第一部  第5章  近代会計の幕開け

 理論経済学者JR・ヒックスは、「固定資本財の範囲と種類の拡大こそが、産業革命という変化についての正しい経済的定義である」(1995 講談社学術文庫 新保博・渡辺文夫訳 「経済史の理論」)と主張した。産業革命によって固定資本財が拡大され、資本の回転速度に変化が現れたときに、「近代」会計が誕生する。近代会計は、固定資本の会計問題、すなわち減価償却・原価計算の中から生まれてくる。

 

 

 

1、近代会計の意味

  西欧では、時代区分としての三分法が採られ、「古代」「中世」「近代」という概念が提唱された。いわゆる宗教的形而上的な世界観、社会観、人間観を特徴とする中世を、古代と近代に挟まれた暗黒否定されるべきものとして位置づけるのである。この時代区分における「近代」とは、宗教的暗黒時代から開放され、18世紀の啓蒙思想主義の時代、市民革命の時代を経て、さらに19世紀にまたがる産業革命と資本主義社会体制の理念へと連綿と繋がり引き継がれて現代に至る時代を指す。
  17世紀のドイツの歴史家クリストフ・ケラリウスは、「古代史」「中世史」「近代史」という3冊の書物を著わし、それぞれの切れ目をコンスタンティヌス大帝の死(337年)、コンスタンティノーブルの陥落(1453年)とした。これが時代区分のはじまりとされている。世界史の発展を時代区分する3分法は便利なため広く用いられている。ただし、今日では各時代の区切りを単なる政治的、文化的事件よりも、その背景となる経済的、社会的変動に重点を置き、アメリカ発見(1492年)や宗教改革の開始(1517年)などとしている場合もある。
 近代への橋渡しとなる、従って中世における宗教的世界観から開放される契機は、地理上の発見(あくまでもヨーロッパを中心とした世界観からの)である。地理上の発見は真の意味での世界史を形成させた。ヨーロッパ史において古代から中世への移り変わりは地中海世界からヨーロッパ世界への拡大であるが、中世から近代への移行は地理上の発見によって、歴史の舞台がヨーロッパ世界から地球的規模で全世界に拡大されたのである。

 
「『中世』という時代を指して《暗黒の時代=中世》と言われることがある。これはなにも日本語だけの造語というわけではない。英語には『中世』を表す別語として‘Dark Ages’という言葉があり、‘Middle Ages’とまったく同義に、ほとんど常識的に使われている。したがって、日本語の《暗黒時代》は文字通りその訳語にほかならないのである」(1992 講談社現代新書 山本雅男 「ヨーロッパ『近代』の終焉」)
 さらに、地理上の発見によってそれまでの神学的世界観が否定され、すべてを宗教によって解釈する態度を改め、科学的、合理的に理解する考え方に目覚めた。
 さて、「近代」会計とは何か。
 A・C・リトルトンは、「光ははじめ15世紀に、次いで19世紀に射したのである。15世紀の商業と貿易の急速な発達にせまられて、人は帳簿記入を複式簿記に発展せしめた。時うつって19世紀にいたるや当時の商業と工業の飛躍的な前進にせまられて、人は複式簿記を会計に発展せしめた」(リトルトン会計発達史)として、19世紀を近代会計のメルクマールとしている。
 15世紀とは、中世末期のイタリアにおいて複式簿記が発明されたことを指す。簿記から会計へ進化するのは、株式会社という社会経済制度が発明され、「資本と収益の区分理論」が会計学の誕生を促すのである。

 
「株式会社が簿記におよぼした影響は、ひとり経営と人との接触面の分散という問題にあったばかりでなく、より深い影響はむしろ他の方面にあった。株式会社は継続企業であり、したがって、株式によるその投下資金は一回の配当によって全損益が分配されるところの投機ventureではなくて、定期に果実が得られるところの長期投資investmentであるという事実こそが、簿記に決定的な影響をおよぼした所以であったのである。株式会社が定期的果実を分配することを目標として存立するものであるとすれば、会社の資本capitalであるものと収益incomeであるものとをつねにはっきり区別しなければならない。資本と収益との区別を表示し得る能力は、複式簿記のもつ一つの技術的特質であり、しかして定期的利益を正確に計算することは、会計の一の重要な職能である。それゆえに、株式会社が資本と収益とを区別することの重要性を強めたかぎりにおいて、それはまた、簿記から会計への発展をそれだけ刺戟したのであった」(1978同文館 片野一郎訳「リトルトン会計発達史〔増補版〕」)
 継続企業としての株式会社が実現し、その特質たる「永久資本制」「有限責任制」の採用が、会計における最大の課題である「資本と利益の区分」の理屈・理論、いいかえれば、利害関係における合意論が簿記から会計へと進化する契機となるのである。
 リトルトンの強調する19世紀の問題は「近代」会計である。15世紀の会計は、17世紀の株式会社の会計へと、さらには19世紀の問題は、「近代」を冠することによって、会計進化の過程でエポックを画することにある。
 


「簿記がその後数世紀にわたり惰眠をむさぼっていたことは事実である。それが覚然として目ざめたのは、パツィオロの著書が世に現れてから約四百年の後のことである」(リトルトン会計発達史)
 従って、17世紀の株式会社の会計は、まだ簿記の域から脱しておらず、リトルトンのいう惰眠状態、停滞状態にあったのである。

 19世紀は、異常な産業勃興期にあたる。リトルトンのいう19世紀の問題は、産業革命(
industrial  revolution)によって、巨額の固定資本(固定資産)が形成され、期間損益計算を著しく困難なものとし、この困難性、複雑性が会計理論の近代化を促したのである。

 「近代の事業は継続企業である。機械は数年間使用されるし、工場建物は時には一世紀以上も使用に耐え、鉄道線路は将来継ぎたされる予定で建設する。生産工程は原料と仕掛品と完成品との絶えることなき流れから成っている。費用は多数の工程と多数の製品に共通に生じ、隊商の費用のように、一包の商品について個々に生ずるのではない。しかし、社会が工業化してきても人間生活の仕来りは不思議と農業的である。時間というものは四季の移り変わりが自分の生活に密接な意義があるからこそ存するのである。地球が太陽の周りをまわるにしたがって、種蒔きの時期と収穫の時期がやってくる。かような周期に織りこまれた折々の期間についても、人間はその期間の結果をきめなければ気がすまないのである」(1978同文館 片野一郎訳「リトルトン会計発達史〔増補版〕」)

 「収入と収益」、「支出と費用」、科目をどう呼ぼうが「期間の枠」をはずしたとき、すなわち企業存続の全期間で考えれば関係ない。この言葉、科目は期間的な損益の対応関係を考えるときに意味をもつ。

 長期の収益に寄与する固定資本(固定資産)が出現したことによって、固定資産というものをどのようにして期間損益計算に関連づけるかというところに近代会計の出発点がある。 近代会計の中心をなすものは、固定資産会計である。この近代会計は、産業革命を他国にさきがけて遂行し、資本主義の母国とされるイギリスにおいて芽生えたのである。
 

2           産業革命

 地理上の発見によって、ヨーロッパの経済は、異国の物資に対する欲望の膨張と、それを満たすべく冒険商人達の海賊的行為として展開していった。
 このような略取的貿易を中心とする社会や経済の激変を「商業革命」(
commercial revolution)とよぶ。商業革命によって、砂糖やタバコ、綿織物、茶などが大量にイギリスに流入し、新奇な商品の大量消費は、生活文化の変化をもたらした。これを「生活革命」とよぶ。生活革命は、砂糖入り紅茶やコーヒーを軸にした生活習慣にもっともよくあらわれる。
 地球の東の果てから持ち込まれた茶に西の端のカリブ海の砂糖は、高価なものだっただけにステイタス・シンボルであった。このステイタス・シンボルを二つ重ねるという突飛もない思いつきは上流階級のしるしとされた。
 ロンドンを中心とする諸都市には、コーヒー・ハウスが誕生する。コーヒーという珍しい飲み物が人々の注意を惹きつけた。増加する都市住民の憩いの場として、または情報交換の場、すなわち情報センターとして、コーヒー・ハウスはさまざまな機能を果たした。
 コーヒー・ハウスから生まれた組織でもっとも有名なものは、ニュートンも会長をつとめた王立協会である。また、世界一の保険組合ロイズが、ロイズ・コーヒー・ハウスから生まれたことは、あまりにも有名である。
 コーヒー・ハウスが、株や国債などの証券の取引でも大きな役割を果たしたことは、世界の歴史に残る大事件でもある「南海泡沫事件」(サウス・シー・バブル)によっても証明されている。
 さて、こうした「商業革命」「生活革命」は、イギリスが非ヨーロッパ世界との経済的接触をはじめとして、急速にその関係を強めていく過程であり、それがイギリスをヨーロッパの辺境から、ヘゲモニー国家への地位に押し上げ、世界で最初の工業化の達成を可能にしたのである。
 世界で最初の産業革命は、綿工業から展開される

 
「近代社会を語るうえで、市民革命とともに触れなくてはならないこと、それが産業革命である。市民革命が政治の範疇に入るならば、産業革命は経済の問題ということになろうか。しかし、このふたつはけっして無縁ではなく、近代という時代を特徴づける出来事、すなわち資本主義社会を形成するうえで大きな役割を果たすのである。おそらく、このいずれが欠けても資本主義社会は到来しなかったのではないかとさえ思われる」(1992 講談社現代新書 山本雅男 「ヨーロッパ『近代』の終焉」)
 イギリスは、もともと毛織物に長けた国であるが、なぜ綿工業から展開されるのか。
 大航海時代の到来によってもたらされた商業革命は、東インド会社などによって、大陸間の物資の交流(カントリー・トレード)が行われ、ヨーロッパ人の衣食住のあらゆる方面に大きな影響を与えた。
 なかでも衣の分野では、毛織物よりも清潔で、しかも染めが容易なインド産木綿(キャラコ)に対する国民の関心は高く、毛織物業界の圧力によって1700年にはキャラコ輸入禁止法が、1720年にはキャラコ使用禁止法が出されたが、それでも木綿の魅力は捨てがたく、1774年に使用禁止法が廃止されるや、イギリスの綿布の生産が飛躍的に増加する。
 1733年にケイ(
Jhon Kay)の飛び梭(とびひ:機織に横糸を通す道具)、1760年代にハーグリーヴズ(Hargreaves)のジェニー紡績機(多軸紡績機)、アークライト(Arkwright)の水力紡績機が相次いで発明され、やや遅れて1780年代半ばにはカートライト(Cartwright)の力織機が発明された。これらの機械は、まもなく動力に蒸気を用いるようになり、綿工業の生産は急激に増大していったのである。
 イギリスの産業革命の有力な資金源になったのは、奴隷貿易と奴隷制プランテーションであげた莫大な利潤であったことを主張したのはエリック・ウィリアムズ(
Williams 1911〜1981)である。ウィリアムズは、西インド諸島のトリニダード・トバコが1962年に独立して共和国になったときの首相で、黒人歴史家である。ウィリアムズは、カリブ海域で砂糖がとれたからこそ奴隷制度があり、奴隷制度があったからこそ産業革命があったと主張した。
 また、おそらく世界史のうえでイギリス綿業とインド綿業との有為転変ほどスケールの大きい産業興亡史もなかった。

 
「ついに1838年に至って終りを告げたイギリスの木綿手織工の没落は、世界史上に例のない悲惨な光景を呈した。彼らのうちの多くの者が餓死し、多くの者が、家族とともに長いあいだ一日二ペンス半で、命だけをつないだ。これに反して、イギリスの木綿機械装置によって急激に影響を受けたのは東インドで、その総督は、1834〜35年にこう確信した、『この窮乏は、商業史上にほとんど類を見ない。木綿職工の骨は、インドの野をまっ白にしている』と。」(1969岩波文庫 向坂逸郎訳 マルクス「資本論(二)」) 「マンチェスター綿業の目標は、品質、価格ともにインド綿布に劣らないものを自らの機械でつくり出すことであった。そしてひとたびインド綿布の模倣に成功したとき、インド綿業はいまやイギリスにとって邪魔物になった。邪魔物は消さなければならない。こうしてイギリス綿製品のインドへの進出が始まった。しかし、インドへの進出は困難をきわめた。困難であっただけに、イギリス政府は関税政策や軍事的・政治的圧力などあらゆる苛酷な手段を動員して、インド綿業の撲滅をはかった。それでも安心できないイギリスは、インド綿職工を捕らえてその眼をくり抜き、手を切るという徹底的な撲滅策をとった。こうしてその名を知られたインドの輝かしい伝統的手織綿業は抹殺され、地上から消えていった」(1980 中公新書 角山栄「茶の世界史」)
 いずれにしても、イギリスの産業革命は綿工業を起点とする。産業革命は、現代生活がそこから始まったという意味においては、現代の夜明けであり、工業化社会の起点とされる。
 さて、問題はリトルトンの「19世紀の問題」である。
 産業革命によって工場制工業が形成され、資本の構成も高度化してくる。産業革命によって、それまでの商業資本は産業資本にとってかわられ、産業資本の流通過程を担当する補助的地位となる。
 リトルトンのいう「19世紀」の問題は、すなわち、それまでの商業資本をベースとした会計理論に、新に産業資本=固定資産の会計問題が付加され、さらに会計の中心問題が、商業資本=流動資産の会計から産業資本=固定資産の会計へと逆転していく過程を意味する。

 
「しかし、会計学生成上これにも増して重要な要因をなしたものは、近代生産の特徴でありかつ株式会社組織によって促進された巨額の固定資本の形成である。固定資本を大規模に使用するようになったことは、事業の期間利潤計算を昔にくらべていちじるしく困難ならしめた」(1978同文館 片野一郎訳「リトルトン会計発達史〔増補版〕」
 商業資本(流動資本:流動資産)から産業資本(固定資本:固定資産)への転換、固定資産の会計的反映としての減価償却問題の発生が、近代会計へと導く。
 工場制度による生産は、従来経験しなかった新たな計算問題を引き起こした。すなわち、資本構成の高度化によって、流動資産と固定資産という資本の回転速度に二種類のものが存在するようになり、資本の回転速度の差異は、損益計算への関連認識の差異となって現れた。
 工場制度によって生まれた(付加された)会計領域は、次のように整理することができる。
 

  17Cのオランダ   19Cのイギリス
資本 商業資本=流動資本 
(貨幣取扱資本・商品取扱資本)
産業資本=固定資本
(工業資本)
資本の回転速度 短期 長期
簿記の種類 銀行簿記・商業簿記 工業簿記(原価計算)
資産 棚卸資産 固定資産
資産の評価 時価主義 原価主義
会計方法 現金主義 発生主義

「工場制度による資産が、動力性機械の使用によっていちじるしく生産力を増進したとき、これにともなって簿記の負担も増してきた。工場や設備に巨額の資金が投下された結果、固定資産会計は非常に拡大された。まことに、固定資産会計(減価償却という考え方をふくめて)はおおむね近代の発展に属するものであり、それは15世紀から19世紀にわたる商人簿記にあってはほとんど現れてこなかった」(1978同文館 片野一郎訳「リトルトン会計発達史〔増補版〕」)
 特に、工場制度から生まれた原価計算の問題は、何が利益であるかという損益計算の問題であり、自由競争下における価格決定の問題であった。
 企業家の関心が原価計算に向かった理由としてリトルトンは、@注文引受価格の決定、A製品の棚卸価格の評価基準、B真正利潤の算定と販売価格の決定の3点をあげている。 

3、複会計制度

 イギリスの産業革命は、木綿工業の作業機から始まった。そして、イギリスは、「世界の工場」となり、全世界に向かって資本主義経済の牽引車となる。
 さて、会計の近代化の流れも、木綿工場から始まるのか。
 本来は、木綿工場における固定資本=固定資産の会計問題が、近代会計の基本問題としての減価償却問題を生むべきであった。確かに減価償却問題の下地を作ったことは確かであるが、減価償却の問題は、木綿工場ではなく、後発としての鉄道業から起こる。
 
木綿工場の経営者は、増大する固定資本に対して、なぜ会計問題を持たなかったのか。
 それは、経営上必要な固定的生産設備は、そのほとんどを賃借していたという事情があったのである。

 
「ところで、こうして規模を拡張してゆく諸経営は、一般に、作業場の敷地はもちろん、通例、作業場をも賃借していたことに注意する必要があろう。小生産者が独立経営をする場合に、マンチェスターやバーミンガムなどでは、ふつう、作業場付きの小住宅を賃借して仕事を始め、経営規模の拡大にともなって、作業場を増築したり、別の作業場を借りたり、あるいはより大きな貸作業場へ移転したりした。蓄積の少ない小資本にあっては、その一部を建物に固定してしまうよりは、その全額を流動資本に投じて、その利潤から家賃を支払う方が有利だったのである。かなり大規模な作業場でさえ、さきにウォリントンやバーミンガムなどの事実を見たように、賃貸借が一般であったし、鉱山や製鉄所などの場合には、施設・装置一式が貸しに出された。製鉄所を例にとってみると、高炉、鍛鉄所、用水池などの装置・設備自体が賃貸借の対象になっていて、18世紀前半当時の製鉄業者は、まずこうした高炉以下の諸装置一式を賃借して、製鉄業を営んだのであった。資本が自己の作業場を所有するようになるのは、特別な個別的事情を除けば、一般には十分経営が拡大して資金の蓄積も豊かとなり、さしあたって生産部門に必要な量以上に余裕ができた時のことであった」(1960岩波書店 大塚久雄・高橋幸八郎・松田智雄編著 「西洋経済史講座U 資本主義の発達」)
 18世紀から産業革命を経て、19世紀ころまで、イギリスの工業経営は、経営上の大きな特徴として生産設備や作業場の賃借経営が広く行われていたのである。
 経営上必要な固定的生産設備を賃借している限りにおいて、その減価なり価値移転の認識が発生する契機はそもそも存在しない。つまり、賃借という条件のもとでは、会計認識としての固定資本の概念を持ち得ず、貸借対照表能力の範疇外だったのである。減価償却という概念は、自己所有経営の中にこそ生まれてくる。
 さらに、当時の多くの企業は各種手工業者の結合形態で、しばしば親子、兄弟、友人などの人的結合の強いパートナーシップ経営が行われており、利害関係者の少なさやパートナーシップの絆の強さも、精密な期間損益計算としての減価償却問題を惹起させなかったし、主要な会計命題は財産目録による持ち分の確定にあったのである。

 
「このように産業革命期のパートナーシップでは、各パートナーの持ち分の確定が重要であり、そこでは財産目録がこれを表示するものであり、この財産目録の項目の評価こそが重要な会計課題であった。また、株式会社と違い、利益は配当されるものではなく、分配されるものであった」(1995 晃洋書房 村田直樹「近代イギリス会計史研究」)  さて、産業革命は、前半の担い手として運河会社、後半の担い手として鉄道会社による「交通革命」によって完成される。鉄道は、産業革命の一端を担う大きなシステムであった。鉄道は、人々の空間と時間の感覚に革命を起こした。
 
「鉄道は、その建設に巨額の資本と大量の労働力が動員されたうえ、営業が開始されると、商品と人間の流通・移動をいっきょに促進し、イギリスの経済のみならず生活一般にも決定的な影響を与えた。イギリスでは、鉄道網の完成が産業革命の完成を意味するといわれるゆえんである」(1986 ミネルヴァ書房 村岡健次・川北稔編著「イギリス近代史」)
 もともと鉄道は、イギリスが工業化と都市化を推し進め、農業国から工業国に転換し始めたとき、運河建設の延長線上に、工場の動力源である石炭をどう効率的に輸送するかという問題の解決策として考案されたものである。

 1830年に開業したリヴァプール・アンド・マンチェスター鉄道は、開業当初から多くの旅客と貨物を招くことができ、営業成績は予想以上によく、株主に対する配当も法で定められた最高10%を出したとされている。

 
「鉄道マニア期の過程で、鉄道会社の重役たちの、設立に当たっての不法行為や放漫な経営によって、出資者は多大な損害を受けた。そこで、これらの実態を調査する目的で、1843年に下院でGladstone委員会が設立されることになる。この委員会の報告を基に、1844年に鉄道会社に対する一般規制法である、1844年鉄道規制法(Regulation of Railway Act、1844)が制定されることになる。同法は10%の配当制限を設け、これを超える鉄道に対して、政府が運賃を改定するか、当該鉄道を買収する権限をもつものとされた」(1995 晃洋書房 村田直樹「近代イギリス会計史研究」)
 鉄道事業の有望から、鉄路はイギリス全土に蜘蛛の巣のようにはりめぐらされ、参加者が殺到し、全国民から投資が集中した。これを「鉄道マニア」と呼ぶ。この言葉は、我々が思い浮かべる無垢な愛好家を意味するのではなく、英語では「狂気の沙汰」を意味し、悲惨なニュアンスを持っている。

 「こうした鉄道株に私財を投じた人は、貴族、資本家はもちろん、小商人、牧師、会社員、労働者、女中、下宿屋のおかみ、年金生活者、未亡人などなど、ある文人が言ったように『当今では一人残らず鉄道株主』であった」(1996研究社出版 松村昌家・川本静子・長島伸一・村岡健次編「英国文化の世紀2 帝国社会の諸相」)
 すでに述べたように、パートナーシップ経営の会計は、財産目録を中心とし、財産計算の増加分を各パートナーに分配することを目的としており、開示を前提とした財務諸表(損益計算書・貸借対照表)は作成されず、減価償却に関しては原価構成要素としての認識はあったものの、基本的には各パートナーの財産評価の要素として考えていた。
 一方、莫大な資本を要する鉄道業においては、株主の多さに加え、株主の関心も様々であったのである。そして、株主間に永久的投資的株主(機能資本家)と一時的投機的株主(投機資本家)の分化・対立を生み、それまでのパートナーシップ経営にはなかった会計問題が生じたのである。
 永久的投資的株主は、現在の配当よりも、取締役会に対してその意向を反映させ、企業の安定を願う。一時的投機的株主は、資本の永久的価値、すなわち企業の安定よりも現在の配当に注目する。
 こうした株主の分化・対立は、会社の会計、とりわけ配当に対して関心が寄せられ、配当の源泉たる利益とその算定基準、さらには会計様式に注目するようになる。

 
「この株主層の分化は、鉄道会社の財務政策に決定的な影響を与えるとともに、会計様式にも影響を与えた。永久的投資的株主すなわち大株主が注目するのは、資本の維持であり、一時的投機的株主が関心を寄せるのは、営業利益である。大株主は、収益の元本たる物的資本が有効に維持されていることをなにより期待する人々であった。したがって資本勘定を独立させ、固定資本がどのように維持されているかを明確にする必要があった。さらに、両株主グループの調整をはかるため、配当の基礎資料として、収益勘定は重要な意味をもっていたのである」(1995 晃洋書房 村田直樹「近代イギリス会計史研究」)
 株主の利害対立、分化が生み出した会計制度(様式)は、「複会計制度」(
double account system)と呼ばれる。
 複会計制度は、イギリスにおいて1868年の鉄道規制法によって法制され、第二次世界大戦後、主要産業が国有化(1947、1948)されるまで、主に公益事業分野で広く用いられた会計制度である。
 複会計制度は、計算書類としての貸借対照表を「資本(勘定)計算書」(
Capital Account)と「一般貸借対照表」(General Balance Sheet
)に区分する会計報告書制度であり、会計様式である。「複」会計制度は、財産の在り方を2種類に区分することに由来する。
 複会計制度の詳細は紙幅の関係から省略するが、事業遂行上不可欠な固定資産を資本的資産として、この資本的資産の取得にかかる一切の支出は資本的支出として、資本計算書に計上され、それ自体は決して費用化されることなく、永久に累積持続される。なお、資本的資産の維持、更新に要した支出は、収益的支出として、収益勘定(計算書)に計上され、収益に賦課される。
 一般に、複会計制度のもとでは、固定資産の減価償却は意識されない。資本計算書に計上される固定資産は、取得価額のまま据え置かれる。固定資産を更改したときは、その新資産の取得に要した支出を費用とする「取替法」が採用され、収益勘定(計算書)に計上される。
 1868年に統一された複会計制度の一つの目的は、資本的収入が固定資産以外のものに投下されていないかを示すことにあった。すなわち、募集された資金がその目的に使用されず、他に流用されることを防止する狙いがあった。
 巨額の資本を必要とする鉄道業における株主、とりわけ金融資本を保護するために、拠出資本を有形固定資産に投資することによって、支払能力を担保し、あわせて収益力の指標とすることを目的としたのである。
 この複会計制度が生まれる背景には、鉄道建設の拡張期である1866年に起こった恐慌(不健全で巨大な鉄道会社とそれに深くかかわった金融資本が原因とされる)の教訓がある。
 1868年の鉄道規制法の目的は、鉄道会社の支払能力や収益力を比較検討できる統一会計制度が必要となり、政府機関への報告義務を主眼として、複会計制度という会計様式が採用されたのである。
 複会計制度からは、近代会計
思考(発生主義)は育たなかったが、資本と収益の区分思考を成立させ、近代会計への準備をなしたと考えられる。

 
「鉄道会計のなかからは、価値移転と投下資本の回収という二重的性格をもつ減価償却は本来的には形成されてこなかったが、複会計制度は資本と収益の区分思考を成立させ、半発生主義会計として、近代的=発生主義会計成立の準備をなしたのであった」(1969 未来社 茂木虎雄 「近代会計成立史論」)

  

4、配当政策と減価償却

 複会計制度は、それまでの実務における千差万別の雑多な会計方法を統一したものであった。リトルトンは、次のように当時のやり方を指摘している。
 「その当時のやり方は、まさに千差万別であった。(この論文が指摘するところによれば、)
The Liverpool and Manchester鉄道は新造機関車に対する支出を当期費用に課する方法をとり、また、The Grand Junction鉄道は毎年評価しなおす方法をとったという。また、The London and Birmingham鉄道は、普通の修繕費用以上の年率を準備することによって、減価償却基金(取替基金)を設けた。減価償却の実際にあたってこのような雑多な方法が行われたわけは、減価償却が個々の場合の必要に応じて行われたためであったらしい」(リトルトン会計発達史)
 このように千差万別の会計方法が存在した背景には、固定資産に対する会計的な考え方の多様さがある。
 そもそも、当時は固定資産が使用に耐えられなくなって取替が必要であるという事態は、遠い将来のことでしかなく、適切な修繕を行うことによって永久的に使用できるものであるとする考え方が支配的であったのである。適切に維持されたレールの耐用年数は100年ないし150年とされていた。
 しかし、実務を通じてこういった考え方に疑問を抱きはじめる。それは、次第に発生する損耗を一遍に巨額の費用として特定の期に賦課することへの疑問である。
 鉄道車両については継続的な修繕と部分取替によって全体的な価値が維持されるとしても、レールを含む枕木や橋梁、トンネルなどの諸施設については、その価値の減耗によって、最終的にはすべて更新しなければならないとする主張があった。

 
HPollinsによれば、1840年代の鉄道マニア期を前後して鉄道会社における固定資産の論議の対象が、車両(rolling stock)からレール(rail)に移行したと述べている。Dionysius Lardnerは、その著Railway Economy(1850年)において、車両の廃頽(deterioration)について調査した結果から、車両は継続的な修繕と部分的な更新によって、全体的な価値を回復できるとして、車輛の減価償却を否定している。しかしレールを含む枕木や橋梁、トンネルなどの鉄道諸施設については、その価値を減耗し、最終的には、すべて更新しなければならず、収益からの減価償却準備基金が必要となると述べている」(1995 晃洋書房 村田直樹「近代イギリス会計史研究」)
 また、運賃決定などの原価計算を担当していた鉄道技師達は、修繕によって機関車の価値は回復せず、取替法による修繕費と減価償却は異なるものであると主張し、一部の鉄道会社においては蒸気機関車の平均耐用年数を設定し、購入原価から残存価額を割り引き、その差額を運賃原価の要素として均等配賦している。
 さらに修繕のための支出などの維持費は、固定資産の新しいうちは少なく、使用経過とともにやがて増えていく傾向にあること、あるいは、修繕の行われた特定の年度に費用が計上され、いわば期間的な不均衡が生ずることなどが、実務を通じて次第に指摘されるようになる。
 このように、固定資産は永久的に使用できるものであるとする考え方から、耐用年数は無限でないということが経験上明らかにされてくるのである。
 1868年の鉄道規制法(複会計制度)以前における減価償却の方法は、大きく二つの方法が並存していた。
 1つは、償却準備金として剰余金を留保する方法、二つは、減価償却を当期費用として当期収益に対応(チャージ)する発生主義的な処理方法である。
 当時の鉄道会社における固定資産の会計処理は、こういった減価償却の必要性の認識が芽生えてきたものの、千差万別、雑多な方法によって行われていたのである。すなわち、経営者の自由裁量、リトルトンのいう「個々の場合の必要に任されていた」のである。
 鉄道マニア期においては、政府の自由競争政策に乗って1000に近い会社の申請で、全土にレールが敷かれた。設立にあたっては、政府の規制下にあったものの、経理に関する規制は会計帳簿の作成義務のみで、貸借対照表を公表することも、監査人を置くことも規定されていない。また、配当制限規定もない。
 このことは、イギリスの法の伝統的理念(いわゆるレッセ・フェールの思想)に基づき、具体的・詳細な会計計算については企業の裁量に委ねるという考え方が背景にある。1840年代の鉄道マニア期における会計規定は、この程度のものであり、多数の鉄道会社に共通していたものである。

 
「会社の真実の財政状態に関して意見を述べる前提として、取締役会の合理的な判断が最高の意思とみなされるというイギリスの一定の法的原則がある。『自由放任』という栄光ある商業原則を遵守するので、それと反対の立場を許さない。このようなイギリスの法的原則は、すでに発達しており、1900年までのいくつかの重要な判決で慎重に具体化されている。その判決の引用を次に示したが、それらは、イングランドの取締役会による商業的判断に対するイギリスの法律上の一貫した考え方を例示している。
 『会計帳簿が、どのように記帳されるかの問題は、商業実務界に慎重かつ適当に委ねられている。会社法は、どのような費用が資本勘定に賦課され、なにが収益勘定に賦課されるかを規定していない。そのようなことは、株主(実際は、彼らの代表たる取締役に委任されることになる)の判断による』」(1993同文館 小澤康人・佐々木重人訳
VK・ジンマーマン「近代アメリカ会計発達史」)

 
経営者の自由裁量、リトルトンのいう「個々の場合の必要性」とは、「配当政策」である。
 巨額の資金を必要とする鉄道会社においては、鉄道収益が経済情勢の影響を受けたにもかかわらず、経営者は安定配当政策によって、資本参加を呼びかけた。鉄道の経営者は、計画された配当水準にあわせて会計処理を行っていたのである。19世紀の鉄道会社の会計実務のなかでもっとも重要なことは配当政策であった。
 こうした配当政策のもとにそれぞれの自由裁量、思惑で減価償却が実施されていた。つまり、配当
率の維持が可能な好況期には減価償却を行い、配当率の維持が困難な不況期には減価償却を行っていなかったのである。
 
Great Western鉄道では、有形固定資産の会計処理に関して、1842年には2万ポンドの減価償却基金を設定していた。しかし翌年には、7%の配当を維持するという理由で、この基金の当期の設定額を5,000ポンドに減額し、1846年には廃止することとなった。このように当時の鉄道会社では、有形固定資産の減価に対する認識はあっても、その財務会計処理は、取締役たちの自由裁量にまかされており、弾力的な配当政策の一環として機能していたのである」(1995 晃洋書房 村田直樹「近代イギリス会計史研究」)
 このような取締役の裁量による会計処理は、禁止されていた資本配当にも及び、企業財政を破綻させ、金融恐慌を引き起こしていく。
 1840年代に起きた鉄道王ジョージ・ハドソン(
George Hudson)スキャンダル(資本配当、社長の公金費消)等が引き金となった鉄道パニックといわれる経済恐慌が起き、1849年鉄道会計監査選抜委員会では、資本的支出と収益的支出が問題とされた(しかし、この問題はレッセ・フェール思想のもとに法制化されるには至らなかった)。
 1866年に起きた金融恐慌によって鉄道企業の破綻を契機として、会計の適正化の要望が強くなる。

 
「具体的には、本来収益的支出として処理すべき、修繕・維持費用、給与、事務費用その他の発生費用を無造作に、または意識的に資本勘定に賦課することによって、禁止されていた資本配当を行っていたり、また、極端なばあいには資本支出に充当させるべく調達された資金から直接配当金を支払うことさえも行われていたといわれる。このような会計処理は必然的に企業財政の破綻を招来し、企業そのものの存立を危うくするばかりでなく、鉄道資本の社会・経済に占める地位ないし事業の公益的性格を考慮したばあい、社会全体の利益にも重大な影響を及ぼすこととなり、1847年の金融恐慌を招来する原因となった」(1994 東京経済情報出版 小林健吾編「日本会計制度成立史」)
 そして、1867年の勅命鉄道委員会の勧告書に基づき、1868年の鉄道規制法が制定され、当時の多くの鉄道会社が固定資産の会計処理に採用していた取替法が採用され、統一会計制度としての複会計制度が確立するのである。
 複会計制度において、資本的支出によって取得された固定資産は、それ自体は永久に資本勘定に表示され、費用化すなわち減価償却を行わない。減価償却を計上する代わりに取替法を採用している。

 
「複会計制度は、株式会社取締役に委託された資本資金に生じた経緯を正確に報告するという、その主要な使用目的の達成にうまく成功した。その成功は、減価償却という重要な会計領域の報告を度外視ないしはあいまいにするという犠牲を払って達成されたものである」(1993同文館 小澤康人・佐々木重人訳VK・ジンマーマン「近代アメリカ会計発達史」)
 このように減価償却を行わないことが、発生主義を基調とする近代会計と異なるのである。
 しかし、数次にわたる鉄道マニア期や経済恐慌の中で試行錯誤を繰り返しながら開発された複会計制度や会計諸概念は、減価償却、建設利息、創立費などの多くの懸案事項を内在しながら、20世紀の近代会計理論へと引き継がれたのである。

 

5、資本主義のモードと会計体系

 複会計制度の制定当時は、減価償却の必要性も認識され始め、「個々の場合の必要」に応じて実務も実際に行われていたのである。しかし、取締役の自由裁量による資本蚕食は、企業財政を破綻させ、ひいては恐慌を引き起こす原因を作り出すにいたる。
 世界で最初に産業革命を迎え、資本主義の母国といわれるイギリスにおける19世紀の会計の発展は、減価償却の問題を残しながらも、複会計制度で一応落着する。この複会計制度は、第二次世界大戦まで続く。
 この間に、世界経済の発展、いいかえれば資本主義の発展(=株式会社の発展)は、イギリスからドイツやアメリカに渡っていく。会計学は、株式会社の進展と歩を共にするものであるから、イギリスで棚上げした減価償却等の会計問題は、20世紀のドイツやアメリカに引き継がれていくのである。
 なぜ、資本主義の母国といわれるイギリスにおいて会計学が発展しなかったのか。複会計制度で立ち止まってしまったのか。言いかえれば、なぜ世界経済の担い手を、ドイツやアメリカに渡してしまったのか。
 ニュアンスの多少の違いを覚悟でいえば、グレシャムの古い経験法則「悪貨は良貨を駆逐する」ということと同じことである。一般的には、悪いものがのさばり、良いものが追い出されるたとえとして用いられるが、出来の悪い方が良い方を、弱いものが強いものを、効率の悪いほうが少しずつながら強いライバルを追いやるのと同じ現象と考えて良い。
 ちなみに、グレシャムの名が冠されているが、「悪貨は良貨を駆逐する」という法則は、グレシャムが生みの親ではなかったことが分かっている。サー・トーマス・グレシャムは、16世紀のイギリスでエリザベス女王に仕え、財政上大きな功績があり、今のロンドン取引所を私財を投じて創設した人物であるが、グレシャムの時代より前にコペルニクスが同じことを言ったという説もあり、起源不詳である。19世紀の半ばに誤ってグレシャムの名が冠されてしまったもので、誤伝と分かった後もなお生きつづけている。

 イギリスは資本主義の母国といわれるが、その中核をなす企業形態としての株式会社の発展が、(後進国としてのドイツやアメリカと異なり)特殊であった。
 すなわち、大規模工場の設立にあたっては、マニュファクチュア時代の資本の蓄積が厚かったために、大衆の資本を動員する必要性がなく、パートナーシップ経営の域をなかなか抜け出せなかったのである。
 一方、国際的な経済競争のなかで、後進国としてのドイツやアメリカは、個別資本の蓄積が不充分であったために、大衆の資本に頼らざるを得ず、株式会社の発展を促したのである。

 
「イギリスでは、マニュファクチャのじゅうぶんな展開をへたのちに産業革命がいわば自然発生的におこなわれたから、機械を使う大工場の設立にあたっても、後進諸国の場合にくらべれば比較的小さな資本でことたりた。そのうえ重商主義段階に商人資本による蓄積がそうとう広汎におこなわれていたから、社会的に集中された資金にたよらなくても、個人的に蓄積した資金で産業資本が成立し、発展しうる場合がすくなくなかった。そこで資本家的産業も個人経営の伝統をこく残しながら発展していったが、このように個人経営の伝統が強かったことは、株式会社制度の産業への普及、さらには銀行と産業との密接な結びつきを生じさせるにはいたらなかった。そして、それがまた、19世紀後半に鉄工業における新技術の採用(そのためには巨額の資本が必要になる)の面で、鉄工業の古い伝統をもつイギリスをして新興の資本主義国たるドイツやアメリカの後塵を拝させることになるのである」(1960 有斐閣 大谷瑞郎 「資本主義発展史論」)
 イギリスの産業革命は、国際競争の進展の中で、後進国の産業革命を促した。産業革命は、各国の鉄工業に刺激を与え、さらに鉄道業に大量の需要が現れる。鉄工業は、大資本を必要とする。この点において、資本蓄積が不充分であった後進国としてのドイツやアメリカにおいて、大衆資本を動員することのできる株式会社制度が利用され、発展をみるのである。

 「イギリスで1830年代に普及しはじめた鉄道事業は、ドイツにもすぐに輸入された。そして鉄道事業の発展は石炭業や鉄工業を大きく刺激せずにはおかなかった。ところで、これらの諸事業ははじめから比較的大きな資本を必要とするが、資本の蓄積がなお比較的低位だった当時のドイツで重工業の発展をたすけた要因は、株式会社制度の産業面への導入であった。鉄道業は、イギリスにおいてさえ、株式会社制度を利用して普及をみたのであるから、ドイツの鉄道事業が株式会社形態の利用によって発展したのはいうまでもない。だが、後進国だったドイツでは、イギリスとは異なってこれがきっかけとなって株式会社制度が産業面へ普及することになった。ドイツにおいて株式会社制度が産業部門にも普及するのは1850年代からであるが、ドイツの重工業は、この株式会社制度の利用をつうじ、社会的資金を集中し、それによってますます巨額の固定投資を必要とするあらたに発明された生産方法も比較的容易に採用することができたのである。19世紀末にはイギリスをおびやかすまでにドイツの重工業のいちじるしい発展は、そもそもこの株式会社の利用によってその基礎をあたえられたといってもいい」(1960 有斐閣 大谷瑞郎 「資本主義発展史論」)

 アメリカにおいてもドイツと同様の経緯である。
 このグレシャムの法則は、17末〜18世紀におけるオランダのヘゲモニーが衰退し、パクス・ブリタニカが到来する理由と同じとみてよい。

 すなわち、17から18世紀の世界経済は、奴隷・砂糖を中心として展開されていたから、カリブ海域に移民を送り出すには当時のヘゲモニー国家たるオランダは、絶対的に人口が少なかったという理由のほかに、裕福であるがゆえにわざわざカリブ海に出て行く人がいなかったのである。かわってカリブ海に渡っていったのはイギリス人やフランス人である。彼らは、年季奉公人と呼ばれる人々であり、失業して食い詰めたもの、貧民や浮浪者、流刑となった犯罪人などであった。すなわち、生きるためにアメリカに渡っていった期限付きの「白い奴隷」たちである。そして、オランダは砂糖殖民地を確立することができず、結果としてヘゲモニーをイギリスに渡すことになるのである。

 世界経済が重工業を中心とする産業資本への形成過程において、イギリスが蓄積された資金の存在ゆえに株式会社制度利用が進まず、結果として世界経済の主役を新興資本主義国たるドイツやアメリカに譲ることになる。
 また、リトルトンは、イギリスでは
18世紀当初に経験した「南海泡沫事件」の教訓から、株式会社の設立に慎重であったのに対して、アメリカでは伝統からくる反対もなく、株式会社の設立許可を大まかに与えることができたことが、イギリスとアメリカの差異となったことを述べている。
 
「アメリカにおける株式会社の設立がこのように早くかつ急速であったことは、イギリスにおいてこれが非常に緩慢であったのに対してとくに注目に値する。だが、アメリカとイギリスとの間における事情の相違を見おとしてはならない。イギリスの考え方と政策に決定的な影響を与えた18世紀初頭における気ちがいじみた投機の『泡沫時代』というものは、アメリカでは一度も経験したことがなかった。イギリスでは、株式会社というものは、事実上永続性を許されたところの、株主の責任とははっきり分離した責任を有するところの政治団体と考えられた。したがって、それはすべての人に自由に開放するにはあまりにも重要すぎるものであった。アメリカでは伝統からくる反対も、或いは、法人の発展にからむ利害関係からくる反対もなかった。ここでは、政治的行動の指導原理はデモクラシィであり公共の利益であった。したがって、法人を設立しうる機会というものも、少数の限られた人に対する君主の特別の恩恵としてではなしに、多数人に平等にあたえられるべき特権として考えられた。さらにまた、イギリスとアメリカでは株式会社の機能に関する法律上の見解に異なるものがあった。イギリスでは、裁判所は、会社の特許状に禁じられていないことは何でもなしうるものであるという原理を固持した。このことは株式会社に危険な要素を与えた。これに反して、アメリカの裁判官は、会社は、明文によるにせよ慣習によるにせよ、とにかく賦与されなかった権能はこれを有せずという理論を主張した。このことは危険の可能性をいちじるしく少なくした。こうしたまったく異なる法的原理からして、アメリカでは株式会社の設立許可を安心して大まかに与えることができたのである。そして、これにともなう株主責任の有限という便益をひろく普及し得たのである」(1978同文館 片野一郎訳「リトルトン会計発達史〔増補版〕」)
 いずれにしても、このことは、二つのモードの資本主義を形成していくことになる。すなわち、英米流の「アングロサクソン型資本主義」と「欧州大陸流(ライン型またはアルペン型)資本主義」である。

 「アングロサクソン型の資本主義は、何ごとも利益追及のチャンスとする果敢さや、ゼロから無限をめざすようなサクセスストーリーで、人々の意識を競争へ、競争へと駆り立てる魅力がある。しかし、その反面、いわば近視眼的で他人にはおかまいなし、投機化、バブル化のリスクいっぱいの落とし穴がある、として描かれている。典型的にはレーガン大統領が鼓舞したアメリカのイメージの中心にある。
 一方、アルペン型ないしはライン型は、連帯を大切にする集団主義的な特色があり、視点は長期的で、人間や文化にも一定の場所を与えている。着実で成果も大きいのだが、若者やこれから発展したいと思う途上国や旧ソ連、東欧の人々の夢をかき立てるような魅力には欠ける、という。この分類の典型はドイツであり、日本でもあるとしている」(1992竹内書店新社 小池はるひ訳 ミシェル・アルベール「資本主義対資本主義」の「監修のことば」)

 一般に、本質的に異なる二つの計理体系・会計思考があるといわれている。すなわち「アングロサクソン系」と「フランコジャーマン系」の二つである。
 しかし、これら二大計理体系が、世の中の動きと無縁に、ア・プリオリに存在するはずもなく、当然ながら資本主義のモードのなかで形成されたものである。
 イギリスを資本主義の母国としながら、1つはアメリカでアングロサクソン型、あるいはアメリカ型の花が開き、アングロサクソン型会計制度が生成される。もう一方は、ライン川沿いのドイツでアルペン型あるいはライン型の資本主義の花が開き、フランコジャーマン系会計制度が生成されるのである。

 

 【補足1 近代という時代区分】

  「歴史の見方は馬跳びする」という言い方がある。今と未来を説明する場合に、すぐ前の時代を批判・断罪し、それを飛び越えて(馬跳びして)もう一つ前の歴史は逆に賛美の対象とする。これが馬跳び歴史観である。この典型はルネッサンス(Renaissance)だったといわれる。ルネッサンスとは「再生」「復活」を意味するフランス語である。ルネッサンスは、まず、自分達の時代を「近代」と位置付け、直前の時代「中世」を「暗黒時代」に区分し、中世を超えて「古代」に理想を求める。だから「文芸復興」というキーワードがふさわしいことになる。
 マルキシズムでも、同じ手法がみられる。歴史を、原始共産主義、奴隷制社会、封建制度、資本主義社会と、順に発展するとした図式はあまりにも有名だが、資本主義を批判する場合、昔に跳ぶと賛辞どころか絶賛しているのである。エンゲルスの「家族・私有財産・国家の起源」は、文化人類学者の研究を下敷きにしているが、当時は未開とされていた古代社会を、「兵隊も憲兵も警察官もなく、貴族も国王も総督も知事も裁判官もなく、監獄もなく訴訟もなく、それでいて万事が規則正しく行われる」「万人が平等であり自由である」「未開人だけが、瀕死の文明に悩む世界を若返らせることができる」と絶賛している。
 この馬跳び歴史観は、「今」と「その前」と「かつて」という歴史を三つに輪切りする手法だが、これは人間の心情に訴えやすく、多用されている。 さて、古代、中世、近代の時代三区分は、ドイツの歴史家クリストフ・ケラリウスがその嚆矢とされるが、便利であるため多用されている。近代のスタート時点は、国によって異なる。イギリスは1485年、イタリアは1492年で、この年、コロンブスがアメリカに行き着いた。ドイツ史では1519年とされ、宗教改革時代の始まりである。いずれも現代に至るまで四、五百年間に及ぶ。これが日本の場合だと明治維新が近代開始年とされてきたから、ヨーロッパのほぼ四分の一にしかならない。
(1994.11 日本経済新聞「新百科」要約)

 

【補足2 紅茶帝国主義】

 ギリシア神話の中で地図や地名と関係の深いのはアトラスである。大航海の時代になって、地図製作者が地図書を出版するときに、アトラスが地球を背負っている絵を表紙に使うことが慣習となった。メルカトルが世界最初の近代地図書を「アトラス」と名付けたことから、アトラスが地図書を著すようになった(地図書はatlas  一枚の地図はmap)。
 さて、イギリスの地図は当然イギリスが真ん中に描かれる。東の端には東南アジア、大西洋を挟んで西の端には新大陸であるアメリカ。大航海時代、イギリス人にとって外国物産はばかみたいに高い値段であった。だからこそ命を懸けた冒険商人が誕生する。

 「地球の東の端からもちこまれた茶に、西の端のカリブ海の砂糖を入れて飲む」ことは、一種のステイタスシンボルで、茶に砂糖を入れるなどという奇怪なことは一部の幸福な立場に立ったイギリス人にしかできないことであった。
 しかし、砂糖入り紅茶文化は、グローバルなスケールで血塗られた紅茶帝国主義を作り出していくのである。
 「イギリスの紅茶文化は、砂糖を補完財とした物質文化として形成されたということができる。中国から輸入される高価な茶を飲むだけでも奢侈贅沢であった上に、新大陸からの珍貴な砂糖を添えることは一種の驕りともいうべきであったろう。

 こうした奢侈贅沢を享受したものは、はじめ一部の富裕階級であったが、それはやがて砂糖の価格が低下するにつれ、貧民にとっても現実のものとなってゆく。ゾムバルトはかつて、近世初期の資本主義をつくり出したものは奢侈であると主張したが、イギリスのティはまさに物質的奢侈を経済的発展に導いた最大の契機となった。しかも、茶も砂糖もいずれも海外からの輸入に依存せざるをえなかった商品であったという意味では、とくに対外的経済活動に刺激を与えた。こうして紅茶文化は18世紀重商主義を生み出したばかりでなく、重商主義時代の典型的文化として形成されることになるのである。だからそれは本質的に一種の帝国主義ともいうべき外交的性格、つまり植民地支配を志向した攻撃的侵略的性格をもつようになる。いいかえると、紅茶は紅茶帝国主義として展開してゆくのである。そして、紅茶帝国主義を支えた柱は二つあった。一つは西インド諸島における砂糖植民地の確保であり、いま一つは中国茶の支配、あるいは植民地における茶樹の栽培とその生産・確保であった。こうして紅茶帝国主義は一つは西インド・大西洋方面へ、いま一つは東洋へと、東西に両翼をひろげたグローバルなスケールで展開されてゆくのである」(1980 中公新書 角山栄「茶の世界史」)

 また、コーヒーと砂糖は、西インド諸島とアフリカの悲劇もたらした。
 「18世紀末から19世紀はじめに活躍したフランスの小説家、べルナルダン・ド・サン・ピエールの言葉も、象徴的である。
 『コーヒーや砂糖が、ヨーロッパ人の幸福に欠かせないものかどうかはよくわからない。しかし、この二種類の作物が、世界のふたつの地域に不幸をもたらしたことは、確かである。まずアメリカでは、これらの作物を栽培するプランテーションをつくるために先住民が一掃され、それらの栽培に必要な労働力を獲得するために、アフリカからも人間が根こそぎ連れ去られたのである。……淑女が身にまとう綿布、朝食に供される砂糖、コーヒー……あなたがたの享受しているこれらの品物は、黒人の涙に濡れそぼち、彼らの赤い血に染まっている』と。」(1998 中央公論社 「世界の歴史25巻 アジアと欧米世界」)

 

【補足3 贅沢と資本主義】

 近代資本主義黎明期の自由主義思想家であるバーナード・マンデヴィル(Bernard  Mandevill  1670〜1733)は、不朽の名著とされる「蜂の寓話」(The Fable of the Bees)で、次の有名なくだりを残している。
 「おそるべき悪徳、これ以上呪われ、
  憎まれるべきもののない吝嗇は、
  あの高貴ある罪、消費の奴隷だ。
  奢侈は百万もの貧しき人々を
  養うことに役立っている。だが、
  かの不思議なる華美を誇る心根は
  さらに百万もの人々をとらえている。
  羨望と虚栄が産業を賑わせる。
  つねに嘲笑され驚嘆されているが、
  衣裳、住居その他もろもろの事柄で、
  流行におくれまいとする欲望は、
  商業の真の原動力である」
   (1987論創社 金森誠也訳 ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」)
 この「蜂の寓話」の副題は、「個人的悪徳が、公共の福祉」(
Private VicesPublick Benefit)とあるように、中世的束縛を脱して、自由な人間、利己的な商人活動が結局において公共の福祉をもたらすという考え方が、近代経済人の典型であることを働き蜂の世界に寓したものである。このマンデヴィルの思想は、アダム・スミスの「国富論」の根本思想の淵源とされる。

 

【補足4 ウィリアム・テーゼ】

 「世界で最初の工業化であったイギリス産業革命は、ひとことでいえば、黒人奴隷貿易と黒人奴隷制度の産物であった。黒人奴隷の血と汗をもって、この工業化は達成されたのだと力説したのは、トリニダード・トバコの独立運動を組織し、初代の首相として生涯その地位にあったエリック・ウィリアムズであった。奴隷貿易は、個々の船舶は難破することもあったとはいえ、数百パーセントにのぼる利潤をえることも少なくなく、その利潤が産業革命の財源となった。
 さらに、大西洋奴隷貿易は、実際には、植民地における砂糖や綿花の生産とそのイギリスへの輸入とも結びついており、いわゆる『三角貿易』のかたちをとっている。まず、イギリス(ロンドン、リヴァプール、ブリストルなど)を出航する船は、火器とアクセサリーのほか安価な綿織物などを携帯し、これをアフリカ西岸の黒人国家を相手に黒人奴隷と交換し、奴隷を積み込んでカリブ海にいたる。ごく初期はバルバドス島が拠点であったが、やがてジャマイカが拠点となる。ここでプランテーションの生産物(砂糖やタバコのほか、一部に綿花があった)を得てイギリスに戻る、というわけである。三角貿易は、綿花の輸入と綿織物の輸出をともに含んでいたので、奴隷貿易で急成長をとげたリヴァプールの後背地マンチェスターに、綿織物工業が展開した。したがって、資金と製品市場の確保、原料供給のいずれの面でも、奴隷貿易を核とする『三角貿易』こそが、イギリス工業化の起源であった」(1997 放送大学教育振興会 川北稔「ヨーロッパと近代世界」)

 

【補足5 原価計算】

「家内生産制度に代わって工場制度がはじまったとき、生産は企業家の指揮のもとにおかれるようになった。企業家は原価をこえる価格で生産物を売却することによって利益を得る目的で、賃金を支払い、原料を購入し、生産を管理した。かくして、家族的生産者、自給的生産者の場合には無かったところの原価計算の必要が、企業家の場合には生じてきたのであった。前者は賃金の支払いをせず、その所得を以ってみずからの賃金とみなしたが、後者は自己の支出を計算し、これを所得と対置してみないでは、自分がどの程度に成功したかを知ることもできぬし、製品原価を賢明に定めることもできないわけであった。それゆに、原価計算は産業革命の一つの産物である。
 この大変革期に新しく生まれた工場制度は、機械を動力の使用にともなう計算問題を発生せしめたと同時に、また新たなる簿記問題をも発生せしめたのであった。けだし、工場制度の出現は、生産物そのものが生産者の報酬となる直接消費生産形態から、賃金を生産従業者の報酬とし、利潤を企業主の報酬とする商業的集中生産形態へ改変することにほかならなかった。工場制度から生まれた原価計算の問題は、実は何が利潤であるかという損益計算の問題であり、また、自由競争による仕事の獲得にかかわる一つの価格決定問題であったのである」(1978同文館 片野一郎訳「リトルトン会計発達史〔増補版〕」)

 

【補足6 複会計制度】

 「複会計制度は、イングランドの企業すべての会計方法に強制的に適応されたものではない。むしろ、それは慣例的に『公益企業』という性格をもった企業群のためのものであった。この制度は、単会計制度の貸借対照表が優れた会計用具であることを明らかにするように一定の限界をもっている。この限界は、おそらく減価償却の領域でもっとも明らかだろう。理論的には、鉄道会社または運河会社の資産は、けっして取り替えられる必要がない。なぜなら、鉄道や運河は、つねに効率的な運行ができる状態で維持されていなければならないからである。したがって、複会計理論では、毎年行われる資産の部分的更新が恒久的な敗壊(物理的損耗)を防ぐので、固定資産はけっして取り替えられない。もちろん、そのような完璧ともいえる関係は、実際に企業活動の事実から見れば否定される。陳腐化という経済的現実一つをとってみても、複会計制度の根底にある主要な理論的信条は破壊される。そのような理論的基礎が不適当にもかかわらず、なお複会計制度は、実践的な会計的判断を適用することで、有用な商業的用具でありうる。……………
 複会計制度は、株式会社取締役に委託された資本資金に生じた経緯を正確に報告するという、その主要な使用目的の達成にうまく成功した。この成功は、減価償却という重要な会計領域の報告を度外視ないしはあいまいにするという犠牲を払って達成されたものである」(1993同文館 小澤康人・佐々木重人訳V・K・ジンマーマン「近代アメリカ会計発達史」)

 

【補足7 レッセ・フェール Laissezfaire

 「レッセ・フェール Laissezfaire」というフランス語は、英語では「Let us alone ほっといてくれ」である。いわゆる「自由放任主義」の主張である。
 フランスのルイ14世時代、蔵相コルベールによる重商政策は、輸入をできるだけ防止し、国内工業品の輸出を促進し、金銀を国庫に溢れさせようと徹底した保護干渉政策を行った。このため、都市の輸出工業、特に奢侈産業は栄えたが、逆に農村の産業は衰退したうえ、年々倍加する重税によって農民は土地を失い労働者に転落し都市に流入していった。
 ルイ15世時代になって、経済表で有名なケネーを中心として、重農主義という経済思想体系を起こした。重農主義の主張は、農業に従事するものだけが生産費用を引き去った純収益をあげる真の生産階級であるが、都市の工商業者は、単に原料を加工したり商品を流通させるだけで剰余生産物を出さない不生産階級であるとした。さらに、重農主義者は、ルイ14世以来とってきた重商政策による保護干渉政策を一般産業の生産力に対する重大な弊害であるとして、産業活動を自由に放任することにより、国富はおのずから増進すると説いた。このときに盛んに「レッセ・フェール 
Laissezfaireなさせよ」「レッセ・パッセLaissezpasserゆかせよ」と叫び、この自由主義の標語は、多年封建的束縛と重商主義的干渉に悩まされてきた新興工業資本家の要求と一致し、産業界の合言葉となった。


 

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