第一部 第3章
株式会社の誕生と簿記の進化
簿記が進化し会計理論を生み出す背景には、株式会社の誕生がある。リトルトンは、「十五世紀末葉に出現した簿記が、その後数世紀にわたり惰眠をむさぼっていたことは事実である。それが覚然として目覚めたのは十九世紀末葉のことである。十九世紀末葉は十五世紀末葉にもまして異常な産業の勃興の時代であった」と、15世紀と19世紀を重視している。15世紀とは複式簿記の出現を意味し、19世紀とは株式会社が発展・大規模化し、固定資本の会計問題が会計理論の進化を促した時期を意味する。
株式会社は、永久資本制と有限責任制をその特徴とするが、この特徴点こそが「資本と利益の峻別」を最大のこだわりとする現代の会計理論へと導くのである。
1、簿記から会計へ
パチオリが、その著「ズンマ」において簿記を体系化したのが、今から約500年も前のことである。
このパチオリの簿記の基本は現在でも変わっていない。パチオリ時代の方法は、連綿として現在にも通用している。大きく変化しているのは、勘定の種類である。
これは、企業の経営規模の拡大に伴って、経営の判断を記録資料に求め、さらに明細資料を勘定の分割に求めた結果である。
簿記の基本は変わっていないが、パチオリの簿記書に大きく欠落しているものがある。それは、会計理論に関する部分である。会計理論に関しては、19世紀に入ってからようやく開花する。
会計理論問題に着目し始めるのは、株式会社が誕生し、「永久資本制」及び「有限責任制」が導入され、「資本と利益の区分の問題」及び「期間問題」に触れたこと、さらに、産業革命により、経営の大規模化が進展し、一企業の会計の問題の及ぼす「利害関係者の増大」が理論問題に触れる大きな理由でもあった。
社会経済の大躍進に、株式会社制度が大きく貢献し、この制度の特質によって、会計の歴史の舞台は、イタリアからオランダ・イギリスに移る。
この、会計の舞台の変遷は、西欧歴史における“アルプス越え”にあたる。
「古代社会は南の世界つまり地中海世界であり、中世社会として形成されたヨーロッパ世界というのは(アルプスの)北の世界だということ、したがって“ヨーロッパの目”でみれば、古代から中世への移行というのはただ直線的に連なっているのではなく、そこにはアルプスの南(地中海世界)という生活圏からアルプスの北というまったく別個の生活圏に転換するという一種の生活革命が、したがって社会革命があるのだという実感を抱いたことです。歴史学的に言えば古代・中世の断絶観です。ギリシア・ローマの文化の継受はこういう社会的転換のうえにおいてなされたことです。一般にヨーロッパと言えば西と東という分け方をしますが、すくなくとも歴史的にいえば、それ以上に北と南という区分の重要なことを承知したいものです。西欧というのは北だということになります」(1997
有斐閣新書
安藤英治編 「ウェーバー プロティスタンティズムの倫理と資本主義の精神」)
会計の舞台は、イタリアからアルプスを越えてオランダ・イギリスに移るのであるが、歴史的にはスペイン・イベリア半島を経由する。
2、大航海時代の到来
会計の歴史の舞台が変わるのは、コロンブスのアメリカ発見(1492)、ヴァスコダ・ガマのインド航路発見(1498)、マゼランの世界一周(1519〜1522)などによって地球球形説が証明され、さらに彼らが持ち帰った香辛料や象牙、木綿、砂糖、絹などの交易が巨利を生んだことが誘因となり、大航海時代が幕開けになったという時代背景が存在する。大航海時代の到来は、資本主義時代の幕開けを意味する。
「1492年にコロンブスがアメリカを発見し、1488年にディアスによって発見された喜望峰を通って、ヴァスコ・ダ・ガマが1498年カリカットに到着する。1500年にカブラルがブラジルを発見し、その後マゼランがいわゆるマゼラン海峡を通って太平洋に出る。このとき、資本主義の『世界システム』の幕が切って落とされた」(1993
講談社現代新書
佐伯啓思「『欲望』と資本主義」)
この大航海時代の到来は、1453年に東ローマ帝国が滅亡すると同時にオスマン・トルコがシリア、エジプト方面に進出し、地中海貿易の東方ルートが破壊されたことによるものという。
当時の、フランス、スペイン、ポルトガル等の諸国が外国と交易をする場合は、地中海を経由するほかなく、イタリア諸都市が地中海貿易を独占していたことは、これらの諸国がもっとも喜ばないところで、地中海を通らない新航路の開拓を希望していた。
オスマン・トルコによって地中海経由の東方ルートが破壊されたことは、これらの諸国の交易は、必然的に大西洋及びアフリカ西岸経由でインド洋に達する航路の開拓へと導くのである。
さて、この大航海時代の到来と株式会社の誕生はどう結びつくのか。
その理由の第一は、大航海による交易は多額の利益をもたらしたこと。すなわち、香辛料は肉食中心のヨーロッパ人の食卓には欠かせないものであり、木綿、砂糖、薬種、絹等は奢侈品であるとともに必需品であったことから、これらの交易は、多額の利益をもたらしたのである。
「彼らが東方への航路を探し求めたのも無理はない。そこには、貨幣が…・実にたんまりの貨幣がころがっていたのだ。ヴァスコ・ダ・ガマの最初のインドへの航海では、利潤は実に6000%だった!
ほかの船が、これと同様に危険ではあるが利益の多い航海をしたことも不思議ではない。商業は飛躍的に発達した。ヴェネチアはこれまでエジプトのサルタンから、毎年42万ポンドの胡椒を買付ていたにすぎなかったのに、いまではポルトガルへの帰航の途上にあるただ一艘の船が20万ポンドの胡椒を船倉のなかにつみこんでいたのだ!古い東方ルートがトルコ人に奪われたことはもはや問題ではない。ヴェネチア人がひどい高価格を要求することももはや問題ではない。喜望峰を経由する東方ルートは、商人たちにとってトルコ人の好意を不必要なものにし、彼らにヴェネチアの独占を打ちやぶらせたのだ。いまや商業の流れの方向が変更された」(1953岩波新書 小林良正・雪山慶正訳 レオ・ヒューバーマン「資本主義経済の歩み(上)」)
肉食を中心とする当時のヨーロッパにおいては、香辛料は欠かせなかった。中世紀末のヨーロッパでは、「風に飛び散らないように窓を閉めて大商人が一粒一粒、胡椒をピンセットで数えた」(1989
講談社現代新書
浅田實「東インド会社」)ほど香辛料は貴重なものとされた。
当時のイギリスでは、毛織物の衣服が主流であり、インドから輸入された木綿(キャラコ:カリカット製の布という意味)は安価で清潔であったことから爆発的に売れ、過熱ぶりにキャラコ禁止法が制定されたほどである。
この商業の本街道が、地中海から大西洋に移り、ポルトガルやスペイン、さらには、オランダやイギリス、フランスなどが商業上優位に立つのである。歴史上この時代を「商業革命」(commercial
revolution)と呼ぶ。
第二の理由は、宗教の呪縛が解かれたことである。「商業は詐欺行為を含み霊魂の浄化に危険である」とする考え方が、やがて自らの教会活動資金が必要になると「商売でも利得を強く貪らないかぎり有用な産業と認める」と宗旨変えを行った。
これらのことによって、人々の射幸心はいやがうえにも増幅され、宗教の呪縛からも開放されたお金は金櫃から外に飛び出したのである。
しかし、当時の外国貿易は、はなはだ未知の大西洋や東インド洋に乗り出すものであったから、生命身体に危険を及ぼし、また失敗したら元も子もなくなる一六勝負であった。非常に魅力的な事業ではあったが、これらの危険な事業に自ら出て行こうとするには勇気が必要であった。儲けたいけれども危険はいやだ。出て行こうか止めようか。この板挟みの状況の解消策はすぐ見つかった。すなわち、「金はあるが自らは危険な目にあいたくない者」と「金はないが度胸と勇気がある者」の組み合わせである。
この一六勝負に伴う危険と資本の冒険を同時に緩和する方法として考え出されたのが、ジョイント・ストック・カンパニー(Joint
Stock Company
株式会社)である。
ジョイントは共同を、ストックは商品・在庫を、カンパニーは組合・会社を表す。
「わが国の『会社』というテクニカル・タームは、福沢諭吉が造語したイギリスの『カンパニー』(Company)の訳語である。ところが、カンパニーというタームはラテン語の『共に』を意味する『クム』と『パン』を意味する『パニス』とから造語されたということであり、『共にパンを食べる』という語義から『会社』という意味に転じたもののようである。つまり、食事を一緒にするということは、仕事の相談をする仲間ということにもなり、ついには、共同で仕事をすること自体までも意味するようになったわけである。
したがって、『カンパニー』とは本来共同事業形態を指すものであったが、いつのまにか、共同事業を遂行する法的組織形態たる『会社』を意味するまでになったのである。このことは、会社という共同事業形態を理解するに際して、さまざまなヒントを提供する。すなわち、第一に、会社とは本来人間の共同事業組織であること、第二に、共同事業組織のうちでも、パートナーシップ(組合)とは異なり、特に『会社』とよばれる共同事業形態であること、第三に、カンパニーの本来的語義は『仲間』ということであるが、それは団体的な一体性を意味すること、等々である。フランス語のソシエテ(societe)やドイツ語のゲゼルシャフト(Gesellschaft)もほぼこれに近い語義をもつものである。
他方、アメリカでは、株式会社を意味するタームとして、コーポレーション(corporation)が用いられることにも注目しておきたい。このタームは、人格ないし団体を意味するラテン語のコルプスを語源とし、イギリス法において次第に法人を意味するものに転化したが、その含意は『永続的承継』(パーペチュアル・サクセッション)である。つまり、コーポレーションとは、やや誇張した表現を用うれば、『永遠の生命をもつ人』なのである。
こうしてみると、日本語の『会社』という語感からは、せいぜいのところ、『団体性』を読みとることができるにすぎないが、原語をみると、そこには『継続性』という意味がこめられていることに気がつく。それが『法人』という観念を生み出したのである」(1994
日本評論社
奥島孝康「会社法の基礎〜事件に学ぶ会社法入門」)
3、株式会社の誕生
「地理上の発見」を契機に、香辛料、綿、絹などの「アジアの物産」を求めて、さらにはこれら交易のための支払手段としての「新大陸の金」を求めて、「ヨーロッパの欲望」は堰を切ったのである。
こうした欲望の膨張を可能にしたのは、冒険企業家である大商人達であったが、東方交易は、莫大な利益を生むことから、次第に官民あげて取り組むことになる。
オランダ、イギリス、フランス、ドイツ、スウェーデンなどの諸国がジョイント・ストック・カンパニーである「東インド会社」を設立し、東方交易に乗り出す。
17世紀に入ると、こうした冒険的商人は、国家の保護を受けた総合商社のような組織へ、さらには独占利潤によって特徴づけられる巨大会社へと変身してゆくのである。
この中でも特に有名なのは、オランダ、イギリスの東インド会社であり、両者の間で熾烈な競争を展開する。
先んじたのは、オランダ東インド会社である。オランダでは、1595年から1602年にかけてわずかな年代の間に東インド会社が14もできている。これらの会社は、競い合って胡椒などのアジアの物産を買い漁った結果、現地での買い入れ価格は上昇し、逆に本国での販売価格は下落したのである。このままでは共倒れの危険性があることから、1602年に「連合東インド会社」として統合されたのである。この連合会社が、株式会社の起源といわれる。
オランダ東インド会社では、出資は10年間固定され、その間の株主の退社は許されておらず、さらには株主の責任が有限責任であったことも近代的性格を帯び、その後200年間存続したのである。そして、このオランダ東インド会社は、ヨーロッパ諸国の株式会社のモデルとされた。
イギリス東インド会社は、初期には個別航海ごとに清算を行うはなはだ当座的な性格を帯びていた。これでは、すでに永続的な会社組織となっていたオランダ東インド会社との競争に勝つことができない。そこで、建て直しを行ったのは清教徒革命の立役者であるクロムウェルである。すなわち、1657年にオランダと同じような永続的な企業組織として出発することになったのである。
ちなみに、クロムウェルは航海条例(1651
Navigation Act)を発し、「諸外国の貨物は、イギリス又はその植民地以外の船でイギリスに輸入してはならない」という重商主義的保護政策を実行した。目的は、オランダ商業と海運業に打撃を与えるためであった。この航海条例によりイギリスとオランダの間に海上の覇権を争う戦争が展開された。いわゆる、英蘭戦争である。この英蘭戦争の結果、イギリスの海上権は発展し、オランダの海運業はひどく萎縮してしまったのである。
「印度貿易はその後も続いた。そして、その間に永久資本を発生せしむべき経済的気運が一段と促進された。というのは、さらに有利な長期的投資条件をもったオランダ東印度会社との競争がするどく対立してきたのであった。こうして、イギリス東印度会社もこれと同様な長期投資の必要にせまられるにいたった。その上、航海のたびごとに不完全な清算が続いてゆくので、毎回の『残高』の整理と株主の持分との関係がたえず混乱していた。当時の簿記技能は、何回もの貿易清算について、資産と利益をその都度たくみに処理し得る域にはまだ達していなかった。このようにして、合理的経営を行うためには、その要件としてどうしても長期的投資政策が必要になってきたのである。
このような事情からやがてイギリス東印度会社は無期限株、すなわち今日でいえば、永久資本の原則をとるに至ったのである。1657年にイギリス東印度会社は新法人認許条例を得た」(1978 同文館 片野一郎訳「リトルトン会計発達史〔増補版〕」)
オランダ、イギリス両東インド会社が大躍進した工夫は、「永久資本制」であった。永久資本制という継続システムの確立が、配当システムの完成へとつながる。従前の個別航海ごとの清算方式では、元手と利益の区分が未分化でも差し支えなかったのであるが、永久資本制のもとでは、利益部分のみからの配当へと、システムの変更を余儀なくされたのである。
「法人認許条例が出て4年後1661年のころ、東インド会社の総監督は、将来株主に対する分配は、それまで行われたような持分の分配divisionsによることを廃し、会社の獲得した利益によってなす(すなわち配当、dividends)よう改めるべきことを述べた点である。これを言いかえれば、当時すでに『資本』と『収益』とを区別することが可能であったのである。否な、必要でさえもあったのである。かくのごとくして、近代企業の拠って立つところの、かつ、近代会計がその最大責任をとっているところの資本と収益の区別ということが、次第にはっきり姿をあらわしてきたのであった」(1978同文館 片野一郎訳「リトルトン会計発達史〔増補版〕」)
4、永久資本制
永久資本制とは、出資金の固定を意味する。出資金を返還しないかわりに定期的に利益の分配を行う。当座的企業の場合のように、個別航海の都度、出資金の返還と利益の分配が行われるのとは対照的である。
ただし、出資金を返還しないことは、財産権の剥奪になるから、自己の持ち分を企業に参加を希望する人に譲渡することができるようにする。すなわち、財産権の剥奪のバーターとしての譲渡性の保証である(出資金の固定と譲渡制の保証はセット)。
出資を受けた企業は、元手を返還することなく、企業の意志で将来を見越した投資することができるから、基盤の安定が図れる。
しかし、ここに当座企業の場合にはなかった新たな問題が発生する。その第一は、出資金(資本)の性格にからむ問題である。
集められた資本は、長期投資政策の必要性から永久資本制に切り替わり、資本は企業の発展の土台として、「維持拡大すべきもの」としての性格が新たに賦与された。これは、当座的企業の場合のように、解散によって整理・分配されるものとは大いに異なるものである。
第二に、いかなる基準で出資の見返りを行うのかという「利益の配分基準の問題」である。当座的企業の場合は、企業の解散時に純財産の配分をすればよいから特段の問題は生じないが、永続的企業の場合は倒産を別として、清算を予定していないから、出資の見返りとしての利益の配分をいかに行うか。清算による分配方式とは異なった計算方式を採用する必要性が出てきた。
そこで、「維持拡大すべき資本に付加された価値を利益」とし、出資者に対する見返りは、企業が獲得した利益とするように改められたのである。
「資本と収益を区別することの重要性は、当時すでに経済的側面からいちじるしく表面化してきていた。経済上の必要から、耐用命数の長い資本財を使用するようになったことは、不可避的に資金の長期投資を必要とした。この永久投資に株式の委譲性が手つだって、ここに資本と収益の明瞭な分離が経済上必然的な運命をもって登場してきたのであった」(1978 同文館 片野一郎訳「リトルトン会計発達史〔増補版〕」)
ここに、利益算定基準はいかにあるべきかという、企業会計における最大の課題である「資本と利益の峻別」の問題が生じたのである。
さらに、当座的企業が個別的・不規則の随時利益の分配であるのに対し、永久資本を採用する企業においては「規則的・定期的な配当」のための「期間利益」の計算の問題が生じたのである。
かくして、永久資本制の採用によって、「資本と利益の峻別」「期間利益の計算」という、当座的企業にはなかった会計上の問題が生じたのである。
5、有限責任制
永久資本制は、企業会計に「資本と利益の峻別」という命題を与えたのであるが、さらにこの命題に拍車をかけるのが株式会社の「有限責任制」の採用である。
有限責任制は、多数の出資者を募り、もって企業を発展拡大するために考えられた制度である。
すなわち、企業が倒産した場合、企業の債務が出資者(株主)の私有財産にまで及ぶことになれば、出資者のリスクは計り知れないものがある。これでは株式会社に対して出資することに誰もが躊躇する。
そこで、株主有限責任、すなわち出資額を限度としてのみ責任を負う(つまりは、株主は、企業が倒産した場合、株券は反古と化すだけ)ことにすれば、誰もが安心して出資に応ずることができる。
有限責任に対立するのが無限責任である。無限責任の概念は、ローマの十二表法において次のように規定されているという。穂積陳重「復讐と法律」(1982
岩波文庫)によれば、「もし債務者自ら弁済をなさず、また代償する親戚、知人がいない場合は、債権者は債務者を自家に拘引し、60日間15ポンド以下の鉄鎖につなぎ、毎日少なくとも1ポンドの小麦を与え、もって弁済を待ち、その最終の月において、引続き三市日その債務者を民会に連行して、声高にその負債額を公告し、慈悲深き代償者の出てくるのを待つ。もし第三市日において身受人が現れなかった場合は、裁判の決定後、債権者は債務者を自由に処分することができた。例えば、殺すこと、奴隷として売ること、もし数人の債権者があるときは債務者の体を割いて分割することも可能であった」という。現代では、まさかこのような自力行為は認められていないが、一株でも保有したが故に全財産を失ってしまうことがあるというのが無限責任の概念である。
イギリスでは、17世紀に株主の有限責任制が法定されるようになり、次第に近代的株式会社の特質を備えるようになる。
株式会社の大きな特質の一つに、会社自体は株主から分離した存在であるという点にある。すなわち、「法人」格の認知である。株式会社は、「金の力と人の力が組織化された集合体」であり、法的人格を賦与されたものである。この特質は、もともと、社会が創造した組織体、例えば「組合」「ギルド」「教会」などの集合体の「それ自体の活動」を、そのパートナーとは切り離されたものと認めるという社会的合意の積み重ねから、法律が後から認知したものに過ぎない。
「有限責任の観念は株式会社には当初から内在していたことは確かである。だが、結社の自由と有限責任観念が法的規制力を得るについて、その先駆をなしたものは中世の組合売買
en
commenditeであった。この商取引形態が十二世紀・十三世紀のイタリー都市国家にさかんに行われた理由については、当時、教会は利子をとることを快く思わなかったし、また、金のある貴族もみずから商売をするのは自分の品位にかかわることだと思っていたからである。しかし、教会は儲けることに別段抗議するということはしなかったから、貴族たちは自分の良心に反することもなく、しかも、自分の威厳をも傷つけずに金をもうける手段として、出資額以上に責任を負わぬという条件で信用のおける商人に金銭をゆだね、これに対して商人の冒険的組合事業による利益のうちから分前をもらう、という方法をとった」(1978同文館 片野一郎訳「リトルトン会計発達史〔増補版〕」)
かくして、有限責任制度は「夏の霧のように、漠然としていた数世紀にわたるもろもろの思考もろもろの関係」(リトルトン)のうちに、法的に整備されてきた。
この有限責任制度の採用は、企業や株主にとっては有利な反面、企業に対する債権者にとっては、はなはだ不利にはたらく。すなわち、債権者にとっては、企業の財産が唯一の担保となるからである。企業の財産が債権額に見合う分が保全されていない限り安心して取引ができない。
せっかく法的に整備された有限責任制度であっても、取引不在では致し方ない。そこで、債権者の財産保全のための法的整備が図られることになる。すなわち、「債権者保護を基調とする商法会計」である。
後述するフランスの商業法規(1673 サヴァリー法典)は、債権者保護を明確に規定し、後にナポレオン法典に引き継がれ、世界中にその考え方が広まり、日本の商法の原型となるものである。
債権者保護を何に求めるか。
それは、「企業の経済力」であり、「資本の維持・充実」である。
しかし、資本の概念は、実体のない「数的な概念」であるから、つまりは会計的に算定される資本の数額の維持・充実に他ならない。
かくして、「資本配当の禁止」という法律的要請が「資本と利益の峻別」という会計命題に加わることになるのである。
貨幣としての資本は、そのままの姿では増殖しない。マルクスのいう「ずるい下心」をもった変化体、例えば商品や製品、サービスなどに変化しなければ増えない。変化することが、動かすことが自己目的になる。従って、単なる元手としての資本の変化体なのか、増殖分としての利益なのかという渾然状態を数的に区分けする必要が出てくる。ここに会計理論の登場が促されたのである。
永久資本制の採用による「利益の規則的・定期的配分」という経済的要請から、「資本と利益の峻別」という会計命題を生み出し、さらに、有限責任制の採用による「資本の維持・充実、資本配当の禁止」という法律的要請から、この会計命題を強化するのである。
企業が維持すべき資本の額が法定され、維持・充実されることによって、債権者は有限責任制を採用する株式会社と安心して取引できることになる。 有限責任制のもとにおける債権者の法的保護は、会計上は資本の維持・充実を頂点に展開されるが、この他に、「商号による開示」「事業の目的の定款絶対記載」等が整備されている。
商号による開示は、有限責任であることを商号に示すことによって、利害関係者、特に債権者に危険を予知させるのである。日本で言えば「株式会社」、イギリスでは「Ltd」(limited
限定・制限の意味)、アメリカでは「Inc」(Incorporated 法人組織の意味)などがそれである。
これで、株式会社と取引しようとする当事者、すなわち将来の債権者は、この商号をみることによって「万一のときは会社の財産しかあてにできない」ことが予知できる。
また、「事業目的の定款記載」については、この目的をみることによってリスクの多少が予知することができ、取引の判断材料とすることができる。
イギリスにおいて「Ltd.」を商号に付すことについてのいきさつについては次のようにいわれている。
「1834年当時、議会の委員会においても、株主有限責任に反対する声は大きかった。この反対論に対する対案として出されたのが、商号にLtd.を付すという案であった。この案の考案者はBramwell氏で、1856年ついに株主有限責任に関する法案が議会を通過したさい、『私の墓石にもLtd.と書いて欲しい』といったといわれている」(1987中央経済社
熊野実夫「企業会計入門」)
【補足1 商業革命
Commercial Revolution】
地中海時代は中世で終わりを告げ、イタリヤの諸都市が近世に入って沈滞し、それに代わりイギリス、フランス、オランダなどが新大陸や東洋・南洋方面に発展し、いわゆる大航海時代の到来によって全世界の海と陸が連結され、真の世界史が幕開けとなる。この世界史の主役の交代を“アルプス越え”と称する(もっとも、歴史は一直線ではなく、スペイン、ポルトガルのイベリア半島を経由するが、会計学の進化の過程を述べる場合にはイベリア半島経由を必要としない)。このアルプス越えによって、営利組織たる株式会社組織が発明され、簿記が会計学へと進化していくのである。
さて、大航海時代の到来によってもたらされたヨーロッパ商業の変質を商業革命(Commercial
Revolution)と呼ぶが、この商業革命は、産業革命に先行する重要な経済発展の過程であるとされている。
商業革命は、東インド会社などによって新旧大陸間の物資の交流(カントリー・トレード)が行われ、ヨーロッパ人の衣・食・住のあらゆる方面に大きな影響を与えた。さらには、ヘゲモニー国家(覇権国家)であったオランダから、イギリスへとバトンはタッチされる。すなわち、パクス・ブリタニカ(イギリスの平和)が実現する。
このあたりの歴史については、中央公論社
世界の歴史25
「アジアと欧米世界」(1998)で次のように述べている。
「17世紀後半以降、ヨーロッパの流行や嗜好は、急速に変化する。ポルトガル人にかわってオランダ人がアジアで独占することに成功した香料は、急速に人気がなくなり、茶や砂糖がもてはやされるようになった。とくにアジア産の繊維製品が、強烈に中・上流階級からなるマーケットにアピールした。この現象は、イギリスでも『キャラコ狂い』とか『インド熱』などとよばれたが、むろんそれは、全ヨーロッパ的な現象でもあった。アジア産キャラコ(綿織物)や絹織物の流行は、いわば色鮮やかな、軽い衣料の流行を意味した。このように時代の流行が圧倒的に薄手の繊維品に傾いていったことは、旧毛織物に専門特化したオランダにとっては、不幸であった。
イギリスでは、キャラコの大流行によって、危機に陥ったロンドンの絹織物業者を中心に(より強力な毛織物業界がバックにあったという説もある)、街頭デモや議会への働きかけが行われた(「キャラコ論争」)。その結果、1700年にはキャラコ輸入禁止法が、1720年にはキャラコ使用禁止法が成立した。しかし、このような禁止令にもかかわらず、イギリス人の『キャラコ狂い』はおさまらず、それが産業革命期の綿工業を引き出してゆくのである。 世界商業の面でもオランダは不運であった。そもそもオランダのヘゲモニー成立過程にあった1623年、当時、世界商品の中心を占めた香料を求めてインドネシアに入ろうとしたイギリス東インド会社は、アンボイナでの抗争でオランダ人に敗れ、インドネシア水域から追放された。やむなくイギリス人は、インド亜大陸に拠点をおくことになったのであった。つまり、当時、もっとも商品価値の高かった香料は入手できず、綿布産地としてのインドに定着することになったのであった。しかし、ヨーロッパにおける流行の変化が、かえってインドに定着したイギリス人に有利に作用し、オランダが守ろうとした香料は、オランダがみずから生産した旧毛織物とともに、マーケット・アピールを失っていったのである。
このような流行の変化がなぜ起こったのかはとても難しい問題で、はっきりとは答えられない。ただ、香料を大量に使うことが『上流』のしるしであった時代は、ピューリタン革命の時代を境に、完全に終わりをつげた。農業革命が進行して、冬季にも家畜が飼えるようになったため、食肉保存の必要性が少なくなった結果、『臭い消し』に胡椒や香料を使用する必要が少なくなった、という説もある。オランダの経済体質というか、経済文化とでもいうべきものが、急速に『陳腐化』していったのである」
イギリスにインドから木綿が輸入されると、人々は競ってこの商品を身につけた。これをインド狂い(Indian
Craze)という。このような成り行きに驚いたのは毛織物業者であった。慌てて木綿の輸入を禁止する法律「キャラコ禁止令」が1700年と1720年の二度にわたってだされた。これは毛織物業者の政府に対する圧力によるものとされるのであるが、キャラコ(インド製の綿花)は、それまでの麻織物や動物の皮革、毛織物の衣服に比べ、清潔でしかも染めが容易、麻よりも簡単に手機で織ることができるなど数々の優れた特性から、結局は木綿の魅力を法律で排除することはできなかった。
どれほどキャラコが当時の人々を魅了したか。柳田国男「木綿以前の事」(1979
岩波文庫)では、素材としての優れた特性以上に、毛皮や毛織物にはない「生活の味わい」が木綿にはあったことを次のように述べている。
「色ばかりかこれを着る人の姿も、全体に著しく変わったことと思われる。木綿の衣服が作り出す女たちの輪郭は、絹とも麻ともまたちがった特徴があった。そのうえに袷の重ね着が追々と無くなって、中綿がたっぷりと入れられるようになれば、また別様の肩腰の丸味ができてくる。・……それよりも更に隠れた変動が、我々の内側にも起こっている。すなわち軽くふくよかなる衣料の快い圧迫は、常人の肌膚を多感にした。胸毛や背の毛の発育を不必要ならしめ、身と衣類との親しみを大きくした。すなわち我々には裸形の不安が強くなった。一方には今まで眼で見るだけのものと思っていた紅や緑や紫が、天然から近よって来て各人の身に属するものとなった。心の動きはすぐに形にあらわれて、歌うても泣いても人は昔より一段と美しくなった。つまりは木綿の採用によって、生活の味わいが知らず知らずの間に濃やかになって来たことは、かつて荒栲(あらたえ)を着ていた我々にも、毛皮を被っていた西洋の人たちにも、一様であったのである」
素材の変化は当然のことながら、服装の変化に影響を与えただけでなく、綿花から糸を紡ぎ、綿布に織り上げる過程での蒸気機関の利用が、いわゆるイギリス産業革命(Industrial
Revolution)の導火線となり、近代資本主義を確立するのである。
【補足2 世界システム論と法体系】
近代世界は一つのまとまった構造体(システム)をなしているとする近代世界史の見方を「近代世界システム論」という。すべての国の動向が、セパレートな動きをしてきたのではなく、「一体としての世界」を形成してきたとする見方である。システム論によれば、例えばイギリスの先進性とインドの後進性をセパレートな関係ではなく、「イギリスが工業化されたがため、その影響を受けたインドは容易に工業化されなかった」と考えるのである。 さて、世界システム論によれば、システムの中核となり、圧倒的に強力になり他の諸国を睥睨するようになった国を「ヘゲモニー(Hegemony:覇権)国家」と呼ぶ。近代世界システムには、ヘゲモニー国家は三つしか存在しなかったとされる。一つは「17世紀中頃のオランダ」、二つは「19世紀中頃のイギリスの平和、いわゆるパクス・ブリタニカ」、三つは「第二次世界大戦後からヴェトナム戦争までのアメリカ、いわゆるパクス・アメリカーナ」。アメリカは西ヨーロッパの延長であるから、要するに近代の世界システムは、いわゆる大航海時代以降、西ヨーロッパを中核として成立してきたのである。 一方、近代法体系は、フランス及びドイツ等の「大陸法系」、イギリスおよびアメリカの「英米法系」の二大法体系であるが、いずれもが西ヨーロッパの体系である。淵源は「ローマ法」とされるが、それを近代法体系にしたのは西ヨーロッパの諸国である。このことは、世界システム論と大いに関係がある。つまり、ヘゲモニー国家が法体系も制覇したのである。
なぜ西ヨーロッパが世界の中核になり得たのか。近代を生み出したとされる火薬や羅針盤や印刷術などの技術を生み出したアジア、特に中国がなぜ中核となり得なかったのか。なぜ「アジア世界システム」が生まれなかったのか。
川北稔「ヨーロッパと近代世界」(1997
放送大学教育振興会)は、このことを「競争」の次元で次のように説明する。
「中華システムとヨーロッパのシステムには、決定的な違いが一つあった。すなわち、前者は政治的統合を欠いた経済システムであったということである。中華システムの『中核』は、明であれ清であれ、とにかくユーラシア大陸の東部一帯を一まとめにして支配する『帝国』となったのに対して、西ヨーロッパは、まさしくそのような統合を欠き、『国民国家』の寄せ集め(インターステイト・システムに組み込まれていたとはいえ)にすぎなかったのである。帝国は帝国内部での武力を独占し、武器の浸透や発展を阻止する傾向が強い。これに対して、国民国家の寄せ集めであったヨーロッパでは、各国は『競って』武器の開発をすすめた。このことが、16世紀における東西の武力の圧倒的な差となって現れたとみるべきだろう」
【補足3 オランダのヘゲモニー衰退の真実】
「オランダ人は、カリブ海域にサトウキビと奴隷を持ち込み、奴隷制プランテーション展開のきっかけをつくった。にもかかわらずオランダは、結局、奴隷と砂糖の貿易を基軸とする『大西洋経済』を本格的に確立することには成功しなかった。最大の理由は、西半球にはオランダ領の植民地が、ニューヨーク(当時のニューアムステルダム)を含む北米のニューネーデルラントと南米北部のスリナムをのぞいて、事実上、存在しなかったことである。
オランダが西半球に『砂糖殖民地』を確立しえなかった理由は、ジャワの総督となったクーンがつまずいたのとまったく同じ、あの石であった(筆者注;ジャワを植民地しようとオランダ人を入植させようとしたが本国の人口が少なく、結局果たせなかった)。つまり、『移民』を大量に供給するには、本国の人口が少なすぎたという事実である。イギリスは、17、18世紀の大西洋帝国形成の過程で、おそよ60万人程度の白人移民を送り出し、フランスもまたかなりの人間を送り出したが、オランダにはとてもそのような余裕がなかったからである。
むろん、問題は、絶対的に人口が少なかったということだけではない。イギリスからアメリカにわたった白人移民の大半は、『年季奉公人』とよばれる人びとであった。渡航費や食費を免除してもらうかわりに、アメリカで移動の自由のない労働力としてプランターに売られた人びとである。彼らは、失業して食い詰めた貧民や浮浪者、教区役人や義父に売り飛ばされた孤児などであり、流刑となった犯罪者も5万人はいたとされている。合衆国を建国したアメリカ移民が、宗教の自由を求めた中産的なピューリタンだなどというのは、後代のアメリカ人、とくにWASP(白人でアングロサクソン系のプロテスタント)としてしられる支配階級のつくり話にすぎない。フランスでも、カリブ海にわたった人びとの多くは、『アンガージェ』とよばれた年季奉公人であった。世界システムのヘゲモニーを握り、ヨーロッパで断然福祉の水準が高かったオランダでは、多くのイギリス人がしたように、生きるための『最後の手段』としてアメリカにわたって、期限付きとはいえ『白い奴隷』となる者など、多くはなかったのである。
こうして、ヘゲモニー国家オランダは、まさにヘゲモニー国家であったために、『定住』を必須条件とした西半球には大きな植民地を維持しつづけることができなかった。しかし、17世紀末から18世紀は、世界経済がまさに『奴隷・砂糖経済』として展開しようとしていた時期だけに、このことは致命的であった。オランダのヘゲモニー衰退の本当の理由は、ここにあった」(1998 中央公論社 「世界の歴史25 アジアと欧米世界」)
|