第一部 第7章 ペイトン=リトルトンの「会社会計基準序説」
1929年の世界大恐慌を引き金として、会計原則の形成運動がおこり、この会計原則運動の中から、近代会計学が確立する。ペイトン、リトルトンの共著なる「会社会計基準序説」は、アメリカ会計学会会計原則試案の理論的基礎付けを行ったものであるが、近代会計学へのパラダイム革命をなした。
ペイトン=リトルトンの理論は、一言でいうならば、会計の目的は投資家のための「企業の収益力」の測定・表示にあり、従来の貸借対照表中心主義から損益計算書中心主義への重心移動である。
今日、当たり前のようになっている「取得原価主義」「実現原則」や「費用収益対応の原則」などの諸原則は、この序説を出発点として理論展開がなされるのである。
1、ペイトン=リトルトン
「会社会計基準序説」(1958
森山書店 中島省吾訳 改訂版)から二人の人物像を掲げる。
・ウィリアム・エイ・ペイトン(William・A・Paton)
1889年ミシガン州に生まれ、ミシガン大学卒業。途中1年ほどミネソタ大学で教えたが、そのほかはミシガン大学に奉職し1918年に博士号を授与された。初めは経済学を講じたが後に会計学に転じ1929年正教授となる。数冊の書を著し、また会計関係の要職を歴任して、米国会計学界のもっとも有力な元老の一人である。
・エィ・スィ・リトルトン(A・C・Littleton)
1886年イリノイ州に生まれ、イリノイ大学出身。しばらくシカゴのC・P・A事務所に関係した後イリノイ大学に帰り、1931年博士号を授与され正教授に任ぜられた。著書「会計発達史 (Accounting
Evolution to
1900)」「会計理論の構造」のほか、多数の論文とそのA・A・Aにおける活動によって著名。ペイトンとならぶ米国会計学界の長老である。
この米国会計学界の元老と長老によって著された「会社会計基準序説」(An
Intoroduction to
Corporate Accounting
Standards)は、シュマーレンバッハの思想を引き継ぎ、1929年10月24日の「暗黒の木曜日」ニューヨーク株式暴落に端を発し、世界経済恐慌につながっていった1930年代に、会計基準統一の動きの中で1940年に米国会計学界(A・A・A)の委嘱によって生まれ、米国の会計界を風靡した。
「本文142頁、参考文献と索引を加えて156頁のこの書物は、アメリカ会計学会(AAA)のモノグラフ第3号として公刊され、次の7つの章からなっている。第1章会計諸基準、第2章基礎概念、第3章原価、第4章収益、第5章利益、第6章剰余金、第7章解釈である。本書の特徴は、会計基準を単に帰納的に叙述するのではなく、首尾一貫した理論体系を示すものとして演繹的に作りあげようとした点にあるといえるが、その内容は、第2章の基礎概念に最も顕著に現れているように、取得原価主義にもとづく期間損益計算のための理論体系の形成を試み、しかもそれは投資家を中心とした外部利害関係者のための財務報告に主眼をおいている。
このような意味において、本書は1940年代以降のアメリカ会計学を代表する古典的名著であり、戦後わが国の会計学および会計原則の形成にも非常に大きな影響を与えている」(1990
中央経済社「会計学辞典(第2版)」)
「会社会計基準序説」は、アメリカ会計士協会(A・I・A)の委嘱によって生まれた「SHM会計原則」(SHMは、サンダース、ハットフィールド、ムーアの3教授の頭文字)とともに、会計原則の誕生に多大の貢献をなした。これらの会計原則は、第二次世界大戦後の占領下における日本の会計に大きな影響を与えた。
なお、リトルトンの「会計発達史」は会計の進化を体系付けた名著であり、またリトルトンの研究書(「会計への貢献
A・C・リトルトン研究」上田雅通訳 k・T・Cバクナー著
1985 法律文化社)も出版されている。
2、前パラダイム状況の出現(会計原則誕生の背景)
まず、会社会計基準序説の中の原編者序の文章から見てみよう。
「10年ほど前に、矛盾相剋するさまざまな概念および実務のこのような混沌(chaos)から秩序ある体系を生みだすために会計士たちが何らかの手段を講じなければならぬことは、この領域の現役の指導者の多くにとって明らかとなった。企業会計における同種の事態が異なった処理方法を受けるということは、単に公衆の心ばかりでなく、事業上および財務上の指導者達自身の心構えのうちにまで重大な誤解を招いた。もし会計士達が、利潤の額を測定しあるいは持分の範囲を決定する諸原則について一致出来なかったとするならば、もっともらしく証明された会社の財務諸表はそも如何なる目的に役立つのであろうか?
理論および諸原則に関心を持つ者にとって、疑問の提示を中止し、解答の提供に着手すべき時が到来したことは、ほぼ明瞭になったのである」
「10年ほど前」という時代は、1929年10月24日の「暗黒の木曜日」から世界大恐慌に入った時代をさす。
しかし、会計的に大事なことは、当時のアメリカにおいては、静態論会計が主流であり、しかも、貸借対照表に計上される資産の評価基準はまちまちであった(企業会計における同種の事態が異なった処理方法)という事実である。
すなわち、取得価額によるもの、市場価額によるもの、再調達価額によるものなど、きわめて多種多様で、しかも貸借対照表にその評価基準が開示されなかった。こうした会計実務が「矛盾相剋するさまざまな概念及び実務」が大恐慌の原因を生み出したものと見られ、資産に対する評価増が非難されたという事情があった。
「米国でも第一次世界大戦後物価が上昇、建設価格の上昇を反映した再調達価額で固定資産を貸借対照表に計上することがしばしばなされた。貸借対照表に計上されている固定資産の評価基準には、取得価額によるもの、市場価額によるもの、再調達価額によるもの、慎重な投資価値によるものなど、きわめて多様であり貸借対照表にその評価基準が開示されなかった。そうした実務があの1929年の株式大暴落の一つの原因とみられ、資産の評価増が非難されたという事情があった」(1987
中央経済社
熊野実夫「企業会計入門」)
「大衆投資家がこうむった打撃は、企業の会計報告への不信となってハネ返ってきた。それは、クロイゲル事件、マクケンスン・ロビンスン事件など恐慌のさなかにつぎつぎと暴露された会計の虚偽不正によっていっそう高められた。
もとより大恐慌は、会計が原因となっておこったのではなく、基本は資本主義の矛盾の爆発にあったのであり、会計はそれを促進する役割をはたしたにすぎない。したがって、恐慌は会計によっては防ぐことのできないものであるが、会計の不統一、恣意性によってその矛盾がより激しいものとなったことは間違いない」(1994
大月書店
角瀬保雄「新しい会計学」)
また、この時代のアメリカにおいては、企業の規模拡大に伴う事業資金を、短期の銀行借入れから長期の株式発行による資金調達に依存するようになり始めていたから、投資家保護の思想も芽生えてきている。
大恐慌によって、投資家の持つ証券が一片の紙切れとなり、証券投資に対する不信感を増幅させることとなった。
そこで、不況克服施策としてニュー・ディール政策が実施された。その政策の一つとして1933年の証券法(Securities
Act)、1934年の証券取引所法(Securities
Exchange Act)が実施され、後者によって証券取引委員会(SEC:Securities
and Exchange
Commission)が誕生する。
当時は、多くの企業家が自己株式の価格操作(マニピュレーション)を行っており、証券市場に対する信頼感をはなはだ損なっていたから、この両法の目的とするところは、証券取引所における取引からすべての市場操作を排除することにあった。
そして、両法によって証券を発行する企業及び証券上場企業は、公認会計士によって監査された財務諸表をSECに提出し、外部に公表するようになったのである。ここに、証券法及び証券取引所法は、画期的ともいえる「強制監査」と「経理公開」(ディスクロージャー)の制度を定めたのである。
「アメリカには連邦の証券法制があるが、その中心をなしているのが、1933年証券法(Securities
Act of 1933)と1934年の証券取引所法(Securities
Exchange Act of 1934)である。これら33年法、34年法は、別名『証券における真実法』と呼ばれている。証券取引にたずさわる者に、すべての真実を語り、とくに投資家に必要な情報を開示することを要求する。『一定の情報を開示せよ、さもなければ取引をしてはならない』とするディスクロージャー主義(disclosure
philosophy)である。
ディスクロージャー主義は、アメリカ人のものの考え方に深く根ざしている。1933年、34年代という年代からうかがえるように、これらの法律は、大恐慌の直後に制定された。
1929年秋、ウォール街における株式大暴落に端を発して、世界大恐慌が始まった。その結果、大きな損失をこうむったのが多くの一般投資家たちであった。彼らは、それまでの株式ブームに踊らされ、われもわれもと投機に走ったところで一転して奈落の底に突き落とされたのである。
そこで、ニューディール政策の一環として、証券市場における健全さと何よりも一般投資家保護を目的として、連邦証券法制がつくられることになった。その基本精神となったディスクロージャー主義は『人は明るみにおいて悪をなしえず』とか、『太陽の光は最良の殺菌剤である』といった言葉に代表されるところの、アメリカ人の一種の楽天主義をあらわすものという人もいる。
だが、この考え方は、フェアプレイを重んじるアメリカン・スピリットそのものである。真実を相手に告げ、情報を開示し、対等な立場で互いに公正な競争をするところに社会の進歩があると彼らは信じている」
(1988
中公新書
長谷川俊明「訴訟社会アメリカ」)
証券市場を活発にし、産業を復興する目的として、証券市場に対する強制監査制度及び経理公開制度が導入されるのであるが、その前提としての経理処理統一の機運が生まれたのである。
3、
会社会計基準序説
19世紀から20世紀初頭にかけ、イギリスの投資家を保護するためにイギリスの勅許会計士がアメリカに渡っている。従って、この時代のアメリカの会計は、イギリスの影響を受け、静態論的会計が行われていた。
当時のアメリカ企業の資金は、銀行借入れの短期資金依存型であったから、会計に課された課題は、債権者(銀行)に対する返済能力の測定が主な役割とされた。また、当時、企業が資金の借入れを銀行に申し込む場合には、独立した会計士の監査報告を添付することが慣習とされていた。このため、貸借対照表監査というアメリカ独自の監査技術が展開された。貸借対照表に記載する科目の「流動性配列法」は、アメリカで企業が銀行に提出した信用目的貸借対照表を起源としている。
「銀行家が資金の借手である企業に対して、資金の貸出を認めるために財産目録(貸借対照表)を提出させるように強制するまでは、監査がこの種の短期資金調達に関与することはなかった。やがて、20世紀の最初の10年ないし20年を経て、銀行家は、独立の公共会計士によって会計帳簿と貸借対照表を監査してもらった資金の借手である企業に対して、より自由な資金貸付期間を進んで与えるようになった。」
「このような条件から出てきた監査の新しい目的は、旧目的とはかなり異なっていた。監査手続は、この変化によって当然のように影響された。銀行家は、資金の借手の財政状態、つまり、負債とそれに対応する資産の状態によって判断された借入金の返済能力に関する保証を望んだ。」
(1993
同文館
小澤康人・佐々木重人訳
V.K.ジンマーマン「近代アメリカ会計発達史」)
ところで、1920年を境とし、アメリカ企業の資金調達方法が短期資金依存型から長期資金依存型に変化している。20年代のアメリカは、第一次世界大戦後の開放感と所得増大のための国民の生活と感情が変化した時期であり、ピューリタニズムの伝統に基づく質素な生活が崩れ、割賦販売制度を利用しながら耐久消費財へと大規模な需要が喚起された時代である。
こういった背景から、企業は旺盛な需要に応えるべく事業規模を拡大するための資金調達を、銀行借入れの短期資金では間に合わず、一般投資家からの資金を求める長期資金依存型に変化している。
「1920年代のアメリカの企業は、以前より巨額の資金源泉として短期の銀行借入に興味を示さなくなったように見える。その代わり、株式や社債のような長期的資金を好むようになった。」(1993
同文館
小澤康人・佐々木重人訳
V.K.ジンマーマン「近代アメリカ会計発達史」)
このような社会経済の変化を背景としながら、会計は債権者保護から投資家保護への必要性を高め、財産計算=静態論から成果計算=動態論へと展開する社会的土壌はでき上がりつつあった。
さらに、1929年の大恐慌により、大衆投資家の持つ株式が一片の反古と化すにいたり、投資者保護のための会計の機運、さらに「矛盾相剋するさまざまな概念及び実務」を統一しようとする動きが一気に盛り上がるのである。
まず、1929年に起こった株式市場の崩壊的危機の中で、ニューヨーク証券取引所の依頼を受けたG.O.メイを委員長とするアメリカ会計士協会(AIA)によって、1932年「会計五原則」が提示された。このメイによる「会計五原則」は、アメリカ会計原則形成上初めてのものであったが、「幅広い会計原則」として、わずか五つの抽象的な会計原則を提示したものであった。
「アメリカ会計士協会の証券取引所協力特別委員会の会長を務めていたメイ教授(George
O.May)は1932年に株式を上場している諸会社の会計方法と報告方式がまちまちで、必ずしも適切な方式によっているとはいえないことに注目し、5項目の会計原則なるものを提示した。そして、そのなかで『一般に認められた会計原則』(generally
accepted accounting
principles)という奇妙なことばを使って、これに従って会計処理がなされるべきであると説いたのである。このことばは今日では簿記会計を学ぶ者の常識語になっている。」
「G.O.メイの5原則を要約すれば、次のようなものである。1.継続性増進のため、一定の会計原則に準拠する。2.会計の概要書を作成して証券取引所に提出し、株主の要請にこたえる。3.記載の会計手続は継続する。4.監査人は会計方法が一般に認められた会計原則によっているか株主に報告する。5.会社は会計原則の権威あるリストを作成する。」
(1986
一橋出版
上原孝吉「簿記の歴史」)
ついで、1938年には、サンダース(Thomas
H.Sanders)、ハットフィールド(Henry R.Hatfield)、ムーア(Underhill Moore)による「SHM会計原則」が出された。このSHM会計原則は、昭和24年に公表されたわが国の企業会計原則に多大な影響を与えたとされるものである。
さらに、アメリカ会計学会(AAA)からは、1940年にペイトンとリトルトンの共同の「会社会計基準序説」が出された。AAAが正式に発足したのが1935年であるが、その時に確認された目的に、「会計原則の発展を計りその承認および採用を求める」ことが主目的とされ、この調査部長だったペイトンとリトルトンが「会計理論の根底をなす諸基礎概念及び仮説」等の研究課題の成果としてレポートされたのが「会社会計基準序説」である。
これらの会計原則は、「公表される財務諸表」に適用されるべきことが明確である。公表されない財務諸表には、会計原則の適用はない。
会計原則は、原則に則って作成され、公表される財務諸表を権威づけるものである。すなわち、「情報の公正さ」を保証する役割を持ち、原則に準拠して作成していれば証券発行者の責任は回避される(売方責任の解除)。
このように、アメリカでは、直接的には1929年の株式市場の崩壊を契機とし、それまでの会計実務の不統一さの反省から、会計原則が設定される。こうした会計原則形成運動の結果として、アメリカ動態論が展開された。
4、ペイトン=リトルトンの考え方
ペイトン=リトルトンは、近代会計学の核心ともいうべき、「取得原価主義」及び「実現原則」に基づく「費用収益対応の原則」を展開した。
すなわち、取引において認識された取得原価を、実現された期間収益との対応関係によって、期間費用と資産に配分することを会計の主題にしようとした。
そして、ペイトン=リトルトンの「会社会計基準序説」以来、「費用収益対応の原則」は損益計算の基本原則のように考えられるようになったのである。
(1)企業主体理論
会計の立場から見た企業観を会計主体論というが、この会計主体論の中で、所有と経営が分離した株式会社形態によくあてはまり、最も重要なものとされるものに「企業主体理論」がある。ペイトン=リトルトンの理論を強固にしている概念は、企業主体理論である。
企業主体理論の骨子は、「企業を、株主や債権者とは別個の独立した継続的存在として捉え、会計は企業独自の立場で行われ、企業は財貨を拠出した持分所有者(株主、債権者)に対し報告される」とするものである。
会計主体理論には、この他に資本主理論、代理人理論、企業体理論、コマンダー理論、資金理論などがある。
この点に関し、「国庫補助金」の性格をめぐり、企業主体理論を採用し資本剰余金説を主張する企業会計原則の立場と、資本主理論を採用し利益説を主張する商法・税法の立場が対立している(軍配は強行法規である商法・税法に上がっている)。
ペイトン=リトルトンは、所有と経営が分離している株式会社制度のもとでの企業は、所有者から独立して永遠に成長発展しようと活動し続ける継続企業であると主張する。
会社会計基準序説で、「株主にとって、株式の取得総額は投資額であるが、会社の貸借対照表は企業実体に関するものであって、株主に関するものではない」と述べているように、株式会社が永久資本制を採用した時点において、株主個人の人格とは別個の存在として形成されたものであることを確認することから、この序説を体系づけている。
このような確認を行った上で、第一義的に生産的経済単位としての企業を、第二義的にのみ資産に対する法的な所有者としての出資者を対象として、会計は体系づけられるべきであるとした。
このことによって、株主は所有者というよりも、配当請求権を持つ単なる投資家に置き換えられる。
「もしも会社を個個の出資者の集合体にすぎないと考えるならば、その企業の利潤は当初に実現されたその瞬間から出資者たちに属すると考えるのが首尾一貫していることになろう。他方、企業実体としての見地を強調するとすれば、配当の公示によって当事者の一人一人の勘定に振替えられるまでは、企業利潤を企業それ自身の利益として扱うことが必要となる。企業によって利潤が稼得されたときから、利潤としてえた資産が出資者に分配されるときまでの間は、資本提供者は彼らの契約にしたがって、その資産にたいして請求権を有している」(1958
森山書店 中島省吾訳 ペイトン=リトルトン「会社会計基準序説(改訳版)」)
このような位置づけを明確にしたことによって、配当請求の根拠となる期間損益の正確な算定が重要な会計命題であるとした。また、同時に「資本と利益の峻別」についても厳格さを要求した。すなわち、企業それ自体に維持されるべき資本と、株主に処分可能な利益を厳格に区分することを要求する。
そこで、ペイトン=リトルトンは、利益を期間損益計算に求め、「収益費用の期間対応」を強調した。
(2)収益と費用の対応
ペイトン=リトルトンは、期間損益計算を全期間損益計算に対して「試験的鑑定」(test readings)と呼び、ある期間内に「メーター」を通って流れる費用と収益の期間的対応関係であるとした。
そして、費用を「成果を生み出そうとする努力」、収益を「生み出された成果」とし、会計の仕事は、「努力=費用」と「成果=収益」の合理的な対応を行うことであるとした。
「努力と成果(Effort
and Accomplishment)
企業活動の流れは長く継続するのを常とする。諸活動の最後の結果は未来にかかっている。しかし(現在の)いろいろの決定は最後の結果を待ってからというわけにはいかない。経営者、出資者、政府、すべての利害関係団体はその進捗度を測定するために折に触れて「試験的な鑑定」(test
readings)を必要とする。会計によってわれわれは、ある期間内に「メーター」(meter)を通って流れる費用と収益との期間的対応を通し、かかる試験的な鑑定をおこなおうと努めるのである。この目的のために費用および収益の資料が選定されているのは(交換)取引における取得および供与の価格総計を研究することが、成果を生み出そうとする努力と生み出された成果とを比較するのに有用であると信ぜられるがゆえにほかならない」(1958
森山書店 中島省吾訳 ペイトン=リトルトン「会社会計基準序説(改訳版)」)
会計の基本的課題は、企業の努力と成果が明瞭に比較され得るような方法で情報を提供することにより、努力を費用数値として、成果を収益数値として示すことによって、企業の収益力を提供することであるとした。
なぜなら、株主、債権者、従業員、顧客、政府等の利害関係者は、企業の継続性に第一級の関心があり、これら関係者に開示されるべき会計情報は、費用と収益の比較対応によって表される収益力の提供にあるからである。
かくして、ペイトン=リトルトンによって、近代会計の課題は企業収益力の提示にあることが明確にされた。
そして、序説の発表以来、アメリカ会計学は、従来の貸借対照表重視の静態論会計から、損益計算書主導型の動態論会計へと転換されるのである。
(3)費用収益対応の原則、取得原価主義、実現原則
ペイトン=リトルトンは、「対応」という考え方を非常に強調している。「費用収益対応の原則」は、取得原価主義、実現原則など、今日の財務会計の理論的支柱となっている諸原則を含意している。
費用収益対応の関係は、企業の活動の大部分が交換取引から成り立ち、従って、会計はこの交換を数量的に表現するものである。
「会計士が適切な情報を供給せねばならぬ特定企業の活動は、大部分他の企業との交換取引によって成り立っている。会計はこれら交換を数量的に表現しようと試みる。それゆえ会計の基本的な対象は、交換活動に内包されている測定された対価(measured
consideration)、とくに取得された用役に関するものー原価、経費―と供与された用役に関するものー収益、利益―とである」(1958
森山書店 中島省吾訳 ペイトン=リトルトン「会社会計基準序説(改訳版)」)
この交換取引によって、認識された取得原価を、実現された収益との対応関係によって、期間計算することを会計の役割とする。 費用は支出された対価をもって、収益は信頼性ある資産によって支えられた販売に基づいて測定される。
これが取得原価主義及び実現原則と呼ばれるものであるが、この原則は、単なる流通手段としての貨幣が、マルクスのいう「ずるい下心」をもって「資本」に転化したときから、企業の「貨幣・より多くの貨幣」という「貨幣に対する根源的欲求」を満足させるものである。
つまり、企業の利益とは「貨幣利益」であり、貨幣の裏付けのない架空の利益(静態論会計における資産の評価益など)を排除するところに取得原価主義の狙いがある。
また、不十分な証拠に基づく収益の計上は、貨幣の裏付けのない単なる意見に過ぎず、完成した販売によって貨幣の裏付けが確定した時点において収益が実現したとするところに、実現原則の狙いがある。
次に、実現原則によって測定される収益と、取得原価主義によって測定される費用はどのように対応すべきであろうか。
ペイトン=リトルトンは、この対応を結果的な収益に対して負担した費用の合理的な対応であるとした。すなわち、ペイトン=リトルトンの考え方は、あらゆる企業行動の究極の目標を、収益の獲得にあるとして体系づけたのである。
「目に見える財を生産しまたは取引している大部分の企業にとって、企業の活動過程を構成している一連の出来事中、販売ほど決定的なまた財務上重要なものは存しない。販売こそは経営活動の烏帽子石(cap
stone)すなわちすべての努力が向けられている究極目標である」(1958
森山書店 中島省吾訳 ペイトン=リトルトン「会社会計基準序説(改訳版)」)
従って、完成した販売は、企業活動の究極目標であるばかりでなく、それは費用への手掛かりでもあると述べ、会計の仕事は、結実した収益に対してその収益の獲得努力としての費用をいかに割り付けるかであるとした。
「事業経営においては、費用は大部分収益が現れる前に発生する。費用で測定される経営活動は大部分、その後に発生する収益という特定目的のために生ずるからである。他方、蒐集された会計上の事実を表示するに際しては、収益が先ず第一に記載せられ、これに照応する費用は差引として記載される。このような処理は便利でもあり、また収益を支配的な要因と見る通常の見解と相通ずる。事実上、価格総計の二つの流れ(すなわち費用と収益と)は同様に重要かつ相互依存的な要因であり、その一つを正当に認識することは他の一つを認識するうえの助けとなる」(1958
森山書店 中島省吾訳 ペイトン=リトルトン「会社会計基準序説(改訳版)」)
そして、企業の交換取引に際して、測定された原価(cost)は、継続企業を前提として、二つの側面、すなわち「原価は当初は取得価額で、最後になってのみ収益から差引分」としての性質を持つとし、次の三つの段階を持つという。
@当初の認識、測定及び分類
Aその後の内部的な移動及び再結合の跡づけ
B当期又は次期以降のいずれかの会計期間における収益との究極的な対応
期間損益計算における費用は、収益との対応関係において、当期と次期以降に配分される。
それゆえ、「会計の基本的な問題は発生した原価の流れを、期間利益測定の手続きとして、現在と未来に区分すること」であるとした。
「会計上の原価は二つの本質的な側面を持っている。原価は取得価格であるとともに、おそらくはいくつかの中間的な転換の後であろうが、収益にたいする差引分となる。一般にこれらの側面は、時間的順序にしたがって外面化する。もし企業自身が短命であるか、またはその営業が発生した原価すべてを実現された収益と直接に結びつけうるような性質のものである場合は、この二つの側面は(相互に)結びついていて別個に認識されることを要しない。換言すれば、これらの状態のもとではいずれの場合も原価はその取引が発生した期間に、その期の収益と比較されるべき取得価格を表示するにすぎない。(しかし)実際上は、通常の事業経営は継続的なものであり、利益は測定および報告のために便宜的な期間区分に分断されねばならなかった一つの(継続的な)流れにほかならない。そのうえ近代的な企業の営業活動は著しく複雑であり、また非常に永い間使用できる原価要素を使わねばならぬので、原価に関するこのような二重の概念(すなわち取得価格と収益よりの差引分との二つの側面)を認めることが、会計上健全となるために基本的となってきている。原価は当初は取得価格で、最後になってのみ収益からの差引分となる。
それゆえ、会計の基本的な問題は発生した原価の流れを、期間利益測定の手続として、現在と未来に区分することである。このような区分を報告するに用いる技術的な手段は、損益計算書と貸借対照表とである。この両者はともに緊要である。損益計算書は当期への配分を報告する。貸借対照表は発生した原価中次年度以降に負担せしめてさしつかえない分を表している。貸借対照表はかくして、取得価格中未償却の分すなわちまだ差引かれていない原価を次期以降に繰越す手段として役立つ。すなわち相つづく損益計算書を結びつけて利益の流れの状況を組立てるつなぎ環(a
connecting link)の役を努めるのである」(1958
森山書店 中島省吾訳 ペイトン=リトルトン「会社会計基準序説(改訳版)」)
かくして、貸借対照表は、費用収益対応の原則の考え方から、原価のうち収益未対応分を繰り越す手段として役立つものと位置づけられ、継続企業として「あいつづく損益計算書を結びつけて利益の流れの状況を組み立てる環(a
connecting link)」の役目をつとめることになるのである。
|