第一部 第10章
会計のスタイル(の根っこ)
詩人
谷川俊太郎の「みみをすます」という詩の中に次のような1小節がある。「ひとつのおとに/ひとつのこえに/みみをすますことが/もうひとつのこえに/みみをふさぐことに/ならないように」。一方の音だけ、片方の声だけをいくら真剣に聴いたとしても、本当のことは分からない。冷静で、より良い判断は、いろんなことを比較したり、他の方法を探求することで生まれる。
今まで、折りに触れて、世界の2大会計制度である「フランコジャーマン系」と「アングロサクソン系」について、日本型会計との接点との関連で触れてきたが、アングロサクソン系の「国際会計基準」の導入を目前にして、この両者の根っこのところを比較してみる必要がありそうだ。
何故なら、日本のこの1世紀の近代化がそうであったように、国際会計基準を単なる時価主義会計と捉え、上澄みだけをすくいとることになりそうだからである。この章では、会計的真実とは何か、会計のスタイルによってどんな差異があるのかを探ってみる。
1、日本会計の経路
会計制度は、歴史や文化や風土が織り込まれたその国の社会経済システムの中にこそあるが、日本の会計制度の場合、若干趣を異にする。
すなわち、日本の会計制度は、日本独自の文化の生成過程から成立したものではない。日本の会計制度は、そのほとんどが外国から輸入し、日本の実態に合わせ加工したものである。従って、その本質を理解するためには、日本の歴史や文化からのアプローチは無意味である。
日本は、明治維新及び戦後において、西洋の文物をトータルで導入しようとした非西洋圏における唯一の国とされる。それは、維新以後の近代化の過程でもあった。
会計制度とて、例外ではない。商法、証券取引法、税法の三つの法規制(トライアングル・レギュレーション)の体制を採用する日本の会計制度も外国から輸入し、日本の実情を加味し、加工したものである。
債権者保護を基調とする「商法会計」は、「フランコジャーマン系」(ヨーロッパ大陸法系)といい、ドイツ商法会計の輸入であり、投資者保護を基調とする「証券取引法会計」(企業会計原則会計)は、「アングロサクソン系」(イギリス法系)といい、アメリカ会計の輸入である。
この両者の会計制度を輸入・翻訳して、調和(折衷)させながら、今日の会計制度に至っているのである。
さらに、税法が加わることにより、三つ巴の折衷型会計制度となって、非常に複雑な体系となっているのである。いわゆるグレイゾーンの会計制度である。グレイゾーンの会計制度を、白、または黒の一方から説明しているところに日本の会計の難解さがある。
「『風邪をひかぬように、寒い部屋で厚着をさせるのがドイツ流なら、部屋を暖めて薄着で運動させるのが米国流』。
河野一英・センチュリー監査法人名誉会長は、銀行中心の間接金融と取得原価主義のドイツ、証券中心の直接金融と時価主義の米国をこう対比する。室温は企業金融の時価の利用度、着衣の厚さは企業会計の保守度合いを示す。
日本の商法はドイツの会社法が原典で、証券取引法は米法の輸入品だ。証取法の企業会計を商法で縛り、間接金融に直接金融を接ぎ木して時価利用を進めたのが日本。
65年前後の商法、法人税法改正で確立した確定決算主義と取得原価主義(一部低価法)の現行会計制度は、70年代以降の時価発行時代にも骨格を変えなかった。『厚着をさせ部屋も暖める』米独折衷の日本システムの誕生だ」(1996・8・8
日本経済新聞
「きしむ日本的会計」)
2、「仕様規定」か「性能規定」か
現在はどうなったか定かではないが、1996・8・9の朝日新聞によると、1950年に制定された建築基準法の見直しが検討されているという。
現行の建築基準法は、日本工業規格(JIS)や日本農林企画(JAS)などに適合した材料や部品を使うことや、寸法、工法などを細かく決めた「仕様規定」を定めているが、この「仕様規定」から「性能規定」へと離脱しようとする検討が開始されたという。
例えば、仕様規定によれば、ツーバイフォー住宅の場合、材木や合板だけでなく、その組み立て方やくぎとねじの種類や本数、間隔までが具体的に定められているという。
しかし、こうした基準が時代の間尺に合わなくなってきているという。技術革新による新工法が開発されたことや、安い外国産の資材の参入を妨げ、コストを押し上げているからである。現在の基準によれば、住宅コストは割高になり、建物の構造やデザインが大きく制限されるという。すなわち、建築分野における前パラダイム状況の出現である。
検討の方向は、建物の工法や材料などの詳細な現行の「仕様規定」から、安全性などの基準を満たせば多様な選択が可能となる「性能規定」への改正である。
この「性能規定」の骨子は、建物の確保すべき性能を満たしているかどうかの判断基準や測定の方法は定めるが、性能をどういう設計や工法で確保するかは、設計者や建築主などに任せるというものである。
性能規定の基準になれば、建物の構造やデザインなどの選択の幅が大きく広がるだけでなく、建築資材や建築費などのコストダウンが期待できるという。
性能規定は、80年代にイギリスで導入されて成果をあげており、世界的な流れになりつつある。
さて、何故に、建築基準法改正の話題を持ち出したか。それは、会計のスタイルと、この規定の仕方が非常に類似しているからである。
「仕様規定」から「性能規定」が建築基準法の流れなら、会計の流れは、アングロサクソン系の国際会計基準の流れにある。
これら会計体系、スタイルの差異は、法律制度の違いが背景として存在する。
大陸系ヨーロッパの国々やそれを輸入した日本の法律制度は、詳細に定められた制定法にその基礎を置いており、この法律制度を基礎にもつ会計体系を「フランコジャーマン系の会計体系」(ヨーロッパ大陸法系)といい、「仕様規定」によって会計目的を達成しようとするものである。
今日の制定法は、国会の立法権を背景として、その字句自身に拘束力を与えている。字句に拘束力を認めるから、「法の解釈」ということが問題となる。 フランコジャーマン系の会計体系は、詳細な会計規定を遵守することによって会計目的が達せられると考えられるのである。この体系の根本にある思想は「合理主義」である。合理主義は、すべてを理性や論理・法則で割り切ってしまうところに特徴がある。
対して、イギリスやアメリカの法律制度は、制定法を犠牲にしても、判例法や慣習法など先例に大きく依存しており、この法律制度を基礎にもつ会計体系を「アングロサクソン系の会計体系」(イギリス法系)といい、「性能規定」によって会計目的を達成しようとするものである。この体系の根本にある思想は「実用主義」(プラグマティズム)である。
つまり、フランコジャーマン系の考え方は、法に直接の権威を求めるのに対し、アングロサクソン系の考え方は、権威の基礎を法に求めないのである。
日本の会計体系は、こうした「仕様規定」の「フランコジャーマン系の会計体系」と「性能規定」の「アングロサクソン系の会計体系」が混在している状態にある。
3、正義のこころ
「フランコジャーマン系」と「アングロサクソン系」、この両者の会計のスタイル(会計目的へのアプローチの方法・仕方・仕草)を理解するためには、若干の道草が必要である。すなわち、「法=正義」の捉え方の問題である。
渡部洋三東大名誉教授は、「法とは何か」(1979
岩波新書)で次のように述べている。
「法の技術は、つねに法の精神の表現であり、私たちは、法の技術をとおして、その技術にあらわれている法の精神を見抜かなければならない。だから、どんな法の技術をまなんでも、法の精神が分からなければ、法は分かったとはとうていいえない。
法の精神とは、一言でいえば正義である。それゆえ、法とは何であるかという問いは、正義とは何であるかという問いに置きかえられるであろう」
この渡部教授の言葉は、言葉としては当たり前であるが、多くの言葉が実態を離れて一人歩き始める傾向が強い日本においては、奥が深い。
もともと、法にあたる西欧語自体が、すでに「正しいもの」という意味を含んでおり、「正義」と「法」は同根である(Justice
公正・正義・裁判 ← ラテン語Justus 法)。
さて、「正義Justice」という言葉には、「公正Fairness」と「公平Impartiality」が含まれている。
「公正」は、取引する二人の当事者の正義であり、「公平」は、当事者に判断を下す第三者の正義である。
公平の正義は、第三者が常に公平とは限らないから、最後に絶対公平な審判者が現れない限り達成できない。
この関係から、公正の正義が働くことが、正義達成の原点となる。
「正義(ジャスティス)には、公正(フェアネス)と公平(インパーシャリティー)が含まれている。公正は取引する二人の当事者の正義、いわば町人の正義である。公平は二人に判決を出す第三者の正義、いわば役人の正義である。第三者が公平でないなら、第四者に判決を求めるだろう。第四者が公平でないなら、第五者に……。こうして最後に絶対に公平な裁判官に出会うという保証はない。だから公正の正義が働かないと結局は公平の正義も働かなくなってしまう。町人の正義が機能しないと役人の正義も働かなくなる」(1991・8・19
毎日新聞
加藤尚武「『公正』の文化論」)
アングロサクソン系では、当事者同士の「公正」を守り、育てるために裁判所制度が発達してきたのに対し、フランコジャーマン系では、事細かに規定した法律によって正義を達成しようと考えるのである。
このアングロサクソン系(英米法)とフランコジャーマン系(大陸法)の対立は、17〜18世紀の近世哲学の二大潮流である「大陸合理論」と「イギリス経験論」の対立でもある。
4、フランコジャーマン系の正義
フランコジャーマン系の法体系は、成文法主義を採り、抽象的理論を重んじ、法的思考方法が「演繹的」である。詳細な法規定を置き、字句自身に拘束力を持たせる。法規定に不備がある場合は、慣習法に委ねることなく法律を改正し補充するという方法が採用される。さらに、法規定は完全な法典の形で公布され、法の不知をもって抗弁することができない。
すなわち、フランコジャーマン系の正義は、当事者の正義(公正の正義)よりも、第三者の正義(公平の正義)に重点が置かれ、どんな形であれ法に対しての準拠が求められるのである(すなわち、「法に事実をあてはめる」のである)。
「現在の大陸法は抽象的理論を重んじているが、ローマ時代のローマ法学者は、理論家であるよりも実際家であり、抽象的な概念や理論を樹立しようとはせずに、具体的事案に対してそれに適合した法律的解決を与えることに努力した。ローマ法は本来イギリス法と同様に、個々の具体的事件に対する解決を通して発展したものである。ユスティニアヌス帝の編纂したローマ法大全の重要部分をなしている学説類集(Digesta、別名Pandectae)も、理論の集積ではなく、個々の具体的問題についての学説を集めたものであった。ローマ法の研究が、11世紀からボロニア大学を中心として復興し、ローマ法が新しい発展をしたのであるが、その復興は、ローマ法大全に註釈をほどこすことからはじめられた。そして13世紀中頃以降、ローマ法を当時の社会的・経済的事情に適合させ実用化するために、それまでになされた註釈を基礎として、概念を明確にし、法を抽象化・体系化することに努めるようになった。
こういう状態でのローマ法が、14世紀末から16世紀にかけてドイツに継受されたのであって、ドイツ法学者によって概念の定立および法の抽象化・体系化・理論化がさらに推し進められた。…………
ドイツ法学においては、法典の中に法のすべての抽象的原則が体系的に規定されていて、あらゆる具体的事件は、それらの抽象的原則からの演繹的三段論法によって、直ちに解決できると考える。法典に規定された法は完全無欠であり、その完全無欠の法に具体的事実をあてはめると、いかなる場合においても、形式論理によって結論が直ちにでてくるとするのである。このように、具体的事件の解決に当って、抽象的原則から出発して演繹的思考をとるために、事実を抽象的原則にあてはまるように整理し、抽象的原則に関係のない事実はこれを切り捨ててしまう傾向が強い。そのため往々にして、事件に対して解決の具体的妥当性が犠牲にされ、いわゆる概念法学の弊を生じることがある。
ドイツ以外の大陸諸国においても、いずれもかつてはローマ法大全を法源としており、19世紀から20世紀にかけてそれぞれ法典を作っているのであって、それらの国における法的思考方法は、程度の差こそあれドイツにおけると同じ傾向をもっている」(1981
有斐閣
田中和夫「英米法概説〔再訂版〕」)
フランコジャーマン系の法的思考によれば、法への準拠がすべての行動の免罪符になるのである。フランコジャーマン系の法的思考の背景にある考え方は、「大陸合理論」である。
5、アングロサクソン系の正義
アングロサクソン系の法体系は、判例法主義を採り、具体的事件の解決を重視し、具体的司法経験(判例)を重んじる。法的思考方法が「帰納的」である。
制定法は、第二次的法源とされ、例外的存在であって、判例法すなわち裁判所の判決に基づく法を第一次法源とする。制定法は、判例法体系という大きな流れの中に点々と散在する小岩のごときものと称される。
「英米においては、大陸諸国と異なり、抽象的法律理論よりも具体的事案に適合する妥当な法律的解決を重要視する。極端な抽象化をきらい、具体的事件から離れた抽象的原則を樹立しようとはしない。具体的事件の解決に当っては、当該事件と同様または類似の事件についての先例をさがし、直接あてはまる先例があればそれに従い、そういう先例がない場合には、類似の事件についての先例から類推によって結論を出す。その法的思考方法は、(事件の具体的事実から出発し、それにあてはまる先例をさがして結論を出すのであるから)帰納的であるということができる。
具体的事件における法と事実の関係についてみると、(大陸法においても法を事実に適用するともいうが)、大陸法の考え方としては、むしろ法に事実をあてはめる、法典に規定された完全無欠の法体系に具体的事実をあてはめるのであるが、英米法においては、まさに事実に法を適用する、具体的事実に先例において宣明された法規範(いわば具体的な法規範)を適用する、という考え方である。英米においては、法とは個々の具体的事案を処理した判例(判例においてその事件に即して宣明された法規範)の集積である。
英米において過去の司法的経験(判例)に従って裁判すべしとするのは、いいかえると、訴訟事件を権力者の意思によって専断的にうち立てられた法規からの演繹によって裁判することを排斥するものであって、この権力者の専断的意思の排斥という思想は、英米法の他の重要な特徴である『法の支配』(Rule
of Law)の原理に一層明瞭に現れている」(1981
有斐閣
田中和夫「英米法概説〔再訂版〕」)
アングロサクソン系は、制定法によらない判例法を中心とした法体系である。判例法とは、慣習法であり、「慣習法とは社会の常識の集積である」といわれる。
アングロサクソン系(判例法=慣習法)の特徴とされるのは、法の持つ強靭性(歴史的継続性)であるとされるが、この特徴には、イギリスおよびアメリカの歴史的形成過程がある。
イギリスでは、14〜15世紀の英仏百年戦争で大陸に地盤を失い、また王位をめぐり30年間にわたって全貴族が2派に分かれて争った「ばら戦争1455〜85」の結果、絶対王政が誕生し、独立した。すなわち、大陸とドーバー海峡を隔て、島国として発展する道を歩むことになったのである。つまり、国家としては安定したのである。
イギリスにおける国王(最高領主)は、一方では国王の下にあるバロン(Baron領主)と、他方では国王の上にある教皇の権力とのバランスに立っており、国王の力が一進一退しながら、中世を通じて、ごくゆっくり、出来上がり図については明確な全体像をもたぬまま展開されたのである。
このことによって、絶対王政成立以後も成文法を制定するという思想は起こらず、事件が起きると同様の事件に対する先例を参考にして判決がなされたのである。
判例法は、法の前提としている理念に照らして、各論的考察を重視し、実際的性格を持つ。
個々の現象を一定の概念で整理し、抽象化する作業を放棄し、個々の事例(case
by case)の研究で、具体的事例の持つ特徴を突き詰めて、それに適合した法律的解釈を与えるのである。
この法の抽象化努力を放棄する態度は、抽象化能力が欠如しているのではなく、人間の理性の不完全さ、言葉の限界というものを歴史的教訓の中で見出したものである。
この法の態度の背景には、近世哲学の2大潮流の一つ、「イギリス経験論」がある。
イギリス法はアメリカにも受け継がれたが、判例主義が弱く、なによりもアメリカは連邦制であって、連邦憲法に定めるもの以外の法律、例えばわが国の民法、商法にあたる法律は各州の立法権のもとにある。
アメリカにおける中央と各州の関係は、日本における中央と都道府県の関係ではない。例えれば、ECの中央政府とフランス、ドイツ、イギリスの関係にある。
従って、アメリカの法の特徴は、同じ国内に50余の法律があることから、多元的で、かつ、法律間のせめぎあいがあることから、よりダイナミックである。
さらに、アメリカの法の態度は19世紀後半に起きた「プラグマティズム(実用主義)」の中にある。
6、大陸合理論とイギリス経験論
正義のアプローチは、哲学の問題であるが、法思想を考える場合には、17〜18世紀に起こった二つの哲学の流れをみなければならない。
すなわち、デカルト、スピノザ、ライプニッツなどに代表される「大陸合理論」と、ベーコン、ロック、ヒュームなどに代表される「イギリス経験論」である。両者とも哲学の歴史において根本的な変化を生じさせた「自然法」(近世自然法または理性法)の流れの中にある。
自然法は、「神の意志=宗教的呪縛」から開放された人間の自然的理性から出発し、人間に自然に植えつけられた理性を通じて、この世界を認識できると考えるのである。通常、自然法という場合、実定法に対するもので、もっとも普遍的で、実定法の基礎となる法を意味する。「自然」とは、普遍的という意味と、国家成立以前の自然状態にあったときに支配していた法という意味に使われる。自然法は、現実の法に批判を加える理論的根拠に使われた。
17〜18世紀は、中世以来の迷信や伝統的な考え方を脱して、実験と観察の結果を整理し、体系化していく近代科学の発展と歩みを共にする。
中世における政治的秩序の維持は、「王権神授説」のように「神の権威」の傘のもとにあった。
「『中世』の哲学思想は神学の婢女といわれ、その体系はもっぱらキリスト教教義の詮索に費やされた。議論が神学的な傾きを多分にもっていたのは、学問の分化・個別化という発想がまだなかったことにもよるが、宗教が世界の森羅万象すべての事柄を包括する世界性・普遍性をもつ以上、避けられないものだったのである。つまり、何かを知ろう、考えようとする場合、神が造り給うたこの世界を相手にする限り、キリスト教教義と係わらざるを得ないということなのである。『われ知らんがために、信ず』というスコラ学者の言葉は、その辺りの事情を素直に表現したものである。ようするに、知識と信仰がまったく同義のものだと考えられていたのである」(1992 講談社現代新書 山本雅男「ヨーロッパ『近代』の終焉」)
自然法は、神(=権威)以外に理性を求めようとする考え方であるから、自然法の考え方は、すなわち封建制の崩壊へと導くものであった。
近世自然法の考え方は、11世紀項から起こったスコラ哲学の中心課題となる名目論(nominalism
唯名論)から起こる。
それまでの実在論(realism)は、「ものごとを理解するためには神を信ずる」という盲目的理性であり、感覚によって捉えられる個物は、仮の姿であり、影であるとした。
これに対して、名目論は「神を信ずるためにはまず理解する」という理性を出発点とする。個物こそ実在であり、普遍概念は個物から抽象された単なる名目にすぎないと考えるのである。
時代とともに名目論が優勢となり、理性的態度が近代科学や近代思想の誕生へと結びつく。「大陸合理論」および「イギリス経験論」は、ともに名目論の流れの中にあるが、歴史的な発展の仕方の相違により、考え方に差異があらわれる。
この二つの考え方を、ゼノンというギリシャの哲学者が考えた「アキレスとカメのパラドックス」で比較すると次のようになる。すなわち、大陸合理論では「アキレスはカメに追いつかない」。イギリス経験論では「常識的に考えて追いつく。追いつかないと考える人間の理性はどこかおかしい」。
さて、大陸法と英米法では、「法」=「正義」の達成アプローチの仕方が、大陸合理論かイギリス経験論かという哲学の問題に帰着し、さらには会計のスタイルの問題までつながる。
7、イギリス経験論誕生の背景
同じ島国でありながら、日本人とイギリス人の気質は、相当異なっている。どうも、日本人とイギリス人の考え方には根っこに差がある。
「イギリス人は、ねちねちと論理的な議論をフランス人のもの、ぺらぺらと修辞的ないいまわしをイタリア人のものと見て、そのいずれにも深い不信を抱いている。また、ドイツ人やアメリカ人ともちがって、学者や『インテリ』に昔から軽蔑を感じてもいる。実践理性と経験的事実、つまりは自分で観察し自分で実験した結果に頼るのが好きで、そのことは、ベイコン以来のイギリス哲学の主流によくあらわれている。…………彼らは、木はその実によってこそ知られると考える。形而上学よりもむしろ倫理に力点を置く-----------------つまり、なぜ生きているかよりもいかに生きるかを重視する道徳的な生活態度も、そのあらわれといえよう」(1978
講談社現代新書
別宮貞徳訳 ピーター・ミルワード「イギリス人と日本人」)
イギリス経験論は、17〜18世紀にかけて生み出される。すなわち、17世紀から18世紀にかけてのイギリスは、国王と議会の間に激しい戦いが繰り広げられた市民革命の時代である。
・議会が国王に権利の確認を要求した1621年の「大抗議」(Grand
Protestation)
・国民の権利の確認を主張した1628年の「権利の請願」(Petition
of Right)
・チャールズ一世の虐政と不正を列挙した請願書を議会が可決した1641年の「大諌奏」(Grand
Remonstances)
・クロムウェル率いる議会軍が国王軍を破り、チャールズ一世を処刑した1642年に始まる「ピューリタン革命」(Puritan
Revolution)
・しかし、クロムウェルの政治は、奢侈、演劇、飲酒の禁止といったあまりにも厳格な清教徒政治のため、国民のこころは離反。クロムウェルの死亡によってチャールズ一世の子が亡命先のフランスから帰ってきて即位した
1660年の「王政復古」(Restoration)
・王政復古により、旧教の復活、再び反動的な専制政治が敷かれたのに対し、議会はジェームズ二世を廃し、その娘婿であるオランダのオレンジ公ウィリアムを迎えた無血の革命である1685年の「名誉革命」(Glorious
Revolution)
・さらに、1689年には「権利の章典」(Bill
of Right)によって議会は議会の立法権、議会の承認なき課税の廃止、議会内での言論の自由の権利を認めさせた。
・1721年は議会で多数を占めた政党の指導者達に政治を委ねる「責任内閣制」が誕生。
17世紀〜18世紀の市民革命の中で、後世に名を残す二人の哲学者が存在した。すなわち、ジョン・ロックとディビット・ヒュームである。イギリス経験論の生みの親というべき存在である。
近代政治思想の基礎となるのは、ジョン・ロックの「統治論」である。民主政治の父と呼ばれるジョン・ロック(1632〜1704)の思想は、アメリカ独立宣言(1776)やフランス革命(1776)の思想的原動力となり、また、明治維新直後に「天賦人権論」として日本にも紹介され、自由民権運動の理論的根拠ともなった。
ロックの思想は、ピューリタン革命や王政復古、名誉革命とうちつづく動乱の歴史の中で完成させた。
ロックは、著作「人間知性論」の中で、「いっさいの知識は経験に由来する」として、大陸合理論の唱える「生得観念」を否定した。
「【心は白紙。観念はすべて経験から】:そこで、心は、言ってみれば文字をまったく欠いた白紙で、観念はすこしもないと想定しよう。どのようにして心は観念を備えるようになるか。人間の忙しく果てしない心想が心にほとんど限りなく多種多様に描いてきた、あの膨大な貯えを心はどこから得るか。どこから心は理知的推理と知識のすべての材料をわがものにするか。これに対して、私は一語で経験からと答える。この経験に私たちのいっさいの知識は根底を持ち、この経験からいっさいの知識は究極的に由来する。〔ロック:人間知性論〕」(1980
中央公論社
大槻春彦編集「ロック
ヒューム」)
「人間知性論」の中の「白紙」という有名な言葉は、「ぬぐわれた看板(タプラ・ラサ)」ともいい、ロック哲学の名高い標語である。
「大陸合理論」が唱える「生得観念」、すなわち数学でいう定義・公理から合理の連鎖によって真理を得ることができるという思想は、理想を求めながら流血に終わったクロムウェルの独裁政治を経験することによって、「人間の理性は大したものではない」というロック哲学が生まれたのである。
ロックやヒュームに代表されるイギリス経験論は、大陸合理主義の理性を絶対視する哲学に対して、経験を重視する実証的な哲学である。また、普遍的なものの存在をしりぞけることによって大陸合理論の対局に立つものである。
さて、ディヴィッド・ヒューム(1711〜1776)は、イギリス経験論をさらに徹底した哲学者である。
ヒュームは、イギリス人で初めての本格的な英国通史五巻を書いた。この歴史の叙述を通じて、いかに理屈というものが駄目であるかを実証したのである。理屈がいかに民衆を苦しめたかを、歴史の中から見出した。
近代の哲学は、われわれの精神が真理を認識できるという確信から出発していたが、ヒュームによれば、われわれの知識は、習慣によって形づくられる、蓋然的(確からしい)知識に過ぎないという。われわれの精神とは、経験によって受け取った知覚の束だという。
正義や不正義は、自然から来るものではなく、人為的に教育と人間の黙約(convention)から必然的に生ずる。
黙約(convention)とは、共通利益の一般感覚である。黙約は、漸次に起こり、規則違反の不都合の繰り返しを経験することによって獲得されるという。
このように、近代哲学の出発点では、人間の理性は無限ともいえる認識の可能性を持っていると考えられていたが、イギリス経験論の批判によって、人間の理性には「経験という枠」がはめられてしまったのである。無制約な理性の時代にかわって、常識的な時代が始まったのである。
「まったくの純粋な人類愛、つまり各個人の地位、職務、自分自身との関係といったものとのかかわりのない人類愛のような情念は人間の心にはない、ということである。たしかに、どんな人間でも、また実際、どんな感受力のある存在でも、その幸、不幸がわれわれの身近に置かれて、生き生きとした色合いで示されるときには、ある程度われわれの心を動かすのは事実である。しかしながら、こうしたことはただ共感からのみ起こるのであり、人類のそういう普遍的な愛情の証拠にはならないのである。
こうしたすべてのことから、公平の法を守るようにする動機としては、われわれは、公平そのものとこれを守ることの価値以外には、なんら真の、普遍的な動機も持たないということになる。そして、いかなる行為もそれとは別個の動機から生じることができない場合には、公平なもの、価値あるものとなり得ないわけだから、ここにはあきらかにこじつけ、循環論がある。したがって、自然がこじつけを作り、必然的なもの、避け得ないものとしているのだと認めるのならともかく、そうでなければ、正義や不正義は自然に起因するのではなく、人為的に、教育と人間のしきたりから必然的に生じることを認めなければならない〔ヒューム:人生論〕」(1980
中央公論社
大槻春彦編集「ロック
ヒューム」)
イギリスにおいては、ロックやヒュームに代表される「イギリス経験論」が、その後の1789年に勃発したフランス革命のその後の状況をつぶさに観察することによって確信するに至るのである。
すなわち、フランス革命の思想は非常に立派なものであったが、実際には革命プログラムにないいろんなことが起こった。第一に、ロビスピエールのような人物が出てきて、片っ端から同胞を殺戮し始めた。第二に、ナポレオンが出てきて戦争をしまくった。そして、ナポレオンは最後には戦争に負けて、また共和制に戻ってしまった。このようなことは革命プログラムには予定されていなかったものである。
イギリス人は、壮大で立派なプログラムを、すなわち理性があてにならないことを、フランス革命を見て確信したのである。
8、プラグマティズム
プラグマティズム(pragmatism)は、現代アメリカを代表する哲学思想である。プラグマティズムは、パース(C・S・
Peirce 1839〜1914)によって初めて唱えられ、ウィリアム・ジェームス(W・ James1842〜1910)によって確立された。一般的には「実用主義」と訳される。
もともと「プラグマティズム」という言葉は、「なされた事柄」「行為」などを意味するギリシア語pragmaに由来し、プラクティス(practice)とかプラクティカル(practical)という英語もここからきている。プラグマティズムは、仕事を遂行するのにあまり役に立たない形而上学(metaphysics)に対する哲学用語である。
プラグマティズムは、理論よりも実地、実際を重んずるきわめてアングロサクソン的特徴に富んだ哲学である。
「概念の意味はつねに『行動とかかわりのある結果』とむすびつけて考えられる。固いものは『ナイフで切りつけても』、それには傷がつかず、ナイフの刃のほうがボロボロになる。重いものは『支えをとれば』、おちる。あるものに『力をくわえれば』、うごいているものについては、速度が変化して、はやくなるか、それともおそくなってやがて静止する。静止しているものについては、速度がゼロから変化してうごきだす。このように『もし……すれば』でしめされる行動は、それぞれの概念にたいする実験条件をさしており、実験をおこなうことによってしかじかの結果が観察されることを予期している。そしてこうした実験と観察を考えることのできない概念は『無意味』な概念としてしりぞけられるのである」(1997
放送大学教育振興会
魚津郁夫「プラグマティズムと現代」)
アメリカでプラグマティズムが提唱された背景には、移民国としての歴史がある。ヨーロッパからアメリカに渡った移民達は、農奴制や小作制のもとであえいでいた農民達だった。古い土地制度に縛られていた彼らが、アメリカに自由の土地(Land
of Freedom)を求めたのである。われわれが想像する漠然とした意味での自由ではなく、もっと切実な、明確な「自由」である。
ヨーロッパの古い封建制から開放され、独立農民として出発した彼らには、自分の家を自分で作り、自給自足の生活が待っていたのである。アメリカの典型的な人間像として、大統領出生にまつわる「丸太小屋」神話がある。丸太小屋は、自力実行の象徴である。雨露をしのぐ空間を自力で作り、自力で食物を手に入れる。植民地時代や開拓時代に必要だったのは、行動力、実践力であった。実践のために役に立たない「純粋の知性」は軽蔑の対象とされたのである。
「アメリカ人にとって、知識が必要だとすれば、それは実用的知識以外のなにものでもなかった。思弁の世界にあそぶことをアメリカ人は嫌った。『ノー・ハウ』(Know-How)というアメリカ英語がある。やり方の知識といったような意味だ。あるいは、実践上、役に立つ知識、ということだ。その知識を手がかりに、やってみて、うまくゆけばその知識は正しい、ということになる。うまくゆかなければ、それはその知識がまちがっている、ということにほかならない。アメリカにおける知識は、一般的にいって、実践的検証によってたしかめられなければならないのである。
それは、過去二世紀にわたるアメリカの驚異的な近代化の原動力であったといってさしつかえない。実用知識(というよりも実地検証にたえうる知識)だけを尊重し、現実に役に立たない抽象的観念を排除したことで、アメリカの応用科学は、世界のすべての国を引き離すことができたのだ」(1967
講談社現代新書
加藤秀俊「アメリカ人」)
このプラグマティズムの会計への適用についての典型的な例が、「実質優先思考」である。
9、フェアネス
イギリスでは、ある行為がフェアでないときに、it’s
not cricketという。クリケットという競技は日本ではなじみがないが、イギリスにおいては国民的競技である。11人づつの二組がバットで木のボールを打ち合い、鉄製の小門をくぐらせて得点を争う競技である。
このスポーツは、基本的に競技内容が厳しいこと、団体競技であると同時に個人のプレーがはっきり区別できるようになっていることから、教育方針としては好都合であり、19世紀にはパブリックスクールの最重要科目として採用された。
パブリックスクールで重視されたこの組織的ゲームでは、チームのためにプレーすること、キャプテンの権威に従うこと、忠誠を尽くすことが強調され、フェア・プレーの精神が要求された。これは、グラウンド内だけのものではなく、外の世界においても正直で、折り目正しく、信頼できるという意味を含んでいる。it’s
not cricketという表現は、「公正でないこと
unfair」ということを意味し、不公正な行動に対する強い非難のことばとなっている。
「イギリス人の自慢のひとつは、正義感、フェア・プレーの精神である。なにか問題が起これば、虚心坦懐、けっして一方に偏することなく、表裏、左右、敵味方など、つねに両面に目を配るのをむねとする。この性格は、イギリスの教育で競技やスポーツが重視されていることから生まれたのだといわれるが、なるほど学生はスポーツ精神をもって正々堂々と戦い、敗北をこころよく受け入れることを期待される」(1978
講談社現代新書
別宮貞徳訳 ピーター・ミルワード「イギリス人と日本人」)
一方、アメリカでもフェアネス又はフェア・プレーの精神が尊重される。アメリカ社会では、アンフェアということばは、「完全否定」に近いことばである。
「“fair”は『公平な、公正な、規則に従った』のほか、非常に広い意味をもちますが、極めて基本的な、皆が守らなければならない最低線のレベルを示すニュアンスがあります。これを典型的に表しているのがアメリカの学校での評価の基準です。“fair”は“excellent、good”に次ぐランクで、日本でいえば可、即ち、合格すれすれを示す評価です」(1995
大修館書店
佐野正之・水落一朗・鈴木龍一「異文化理解のストラテジー」)
このメンタリティまで落とし込まれているアメリカ人のフェアネスの精神は、アメリカが移民の国であるという歴史的背景がある。移民として新天地アメリカに渡ってきた人々の行動原理は、努力すれば報われるというきわめて単純な、自由競争への信頼である。すなわち、ヨーロッパの封建制の呪縛からのがれ、自由の天地アメリカに命をかけて渡ってきた人々だからこそ、自由への情熱は計り知れないものがあったのである。自由とは、すなわち競争ができるということである。競争への参加者達は、チャンスは誰にでもあり、そのチャンスをものにして他人の手を借りずに勝つことがすなわち正しいことなのだという価値観を有している。
「あらゆる面で、不平等が存在してはならないのである。もちろん、あとでみるように、勤勉と努力と、そして幸運にめぐまれた人間が、他の人間をひきはなして『成功』者になることはある。そこでは、成功した人間とそうでない人間とのあいだに、明白な落差がうまれるだろう。しかし、その落差が、はじめからあったのだ、という考え方をアメリカ人は否定する。出発点では、まったくおなじ条件であったものが、その後の個人の努力によって、差がつけられてゆく---------------アメリカ人にとって、それは基本的確信の一部なのである。
いわば、それは、徒競走のルールのごときものである。同一のスタート・ラインにならんで、用意…・ドン!でいっせいに走り出す。それで徒競走の順位がきまってゆく。1等から3等までは賞品をもらえるが、そのほかは、なにももらえない。当然、ビリの人間もできてくる。しかし、出発点はまったくおなじであった。まったくおなじ条件ですべての選手は走り出した。頑張った人間が勝ち、力の足りなかった人間は敗れた----------- それだけのことだ。
人生においても原理はまったくおなじだ。結果として、優劣はついてくる。だが、スタート・ラインは、おなじでなければならない。それでなければ、フェアでない。公正でない。………・
アメリカ人は、そういうハンディキャップつきの人生を否定する。アメリカでは、すべては同一のスタート・ラインからはじまらなければならない。それが、アメリカ人の人生の原則である」(1967
講談社現代新書
加藤秀俊「アメリカ人」)
「日本の子供たちは、あいつは『生意気』だからやっつけちまえと言いますが、アメリカやイギリスの子供は、あいつはfairでないからやっつけろと言います。ともに暴力を『正当化するための名目』ですが、『生意気排除』は『序列的平均化社会』の原則であり、fairは『競争社会』の原則です。日本という国では、まなじりを決して対決しているように見えても、どこかに『八百長的合意』があるのに、アメリカにはそれがなく、『ルール違反』に対しては『妥協なき戦い』を貫徹しようとします」(1995
大修館書店
佐野正之・水落一朗・鈴木龍一「異文化理解のストラテジー」)
この価値観の相違が、日米間に経済システムの差を生んでいる。Fairを実現するためにアメリカでは「市場経済」が進み、日本では人間関係を重視する「ネットワーク経済」となったのである。
【補足1 明治初期における外国法の影響】
「わが国は明治中期以後、ドイツの法律を模範として法律を制定し、法律学もまたドイツ法律学の圧倒的影響を受けるようになった。しかし明治初期においては、まだドイツ法の研究は盛んではなく、当時のわが国の法学界を支配していたのは、フランス法とイギリス法とであった。それらのうちイギリス法は判例法からでき上がっているため、これを急速に摂取ることは困難であったが、これに反して、フランスには1804年のフランス民法典(ナポレオン法典)をはじめとして、19世紀の模範的法典とされた諸法典が揃っていたので、早急に西欧文化を採り入れようとするわが国は、フランスの諸法典に倣って法律を制定するようになった」
(1981
有斐閣
田中和夫「英米法概説[再訂版]」
)
【補足2 明治憲法の制定】
「明治初年から国民の間に、イギリス流の立憲主義やフランス流の民権思想に基づいて、国会の開設・憲法の制定および政治的自由を求める民権運動が、次第に高まってきたので、政府は明治14年に、明治23年を期して国会を開設する方針を立て、その旨の詔勅が発せられた。そして翌明治15年、憲法の草案起草の準備のために伊藤博文をヨーロッパに派遣したが、伊藤博文は主としてプロイセンその他ドイツ系の憲法を調査研究してきて、これを参考としてわが国の憲法典が作られた。すなわち、自由主義的なイギリスやフランスの制度を参考とせず、絶対主義的なプロイセンの憲法をわが憲法の模範としたのである。このようにして作られた憲法すなわち大日本帝国憲法が、明治22年2月11日に発布され、帝国議会開会の時、すなわち明治23年11月29日に施行された。
国家の根本法規である憲法が、プロイセン憲法を模範として作られたため、憲法以外の法分野においても、プロイセンおよびその延長である統一ドイツの法律を模範とするようになるのは、自然の勢いであった」
(1981
有斐閣
田中和夫「英米法概説[再訂版]」
)
【補足3 大陸法と英米法】
大陸法は、民族・国家が多数存在し、度重なる移動・統一・分裂という歴史的背景から、近代的国家成立のために、世界の法源といわれるローマ法を利用して一挙に体系化されたものである。近代法典は、フランス諸法典に始まる。大陸法の中では、フランスがフランス革命を経ていち早く近代国家と近代法典(特に民法典)を編纂したこと、さらにはナポレオンによる征服という事態もあって、フランス法の影響が大きい。ドイツも絶えずフランス法を乗り越えようとして作られている。
ただ、イギリス法だけはローマ法の影響を免れ、ゲルマン法(慣習法)の伝統を引き継いでいる。
「大陸法も英米法も、ともにローマ法とゲルマン法とが融合してでき上がったものであるが、大陸法においてはローマ法的要素が圧倒的であるのに対して、英米法にはゲルマン法的伝統が強く残っている。『ローマは三たび天下に号令し、三たび諸国民に統一を与えた。最初には、ローマ国民が実力にみちみちて国家による統一を。二度目には、かかる国家が滅びた後に教会による統一を。三度目には、ローマ法の継受により中世において法的統一を。最初は武力により、後の2回は精神力によって』とは、イェーリング(Rudolf
von Ihering
1818〜92)がその名著『ローマ法の精神』の劈頭に掲げた有名なことばであって(このことばの意味をとって、しばし簡単に『ローマは三たび世界を征服した。最初は武力により、二度目は宗教により、最後は法律によって』と引用される)、ゲルマン民族からなるドイツ諸国も、この三たびのローマの征服を受けた。しかし、イギリスでは、その最初と二度目の征服を受けたのみで、最後の征服は免れた」
(1981
有斐閣
田中和夫「英米法概説[再訂版]」
)
【補足4 イギリスにおけるローマ法継受の拒否】
「イギリスでは、ドイツと事情を異にし、1066年にイギリスを征服して王位についたノルマン人のウィリアム1世(1066〜87)およびその後継者達は、(大陸から封建制度をイギリスに持ち込みながら)中央集権的政策を採った。司法についても、中央に設置した国王裁判所の権限を次第に拡張するとともに、国王裁判所の裁判官を地方に巡回させて裁判を行なわせ、それらの裁判を通して、各地で行なわれていたゲルマンの慣習法を統一して、全国に共通なコモン・ロー(普通法
common law)を作り上げていった。そのため、ドイツがローマ法を継受せざるをえなくなった時代にも、イギリスには、地域によって法を異にしているため取引の障碍になるという事情は存在せず、ローマ法の征服を免れた」
(1981
有斐閣
田中和夫「英米法概説[再訂版]」
)
【補足5 コモンセンス】
ロックやヒュームなどによって、無性約な理性の時代は終焉し、常識的な時代、すなわちコモンセンスの時代が到来した。
ロックの思想は、近代思想の原料倉庫ともいわれる。近代のもろもろの思想は、ロックの思想からそれぞれの思想家の個性と歴史的な条件でふるいにかけて自分の思想を作ったとされる。
ロック哲学の人間像は、「可謬的な人間」ということである。人間は知性をもつが、その知性も誤りやすく、有限で弱い存在者として捉えている。ロックは、人間を人間以上の超越的な存在にすがらせたり、人間を理解するのに人間以外の原理を援用することをしない。
ロック哲学では、人間の知性は、大陸合理論のような無制限な知性ではなく、経験に立脚した、限界をもった知性である。ロックの知性は、市民社会の出現という時代を背景として、自分自身の実証的な力に自信をもった知性であり、無制限な知性の陥る独断的な真理の主張を批判する精神である。
「人々の知識は、およそ在るものすべてをあまねく、もしくは完全に、了解するのにどれほど足りないにせよ、しかも人々は、おのが造物主を知り、自分自身の義務を見るようには十分になれる灯火を持っているので、ぜひ知りたいことは間違いなく知らせてもらえる。ともしびの光では仕事に励もうとしない怠け者の片意地な召使いが、真昼の日光のないことを言い立てても言いわけにはならなかろう。私たちのうちにともされたともしびは、私たちの目指すすべてを十分明るく照らすのである。航海する者が自分の持つなわの長さを知ることは、それで大洋の深さをすべて測れるものではないとはいえ、たいへん役にたつ。航海を導いて、難破の恐れのある浅瀬へ乗り上げないよう用心させる必要のある場所で、十分底へ届く長さがあると知っていればよいのである。この世での私たち仕事は、なんでも知りつくすことではなく、私たちの行ないに関係あるものを知ることである。〔ロック:人間知性論〕」(1980
中央公論社
大槻春彦編集「ロック
ヒューム」)
ロックのいう「海の深さを測る縄は海底に届かずとも船を浅瀬に乗り上げない長さの人間の知性」、すなわち「常識・コモンセンス」の誕生である。
イギリスは、「コモンセンスの国」といわれる。コモンセンス(common
sense)は、日本では“常識”となっている。常識とは何かについては、通常は一般の人々が共通して持っている、または持つべき知識、すなわちcommon
knowledgeと理解されているが、コモンセンスの持っている意味はもっと深い。
Senseは「感覚、思考、意味、分別」、すなわち判断力のことである。
「18世紀のイギリスの哲学者シャフツベリーの次のようなことばがある。《コモンセンスとは、公共の福利と共通の利益とについての思慮、共同体や社会への愛、自然な感情、人間らしい心、親切、人類共通の権利についての正当な感覚に由来するような種類の丁寧な態度、および同胞のなかでの自然の美質のことである》。また彼は、とくに政治感覚としてのコモンセンスを強調して述べている」(1984
岩波新書
中村雄二郎「述語集」)
また、山本七平「人間集団における
人望の研究」(1991
祥伝社)は、「常識とは中庸のことである」として、「中」は「中正」、「庸」は「不易(変わらぬ)」であるから「中正・不易」であり、「中庸」とは「足して2で割る、真ん中をとる」といった無原則・妥協的な意味ではなく、「偏頗(へんぱ:かたより)なき動かざる中心を持つことである」と述べている。
このように、コモンセンスは人間らしさの一切を象徴するコトバであり、暗黙の前提(convention)である。
ロックの思想は、名誉革命の成功と同時に確立し、イギリス人の心根に落とし込まれた。その後、ロックの思想は、思想の世界だけではなく、現実の世界に影響を与えた。社会・政治理論、特に統治形態や機能の原理は18世紀にイギリスに定着し、アメリカ独立宣言はロックの政治理論のアメリカ版といわれ、日本の自由民権運動の精神的支柱となった。
【補足6 官僚型「規準主義」と競争型「確率主義」】
「今、日本でも『価格破壊』が起こっている。その主因は、海外から流入してくる新規参入品、様式美よりも価格競争力を重視した消費者主権対応型の商品だ。それに比べて、長年、日本型競争の中で規格化された商品は、細部の丁寧さと問題を起こさないことを重視した官僚主導型の規格規準適合商品である。
官僚的発想によれば、規制緩和の中でも安全規準だけは絶対に必要と思うだろうが、実はそうでもない。実際には、規格規準よりもコスト対効果を重視した確率主義のほうが、安全を達成しやすいのである。
安全を考える場合、規格規準主義と確率主義がある。規格規準主義とは、ある一定の条件(規格や規準)を満たせば事故は起こらないとする考え方だ。たとえば、これこれの建築規準やビルを建てれば、マグニチュード8.0の地震までは確実に耐えられる、したがってこのビルは安全だ、とするわけである。この場合『マグニチュード8.0以上の地震はありえない』と暗黙の了解がある。このため、規準さえ通れば、それ以上の安全装置や救助方法は手当てしようない。
これに対して確率主義では、マグニチュード8.0以上の地震の可能性は何百年に1回しかない。そのときにも耐えられるほど頑丈な建築をつくればいくらいくらのコストがかかる。そのコスト対効果の比率を考えると、費用がかかりすぎる。逆に、もっと脆弱な構造にすれば建築費用は下がるが、マグニチュード7.8までしか耐えられない。それでは何百年に一回かの危険があり、削減できるコストに比べて危険が大きすぎる。その結果、マグニチュード8.0に耐えられる構造でつくるのがもっとも有利だ、ということになる。
官僚主導は規格規準主義になるが、自由競争では確率主義的な発想になる。たとえ結論は同じでも、考え方の過程と周辺の状況は大違いだ。
確率主義に立つ自由競争では安全性が損なわれるかというと、そうではない。安全性を軽視した商品を販売して事故が起こったときには、巨額の損害賠償を取られる。当然、それを担保する保険料も高いから、危険な商品や施設は絶対にコストに合わない。したがって、自由競争の場からは排除される。
逆に、日本は官僚主導によって世界一きびしい建築基準や消防法を持っているが、焼死率は世界一高く、大阪市などは香港の約十倍にもなっている。1995年1月17日の阪神淡路大震災では、前年同月同日に起きたロサンゼルス地震よりもずっと大きな損害を出した。日本よりも安全性に乏しいのは、完全な官僚統制の規準主義でやってきた旧ソ連である。95年5月28日未明のサハリン北部地震の例を見てもわかるだろう。…………
日本は自由経済をやっている、と日本人は思ってきた。だから過当競争まで起こるといわれていた。だが、実際は、きわめて制限された範囲内での競争に過ぎない。過当競争といわれるのも、官僚主導の中でのシェア競争にすぎない。いわば大相撲の力士が日本相撲協会の定めた様式の中で競い合っているのと同じで、消費者(観客)を喜ばそうとする独創性と個性を発揮する競争ではない。
日本がこれから『メガ・コンペティション・エイジ』に対応するためには、ローコスト化を強要する仕組みを全社会的に取り入れ、消費者主権を確立することが必要である」
(1995 講談社 堺屋太一「『大変』な時代」)
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