第四部 第1章 「第三の波」
今、会計の世界に第三の波が押し寄せてきている。いわゆる「国際会計基準」(IAS)の導入である。が、しかし、ことは会計の世界だけではない。日本の仕組み自体にアングロサクソンという第三の波(外圧)がかかっているのである。特に冷戦終結以後、世界のヘゲモニー国家となったアメリカ流の仕組みが持ち込まれようとしているのである。国家戦略のない、そしてバブルの後遺症に悩む日本に、国家戦略の国アメリカが景気好調を背景として圧力をかけてきている。
アメリカ流の市場原理主義は、日本の閉鎖的・安定的・秘密主義的な社会経済制度に風穴を開けようとしている。隠していたものが白日のもとにさらされ、資本の効率至上主義が支配する時代が到来した。
1、第三の波
わが国の近代化は、明治維新に始まる。明治維新は、開国によって日本経済が直接に世界経済と結びつけられ、外からの、特に西欧からの刺激によって実現する。1853年アメリカ合衆国の提督ペリーが艦隊の威力を背景に浦賀に上陸して開国を求め、翌1854年、幕府はついに日米和親条約を締結、200年以上にわたった鎖国政策を放棄し、開国によって日本の経済は直接に世界経済と結びつけられる。明治維新は、西欧列強の進出に対抗するため早急に強力な中央集権国家を建設しなければならないという気運の中から、1867年の大政奉還、1868庶政御一新の大変革によって実現する。明治維新は、庶民階級の台頭、土地経済を基盤とする封建支配の没落を背景として推進されたのであるが、むしろ、それは国内の経済的・社会的条件の成熟をまたないで外からの圧力と刺激によって実現されたのである。
わが国の近代法制は、明治政府が西洋の法制度を模倣し、自らのものとして取り入れようとしたところから始まる。憲法をはじめ、民法、刑法、商法などの主要法典のことごとくは西洋の模倣である。近代国家の仲間入りをしようとして急遽編纂されたものである。
西洋とは、フランス、ドイツを指す。明治初期の頃の法学会を支配していたのはフランス法とイギリス法であったが、イギリス法は判例法からできあがっているため、これを急速に摂取することは困難であったが、これに対してフランスには諸法典が揃っていたことから早急に西洋文化を摂取する必要に迫られていたわが国は、フランスの諸法典に倣って制定することとなったのである。
商法は、草案の起草を委嘱されたドイツ人のヘルマン・ロエスラー(Hermann Roesler)が、明治16年(1883)に商法草案を完成し、それをもとに明治23年(1890)にわが国ではじめて制定された。明治23年商法は、その編別はフランス法的であるが、規定の実質はドイツ法的であったといわれる。
第二次大戦後は、一転してアメリカ法の洗礼を受けることになる。民主憲法が制定され、独占禁止法や証券取引法、会社更正法などアメリカ法の影響をまともに受けた法律が制定され、それまでの大陸法に英米法的な考え方が接ぎ木されることになる。
西洋文化との関わりでは、明治以来のわが国の法制に二つの大波を受けてきたわが国である。このように、日本の近代国家の社会状況は、常に「外圧」によって形づくられたものであって、内的な歴史によってもたらされたものでないことは繰り返し強調されている。
今、第三の波が押し寄せてきている。第三の波は、90年代に入ってから使用されるようになったグローバル経済、グローバルスタンダードなどの「グローバル」を冠した波である。
グローバルとは、フランスの経済学者ミシェル・アルベールが言うアングロサクソン型であり、冷戦終結後、特に80年代のレーガン政権時代に築き上げた軍事的・経済的栄光によって独走態勢に入ったアメリカ型を指す。
さて、ミシェル・アルベールは、「資本主義対資本主義」(1992 竹内書店新社)の中で、1791年から1991年の2世紀の間を、次の三つの資本主義の段階に区分し、現在は第三の時代に入ったという。
すなわち、1791年からの100年間は「国家に対抗する資本主義」の時代、1891年からの100年間は「国家の枠組みの中での資本主義」の時代、1991年になって「国家の代わりとしての資本主義」の時代に突入したとしている。
現在は、「国家の代わりとしての資本主義」であり、その思想は「市場は善、国家は悪」と端的に表現する。
「市場は善、国家は悪である。社会保障は社会進歩の規準とされてきたが、怠惰を促すものとして告発されるようになる。税金は経済発展と社会的公正とを調和させる基本的手段であると思われてきたが、今や勇気ある人々も大胆な人々も、その士気を挫くものとして税制を非難している。したがって税金を削減し、保険費を少なくし規制緩和をする。つまり、あらゆる場での国家の力を避け、市場が自由に動き、社会が創造的エネルギーを発揮できるようにすることが必要である。19世紀のように、資本主義を国家に対抗させるだけでは足りない。国家の力を最低限に落とし、その代わりに市場の力を最大限にするべきである」(1992 竹内書店新社 小池はるひ訳 ミシェル・アルベール「資本主義対資本主義」)
ミシェル・アルベールが指摘する第三の時代、すなわち「市場は善、国家は悪である」とする「国家の代わりとしての資本主義」の時代は、国家という枠組みを超えたアメリカ型資本主義の時代である。冷戦終結で資本主義は完全に勝利し、軍事的にも経済的にも、そして文化的にも世界のヘゲモニー国家としてアメリカが君臨したことにより、世界は「インターナショナルな関係」から「グローバルな関係」へと移行した。グローバルとは、すなわちアメリカ型である。
「グローバリズムという言葉は、国家や文化の違い、いいかえれば、国家を組み立てている権力構造の違いや、人々の暮らしを組み立てている地域的文化の違いを越えて自由に情報や資本の流れにもっぱら焦点を合わせることになる。『国際的(インターナショナル)』という言葉は、国家を前提とし、その国家の間で生じる紛争や摩擦、協調や取引、人の移動を想定している。ここではさまざまなことが、主権的な国家の間の相互作用として理解されている。『世界的(ワールド・ワイド)』といった場合にも、まだ地図的なイメージによって、世界にはさまざまな国家や地域があり、それらの多様性をつなげるという含意があるだろう。しかし、『グローバリズム』という言葉が意味するものは、国家の壁や地域の多様性を一挙に飛び越えてしまった自由な動き、移動なのである」(1999 PHP新書 佐伯啓思「アダム・スミスの誤算〜幻想のグローバル資本主義(上)」)
さて、会計の世界にも第三の波、すなわちグローバルの波が押し寄せてきた。「国際会計基準」(IAS:International Accounting Standards)である。
国際会計基準は、国際と冠され、世界各国の会計専門家の検討の上に設定されてはいるものの、実質はアメリカが主導権を握った会計基準である。
本来、会計制度はその国の社会経済システムや、もっと深いところでは合意システム(国民性)の上に立つものであり、固有のものである。
しかし、企業のグローバル化は、グローバルマーケットでの新しい競争ルールを必要としている。国際ルールのもとでの大競争(メガコンペティション)が行われる。国際ルールは、それが良いか悪いか、またはその国の経済システムに合っているかどうかは問題としない。ルール決めの過程でどちらが多数派かどうかが問題とされる。
アメリカの戦略は明確である。もともとEC6カ国が共同市場形成の一環として会計基準の統一を進めていた国際会計基準をアメリカ流に変えてしまったのである。
「規制が二重構造をもつと、かならず緩やかな規制の方に実務は流れる。米国は財務諸表の開示問題において、世界で最も厳しい規制をもつ。これは別に米国人の精神構造がより緻密、合理的にできているわけではない。人種、宗教など寄り集まり文化社会で経済発展を行おうとする場合の必然の対策であろう。素性の判らない人間の集まりでは、性悪説をとるのも止むを得まい。しかしそれを別の国に強制されてはたまらないとの思いが他国にはある。今でも欧米間の財務諸表の開示内容にはかなりの差異がある。
例を一つあげれば米国の誇る四半期別財務諸表である。これを強制されるとその煩雑さに他国はかなり苦しむ。またその必要性があるかないかは、まさに国家の構成要員の性格いかんによるといえる。ある国では適切でも他国では過剰な規制になることは珍しくない。
米国で資金調達をしようとする企業、米国の証券取引所に上場を目論む企業にとっては米国式開示要求は、もし資金調達の場をどうしても米国に頼らねばならない事情がなければ避けたいと考えても不思議ではない。危機感を持ったのは米国内の金融・産業界である。世界で最高水準の米国規制を後退させたくない当局だが、放置しておくと国際会計基準による開示によって米国市場の開放を求める力が強くなることは目に見えている。米国制度の敗北である。これは裏を返すと、経済力において米国の力がすでに絶対的ではなくなったことを示すものかもしれない。
米国の戦略は明快である。国際会計基準そのものに米国の意図を投入すること、それを条件に米国内での国際会計基準使用を認めることである。露骨な表現はとっていないが動きはそういうことであろう」(1997 東洋経済新報社 徳増倎洪・加藤直樹「企業会計ビッグバン」)
アメリカの野望は、国際会計基準委員会(IASC:International Accounting Standards Committee)が会計基準の草案の各国調整に手間取っている間に、米国財務会計基準審議会(FASB:Financial Accounting Standards Board)が金融商品に関する基準作りを推し進め、IASにFASBが参加したことにより実質的にIASを米国流に塗り替えてしまったのである。
また、自動車産業において、欧州から端を発したISO(国際標準化機構)にしても品質保証システムのISO9000よりもさらに厳格なQS9000(米国自動車メーカー三社のビックスリー品質規準)を作り上げ、この規格を取得できない部品メーカー、素材メーカーはビッグスリーとの取引を失うことになる。従って、世界の自動車産業も米国規準に追随しつつあるという。
2、海型と山型
ミシェル・アルベールは、資本主義を二つのモードに分類する。すなわち、欧州大陸流の「ライン型資本主義」と英米流の「アングロサクソン資本主義」である。日本はライン型に属するという。
「ライン型資本主義」とは、ライン川に沿ったヨーロッパ諸国に典型的に見られるような資本主義で、政府主導、結果の平等、雇用の安定、福祉などに重心を置いている資本主義で、アルベールは日本の資本主義もライン型と多くの共通項を持っているためライン型に属するという。また、スイスなどのアルペン諸国に資本主義と共通する点が多いことから、「アルペン・ライン型資本主義」と呼ぶ場合もある。
一方、「アングロサクソン型資本主義」は、「アメリカ型資本主義」とも呼ばれる。アングロサクソン型資本主義は、政府より市場を重視、結果の平等より機会の平等、雇用の安定より株主の利益を優先させるような資本主義であり、イギリス資本主義もこれに準じているという。
資本主義は、それぞれの国の事情によって異なる。それぞれの社会経済システムや合意システム、突き詰めれば宗教観などの相異などもその国の資本主義の型・モードを作っている。
しかも歴史の振り子は自由と計画(統制)の間を行き来するものであるから、ミシェル・アルベールの仕分けの方法も定言的ではなく、よりどちらを指向しているかという判断の上に立っている。
ミシェル・アルベールの資本主義を二分するこうした観点は、極めて示唆に富んでいる。それは、冷戦終結により、インターナショナルからグローバルな関係へと移行している世界経済の流れを源流から説き起こしていることに成功しているからである。
ミシェル・アルベールは、保険の起源を例にとりながら、ライン型資本主義の源流を「山型」、アングロサクソン型資本主義を「海型」であるとしている。
「山型」のライン型保険は、アルプス山中で、相互扶助の会社を組織したときに始まり、社会全体が共同体としての性格が強く、連帯・安定型であるという。
対して、「海型」の保険は、ロンドンの酒場ロイドで形成され、それはイギリス船の紅茶の積荷に当てられたもので、安全よりも投機的かつ不安定で、連帯責任よりも自己責任が求められるという。
「保険の最古のものは、アルプスの山々の村人たちが、16世紀に相互救援の会社を組織した時に始まる。このアルプスの伝統的組織から保険、共済の共同機関が派生した。ギルド、同業組合、職業組合、相互扶助運動等である。このアルプス型のやり方は、危険をみなで分かち合う方法である。各人が、リスクの生じる確率とは関係のない料金を負担する。つまり連帯観念があるのであり、それは、社会の内部へ再分配の形で移転する。このシステムはそれが生まれた土地に残った。スイス、ドイツ等である。それと、同じ感受性を持つ国々。例えば日本にも存在する。
もう一つの保険の起源は海のものである。ベニスの船の船荷に賭けられた、冒険的な貸し付け金である。それがその後ロンドンで発展した。形式としての特徴は、ロンドンの酒場ロイドで形成され、それは、イギリス船の紅茶の積荷に当てられるものだった。この系統はアルプス型とは異なる。安全よりも投機的で、競争力のあるリスク管理に関心を払っていた。再配分や連帯はここでは問題にされない。ただ各人のリスクの確率を正しく見積もることに徹する。
これら二つの保険形態は、現代の社会の選択そのものに結びつく。アルペンのシステムでは、保険は、連帯組織の形態の一つである。『海運型』では、料金の高い契約によって連帯性は弱められる。その料金が非常に細分化されているからでもある。一方では社会の結びつきは否定され、他方では肯定されるのである。
今日、資本主義の二つの形に、新たな光明を伴ってこれらの二つの保険の起源が写し出される理由は、以上のようなことである。一方は短期収益、株主、個人の成功が優先されるアングロサクソン型キャピタリズムであり、他方は,ライン型キャピタリズムで、そこでの目標は長期的な配慮と、資本と労働を結びつける社会的共同体としての企業の優先である」(1992 竹内書店新社 小池はるひ訳 ミシェル・アルベール「資本主義対資本主義」)
アルペン型保険の特徴は、責任分担による連帯感はほとんど完璧なものがあるから、上手なドライバーは下手な者のために支払い、顧客が安定しているという。従って、アルペン型保険は「社会価値観全体の中に存在」し、そこでは、信用や厳密な契約とは異なる「人間関係の確かさと言ったものが、安定した顧客層を生み出す基礎」となっており、従って企業が客より優位にあるため、株主に比べて経営陣が優位になっている。アルペン型保険には「企業に良いものはクライアントにも良い」という基本概念がある。
対して、アングロサクソン諸国の保険は、掛け金は完全に自由であり、従って王様は経営陣ではなく顧客である。例えば自動車保険の場合、客のあらゆる条件、運転技能職種、車種等で「スコア」表の中から決定されるという。保険業者が成功するのに必要なものは、「付加価値の大きい料金を見つけるための超細分化の才能」、すなわち「過去にだれもが考え出していない変数をオリジナルな方法で交差させる能力」であり、「保険加入者間の相互関係が、市場の細分化によって失われてしまって以来、被保険人は自分の直面するリスクと、自分の掛金を定める基準とにしか関係がないのだから、特定の会社と特別の関係を結ぶ理由は何もない」、従って料金の差異に応じて顧客が変化する不安定な関係にあるという。そして、保険会社の仕事は、商品を安く提供することと、最小限の安全を確保することの二つであるという。
グローバリゼーションは、「海型」のアングロサクソン資本主義=アメリカ資本主義の中にある。軍事的にも経済的にも世界のヘゲモニー国家としてのアメリカ流の中にある。良し悪しは別として、現に川は流れている。
世界史に照らして見た場合、「山型」がヘゲモニー国家となったことはない。パクス・ロマーナ、パクス・ブリタニカ、パクス・アメリカーナ、そして17世紀のオランダ、いずれを見ても「海型」である。閉鎖・安定系=防衛型の「山型」に対して、開放・効率系=攻撃型の「海型」が世界を制覇してきた。
冷戦終結までのインターナショナルな時代は、国内の諸事情によって決定された独自の経済システムの相互理解のもとに国際経済は動いてきた。多少の対外不均衡は、変動相場制のもとでの為替レートがすべてを調整・吸収できるという前提で、行政と市場の分離が図られてきた。市場がうまく機能しなかった場合のみ行政は協調介入という形で補完してきた。
しかし、冷戦終結により、対抗するソ連共産主義を失った(同時に自身の鏡も失った)アメリカの野望は、規制緩和(規制撤廃)及び市場開放という市場原理主義を独自であるべき行政に対して強制してきた。その延長線上に、受動的かつ強制される形で実行されている日本型ビッグバンがあり、国際会計基準の導入がある。
「解釈が違っていると、合意や協定の実施も、期待した効果も異なったものとなる。例えば、最も問題になっているのは『deregulation』という用語に関する日米双方の異なった理解である。米国側が言っている『deregulation』は、『規制撤廃』を指している。これに対して、日本は『deregulation』を『規制緩和』と訳して、部分的な撤廃、あるいは修正と解釈している。こうした理解の違いによって『deregulation』と『規制緩和』はその目的、影響を受ける分野の優先順位、効果も異なったものとなるわけである。
この相違は双方の社会の主流的価値観の相違によるものであると考えられる。米国社会の主流的価値観は『個人』を優先させるものである。これに対して、日本社会の主流的価値観は『組織』あるいは『社会』を優先させるものである。社会の主流的価値観の相違は市場におけるビジネス慣行、日米貿易交渉の結果、すなわち協定の実施とその効果にも影響を与えている。
米国の立場から見れば、米国の社会の主流的価値観を基盤とする自由市場経済とその原理を日本に浸透させることにより、日本の経済システム、社会構造の変革を迫ることこそが、米国のモノ、サービスの日本市場へのアクセス拡大の最善の道となる。この考え方に基づき、米国は長引く不況に喘ぐ日本に処方箋を次々と出している」
(1999 東洋経済新報社 蔡林海サイ・リンカイ 「市場と文明のパワーゲーム」)
現在はミシェル・アルベールのいう第三の時代、すなわち「市場は善、国家は悪であり、あらゆる場での国家の力を避け、市場が自由に動き、社会が創造的エネルギーを発揮できる」ように、国家の力を最低限に落とし、市場の力を最大限にする「国家に代わる資本主義」の時代である。
「国家に代わる資本主義」の時代は、ビジネス帝国となったアメリカ流資本主義のグローバルな時代である。グローバルな時代の流れを嫌うなら、「時代遅れの蟻」か「壁の花」になるしかない。
「わたしが今までその長所を列挙してきたライン型資本主義は、おそらく前者(アングロサクソン型資本主義)より優っていると思うのだが、その魅力は、田舎のオールドミスのようなもので、伝統に埋ずもれ、人間味あるノスタルジーに耽り、気配りに満ち、用心深いといった具合である。ひと言で言えば、キリギリスではなく、時代遅れの蟻である。ミュージックホールに入る勇気がなくて、壁の花となっているのだ」(1992 竹内書店新社 小池はるひ訳 ミシェル・アルベール「資本主義対資本主義」)
3、日本の「型」
現代世界における経済システムは、その資源配分決定方式の差異によっていくつかのタイプに分かれる。大まかには、強大な権力と一握りのエリートがすべてを計画し、配分を決定する「社会主義経済システム」(最近までのソビエト)、自由市場メカニズムによって資源配分される「純粋市場型経済システム」(アメリカ)を両極とし、その折衷である「混合型経済システム」(日本)の三つの経済システムである。その折衷の度合いによってニュアンスが異なる。
しかし、冷戦終結までのインターナショナルな時代では単なるニュアンスの相異と見られてきたものが、資本が国境を超えて自由に移動するグローバルな経済競争の時代では、改めてその特異性として注目されるようになってきた。
日本は「混合型経済システム」である。日本の経済システムは、批判的に「クローニー(crony;仲間内)資本主義」とか、時として「世界でもっとも成功した社会主義国」とも呼ばれる。
日本の特色は、ダブルスタンダードにあるといっても言い過ぎではない。「本音と建前」があり、「half−truth」がある。会計の分野では『厚着をさせ部屋も暖める』米独折衷の日本型システムである。
堺屋太一「『大変』な時代」(1995 講談社)では、いろんな国の経済活動の形態をスポーツに例えている。この本によると、日本は「大相撲型」、アメリカは「プロレス型」、ヨーロッパは「サッカー型」、東アジアは「カンフー型」としている。
日本の「大相撲型」は、勝負は確かに実力本位であり、ここには世襲の家元もなければ、人脈情実の範囲も乏しいのであるが、規制も多い。日本相撲協会があらゆることを決め、協会の管理下に全人格的に帰属したと認められた者だけが土俵に上がれる。
「土俵に上がるとなると、必ず日本相撲協会の定めた服装、髪型、儀式を踏まなければならない。全員がちょんまげを結い、回しだけで土俵に上がり、塩をまいて拍手を打ち、蹲踞の姿勢をして相撲を始める。相撲という競技の勝負には無関係な様式が厳格に規定されており、これに違反すれば、いかなる天才もたちまち追放されてしまう。つまり、自らの好みや個性の発揮が、日本相撲協会という管理機構によって制限されているのである」(1995 講談社 堺屋太一「『大変』な時代」)
いかに実力本位であるとしても、誰が横綱になるかは、日本相撲協会という管理機構の管理下にある。競争の方式が協会によって決められている。従って、真の意味での自由競争になっていない。
こういった相撲界の状況は、まるで官僚がいろいろな規制や手続きを設けている日本経済の姿にそっくりだという。官僚主導の規制内競争であり、企業も官僚主導の下で、業界強調しながら護送船団方式で競争しているのである。そして、その護送船団の中に入るには非常にタイトな関門が設けられているが、いったん入ってしまえば業界協調体制の中で保護されるという、いわば「タイト・アンド・ルーズな社会」である。
「日本の現実は、社会活動のほとんどが権威によって規定され、画一化されているように思える。官庁の許認可権はそのような権威の代表であり、一方で許認可を受ける側はそれに従順に従い、むしろ許認可を受けた後に生じる既得権益をうまく保持してきたようである。一度、権威に認められて許認可を得れば、その後は新たな競争者の参入に対して権威の障壁と庇護があり、安泰である。換言すれば、日本はタイト・アンド・ルーズな社会である。大学に入るまでは必死に勉強しなければならないが、入ってしまえば勉強は二の次でいいのと同じである。このような社会が独創性に富んでいたり、国際的な指導力を発揮したり、部外者や他国に対して開放的であったりするだろうか。そのような、人並み以上の研さんや苦労を要する行為や態度は篤志家や奇特な他国にゆだね、権威の庇護の下、要領良く活動しようというのが日本の基本姿勢だと思えてならない。許認可にあふれた社会制度はそのような要領の良さを容認する一方で、独創性を調和を乱すものとして阻害してきた。日本の経済社会の未来が明るいものであるためには、現在のタイト・アンド・ルーズな社会が障害になろう。望ましいのは、権威が一歩退いた、ルーズ・アンド・タイトな社会である。来る者は拒まないが、来たからには競争させ、フルイにかける社会である。権威の主な役割は、努力や独創性の結果に十分報いて社会の不断の競争を促し、同時に不正な競争を摘発することに限定される」(1994・2・10 日本経済新聞 「大機小機〜ルーズ・アンド・タイト〜」)
そして、もっとも特徴的なことは、観客(消費者)主権の視点がないことである。観客(消費者)の意向によって力士の番付や取り組みが決まることにはなっていない。どうすれば観客が増えるかを考えるのは、唯一、日本相撲協会という管理機構である。 さらにもう一つ。非常にコストがかかることである。国技として手厚い保護を受け、官僚統制的コスト計算によって行われているので、本来の消費者主権による合理的競争に比べれば、かなり高いコストのかかる伝統的様式に守られている。
「新規参入がきびしく制限され、すべてが伝統的様式によって規格化され、力士の優劣は官僚機構によって決められる。それは官僚主導であって消費者主権ではない。したがって、真の意味での自由競争ではない。自由競争の本義は、あくまでも市場原理、つまり消費者の判断によって栄枯盛衰が決まる社会である。
日本相撲協会は完全独占企業であり、価格の決定をも官僚統制的コスト計算によって行っている。大相撲の入場料は、他の興行に比べて特に高いとはいえないかもしれないが、実際には、相撲茶屋等の付加的コストがかかる仕掛けになっている。加えて、ひいき筋という経済性を無視したメセナ方式が古くからくっついている。そのために、本来の消費者主権による合理的競争に比べれば、かなり高いコストのかかる伝統様式が守られている。この大相撲の状況こそ、日本型競争の典型といえるだろう」
「さらに大相撲が日本的競争社会を象徴しているのは、原則として終身雇用であることだ。一定以上の貢献をした上位力士は、相撲競技から引退しても、年寄となり、後輩の指導や協会理事、あるいはその周辺職業で生活できる状況がつくられている。それがまた、この業界を著しくハイコストにし、実力と様式美を保つ機能も果たしている」(1995 講談社 堺屋太一「『大変』な時代」)
日本の経済システムは、相対的に高コスト構造であるといわれる。多くの論者によって、日本の高コスト構造は日本経済の「官僚主導型の規制内競争」とか「競争制限的な日本経済システム」、「政策的重点配分を軸とした経済システム」などといわれる、競争を阻害し、労働生産性の向上とコストダウンを中途半端なものとし、製造コストの上昇を招かざるを得ないような日本経済の制度的構造そのものであることが指摘されている。
特にバブル崩壊後の経済不況によって日本経済悲観論が強まる中で、こういった日本経済の制度的構造が「諸悪の根源」とまでいわれるようになっている。
バブルが弾ける前までは、「日本は政治はともかく経済は超一流」「世界は日本経済を見習うべき」といった超楽観論が支配的であったことを考えると隔世の感がある。経済成長率の変動によって、楽観論と悲観論が交互しているのである。
「いまの日本のこうした不安感や焦燥感の背後には、『日本的経営の危機』『日本経済の危機』などというよりもっと深い危機が隠されているのではないか。私は、それが戦後日本の、あるいは近代日本の政治的・社会的・文化的危機に深く根差したものではないかと考えているのだが、とりあえずいえることは、いまの日本から『経済』をとったらなにも残らなくなること、つまり『経済成長』が唯一至上の価値となっていることが問題の基本にあるということである。これは、日本人による日本論のトーンが経済成長率の『増加関数』となっている、つまり、成長率が高い時には楽観論が支配的となり低い時には悲観論が支配的となるという、ここ30年間ほどに見られた単純な事実に基づいている。もっと簡単にいえば、戦後の日本人にとっての『生きがい』が経済成長あるいは『カネ儲け』以外になくなっていることだ」(1997 PHP新書 佐藤 光「入門・日本の経済改革」)
そして、諸悪の根源が、規制依存型の日本経済システムであり、「政府、企業、消費者という各部門相互に存在する『横並び体質』、『責任転嫁型の体質』、『政官民のトライアングル構造』、『護送船団方式』といわれる仕組みが、費用増、非効率、対外摩擦を通じて経済の長期的停滞をもたらし、経済全体のダイナミズムを失わせている」(経団連のホームページ1994・11・15「規制緩和の基本的な考え方」)として、規制緩和こそが救世主であるとしているのである。
1991年、ソビエト連邦が解体され社会主義は崩壊した。社会主義の崩壊は、資本主義の勝利に短絡され、そして、資本主義の盟主であるアメリカの時代に突入した。
アメリカ型資本主義が世界を席巻している。貿易収支のアンバランスを抱えているアメリカにとっては、規制や関税障壁の多すぎる国に対して、同じ土俵で取り引きすべきを要求するのは当然のことといえる。それがアメリカの要求する規制緩和(アメリカは規制撤廃を要求)であり、市場開放なのである。
不況からなかなか抜け出せずにいる日本にとっても、アメリカの要求を自らの打開策として、規制緩和こそが救世主であるとし、「本当の資本主義」「普通の国」をひたすら求めているの状況が日本の現在の姿である。
4、アメリカの「型」
堺屋太一「『大変』な時代」(1995 講談社)では、アメリカはプロレス型だという。日本の官僚管理下での業界協調体制による競争とは逆の、完全な自由競争を理想としているのが、アングロ・アメリカン流であり、これをスポーツにたとえれば、プロレスになるという。
競技団体がすぐに作れて、誰でも参入できる。あらゆる人に門戸を開いている。フォームも自由なら服装も自由。官僚機構によって定められた様式というものがなく、ルールは存在するが、観客の希望でどんどん変更される。一定の反則さえも、観客の人気があれば認められる。
「ルールは存在するが、観客の希望でどんどん変えられる。観客にアピールするためなら、顔に色を塗ろうが、マスクを被ろうが、大言壮語を吐こうが、極端にいえば嘘八百をいったとしても許される。一定の反則さえも、観客の人気があれば認められる。いわば『何でもあり』の世界だ。ただし、この世界はすべてが情報公開される。嘘も、反則も、演出も、観客の合意で行わなければならない」(1995 講談社 堺屋太一「『大変』な時代」)
「アメリカの資本主義は、ウェスタンの魅力のほとんどすべてを持っている。冒険が一杯で、不安で、ストレスに満ちているけれども、夢中になるほど面白い、強い者のための人生があるのだ。カジノ経済はサスペンスを生み出し、だれもが、危険を身近かに感じながら、勝者に拍手を送り、敗者を罵倒することができる。あたかもサーカスの離れ業のごとくルーレットで賭けをすることもできる。この資本主義は、見ごたえのある戦いに挑んだ、さまざまなエキゾチックな動物たちであふれている。サメ、鷹、虎、竜………。これより面白いものがほかにあるだろうか?こんなとてつもない演出を、ほかのだれが上手く演じられるだろう。ライン型資本主義の動物たちは、意外な行動はしない家畜だ。なんと惨めなことか。ライン諸国で約束された人生は、活発なものにはなりうるが、おそらく単調で、退屈なものに違いない。ライン資本主義は、『一家の父親』的経営だ」(1992 竹内書店新社 小池はるひ訳 ミシェル・アルベール「資本主義対資本主義」)
そして、何よりも大事なことは、誰がメインイベンターになるか、誰が最高のギャラをとるかは、観客動員数によって決定することである。つまり、完全に消費者(観客)主権なのである。消費者主権で興行を行う。どんなに強くても観客を動員できなければ潰れてしまう。観客動員の自信さえあれば、自らが団体をつくり、独自に興行を行うことができる。権威、伝統とかは問題とされない。選手個人も終身雇用に甘えることもできない。
自由競争の世界では、きわめて多様なサービスの提供とローコストが実現する。新規参入は、原則として無制限であり、創造性と個性を発揮しうる機会に恵まれている。次々と新企業が生まれ、組織も個人も新陳代謝が激しく、技術開発と経営刷新が次々と行われ、極めてダイナミックな社会である。
「誰でも参入できる。消費者に受けることなら何をしてもいい、何が伸びるかは消費者の選択で決まる。これがアングロ・アメリカ流の自由競争である」(1995 講談社 堺屋太一「『大変』な時代」)
つまり、日本を「タイト・アンド・ルーズな社会」とすれば、アメリカは対極の「ルーズ・アンド・タイトな社会」、すなわち「オープン・マーケット・システム」である。
アメリカは、特異な建国の歴史、多民族国家、広大な国土など、様々な理由からオープン・マーケット・システムを採用したのであるが、それはむしろ国際的に特異な存在であるにもかかわらず、少なくとも現時点では、アメリカの経済システムはグローバル経済におけるインフラストラクチュアとしての役割を果たそうとしているのである。
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