第一部  第11 会計的「真実」とは何か

 企業会計原則・一般原則の第一は、「真実性の原則」である。
 「企業会計は、企業の財政状態及び経営成績に関して、真実な報告を提供するものでなければならない」

 きわめて包括的で当たり前のことを規定していると受け取れるのであるが、この原則のいう「真実」とは何か。会計のスタイルによって、「それぞれの真実」にどんな差異が生ずるのかを探ってみる。なぜなら、会計情報は、企業活動を数値というコトバで表現したものに過ぎないのであり、コトバはそれを使う人の使い方によって差異が出る。
 つまり、コトバがきわめて個性的であり、主観的なものである限り、「会計的真実」は、コトバを考えた人の数だけ存在することになるからである。
 会計的真実は、「相対的真実」とされ、「真実性の原則」を第一の原則に掲げる理由は、コトバの横行(私利私欲、我田引水、跳梁跋扈、牽強付会など)に「倫理」の枠をはめたものとされる。この倫理のとらえかたが、会計のスタイルによってどのような差異が生ずるかである。

 


 

1、イギリスにおける「TFV概念」

 イギリスにおいては、会計法の上位概念として「真実かつ公正な概観 true and fair viewTFVという概念がある。イギリスにおける会計的真実の制度的構造の中心に位置するものである。
 「イギリスでは、会計基準をそのまま適用することが真実かつ公正な概観を示す妨げとなると判断されるときは、会計基準から離脱することが要求される(離脱が許容されるのではなく、強制されるのである)。…………… 
 イギリスの会計思考の根幹にあるものは、コモン・ロー的思考である。成文化される会社法や会計基準は、真実かつ公正な概観という会計目的を達成するための最小限のルールであって、しかも時代の変化により不適応化することもある。こうした考え方を採れば、当然のことながら、それぞれの規定の適用に際して、当該状況に適用することが最適であるかどうか、もっと適切な方法がないかどうか、明文化された規定だけで真実かつ公正な概観を示しうるかどうか、経営者も監査人も慎重に検討する必要がある。わが国やフランコジャーマン流の『法律や会計基準をすべて順守すれば財務諸表の真実性は確保される』といった理解とは全く反対の考え方をするのである」(1993 中央経済社 田中 弘「イギリスの会計制度〜わが国会計制度との比較検討」)

 イギリスにおいては、早くから会社法が整備されてきたが、「真実かつ公正な概観」の概念の基礎となるのは、1844年会社法である。
 「様々な紆余曲折の後、英国では1844年『登記法』によって、従来の特許主義に代え銀行、学術協会、共済団体、建築組合等を除くjoint stock companiesに対して準則主義を採用し、また多くの論議の後、1855年『有限責任法』によって銀行、保険会社、学術協会、共済団体、建築組合等を除く、1844年法により登記された一般会社に有限責任制を導入した。これらはとりわけ『法人格なき会社』の公共性の公認の結果であり、その代償・あかしとしてSomerset House(会社登記部のあるロンドンの建物:筆者注)への貸借対照表強制登記と強制監査の規定が加えられた」(1991 中央経済社 千葉準一「英国近代会計制度〜その展開過程の探求」)(筆者注;Somerset House=会社登記部のあるロンドンの建物)
 イギリスの会社法に法定監査がはじめて導入されたのは1844年会社法で、そこでは取締役の会計帳簿作成を義務づけ、かつ、「完全かつ公正」(full and fair)な貸借対照表を作成せしめ、これを監査役に提出すべきことを要求した。
 イギリスにおける会計の真実性を要求する1844年の“full and fair”概念は、1856年に「真実かつ正確な概観」(true and correct viewという文言に、さらに、1947年に会社会計規定の根本理念としての「真実かつ公正な概観」(true and fair viewという文言に修正されている。
 この文言修正の経緯を少しく見てみる。
 1856年の「真実かつ正確な概観」の概念は、そのcorrectの持つ意味を、多少の内容の変化を伴いながらも、総じて算術的・技術的な正確さを意味するものとして捉えられてきた。
 しかし、その後、1931年に発生した英国会社法史上重要な事件とされる「ロイヤル・メイル事件」(当時世界的な大郵船会社であるロイヤル・メイル会社の社債発行目論見書に表示された内容が、詐欺にあたるかどうか問われた裁判で、同社の会長のキルザント卿の名をとってキルザント事件ともいう)によって、会計的真実をめぐって論争が繰り広げられた。

 ロイヤル・メイル事件で告発されたのは、営業利益の赤字を、不要となった税金引当金(秘密積立金)を取り崩して純利益に加算し配当を続け、1926年に「税金引当金の調整を含む」と修正して公表した貸借対照表が、虚偽表示にあたるかどうかということであった。しかし、問題の核心は、目論見書に記載された「平均利益」という表示にあった。
 同社が発行した目論見書には、「過去10年間の平均利益は、減価償却費及び現在発行されている社債の利息を控除した後、現在発行計画中の社債の利息支払いに必要な額の5倍に達している」と表示され、平均値を用いるべきでないところに平均値を使用したことが問題とされたのである。
 「過去10年間の平均利益」という数値は、correctの持つ算術平均的数値という意味の上では正しいが、最初の3年間は世界大戦のために膨大な利益があったが、後の7年間は利益が激減し、積立金(税金引当金)を取り崩して利益に加算し配当を続けてきたものである。

 「さらに半真実という問題がある。半真実とは言葉の上では真実であるが、事実上は真実でない表示をいう。ロイヤルメール会社事件において、社長を12カ月の懲役に処させたのは、5%の利付き社債発行の目論見書のなかの次の表示であった。
 『当社は同業他社と同様海運界の不況の影響により苦境にあるが、監査済みの貸借対照表によれば、過去10年間の平均利益(保険基金の利益を含む)は、減価償却費および現在発行されている社債の利息を控除した後、現在発行を計画中の社債の利息支払いに必要な額の5倍に達している。
 税金の引当て、船舶の減価償却、準備金の積立て、優先株式の配当後になされた普通株式の過去17年間の配当率は次のとおりであった。
(年度別の表は省略するが配当率は1914年の無配を除き大体4%〜7%であった)

  問題になったのは『過去10年間の平均利益』という表示である。10年間の利益の平均という表示は言葉の上では正しい。しかし、この表示は、10年間の最初の3年間は世界大戦のため膨大な利益があったが、後の7年間は利益が著減したことを故意に隠蔽しようとしたものである。この判決の結果、会計事務所では目論見書に平均利益という用語を使用しないようになったといわれる」(1987 中央経済社 熊野実夫「企業会計入門」)
 この事件は、目論見書にある特定の言葉や文言が詐欺にあたるかどうかということではなく、書類が全体として詐欺的印象を与えるかどうかという判断によって有罪とされた。
 ロイヤル・メイル事件は、その後会社法改正の動きの中で、取締役の作成する会計帳簿の会計的真実とは何かをめぐって様々な議論が展開された。いわゆる“true and correct view”概念に対する批判である。Correctの内容が、真っ正面から問われたのである。Correctという算術的・技術的な意味合いを持つ量的表現への批判である。
 そこで、1844年会社法のFair”概念が再登場し、1948年会社法規定の根本理念として「真実かつ公正な概観」(true and fair viewの概念が導入されたのである。
 fair”概念の再登場は、合理の限界、言葉の限界をロイヤル・メイル事件を通して再認識したものであった。
 Fairは、より心根のところで会計的真実を要求する。Fair概念は、非言語的である。ディビッド・ヒュームのいうコンベンション(convention:暗黙の前提)であり、共通的利益感覚としてのコモンセンスである。

 「会社法はこの『真実かつ公正な概観』の原則を会社会計の根本規定と位置づけているが、その内容については具体的には規定していない。この用語は、イギリス社会では一般に、会社にとって有利であれ不利であれ、すべての重要な財務情報を、バイアスや虚偽なく、あるいは重要な事実の脱漏なく、真実かつ誠実にディスクローズすることを要求している概念として理解されている」(1992 中央経済社 若杉明編著「会計制度の国際比較」)」
 さらに、1948年会社法は、会社会計の根本理念として、true and fair view概念の導入とともに、「法の離脱規定」を定めた。
 すなわち、法の持つ不完全性、非網羅性、不適応性から、必要に応じて法から離脱しなければならないとしたのである。
 会社法では、「特別な事情の下で」と限定しながらも、法規定を適用することでtrue and fair viewを達成できないと判断される場合には、会社の取締役は、true and fair viewな会計情報を提供するうえで必要な範囲で法規定から離脱しなければならない、離脱した場合にはその理由及び影響を開示すべしとしている。
 この規定は、法の遵守がtrue and fair viewな会計情報を提供し得ないと判断された場合には、「離脱できる」のではなく、「離脱しなければならない」のである。すなわち、法の遵守が免罪符とはならないのである。
 こうしたイギリス的会計の考え方と、日本のフランコジャーマン系流の「法の遵守」(言いかえれば法や企業会計原則への盲従)が免罪符となる考え方との間には、根っこに大きな差がある。

 「わが国においては、『会計報告の真実性は企業会計原則に準拠することによって確保される』とか、『企業会計原則に準拠して会計処理・報告をすればそれを真実なものとみなす』とするのが通説である。しかしこうした理解は合理的ではない。企業会計原則を守れば真実性が確保されるという理解は、歩行者や運転者がすべて道路交通法を守れば事故は起きないとか、あるいはみんなが道路交通法を守っている状態を安全と呼ぶと主張するようなものである。道路交通法が危険の防止や交通の円滑化に役立っていることは認められるにしても、法を守るだけでは事故をなくすことはできないし、極端な場合には法を守ったがために危険が増大することもあるのである」(1993 中央経済社 田中弘「イギリスの会計制度〜わが国会計制度との比較検討」)
 イギリスにおける「true and fair view」概念や、「法の離脱規定」は、ロイヤル・メイル事件などの事例を引き金として会社法の中に規定されたものであるが、より根っこにはイギリス経験論の流れがある。
 すなわち、普遍的なものが存在するか否かという哲学論争の中で、普遍的なものの存在を否定するイギリス経験論の立場である。
 普遍的なものが実際に個別的なものを離れて存在するかどうかは、哲学史上の大問題であった。大陸合理論では、人間の理性で認識するものを普遍的なものとみなした。しかし、イギリス経験論では、人間の理性に枠をはめた。
 ロックは、「人間知性論」の中で、普遍性は単に「記号」であるとした。
 「これまで述べてきたことでだれにもわかるように、一般とか普遍とかは実在の事物に属さず、知性が自分自身で使うために作った案出物・創造物であって、言葉にせよ観念にせよ、記号だけにかかわる。普遍性は、すべて特殊な存在である事物自身には属さない」(1980 中央公論社 大槻春彦「ロック ヒューム」)
 普遍的なものとは、さまざまな正義をひとまとめにして表現した単なる記号であるとした。普遍性を述べること自体がいくつかの観念を前提としている。例えば、“犬”という普遍性を述べるとき、今までに“タローという犬”“キタルという犬”“貞九郎という犬”に出会った経験によってもたらされたいくつかの観念を前提にしているのであり、“犬”はそれらの個別的経験から蒸留された単なる記号であるとしたのである。
 個別的なものを離れた普遍的なものの存在を否定するイギリス経験論を土台とするから、イギリスの法制度は判例法(case law)を採用する。
 イギリスの会計思考の根幹にあるのは、この法制度の考え方を背景として、成文化される会社法や会計基準の規定は、必ずしも完全なものではなく、各規定の適用にあたっては、当該状況に適用することが適切かどうか、適切でなければ、その状況にもっとも適切な方法を採用すべしとするのである。

 

2、アメリカの「実質優先思考」

アメリカにおいては、企業会計の基準の重要な部分は法令によって定められるのではなく、慣行を中心として形成されている。
 「一般に認められた会計原則」generally accepted accounting principlesGAAP)の設定母体であるアメリカ会計士協会は、民間団体(プライベート・セクター)である。

 「議会は、両証券法にもとづいて証券取引委員会に提出される財務諸表の作成にあたって準拠すべき会計方法を、証券諸法そのもののなかで規定するのではなく、それらの法律を管理するSECに、その会計方法を規定する権限を与えたのである。しかし、SECはその会計原則の決定権限を自ら行使することなく、アメリカ会計士協会を中心とする会計専門家の団体にゆだねたのである。そのことを公式に表明したものが、歴史的文書といわれるSEC会計連続通牒(ASR)第4号(1938425日)である。……………
 このようにSECはASR第4号によって、SECに提出される財務諸表の作成において準拠すべき会計原則の決定権限を、最終的に自己の手に留保しながらも、具体的設定作業については会計プロフェッション(事実上アメリカ会計士協会)の手にゆだねたのである。それ以来、会計プロフェッションがつくる会計原則(一般に認められた会計原則)は、SECが同意できないことを表明しない限り、「有力な権威の支持」をもつ会計原則として、SECによって受け入れられる関係が築かれた」(1994 森山書店 加藤盛弘「一般に認められた会計原則」)

 こうしたアメリカの会計思考には、各論的考察を重視し実際的性格をもつアングロサクソン系の考え方が色濃く反映されている。法律は判例法体系をとり、従って、会計のルールも会計実務・監査実務を通して会計士が創造するのが当然であるとする考え方である。
 「アメリカでは会計専門家である公認会計士は、まさにプロフェッショナルとしての高い地位と権威とをもってきた。その権威ある専門家が指導し、形成してきた実務、およびその専門家が承認を与える実務は法に規定されているか否かをとわず、専門職の権威のゆえに社会的支持をうるというあり方がとられてきた。コモン・ローの国なればこそであろう。だからこそ、『広く受け入れられている』ものは妥当なもの、社会的に承認されているものという、実務重視の思考が存在したし、しえたのである。会計原則は会計実務に明るい会計士団体がつくるべきものであり、会計学会の仕事ではない、という考え方が存在したこともその現われであろう」(1994 森山書店 加藤盛弘「一般に認められた会計原則」)
  さて、こうした理論よりも実地、実際を重んずるアングロサクソン的特徴に富んだアメリカ的哲学をプラグマティズム(実用主義)という。
 プラグマティズムの会計への適用は、「実質優先主義」(Substance over formとしてあらわれている。
 現在の「一般に認められた会計原則」(GAAPに整理されている企業会計の基礎(foundation)、すなわち会計公準accounting postulates)に、「実質優先主義」(Substance over formが整理されている。

 現在のアメリカの会計原則の基礎(foundation)とされるのは、「継続企業の前提」(going concern)、「実質優先」(substance over form)、中立性(neutrality)、「発生主義」(the accrual basis)、「保守主義」(conservatism)、「重要性」(materiality)である。これらの概念を基礎として、1階には「公式に確立された会計原則」、2階に「産業別のGAAP」、3階に「会計基準の具体的適用に関する文書」、4階に「理論的概念」の構造をもつ「GAAPの家」が構築されている。
 実質優先主義は、法的形式が経済的実質と異なった場合において、事象の経済的実質面を重視する考え方である。
 その具体的適用の端的な例が、「連結財務諸表制度」である。
 資本主義世界は、弱肉強食の自由競争の世界である。この熾烈な世界において、当初の企業組織では、単一の株式会社という法的実体において対外取引を行なっていたものが、適度な自由競争を求め、相互に自己の利益を守り、互いに相手を侵食しないという方法を模索してきた。その安全弁としての役割を担う企業形態として生まれたのが、アメリカでは「トラスト」(trust)が生まれ、ドイツでは「コンツェルン」(konzern)、日本では「財閥」が生まれた。
 すなわち、子会社・関連会社を含んだ「企業集団」として統一的に対外取引を行なうことによって、法的形式(すなわち、お互いに独立した企業であるという形式)と経済的実質の間に乖離が生じたのである。
 こうした法的形式と経済的実質との間の差異があった場合に、プラグマティズムの考え方によれば、実質を優先すべきものとして、連結財務諸表制度が採られるのである。
 アメリカにおいて、公表財務諸表としては連結財務諸表が一般的となっており、個別財務諸表の開示は原則として行なわれていない。
 対して、日本の場合は、連結財務諸表の作成が義務づけられているのは、証券取引法適用会社の有価証券報告書および有価証券届出書においてのみ作成が義務づけられている。

 「他の会社を支配する目的でその会社の株式を所有するという新しい形態としての持株会社を生み出し、企業の集団化現象を加速化させた背景には、主として、次の二つの要因(事実)が考えられる。その一つは、銀行の要請によるものであり、もう一つは税務当局の要請によるものである。
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世紀初頭、アメリカでは、企業が銀行から資金を借り入れる場合、銀行は、企業に貸借対照表の提出を求め、その書類について、検査または監査を行なって資金の貸出しを決定した。子会社をもっている会社であれば、与信の諾否に連結財務諸表の提出が求められる。この事実がアメリカにおける連結財務諸表会計制度発展への契機となった。
 さらに1917年、アメリカでは、第一次世界大戦による巨額の資金を調達するために、超過利潤税制度が導入された。持株会社は、それを逆手にとり、企業集団の利益を分散化する操作を通じて、課税所得を小さくして税金をまぬがれようとした。そこで、税務当局によって設定されたのが連結納税申告制度であり、その提出書類が連結納税申告書(Consolidated tax returns)である。連結納税申告書が内国歳入法(Internal Revenue Code)において成文化されたのは、アメリカ証券取引委員会(SEC)が、投資者を保護するために、連結会計に対して法規制を適用したことにあるといってもよい。1933年の証券法(Securities Act)および1934年の証券取引法(Securities Exchange Act)の制定がそれである。その後、SECによって、前記二法による連結制度の整備が施されるにおよんで、証券取引所の上場会社は、連結財務諸表の提出が求められることになった」(1995 白桃書房 宮澤清「財務会計論」)

 実質優先思考は、「リース会計」にも表れている。

 特定の資産を所有し、事業目的のために経済的便益を独占的に享受するためには、リース事業の発展以前には、購入による所有しか手段がなかった。この段階においては、所有権という法的形式と経済的便益の独占的享受という経済的実質は一致していた。
 その後、リース事業が開発され、所有権という法的形式と経済的実質の分離が見られるようになった。実質優先思考に従えば、所有権という法的形式よりも経済的実質を重視し、本質的機能に着目して会計処理(すなわち、リース資産を貸借対照表に計上=オン・バランスという)することになる。
 アメリカにおいては、一定の条件に該当するリースについては資産・負債に計上することが必要である。
 対して、日本の場合は、1993年にリース会計基準が公表されたものの、具体的適用については注記による開示にとどまっている(つまり、オン・バランスされていない。これをオフ・バランスという)。
 さらに、アメリカにおける会計基準の形成プロセスは、フェアネスの精神が貫かれているという点にも着目しておかなければならない。これは、手続的正義(due processと呼ばれ、基準形成プロセスに広範な利害関係者の参加できる道を開いている点である。
 アメリカの財務会計基準審議会(FASB:Financial Accounting Standards Board)は、形成プロセスの各段階を通じて広範な利害関係者の意見を求め、また与える影響を比較考量しながら、意見調整や妥協を経て策定される。
 また、SEC(米国証券取引委員会)では、ルール違反に対して厳しく取り締まる一方、証券業者等がこれから予定している具体的な行動や新商品の合法性の判断をSECに対して申請し、事前の白黒判定を行なう「ノー・アクション・レター」制度も用意している。ルールが明確でないことにともなうリスクから、証券市場参加者を開放する役割を果たしている。

 

3、日本の「会計的真実性」

 企業会計原則・一般原則の第一は、次のように規定している。
 「企業会計は、企業の財政状態及び経営成績に関して、真実な報告を提供するものでなければならない」
 さて、この原則は「真実性の原則」と呼ばれ、会計の最高規範として位置づけられている。
 この最高規範は、他の六つの一般原則、すなわち「正規の簿記の原則」「剰余金区分の原則」「明瞭性の原則」「継続性の原則」「保守主義の原則」「単一性の原則」を遵守することによって達成されると解釈されている。

 手元にある会計学の本から抜粋する。
 @「真実性を確保するという条件を満たすものの集合が、『企業会計原則』のその他の構成要素なのである。したがって、真実性の原則は、『企業会計原則』のその他の構成要素の要請を充足させながら、適用すれば、達成されることになるのである」(1993 中央経済社 井上良二「最新財務会計論」)
 A「元来、企業会計原則は、一般に認められた会計基準を文章化したものであり、そして、それは財務諸表を真実なものとするための作成基準であるから、真実性の原則は、企業会計原則における、この原則を除く、他のすべての条項を遵守することを要請する原則である」(1983 同文館 飯野利夫「財務会計論(改訂版)」)
 B「この真実性の原則は、共通一般原則として(したがって、他の6個の個別一般原則の上位原則として)、企業会計の全般領域(測定・伝達のあらゆる領域)に対し包括的な共通課題を示したものである」(1983 中央経済社 武田隆二「最新 財務諸表論(改訂版)」)

 すなわち、会計的「真実」は、「真実性の原則」を除くすべての企業会計原則の規定を遵守することによって達成できると考えるのである。
 しかし、このような解釈のもとでは、真実性の原則は、実は何も言っていないのと同じである。
 すなわち、「真実性」=「正規の簿記の原則」+「剰余金区分の原則」+「明瞭性の原則」+…………ということになるからである。

 
 真実性を保証する具体的な内容が、他の一般原則や損益計算書原則及び貸借対照表原則を遵守することであるとする考え方は、大陸合理論、すなわちフランコジャーマン系の考え方である。仕様規定、すなわち、詳細な会計規定を定め、それを遵守することによって会計目的が達せられるとする考え方である。
 フランコジャーマン系の考え方によれば、企業会計原則が許容する範囲内の会計方法や手続によって計算・表示されたものは、すべて真実性の幅の中に入るのである。
 例えば、減価償却の方法で、定率法と定額法で計算された利益には大きな差が生ずるが、一般に認められた会計的方法に従ったものとして、ともに真実なものと認められるのである。
 端的にいえば、認められた会計方法の組み合わせの数だけの真実があることになる。
 さて、こうしたフランコジャーマン系の考え方、すなわち、正義の達成がことごとく法律(書かれた正義=紙上の正義)によって達成できるとする考え方は、日本の場合、それをすべてだとする「錯覚」や「欺瞞」が横行することになりやすく、非常に危険なことでもある。
 法律は、道徳や宗教、習俗などの社会規範から、特に権利と義務というものを抽出したものに過ぎない。他の社会規範、例えば道徳や習俗は義務はあるが、それに対応する権利が伴っていないだけのことである。
 しかし、特に戦後の日本は、欧米文化をその精神風土を抜きに、つまり表層的に(ラジカルな部分だけを)輸入した結果、法律以前の前提条件をどこかに置き忘れ、紙上の正義の都合の良い部分だけを採り入れ、正義が異質・特異なものになっている
 「紙上の正義」だけではいけないことを、バブルやその他多くの社会的混乱の事例が証明している。
 さて、会計的真実は、相対的な真実である。会計法規の認める会計的方法の枠の中で、いかなる方法を採用するかによって、Aの会計的真実、Bの会計的真実があり、両者ともに真実なものとされる。
 認められている会計的方法の組み合わせは無数にある。従って、この選択の仕方によっては、計算された利益に大きな差異が生ずることになるが、それが認められた会計的方法の範囲内であれば、ともに真実なものとされるのである。
 この選択の自由(これを「経理自由の原則」という)を担保するのは、唯一「継続性の原則」である。

企業会計原則注解・注3
 「企業会計上継続性が問題とされるのは、一つの会計事実について二つ以上の会計処理の原則又は手続の選択適用が認められている場合である。このような場合に、企業が選択した会計処理の原則及び手続を毎期継続して適用しないときは、同一の会計事実について異なる利益額が算出されることになり、財務諸表の期間比較を困難ならしめ、この結果、企業の財務内容に関する利害関係者の判断を誤らしめることになる。従って、いったん採用した会計処理の原則又は手続は、正当な理由により変更を行なう場合を除き、財務諸表を作成する各時期を通じて継続して適用しなければならない。なお、正当な理由によって、会計処理の原則又は手続に重要な変更を加えたときは、これを当該財務諸表に注記しなければならない」

 この継続性の原則の根底にある考え方は、どんな会計的方法であれ、これを長期継続して適用することによって、方法の相違による差は中和化されるとするものである。
 しかし、問題は「正当な理由による変更」の「正当」とは何かということである。正当なものを、「相対化」し、「曖昧化」し、「微温化」してしまう日本()の特質によって、会計的真実は異質なものとはなっていないかということである。
  「善かれ悪しかれ、われわれの精神空間には、人間同士はけっして理解しあえないものなのだという深い断絶の確認をくぐり抜けていない弱さがあるように思える。人間理解といえば、むろんわれわれはすべての人間を理解するたてまえをとることができる。すべての人間を、口では、愛しているということもできる。だが、『隣人を愛せよ』という戒律が絶対性をそなえて迫ってくるのは、愛の不能と絶望を思いしらされている世界にしてはじめて起こりうる逆理なのだということを、どれほどわれわれは自覚しているだろうか?……………絶対者というものとの付き合い方に慣れていないわれわれは、絶対的であるべきものをも、やすやすと相対化し、曖昧化し、微温化してしまうのである。論理は気分となり、行動は空想的になる」
 「ヨーロッパ二千年の精神史は、無数の、相反する矛盾に満ちているが故に、それは精神の歴史なのであり、精神の歴史であるが故に、それは戦い合い、せめぎ合い、たがいに憎悪をぶつけ合って、けっして安易な目標地点に達することがないのである。日本においては論争はつねに和解をめざし、対話はつねに馴れ合いに終わる」
 1969 講談社現代新書 西尾幹二「ヨーロッパの個人主義」)
 日本の会計は、「操作的会計」になっていないだろうか。フランコジャーマン流の「仕様規定」の範囲内において、自己都合による、「理屈と膏薬はどこにでもつく」
half-truth的な操作的会計が行われ、それを見逃している微温化社会にあるのではないかという危惧である。
 例えば、減価償却の問題がある。定額法から定率法への変更、その逆もまた頻繁に行なわれている。
 その際の変更の理由としては、定額法から定率法への変更の場合は、「財務体質の強化」または「財政状態の健全化」という理由が多く、次いで「投下資本の早期回収」といった補足説明がなされている。中には、「費用収益の対応の適正化、投下資本の早期回収及び財務体質の強化のため」という、考えつく変更理由を並べ利益に多額の影響を与えているケースがある。
 逆に、定率法から定額法への変更の場合は、「費用の期間対応の適正化をはかるため」というのが一般的である。

 「上場企業の決算処理変更が相次いでいる。933月期は戦後初の3年連続の経常減益となったが、やりくり決算で赤字を回避した企業も目立つ。……大昭和製紙は前期決算で静岡県・富士市内の本社、工場の減価償却方法を従来の定率法から定額法に変えた。『ほかの工場設備はすべて定額法で償却しており、処理方法を統一するため』という。洋紙不況の悪化と過大な設備投資による、金利、減価償却費負担が重くのしかかり913月期以降経常赤字が続いている。償却方法を変えなければ、経常赤字は43億円ほど多い約152億円に膨らむ。……ビル不況に直面する三菱地所もその一つ。同社は減価償却方法で定率法を採用しているが、今年7月に完成する賃貸ビル、横浜ランドマークタワーについては、定額法で償却する方針を固めている。ビルの簿価は2700億円。定率法だと初年度償却額は205億円になるところが、定額法だと半分以下の91億円で済む」(199364 日本経済新聞)

 
 次に、棚卸資産の評価の問題がある。棚卸資産評価の問題は、「評価基準」と「評価方法」に一応区分して考えることができる。「評価基準」とは、「原価法」か「低価法」かということであり、「評価方法」とは、「先入先出法」か「後入先出法」又は「総平均法」などの棚卸資産の受け払い方法のことを指す。

 棚卸資産評価の問題は、仕入価額が安定している場合であれば、どんな方法を採用しようと差は発生しない。しかし、仕入価額が上昇又は変動している場合には相当な影響が出る。

 棚卸資産仕入価額が上昇しているときに、先入先出法の採用は他の方法に比較して、売上原価は小さめに、期末在庫は大きめに、従って利益が大きめに出る。逆に仕入価額下落時における先入先出法は、売上原価は大きめに、期末在庫は小さめに、従って利益が小さめに計算される。
 このことを前提に、棚卸資産の「評価基準」の変更は、一般的に原価法から低価法への変更には「財政の健全化をはかるため」という理由が付され、低価法から原価法への変更には「適正な期間利益のため」という理由が付される。
 一方、「評価方法」の変更は、仕入価額の変動に応じて、先入先出法、後入先出法、総平均法の使い分けが行なわれ、理由は評価基準の場合と同様である。

 「会計処理方法を変更する企業が相次いでいる。日本経済新聞社の調べによると、全国の上場企業(銀行、証券、保険を除く)のうち、949月中間決算で会計処理を変更した企業は139社にのぼり、昨年の9月中間期(134社)を上回った。………ゼネラル石油は棚卸資産の評価方法を原価法から低価法に変えた。これに伴う経常利益の減少は34億円近くになった。『円高に伴い原油価格が下がると在庫の含み損が生じるので、業績がいいうちに企業体質の強化を図った』という」(1994121 日本経済新聞)
 この他に、売上計上基準や繰延資産の会計処理方法の変更、退職給与引当金の引当て基準の変更などがいわゆる会計方法の変更が行なわれ、継続性が保たれないケースが多い。
 総じていえることは、継続性の変更の理由は、費用の早期回収を意図する場合(すなわち利益の圧縮)には「財政状態の健全化のため」という理由が、逆の場合(すなわち利益の確保)には「適正な期間損益のため」という理由が付される。
 すなわち、会計方法の変更の理由から浮き彫りにされるのは、収益の増減など、経営状況の変化に対応して、それに適合した会計処理方法が選択され、それなりに理屈が使い分けられている。そして、そのことごとくが「適正」と「健全化」というコトバによって曖昧にされてしまっている。
 こういう政策的会計処理を、良い言葉でいえば「決算政策」、悪い言葉でいえば「逆算法」または「着地を決めた利益操作」という。

 「計上すべき利益額というと奇異な感じをもたれるかもしれない。米国で出所不明とされながら相当信頼性の高い話に次のようなものがある。ある上場希望の会社が監査人を選ぶに当たり2+2はいくらかという試験をした。8事務所のうち7事務所は4と答えたが、1事務所は『社長はいくらとお考えでしょうか』と答えた。監査人に選ばれたのはその事務所であった」(1987 中央経済社 熊野実夫「企業会計入門」)
 こうした操作的会計が、まかり通った場合の会計的真実とは何かに答えることは難しい。
 企業会計原則が、経理自由の原則を認めざるを得ないとするならば、継続性の原則は、相対的真実を担保する「最後のトリデ」でなければならない。
 その最後のトリデさえ、利益操作で、膏薬的理屈によって変更されるとしたら、会計的正義は踏みにじられ、会計数値に対する信頼性は失墜し、一般の利害関係者の手からますます離れていく。

 「古代中国の哲人、老子、荘子は、形式を“人為”として排撃した。人為とは自然の法則に反する事柄で、皮肉にも人間社会はすべて人為であって、自然の法則に沿うものとては皆無に等しい。けれども、人為に馴らされると、人々はそれを当然として受け入れ、人為(偽いつわり)であることに気がつかなくなる」(199082 朝日新聞 住井すゑ「地球の一角から〜形式(老のタワゴト)」)
 人為、すなわち操作的会計を行なえば、すなわち偽(いつわり)となることを銘記すべきであろう。
 もちろん、アングロサクソン系、特にイギリスの会社法の考え方を全面的によしとするものではない。現に、イギリスにおいてはEC統合の指令に伴って、ドイツやフランス等のフランコジャーマン系大陸法の影響を受け、かなり詳細な会計規定が会社法やその付則に導入されるようになっている。また、いくらTrue and Fair Viewが会計理念に落とし込まれ、フェアプレーの国であるからといっても、人為(偽いつわり)の会計処理が行なわれていないというわけでもない。
 ただ、微温的フェアやhalf-truth的な日本の会計の実務が、これから導入が予定されるアングロサクソン系の国際会計基準に対応できるかどうかである。

 

 

【補足1 実体的真実主義―「木が沈み、石が浮く」】

 「実体的真実主義   つまり刑事裁判は、種々の制約をうけながらも、『できるかぎり絶対的な客観的真実』にもとづいて行われるべきであるという考えは、日本の刑事司法を貫くいわば普遍的な公理であるということができるであろう。そしてそれは形式的真実ないし手続上事実主義とでもいうべきアメリカ刑事司法の原則と、きわめて対照的であるように思われる。
 私は、アメリカの刑事裁判について、しばしば、『木の葉が沈んで石が浮かぶ』という感慨を持ったが、アメリカ人ならば『沈んだものが石であり、浮かんだものが木の葉である』と答えるであろう。しかし、少なくとも私には、形式的ないし手続上の事実に終始する刑事司法の下に蔓延するシニシズムは、実体的真実の追究の困難性に由来する絶望感よりいっそう深刻で救いのないもののように思われた。刑事司法に関するかぎり、真実(
Truth)と事実(Fact)を区別することを知らない日本人にとって、アメリカの刑事司法の実際は驚天動地の事例にあふれている」(1974 中公新書 佐藤欣子「取引の社会」)

 

【補足2 日本人の「表層性」「微温性」「幼児性」】

まず、「表層性」については、次の文章によって浮き彫りにされる。
 1996
48朝日新聞では、作家・写真家である藤原新也へのインタビュー記事「精神(こころ)の不良債権」の中で、現在の社会的混乱を「心のタガ」を忘れた結果だとして紹介している。
 《「種をまき、雨を待ち、収穫を期待する農耕民族だから、どうしても理念型より、受け身の本音体質になってしまう。本音を『正直』ととらえて喜ぶ風潮もあるが、身体の本音に従うと、快感原則に向かう。西欧型の社会では、理念やキリスト教などの宗教がそれを抑えたし、かつての日本でも、自然の摂理や、仏教、儒教がタガとなり、本音を抑えてきた。だが戦後はタガが緩み、暴走した」。それはある意味で、経済成長の原動力にもなったというのだ。なぜ戦後に、タガが緩んだのか。アメリカ型の物質至上主義が流入したからでもあるが、多くのアメリカ人の中に今も残る清教徒的な節度、つまりタガは輸入されなかった。「それだけ、あの焼け野原の日本人は貧しかったのだろう。だから、ほかのものを輸入する余裕がなかった。そのうえ戦後は、農業生産が廃れ、自然のタガも感じなくなった」。……………逆に「極端なタガを求めたのが、初期のオウムではなかったか」という。だが、精神のタガを求めた彼らも結局は、教祖の血、残り湯といった物質主義から逃れられない。同じようにタガを作ろうとした「校則」も、教育という心の問題を、結局は、スカート丈、髪型といった「モノ」に還元するだけだった。実際の不良債権以上に「心の不良債権は重く、傷は深い」のだ。》
 つまり、本音主義(自己都合原則)が横行しているのが現代である。これを藤原氏は「他者のない文化」といっている。
 1969
講談社現代新書 西尾幹司「ヨーロッパの個人主義」では、日本の近代は、ヨーロッパ人の「表芸」だけを輸入し、その精神風土までは至らなかったことを指摘している。
 「物事を背景との関わりにおいて考えずに、抽象観念を先行させて考える教育がひろく行きわたっているような日本の精神空間はけっして無邪気とはいえまい。前にも述べたとおり、ヨーロッパでも反封建の、いわゆる近代的自由への精神運動が一代を風靡した。われわれはその種の思想表現をこれまで数多く輸入し、われわれの自己改革の規範とみなしてきている。だが、革新的な思想は現実を動かすかもしれぬが、また同時に、現実に拘束されてもいる。現実はもともとそこに住む住民にとって暗黙の前提だから、思想表現にはならない。われわれはその前提に対して挑戦してきた結果だけを、いいかえれば思想というヨーロッパ人の『表芸』だけをいつも誇張して輸入してきた傾向はなかっただろうか? ヨーロッパ人のじっさいの社会制度や生活様式はつねに保守的であって、表面にあらわれた革新的な思想表現の歯止めの役割をさえ果たしているのである。一方に革新を拘束するものがあって、はじめて革新はその本来の役割や機能を発揮することができる。それがまた文化に安定と調和を与える基礎でもあろう。さもなければ、革新は単なるアナーキーに落ち込むことになるだろう」
 日本人の「微温性」は、次の通りである。
 1988 
東京大学出版会 田中英夫「英米法研究3 英米法と日本法」では、日本人の「Halftruth」(半面の真実)でも事実に合致していればtruthにかわりはないという「微温的」態度を指摘している。
 「アメリカでは、“halftruth”は許すべからずことだという感覚が一般人の間にも広く行きわたっている……………英米の法廷で、証人は、“the truththe whole truthand nothing but the truth”(真実、全真実、そして真実のみ)を述べることを宣誓する。自ら見聞したことのみを告げる証人の場合と異なり、ある社会的事実・歴史的事実についてのwhole truthを明らかにすることは、容易でないことが多い。アメリカでも、half-truthが与えられたために国民がそれに惑わされた例は、稀とはいえない。………わが国では、“halftruth”に対する非難の念は薄く、“halftruth”でも、そこに掲げられていることだけをとりあげて、それが事実に合していればtruthには変わりがないとする傾向が、かなり一般化しているように見受けられる」
 また、1987 中央経済社 熊野実夫「企業会計入門」では、Halftruthに関して次のように照介している。
 「米国の証券諸法の教典の著者ロスは、SECにおける不実記載の章で、半真実的表示に関し次のようなTennysonの詩の一節を引用している。   半分だけ本当のうそは一番たちが悪い/ 真っ赤なうそは正面から闘うことができる/ しかし、一部が本当のうそとは闘うのはより難しい 
 日本人の「幼児性」は、次の通りである。
 1979
岩波書店 渡辺洋三「法とは何か」では、日本人の幼児性と官僚統制の関連について次のように述べている。
 「日本において道徳にたいする国家=法の介入が強いのは、市民社会内部の自主的道徳秩序の形成がおくれているからでもある。市民が、本来、相互に監視しあって、自主的に自らの手で市民社会を守るという道徳的気風の乏しいところでは、とかく安易に、国家の権力に期待し、また、依存しがちである。国家もまた、あれをしろ、これをしてはならないと指示し、さらに、しばしば、この傾向を利用して、国家の側からの干渉・統制を強化する理由づけをこしらえる。こうして、わが国における市民社会と国家の関係は、一人前になっておらず、自主性をもたない子どもと、子どものふるまいにいちいち指図し、干渉する過保護な親との関係によく似ている。これはまた、日本の官僚統制が、なぜかくも強いかという秘密を解く鍵の一つでもある。
 ありふれた身のまわりの問題を取りあげてみよう。『紙くず捨てるべからず』『花を折るべからず』という立札を立てれば、紙くずを捨てず、花を折らなくとも、そういう命令がなければ、紙くずを捨て、花を折る人たちがたくさんいる。外から出される命令があろうとなかろうと、自主的に社会を清潔に保つために、あるいは自然を保護するために、進んでそういうことはしないという市民のモラルは、まだ十分に確立していない。……市民が、市民相互の助言と説得で、そういう小さな『不正義』の芽をつみとるのでなければ、やはり『おかみ』の権威がものをいうことになる。具体的にいえば、警察権力による規制が必要となる。こうして、軽犯罪法が登場する。酔っぱらいを取締まる法律(正確には「酒に酔って公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律」)がつくられる。各自治体の迷惑防止条例が問題になる。たとえば、酔っぱらい取締法の第2条は、次のように規定する。
 『すべて国民は、飲酒を強要する等の悪習を排除し、飲酒についての節度を保つように努めなければならない。』
 しかし、日本の国民は、果たして、酒の飲み方まで、いちいち『おかみ』の指図を受けなければならないほど、情けない国民であるのだろうか?」

 

【補足3 デュー・プロセス due process

「法とは何か、という問いに対して、それは手続である、ということがしばしば言われる。それくらい、法にとって、手続は重要な要素なのである。この視点からいうと、法を重んじるということは、手続を重んじるということでもある。また法が正義であるというときには、それは手続的正義をも意味している」(1979岩波新書 渡辺洋三「法とは何か」)
 この手続的正義、言いかえれば適正手続は、デュー・プロセス due processと呼ばれる。
 アメリカでは、この手続的正義を重んじる国である。アメリカでは、手続的に正しければ「木が沈み石が浮く」ことさえある。
 「手続きの公正に対する理解が(アメリカと日本では)決定的に違う。アメリカではルールさえオープンなら納得する場合が多い。結果の良しあしは運不運で仕方がない、と考える。人種がたくさんいるから、ルールを決めないと社会が機能しないからだろう。一方、日本は価値観とか歴史的、文化的な背景が同じ。ルールはなあなあに決めただけでもやっていける。だから、結果が良ければ、手続きはどうでもいい、との見方が強い」(1991103 読売新聞 田中成明「日本人とフェアネス」)
 アメリカにおけるdue processの会計への適用は、会計基準設定主体である財務会計基準審議会(FASB:Financial Accounting Standards Board)における会計基準形成プロセスにあらわれている。FASBにおけるdue processは、会計基準が決定される前にその影響を受けるすべての利害関係者の意見が尊重されるように、一連の手続を定めている。審議事項の決定、討議資料の発行、公聴会の開催、公開草案の発行、基準書の確定などの一連の形成プロセスの中に、広範な利害関係者が参加できる道を開いている。
 「FASBのデュー・プロセスは、基準形成への利害関係者の参加度、および審議内容の公開度が他国に比べてきわめて高いことに特徴がある。こうしたデュー・プロセスの意図するところは、広範な利害関係者の参加による社会的コンセンサスを基礎に会計基準の正当性を高め、行為規範としての権威の受容を確保することにある。
 ただし、FASBのデュー・プロセスに対しては批判がないわけではない。主な問題点としては、会計基準の設定をめぐって政治的な利害抗争が激化しやすいこと、必ずしも広範な利害関係者の意見が反映されるとは限らず、ややもすれば会計情報の作成者である企業経営者の利害が偏重される傾向にあることなどが指摘されている」(1992 中央経済社 若杉明編著「会計制度の国際比較」)
 「会計基準設定のデュー・プロセスで問題になるのは、(1)基準を設定する人あるいは団体の設定権限の根拠と(2)設定手続である。たとえば、設定権限をもたない団体が会計基準を設定しても、そうした会計基準は有効性をもたないから、まず(1)が問題になる。(2)は民主主義国において問題になる事柄で、恣意的な基準が設定されることを防止するために必要とされるものである。
 設定団体の設定権限の根拠の問題にしろ、設定手続にしろ、民主主義社会において、両者に何よりも必要とされることは、基準によって影響を受ける人々の『同意』である。国が民主主義的である必要条件の一つは『統治される者の同意による統治が行なわれる』ことである。『同意』は英語で“consent”という。consentの“con”は“com”と同様に、『ともに』という意味をもっている。“sent”は“sense”と同様に感覚という意味をもつ。このように、con-sentとは『同じ思いをする』というところから出てきた言葉である。思いを共通にしなければ『同意する』ということはありえないのである。わが国の社会は人々の間に『同意性』が高いといわれているが、それは見かけであって、『長いものには巻かれろ』という諺が示すように同意よりも服従によってもたらされている。そしてこの服従精神は、権力者に対する恐怖とへつらいを伴う利己心によって養成されている。利己心による服従では『面従腹背』が普通のこととされる。
 会計基準が会計基準としての役割を果たすためには、利害関係者間に本来の意味における同意が確保される必要がある」(1993 中央経済社 熊野実夫「企業財務情報読本」)

 

【補足4 ノー・アクション・レター】

「明らかなルール違反に対しては厳罰をもって処す。これは、スポーツの世界でもビジネスの世界でも、公正さを保っていく上で必要かつ有効な方法である。公正な証券市場の維持、発展という面についても、同じであることは論をまたない。
 ただ、その場合、問題なのは、ルールにかなっているか、反しているかという白黒の判定が、いつでもだれの目にも明らかなら良いが、世の中必ずしもそうとは限らないことがある。スポーツの世界では白黒の判定が比較的明快にできるが、ビジネスの世界、とりわけ証券の世界の場合には、白とも言えるし、見方によっては黒とも言えるというような非常に微妙なケースが現実には少なくない。
 ルールをできるだけ詳細に明文で定めることによって、それをある程度解決することはできよう。しかし現実には、挑戦的な商品、取引手法、アイデア等が次々に発案されるため、将来にわたって白黒が明確に区分できるような詳細なルールを制定することは不可能、時には有害であるとさえいってよい。
 したがって証券の世界では、しばしばルールを現実に適用する場合の解釈が問題になってくる。とりわけ違反に対する処分権を有する当局が、ルールをどう解釈し適用するかは重大で、白黒が判然としない問題に関し、明確な判断を拒否したり、解釈が人や時期によって変わるようなことがあると、市場は著しい停滞や混乱を余儀なくされることになる。
 そこで、米国の証券市場の場合には、証券業者等が、これから予定している具体的な行為や商品について、あらかじめその合法性に関するSEC(米証券取引委員会)の判断を仰いでおきたい場合、SECに対して『ノー・アクション・レター』なるものを申請するという、非公式の仕組みができている。これは、所定の手続きを踏んで判断を仰げば、SECのスタッフが白黒の判断を下し、その事由とともに、白の時には『スタッフとして委員会に制裁措置の発動を勧告するアクションをとらない』ことを約束したレターを発行してくれるというものであり、レターの内容は一定期間経過後、申請者以外にも広く公開されることになっている。
 米国のSECは、ルール違反を非常に厳しく取り締まる一方で、毎年何千という『ノー・アクション・レター』の申請にこたえ、白黒がはっきりしないことにともなうリスクから、証券市場参加者を開放する役割も果たしているのである。それがチャレンジ精神おう盛で、非常にイノベーティブな米国証券市場を支えているのだという点を、我々は見逃してならないように思われる」(19911010 日本経済新聞)

 

【補足5 ルール社会……交差点に見る日米のちがい】

「米国で暮らしてみて気がついた二つの日米の違いがある。ひとつは交差点の信号の仕組みだ。日本の信号では、黄色から赤に切り替わっても、交差する道路の信号もしばらくは赤のままで、間を置いて青になる。だが、米国の信号は、直進道路が赤になるのと同時に交差する道路が青に変わる。このため、すべての車が赤になる前の黄色で停止することを余儀なく迫られる。
 いまひとつは、宿の予約の方式の差だ。日本の旅館の多くは、電話で名前と電話番号を伝えるだけで予約を受け付ける。これに対して米国では、予約の際に必ずクレジットカードの番号の申告が求められ、予約取り消しの場合は、手数料がそれぞれのルールにのっとって厳格に徴収される。…………………すべての人がルールを順守するのなら、日本の仕組みは優れていると言えるだろう。交差点の信号は安全性を十分に高めるし、宿の予約は風流心を損なわない。
 しかし、ルールを厳格に守らない人が現れると状況は一変する。自動車は、交差する道路が青になるぎりぎりの瞬間まで信号が赤に変わっても進行しようとする可能性がある。旅館では、通知の無い予約取り消しも発生し得る。予約取り消しをめぐるトラブルが頻発することも考えられる。
 一般的に言って、日米では、ルールの取り扱いが異なっている。米国では、ルールが明確である。つまり、解釈による差が生じないようにルールが作られている。言ってみればルールが絶対性を持っているのだ。
 かつての日本は、厳密なルールを必要としない良き社会であったのかもしれない。社会の構成員がそれぞれ節度をもって行動し、ルールの持つよそよそしさを感じず気持ちの良い生活ができたと思われる。
 しかし日本の社会も変化した。異なる習慣、価値観を持つ人々が同じ場で生活しなければならなくなっている。日本も『ルール社会』に移行せざるを得ない時を迎えている」(1997 日本経済新聞 植草一秀「一刀両断…『ルール社会』へ移行のとき」)
 日本の場合は、ルールの中に「建前」と「本音」というダブル・スタンダードを持ちこんでいる。しかし、これからの国際社会において、特に国際会計基準の導入というグローバル・スタンダードに対しては、このダブル・スタンダードは通用しないだろう。

 

【補足6 おもてとうら】

 「古来、日本人がこの上なく愛したのは、あの日本三景に代表される浦(内海・入江・湾)の風景ではないか。日本人の美感とは、うらの美学といってもいいのである。『新古今集』に収められている藤原定家のつぎの一首が日本の美学の本質とされるゆえんである。
  見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ
 ところで、西欧の人たちも、見えざるもの、かくれているものに対しては、畏怖や不安を感じている。だが、彼らは見えないもの、かくれたものについてのそのような不安を克服しようと、いうなら、うらをおもてへ引き出す努力を不断につづけてきた。ヨーロッパが育てあげた科学はまさしく、そのような精神の軌跡にほかならない。科学とは
,裏を表にする作業なのである。
 そのようなヨーロッパ人に対して、日本人はすべてのものごとに『裏』を見ながら、『裏』をつきとめようとはしなかった。『裏』を『裏』として、ただ承認しただけだった。それどころか、『裏』を『表』にかえしたり、『表』を『裏返し』たりすることは、けっして好ましいことではないと信じてきたのだ。日本人の“おぼろの美学”が何よりもそれを証言している。日本人はあからさまなことをきらい、ものごとをあきらかにすることをあきらめるという形で、断念するの意へと転化させてしまった。なぜなら、ものごとがあきらかになれば、そこにはもう『裏』はなく、何の価値もなくなってしまうからである。日本人はそれを白々しいともいった。白々しいとは、本来はものごとが明白であることを意味したのだが、白々しいことを日本人はけっして好まず、味気がないものと感じたのである。最近、よく使われるようになった『白ける』という表現も、その間の消息をよく語っている。ことが明白になれば、不安や怖れはなくなるであろうが、同時に期待は失われ夢もまた消えるからである。『花伝書』に伝えられている世阿弥の有名な『秘すれば花なり』という言葉も、日本人の美学を端的にいいあらわしたものといってよい」
 (1988 新潮文庫  森本哲郎「日本語 表と裏」)

 

【補足7 二つの会計モデル】 

【補足8 window dressing

 「粉飾決算の元の言葉は英語のwindow dressingであり、dressingは衣装や化粧を意味する。年に1度の株主総会に貸借対照表や損益計算書を奇麗に着飾り、化粧を施して出してやりたいと考えるのが人情である。
 事実、多くの決算書は
window dressingを施して総会に提出される。現金預金が少なすぎると思えば、期末までに回収を強化する、利益が少なすぎると思えば、来期納入予定の製品でも突貫作業で当期中に納入するなどのほか、取引の行われる時点に関する裁量権の行使は、日常とは違った姿を見せたいという点で一種のdressingである。しかし、これらは適法の範囲内のdressingと考えられる。
 これらの場合、翌期に回収した現金預金を期末までに回収したように処理したり、翌期に納入した製品を当期中に納入したように処理すれば、粉飾となる。それはおそらく事実に関する事項を偽ることになるからであろう。裁量権の行使にはおのずから限界があるが、多くの経営者たちはこの限界を越え、犯罪者としての名を歴史に留めてきた。…………
 多くの経営者たちは、何故その限界を越えたのであろうか。また、その限界はどこにあるだろうか。
 粉飾決算の目的には、

(1)
会社の信用を維持し、危急を乗り切るため
(2)
配当を継続し、株価を維持するため
(3)
経営者の地位(報酬を含む)を維持するため
(4)
株式の買付け、売付けに際し株価を操作して利益を得るため 
などがある。」
(1987 中央経済社 熊野実夫「企業会計入門」)
 また、粉飾決算は、英語で
window dressing のほか、make up 又はdress upともいう。

 

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