十数年間の長きに渡り操業を続けた小串鉱山も昭和46年7月に閉山を余儀なくされた。 
記録によると閉山までに小串小学校を卒業した生徒数は778名、同中学校卒業生は544名であり、多くの子供達にとってこの地は失われた故郷となった。閉山後30余年が経過した現在、小串鉱山跡地は一面の荒野となっている。
 

予約フォームのコメント欄に『鉱山探検ツアー希望』とお書き添え下さい。

学校跡地に残る回転塔



 

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