まえがき
闇の中から闇は見える
価値というのは差異のことである。文化であれ、方法であれ、国境であれ、境界というものを作ってせき止めて、そこに差異というものを作り出したときに、その差異を価値と呼ぶ。これが、すべての人間の行動原理に潜む。
本書もこの差異原理に基づき価値を見出している。
第一に、会計の前段(基礎的前提、前段的会計理論)に大枚の枚数19を費やしている。これが、会計学者の書いた会計学書との大いなる差異である。ここに差異を見出した理由は筆者の経験に基づく。筆者は一介の会計実務者であるが、会計学を学び始めたときに気づいたことは、会計学のテキストは専門書又は入門書(又はノウハウ本)の2極に分化されていて、どちらも難しい点であった。
この両者に共通しているのは、どちらも基礎的前提がさて置かれていることである。難しさの原因はこの前段省略にある。いわゆる導入部がないのである。「分かる本」「入門」「スピード学習」等の入門書においては、特に基本的な疑問符に対する答は省略されている。大学又は専門学校において勉強する分には、教師から余談的に学ぶことができるであろうが、独学で会計学を学ぼうとするには、この前段省略はあまりにも不親切である。
問題としている基礎的前提とは、例えば現代会計の根幹となっている「取得原価主義」にしても、数百年にわたり社会経済進化と歩調をあわせて発展してきた、つまり歴史の要求に対する合意概念、社会的制度であるにもかかわらず、一行的解説と時価主義との対比において論ぜられている点である。
本書においては、特に歴史的生成過程に力点をおき、基本的な疑問符を特に大事にし、現代会計の理論にいたる道筋を明らかにしている。会計学を学ぶ者にとって手がかりとなる部分に大枚のページ数を費やしている。
特に、「会計のスタイル」では、世界の2大会計である「フランコジャーマン系会計」と「アングロサクソン系会計」を、その「根っこ」の部分で対比させながら、会計の真実とは何か、さらに米国型の国際会計基準の考え方とは何かを深堀している。
「光の中から闇は見えないが、闇の中から闇は見える」と言った人がいる。
まさにその通りである。筆者自身がそうであったように、分からなかった人の疑問符を理解できるのである。そういった意味において、本書は筆者自身の「なるほど学」である。
本書が筆者自身の「なるほど学」になっていることから、全体がリダンダント(冗長)になっている。しかし、この「リダンダント性」が第二の差異である。各項目にわたって前段を省略していない。その方が理解を深めると思うからである。
随所に理解の手助けとなる事項を挿入している。会計に非の打ち所のない完璧なものなどない。社会的制度で一方的な最善の策はありえない。物事には表と裏があるように、ほとんどの場合、対極の存在がある。対極の存在がなければ制度はそもそも存在しない。両極のバランス、「合意概念」を社会的制度というのである。言葉にちょっとした弾みを加えることで理解が深まる。
従って、このリダンダント性によって、「コンゴ人に暑さのしのぎ方を教えたがるエスキモーがどこにもいるものだ」的部分もあるかもしれない。
第三の差異は、純粋な財務会計論ではなく、企業会計原則の考え方を基本に据えながら、商法や税法との関連で立体的に解説している点にある。特に現在の制度会計は、企業会計原則と商法の調整の結果できあがったものであり、首尾一貫したものとはなっていない。本書では、実務上大事とされる税務の考え方も取り入れ、このトライアングル・レギュレーションを随所で解説し、理解を深める工夫を行っている。
誰のアイデアを使えばいいんだ?
さて、筆者は会計学者でも歴史学者でもない。一介の実務者である。従って、多くの歳月をかけて理論を構築するほどの能力も時間もない(特に前者)。
そこで、どういった方法を採用したか。それは他人のアイデアを借用することである。つまり、盗んだのである。
「人を動かす」の著者デール・カーネギーは「私が掲げるアイデアは私のものではない。私はソクラテスから借用し、チェスターフィールドからくすね、キリストから盗んだ。それを本に書いた。彼らの鉄則が気に入らないのなら、誰のアイデアを使えばいいんだ?」と言っている。
この伝で言えば、筆者の場合は「私の書いた文章は私のものではない。リトルトンと熊野実夫と嶌村剛雄と武田隆二と岸悦三と田中英夫と小林健吾と田中弘と渡部昇一と西尾幹二とレオ・ヒューバーマンとピーター・ミルワード、そしてその他数え切れない学者たちから盗んでいる。彼らの理論が気に入らないのなら、誰の理論を使えばいいんだ?」ということになる。巻末に掲載してある参考文献のほとんどからアイデアや理論を借用している。
新聞や雑誌に掲載された記事も借用している。柴田翔、田中成明、木村尚三郎、加藤尚武、上野千鶴子、養老孟司、塩野七生その他数え切れないくらいの人々からアイデアを借用している。
会計のロマン
難解な会計理論も、奥底には連綿として流れる“人間の欲望の歴史”がある。歴史は人の営みの軌跡であって、それは決して無味乾燥なものではない。
会計学を無味乾燥な、そして難解にしておく必要はない。理論にこだわって、相互乗り入れを許さないという態度を固持する必要もない。
このこだわらない態度も本書の特徴でもある。必要と思われる事項や理解の手がかりとなる事柄について随所に盛り込んである。
会計は、人類の歴史そのものである。会計史をひも解けばそのことが実感できる。本書では会計の前段に力点を置いている。本書の目的は、会計の技術を説明することではない。会計学における迂回路であり、会計のロマンを説明することにある。迂回路は人間の幅を広げてくれるものと確信している。
明確には覚えていないが、目的・目標に向かうときの心構えとして、次のような話を聞いたことがある。
現代のように航行技術や電子機器が発達していなかった時代の飛行機のパイロットは、星の位置を頼りに操縦していたわけであるが、この場合、星を直視するのではなく、その周辺を見ていたそうである(多分、「視差法」といったように記憶している)。何故なら、目標となる星を見続けていると、ぼやけてしまって、見失ってしまうからである。周辺を見ることによって、目標が明確に浮かび上がり、安全に航行することができたという。
寺田寅彦は、「いわゆる頭のいい人は、言わば足の早い旅人のようなものである。人より先に人のまだ行かない所へ行き着くこともできる代わりに、途中の道ばたあるいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある」(1948 岩波文庫 小宮豊隆編「寺田寅彦随筆集(四)」)といっている。これを我田引水的に解釈すれば、迂回路の効用、又は道草の効用を説いているのではないだろうか。
さて、またリダンダントになってしまったが、本書は会計学の迂回路を目指すことによって、より会計の本質に迫ろうとする、いわゆる会計学における「視差法」である。
「論理の連鎖のただ一つの輪をも取り失わないように、また混乱の中に部分と全体との関係を見失わないようにするためには、正確でかつ緻密な頭脳を要する。紛糾した可能性の岐路に立ったときに、取るべき道を誤らないためには前途を見透かす内察と直観の力を持たなければならない。すなわちこの意味ではたしかに科学者は『あたま』がよくなくてはならないのである。
しかしまた、普通にいわゆる常識的にわかりきったと思われることで、そうして、普通の意味でいわゆるあたまの悪い人にでも容易にわかったと思われるような尋常茶飯事の中に、何かしら不可解な疑点を認めそうしてその闡明に苦吟するということが、単なる科学教育者にはとにかく、科学的研究に従事する者にはさらにいっそう重要必須なことである。この点で科学者は、普通のあたまの悪い人よりも、もっと物わかりの悪いのみ込みの悪い田舎者であり朴念仁でなければならない。
いわゆる頭のいい人は、言わば足の早い旅人のようなものである。人より先に人のまだ行かない所へ行き着くこともできる代わりに、途中の道ばたあるいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある。頭の悪い人足ののろい人がずっとあとからおくれて来てわけもなくそのだいじな宝物を拾っていく場合がある。
頭のいい人は、言わば富士のすそ野まで来て、そこから頂上をながめただけで、それで富士の全体をのみ込んで東京へ引き返すという心配がある。富士はやはり登ってみなければわからない。
頭のいい人は見通しがきくだけに、あらゆる道筋の前途の難関が見渡される。少なくとも自分でそういう気がする。そのためにややもすると前進する勇気を阻喪しやすい。頭の悪い人は前途に霧がかかっているためにかえって楽観的である。そうして難関に出会っても存外どうにかしてそれを切り抜けて行く。どうにも抜けられない難関というのはきわめてまれだからである。…………………
頭の悪い人は、頭のいい人が考えて、はじめからだめにきまっているような試みを、一生懸命につづけている。やっと、それがだめとわかるころには、しかしたいてい何かしらだめでない他のものの糸口を取り上げている。そうしてそれは、そのはじめからだめな試みをあえてしなかった人には決して手に触れる機会のないような糸口である場合も少なくない。………………
頭のいい人は批判家に適するが行為の人にはなりにくい。すべての行為には危険が伴うからである。けがを恐れる人は大工にはなれない。失敗をこわがる人は科学者にはなれない。科学もやはり頭の悪い命知らずの死骸の山の上に築かれた殿堂であり、血の川のほとりに咲いた楽園である。一身の利害に対して頭のよい人は戦士にはなりにくい」
(小宮豊隆編「寺田寅彦随筆集(4)《科学者とあたま》」 岩波文庫 1963改定)
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