第一部 第2章  簿記の出現

会計の中に連綿として続いている理念がアカウンタビリティの概念である。複式簿記はアカウンタビリティの手段として発明され、株式会社制度の発明と結びつき、発展進化して現代の会計理論にたどり着く。会計理論の入り口は簿記にあり、簿記の考え方なくして会計理論に入ろうとすることは、それこそ畑なくして作物を育てようとするようなものである。
 会計史と会計理論を見事に結び付けたアメリカの偉大な会計学者A・C・リトルトンが、「歴史はまた未来への展望を産みだすものであり、そして未来を展望することは権衡を取れたものの観方を助長する」と述べているように、進化論的アプローチは会計理論を理解する上で必要なことである。

 

 

 

 

1、簿記をたたえる人々

現在、われわれが用いている複式簿記は、15世紀以前に発明されている。15世紀当時と現在の簿記の構造はほとんど同じである。つまり、発明当初から完成度が高い。簿記に株式会社の発明や信用制度の発達という社会経済制度の進化が加わり、会計理論が整備されていく。つまり、土台は500年にわたって連綿と続いてきた完成度の高い複式簿記であり、その上にピースミル的(段階的)に会計理論が構築されて現代の会計学の全体ができ上がるのである。
 ところが、会計(学)を簿記と会計理論とに分けて考えたときに、簿記に与えられる評価は不当にも低い。簿記は会計理論の手先のように評価されるのである。
 そこで、この不当性(?)を払拭すべく、経済学者はもとより、意外な人物からも簿記が称賛されていることを紹介する。
(ア)
ゲーテ(ドイツの生んだ世界的文豪)
 『商売というものがあの時分の君には一つも分かっていなかったんだ。ほんとの商人の精神ほど眼界の広い、また広くなければならない精神が、外にどこにあると思う。僕等が僕等の仕事を統制していく秩序が、どんな見返しを我々に与えてくれるだろう!。これがいつでも我々に全体を見通させてくれるんだ、我々は個々のものから煩される必要がない。複式簿記というものがどんなに商人に利益を与えるかしっているかい!。これこそ人間精神のもっとも立派な発明の一つだ、これはあらゆる優良な主人が自分の家政に持ち込むべきものだ』(1953岩波文庫 小宮豊隆訳 ゲーテ「ヴィルヘルム・マイストルの徒弟時代」 注:現代語に筆者が補正)
 “人間精神のもっとも立派な発明のひとつ”というくだりは、「複式簿記は
人智の産んだ最も立派な発明の一つである」という言葉として有名である。
(イ)
ウルフ(イギリスの会計史家)
 会計の歴史は概して文明の歴史である。高度の発展段階に到達した国民は、いずれも広範囲な商業方式を営んだことをわれわれは知っている。ところで、商業は正確な会計を行うべき多少精巧な方法なしには、これを築き得ないことは明白である。それゆえ、会計は文明の進歩と手をたずさえて来たことになる。商業は文明の侍女といわれたが、同様に会計は両者の侍女であるといっても誤りではない。換言すれば、文明は商業の親であり、会計は商業の子供である。したがって、会計は文明の孫に相当することになる』(1977 法政大学出版局 片岡義男・片岡泰彦訳「ウルフ会計史」) 冒頭のくだりは、よく引いて用いられている。また、「会計」という言葉は、計算、勘定、会計等を総称する言葉である。「ウルフ会計史」は、古代のエジプトから15世紀のイギリスやヨーロッパ大陸諸国の会計のシステムや監査の歴史などについて記述している。本書は会計史文献として多くの影響を与えた。
 また、同書の“会計(Accountancy)は、時代の鏡であって、このなかに、われわれは、国民の商業史および社会状態に多くの反映を見る”という、「会計は時代の鏡」も有名な言葉である。
(ウ)
アーサー=ケイリー(行列理論で著名なケンブリッジ大学の数学者)
 複式簿記の原理はユークリッドの比の原理と相ならぶ絶対的完全原理である。それがきわめて簡明であるということが、むしろ簿記を無味乾燥ならしめているのである。もし、簿記の原理が複雑したものであったならば、必ずやしんしんたる興味をよび起こさずにはおかないであろう』(1978同文館 片野一郎訳「リトルトン会計発達史(増補版)」)
このくだりは、アーサー=ケイリーの「複式簿記の諸原理」(1894)の序文に掲げられたものである。

 “複式簿記の原理は、ユークリッドの比の原理と相ならぶ絶対的完全原理である”というくだりは、「簿記は二つの完全科学のうちの一つである」という言葉でよく引いて用いられる。
(エ)ゾンバルト(ドイツの社会・経済学者)

 『資本主義の発達に対する複式簿記の意義はいくら強調しても強調し過ぎることはない。当時の教科書は、簿記を「人間精神の発明した最も美しきものの一つ」と書いているが、たしかに複式簿記はガリレイやニュウトンの体系と同じ精神から生まれたのである。これによって明確な利潤が観念できるようになり、抽象的な利潤の観念は資本概念をはじめて可能ならしめたのだ。そうして固定資本とか生産費の概念が生まれ、企業の合理化の道を準備したのだ。簿記組織によって営業の独立性が明確に意識される』(1950春秋社
木村元一著「ゾンバルト  近代資本主義」)
 「複式簿記と資本主義との関係を形式と内容との関係としてとらえるゾムバルトは、複式簿記によって資本主義経済に内在する精神(営利主義及び経済的な合理主義)を完全に展開することのできる可能性及び刺戟がもたらされた、とし、また『複式簿記以前のこの世には、資本というカテゴリィが存在しなかった』ともいう」(1996  有斐閣  友岡賛「歴史にふれる会計学」)
 
「複式簿記と資本主義との間に必然的な関係があるとする立場を必然説という。つまり、複式簿記をもって企業簿記、資本の増減を記録計算する方法とするものである。それに対して、複式簿記をもって複式計算機構と解し、その形成動機を第三者に対する責任の明確化にもとめ、資本および資本主義に結び付けることを批判するものに偶然説がある。偶然説は古代ローマに複式簿記の起源をもとめる考え方とつながってくる。
 いま、必然説の代表論者の一人に経済学者のゾンバルト(WSombart)をあげることができる。彼は、資本主義と複式簿記の結びつきを必然的なものとするにとどまらず、複式簿記が資本主義を生みだしたとさえいうのである。彼は、その著『近代資本主義』のなかで、つぎのようにいう。『資本主義に内在する精神、すなわち、営利の精神と経済的合理主義の精神とを完全に展開すべき可能性と刺激とが複式簿記によって形成された』のであり、『同時に複式簿記は一定の資本の増殖を目的とする経済組織・経済形態としての資本主義企業の概念をつくりだしたのであると。』(1994 大月書店 角P保雄「新しい会計学」

(オ)
シュムペーター(アメリカの経済学者)
 『資本主義は貨幣単位(それ自体なにも資本主義の産物ではないが )を計算単位にまで高める。すなわち、資本主義的行動は貨幣単位を合理的費用=利潤計算の用具に転化せしめる。複式簿記こそはその高くそびえる記念塔である。いまはこの点に立ち入ることをしないで、ただ次のことを注意しておこう。それは、第一義的には経済的合理性の発展の申し子たる費用=利潤計算が、やがて逆にその合理性自体に反作用し、数量的な具象化と明確化とをつうじて強力に企業の論理を推進せしめることである。かくのごとく経済部門において明確化され数量化された型の論理、態度、方法は、次には人間の道具や哲学、あるいは医療方法、あるいはまた宇宙観、人生観のみならず、美、正義、精神的抱負の概念を含む実際上いっさいのものを隷属させる(合理化する)征服者街道に乗り出すのである』(1995東洋経済新報社 中山伊知郎・東畑精一訳 シュムペーター「資本主義・社会主義・民主主義」)
 すなわち、複式簿記の機構を通じた利潤計算は、その計算(獲得)過程において、正義や倫理やイデオロギーといった精神面にまで深く立ち入るのである。
 このように、「人類の産んだ最大の発明」、「絶対的な完全原理」、あるいは「資本主義の記念塔」とまで先哲をしていわしめたのが複式簿記である。 複式簿記が資本主義を生み出したと主張するゾンバルトの説は極論であろうが、しかし、複式簿記が資本主義の発展に大きく貢献したことだけは確かである。
 しかし、その割には簿記に対する評価は低いのではなかろうか。この理由は、多分、あまりにも堅実で、実利的で揺るぎのない計算体系ゆえのことではなかろうか。人間は、想像をかきたてる秘密に包まれたベールがなければ興味を示さないのである。すなわち、ある意味において完璧な、完成し尽くされたものであるがゆえに、評価の対象とはなりにくいのであろう。
 「簿記は、人間が欲すればこそ、またそれなしには済まないことを人間が見出したが故に、考案された。簿記は本質的には実利的(utilitarian)である。愛好家(dillitanti)、すなわち若干の理論を想像して、その真理を立証すべく努力した人々の仕事の結果ではない。それは、人々の事業経営を助長するために、意識的、確定的、実際的な目標をもって進展した。そして、その方向に、簿記は堅実に発展してきたのである」(1977法政大学出版局 片岡義男・片岡泰彦訳「ウルフ会計史」) 

2、「スチュワードシップ」と「アカウンタビリティ」
 まず、簿記の根底に流れる二つの英語を解説する。スチュワードシップとアカウンタビリティである。
 スチュワードシップ(Stewardshipとは、他人から任された仕事を、その他人のためにする職または資格を総括的にあらわす仕事である。スチュワード(steward)は、Stig(囲いの中の動物、豚小屋)とWeard(見張り、番人)が原意である。従って、スチュワードの本来の意味は「豚小屋の番人」で、転じて執事、家令、支配人、事務長や旅客機のスチュワード(スチュワーデス)などを意味するようになった。
 〜shipは、資格や職を示す言葉であるから、スチュワードシップは、他人から任された仕事を他人のためにする職を意味する。
 会計では、スチュワードシップを「受託責任」と呼ぶ。受託責任は、他人から財貨の委託を受けた者が、与えられた裁量権の範囲内で実行する責任のことで、「業務実行責任」である。
 スチュワードシップには、「結果報告責任」がある。委託された、つまり受託した仕事が終了したとき、あるいは委託者から要求されたときには、いつでもその成果や業務遂行状況を説明しなければならない。これがアカウンタビリティ(accountability)である。
 アカウント(account)とは、カウント(count 数える)と同系の言葉であり、もともと会計・計理のことで、1円たりともあいまいにせず、つまびらかにすることで、「説明する」「責任を取る」という意味である。アカウンタブル(accountable)は、「申し開きがつく」「すべてをきちんと説明できる」こと、アカウンタビリティは、自分の判断や行動の結果について説明する責任のことである。
 ちなみに、会計を担当する人をアカウンタント(accountant)といい、この言葉は計算する人という意味のほか、債務者、受託者という意味を持っている。
 この結果を報告する義務のことをアカウンタビリティといい、会計ではこれを「会計責任」と呼ぶ。財貨を受託した者が、その運用結果に対して説明、報告、弁明、申し開きする責任のことで「報告責任」または「説明責任」のことである。
 委託者が受託者からの結果報告をうけ、仕事を評価したうえで委託者としての態度を決定する。称賛の場合や、叱責・解任などの場合もある。
 このように、受委託関係がある場合には、受託者側には必ずスチュワードシップとアカウンタビリティが発生する。
 さて、簿記はこのアカウンタビリティの発生と解除の過程を財務的側面から説明する手段として発明されたのである。
 すなわち、財貨の受託者は、その結果についてそれが運用に係るものであれば、その成果と運用中の経済情勢などを、管理に係るものであれば、与えられた裁量権の範囲内であったことを委託者に説明する必要がある。結果報告について委託者の納得が得られたら、受託者のアカウンタビリティは解除される。
 従って、アカウンタビリティは受託者、すなわち財貨の委託を受けて運用・管理する人の責任の問題であり、簿記はその解除の手段として発明されたのである。
「連綿として続いている一つの理念は、責任の受入れには責任が解除された暁に報告を行う義務をともなう、ということである。この理念が経済上にはっきり現れた初期の事例は、十六世紀時代における不動産に関する管理者責任(Stewardship accountability)の観念である。ずっと近代の事例としては、イギリスの法律によって会社の取締役が定期に貸借対照表を株主に提示することを要求されていること、また、アメリカの任意的慣行として株式会社の年次報告書が発行され、ひろく閲覧されている実務のうちにこれをみることができる。この報告義務は、なかんずく、私的企業にまで広げられ、かつ、報告の方法が変わってきたことにより、若干変わってきているが、しかし、そのテーマは今でも残っている。それを要約していえば、“アカウンタビリティ”(accountability)という一語につきる」(1978 同文館 片野一郎訳「リトルトン 会計発達史[増補版]」)

 

3、簿記誕生の時代背景
 
簿記は、備忘記録をつけるところから出発している。この備忘記録は受委託関係におけるアカウンタビリティの手段としての記録である。この受委託関係を中世ヨーロッパにおける社会経済状況から眺めてみよう。

 中世ヨーロッパでは、教会の神父は物質をさげすみ、貨殖活動を「詐欺行為を含み、霊魂の浄化に危険である」と非難していた。
 宗教万能時代にあって貨殖活動は戒められてはいたものの、それでも儲けたいと考えた富裕貴族や僧侶たちは、奴隷に商売を行わせたり、また、匿名で資本を提供し、組合契約にもとづいて冒険商人達に委託した。
 そこに、受託者である奴隷や冒険商人には、商売の結果を主人や資本主に報告する必要性が生じてくる。
 このような、奴隷と主人の関係、あるいは冒険商人と資本主との関係など、委託された資本の運用についての結果報告の資料として作成されたものが、徐々に簿記の体裁を整えていったものと考えられるのである。
 また、簿記が考案された13〜14世紀のイタリアの歴史は、それこそ「嘘で築かれた聖戦」といわれ、「子供を串刺しにしてむさぼり食った」ほどの大虐殺を行った十字軍がヨーロッパからイタリア経由で東方アラブへなだれ込んだ時期でもある。
 「十字軍は商業に大きな刺戟をあたえた。数万のヨーロッパ人が、回教徒から聖地を奪いかえすために、海陸から大陸を横断した。彼らには遠征の途上でさまざまの補給品が必要だったが、そうした必要品を調達するために、商人たちが彼らに同伴した。東方への遠征からかえってきた十字軍の兵士たちは、かの地で見たり享けたりした異国のぜいたくな食べ物や着物にたいする欲望をもちかえり、彼らの需要はこれらの商品の市場をつくり出した。そればかりではない。十世紀いらい人口は急速に増加し、増加した人口にはそれだけ多くの財貨が必要だった。このように増加した人口のうちには土地をもたないものもおり、彼らは十字軍のなかに、その境遇を改善する機会を見つけ出した。地中海周辺の回教徒との辺境戦と東欧諸種族との辺境戦とは、十字軍の名前で威厳づけられてはいるが、実際は掠奪と土地とのための戦争にすぎなかったのだ。教会はこうした掠奪のための遠征を、福音を宣布し、不信な人々を一掃し、聖地を防衛することを目的とする戦争だとよそおうことによって、これに尊厳性のヴェールをあたえたのだった」(1963岩波新書 小林良正・雪山慶正訳 レオ・ヒューバーマン「資本主義経済の歩み()」)
 約2世紀にわたって天地を震動させた十字軍は、主目的に対して何らまとまった成果を残さずに終わったわけであるが、その政治、社会、文化面に実に重大な影響を与えた。

 イタリアのヴェニス、ジェノバ、フローレンス、ピサ等の諸都市は、十字軍の中継基地として大いに発展し、物々交換を主とする自然経済から貨幣経済・自由経済への移行、商人の台頭・社会的地位の向上、そして東方交易が盛んになる。
 この時期がちょうど簿記が考案・体系化された時期であるから、簿記は商業の芽生えと同時に、商業と双生児の関係のごとく必然的運命を持って生まれたものである(まさに、ウルフのいう、簿記は商業の子である)。
 従って、商業と簿記は一体のものであり、商業への役立ち、簿記なくしては商業の発展はないという関係にある。
 商業の発展にともない、富の尺度が土地や金櫃に入っている金銀などの現物を離れ、富を象徴する貨幣に移るようになると、教会の貨殖禁止の考え方も変化する。
 
「教会が語ったことと行ったこととは同じではなかった。僧侶や国王たちは、利子をとることには反対する法律を作ったけれど、自分たちのつくった法律を最初にやぶった者のなかには彼らもまじっていた。彼らは、他の高利貸たちを追求していたちょうどその時に、自分自身では利子つきでかねを貸していたのだ。」「権力者や金持ちたちが、自分の持っている富や権力を維持するためには手段を選ばないということは、歴史をつらぬく真理であるようにみえる。犬は自分のくわえている骨のために闘うだろう」
 (1963岩波新書 小林良正・雪山慶正訳 レオ・ヒューバーマン「資本主義経済の歩み(上)」)

 
「罰当たりの坊さんのように、人には天国へ登る険しいいばらの道を教えながら、御自分はその忠告を棚に上げて、脂肥りの道楽者のように歓楽の花咲く道を歩く」(1957岩波文庫 市河三喜・松浦嘉一訳 シェイクスピア「ハムレット」)
 新しい富の出現によって、貴族達と並んで土地所有者であった教会の考え方も、自分の土地を守るためにも、また教会の維持のためには金が必要だという現実的な問題に対処するためにも、教義を変更せざるを得なくなったのである。

 つまり、貨殖も節度の範囲内でなら構わないという教義の変更である。
 「古い経済に適するように定められた教会の教義が、勃興する商人階級によって代表される歴史的な力と衝突するときは、一体どうなっただろうか?道をゆずったのは教義の方だった。もちろん、この過程は一挙にではなく、ゆっくりと、一歩一歩行われた。以前のように『高利貸は罪であるがーーーーしかし事情によってはーーーー』と語る新しい規則、または『高利を取ることは罪である。それにもかかわらず、特別な場合にはーーーーー』と語る新しい規則によって」(1963岩波新書 小林良正・雪山慶正訳 レオ・ヒューバーマン「資本主義経済の歩み(上)」)
 貨殖は、教義の束縛からも開放され、商業の発達や大航海時代による商業革命が起こってくると、簿記はますます重要なものとなってくる。

 

4、簿記の発明
 「簿記」という言葉は、bookkeepingの訳語で、帳簿記入を略して命名されたという。明治6年の大蔵省刊の「銀行簿記精法」に「簿記」という言葉が最初に使用された。bookkepingの訳語として簿記が用いられるようになった理由の一つとして、原語の音を訳語に反映させようとしたためといわれている。
 bookkeepingの訳語のいわれは定かではない。「帳簿記入」のなかの2字が残ったといわれるが、ブックキーピングの音との関係も無視できない。日本経済新聞社の「名言の内側」(1990)で外山滋比古が「一石二鳥」と題して「明治の人は漢学の素養が豊かだったから、外国語を片っぱしから漢字にした。名詞はたとえばキャビネットが内閣、バンクが銀行というように漢字二字になった。中でも秀逸なのが簿記で、ブッ(ク)キーピングの頭の音を温存しながらも意味もあらわして心にくいばかり。」と書いている。
 さて、通常、簿記という場合は「複式簿記」のことを指す。複式簿記以外の簿記を総称して「単式簿記」というが、例えば家計簿や大福帳の類を指し、不完全簿記、または非体系的簿記である。
 複式簿記を誰が考案したかは知ることができない。推論としては、古代ローマの奴隷と主人の関係に求める「古代ローマ起源説」がある。しかし、史料的には中世イタリアでその道筋は途絶えている。「中世イタリア起源説」には、「トスカーナ説」(両替商の帳簿に名目勘定の存在をもって複式簿記の起源とする)、「ジェノバ説」(1340ジェノバ市庁の財務官の帳簿に複式簿記の存在を認めるもので、多数説)、「ロンバルディア説」(十四世紀 ミラノ商人であるカタロニア商会の帳簿を複式簿記の起源とする)などの説がある。これらの説は何をもって複式簿記とするかというメルクマール(判断基準)の相違によるが、確かなことは十四世紀のイタリア商人によって発明されたということである。
 「複式簿記が、最初、いつ、どこで、誰により発明・発見されたかについては、今なお明確でない。この複式簿記起源論に関しては、簿記研究者達は、おおむね、二つに大別される。
 その一つは、古代ローマ時代の奴隷簿記に起源を見出そうとするもので、その代表的見解として、マレイとカッツの所説がある。この考え方を支持する人々は、比較的少数である。ローマ起源説に対して、イタリア起源説がある。商業の復活以来、地中海貿易を中心として、一路、資本主義経済への発展の途をたどって来た、中世紀末から近世初頭にかけてのイタリアの経済的発展のうちに、時代的要請にもとづき、生成発展してきたとする考え方で、ペンドルフ、ブラウン、ペラガロ、リトルトン、ゾムバルト等多くの人々は、この立場に立っている」(1987森山書店 小島男佐夫「会計史入門」)
 
「複式簿記生成の端緒に関する問題については、奴隷と主人の委託・受託関係の把握記録として生成したか、それとも取引先との貸借関係記録として生成したものかという、いわゆる代理人説と資本主説の対立問題である」(1969 未来社 茂木虎雄「近代会計成立史論」)
 複式簿記については、今から約500年前の1494年にイタリアの修道僧ルカ・パチオリによってはじめて体系的に記述された。
 パチオリ(Pacioli)かパチオロ(Paciolo)かをめぐって、会計史家の間で論争が闘わされたことがある。ズンマでは著者名を「Frater  Lucas  de  Burgo  Sancti  Sepulchri  ;サン・セポルクロ町の兄弟ルカ」と称するにとどまっているためである。会計史家の間でも統一されていない。Lucaを冠するときはLuca  Pacioli、単独で用いるときはPacioloという説が有力である。
 ルカ・パチオリは、その著「数学・幾何・比例・比率要論」(ズンマ)という数学書の一部、「記録・計算詳論」の中で複式簿記について36章にわたって書いている。これは、十五世紀のベネチアで行われていた簿記法の集成である。
 ズンマ(Summa de ArithmeticaGeometriaProportioniet Proportionalita)の、ラテン語Summaは、英語のsumsummary(合計、概略、要約)で、「全書」「要論」という意味である。
 以下、「リトルトン会計発達史[増補版]」(1978同文館)より、長くなるが見出し文を掲げる。
 第一章         正しき商人に必要なる諸事項ならびにヴェニスその他にて行われる元帳及び仕訳帳の記録方法
 第二章         本論の第一部、財産目録とは何か、如何にしてこれを作製するか。
 第三章         すべての用件を具備せる財産目録の模範例。
 第四章         よき商人に対するはなはだ有益な訓誡および教訓。
 第五章         本論の第二部、記録、記録の意義、営業取引の記録の方法および商人の三主要簿について。
 第六章         日記帳または覚帳もしくは家事費記入簿と称する第一帳簿について、その意義その記帳法如何、誰
      が記帳するか。
 第七章         多くの場所において商業帳簿は如何に信認せらるるか、その方法および理由についてまた何人がこ
      れをなすか。
 第八章         前記の日記帳への記入法、およびその例解。
 第九章         商人が通常仕入をなす九種の方法、および掛買を必要とする商品について。
 第十章         仕訳帳とよぶ第二の主要商業帳簿、その意義、如何にして順序正しくこれを記帳すべきか。
 第十一章    特にヴェニスにおいて仕訳帳に用いる二つの用語について、一は‘Per’とよび、他は‘A’と
      よぶ。この用語の意義如何。
 第十二章   
借方および貸方により仕訳帳に記入する方法について、その例解。元帳に使用する他の二用語につ
      いて、一は現金とよび他は資本とよぶ、この二語の意義如何。
 第十三章    元帳とよぶ第三の最も重要な商業帳簿について。如何にこれを記帳すべきか、索引附きまたは無し
      にて、単式および複式の記入は如何になすべきか。
 第十四章   仕訳帳より元帳への転記法について。仕訳帳の各記入につき元帳へ二重の記入がなされるは如何なる
      理由か。如何にして仕訳帳の記事を抹消するか。元帳の各頁の端に記入する二つの数字について、その
      理由。
 第十五章    現金および資本の項目を元帳の借方および貸方へ転記する方法について。日附を頁の初めに記
      入する旧来の方法とその変化、営業の必要に応じて大小の勘定科目を設定するために各頁を如何にして
      区分すべきか。
 第十六章   財産目録またはその他により所有を確認せられた商品を元帳の借方および貸方へ如何に記入すべきか。
 第十七章   官庁の会計を整理する方法およびその理由。市庁の管理するヴェニス市貸付金について。
 第十八章   如何にしてヴェニスの取引所に対する計算を処理すべきか。如何にしてその科目を日記帳・仕訳帳・
     元帳へ記入すべきか。
 第十九章   為替手形または銀行を通じてなした支払は如何にして主要簿に記帳すべきか。
 第二十章   交易および組合に関する周知の特殊項目について。それらを商業帳簿へ如何に記入すべきか。第一に
      単純なる取引、次ぎに複雑なる取引について。ならびに日記帳・仕訳帳・元帳へのすべての記入例。
第二十一章
      組合とよぶ他の周知の取引。これを如何に適当に記帳すべきか。
第二十二章    
各種の費用、例えば家事費、経常費、営業費、番頭および見習人の給金に関する記帳の順序およびその
       記帳法について。
第二十三章
 自己の管理する店舗、または他人をして管理せしめる店舗の勘定の記録方法。また店の帳簿と持主の公
             認帳簿とに別個にこれを記入するにはなぜするか。
第二十四章
 銀行勘定は如何に仕訳帳および元帳へ記入すべきか、その勘定の意義如何。為替手形――銀行と取引す

        る場合および銀行業者なる場合、荷為替領収書―――、その意義如何。なぜ複本を作るか。
第二十五章
    収入および支出と称する普通に元帳に記入する勘定について、しばしば別冊の帳簿に記入せらるるはな
              ぜか。
第二十六章
     みずからなした旅行または他人をしてなさしめた旅行に関する勘定を帳簿に記入する方法およびそれに
              関する二つの元帳の成立する理由。
第二十七章
    利益および損失または収益および不足とよばれる他の周知の勘定につき、如何に元帳に記入すべきか。
              なぜに他の諸勘定のごとく仕訳帳に記帳せぬか。
第二十八章
    元帳が記入済となったとき如何に諸勘定の繰越をなすべきか。元帳で不正を行い得ないようにするため
              それらを如何なる場所に転記すべきか。
第二十九章
     毎年帳簿の締切をせぬ場合元帳の二つの連続した記入の年号は如何にしてこれを変更すべきか。
第三十章
         債務者が請求する場合彼のために、または他人の財産管理に関する代理人なる場合その主人のために、
              計算書を如何にして作るか。
第三十一章
    不注意により往々生ずる錯誤により一つもしくは多くの記入を異なる場所へ記入したとき、如何にして
       これを抹消または訂正すべきか。
第三十二章
   如何にして元帳を平均するか。また如何にして旧元帳の口座を新元帳に移記するか。
第三十三章
    帳簿締切中に起こった取引の記録整理方法につき、締切期間中は旧帳簿はなぜ記入を行わずまた変更も
              加えぬのであるか。
第三十四章
    如何にして旧元帳のすべての口座を締切るべきか、その方法および理由。借方および貸方の総計および
              試算表について。
第三十五章
    如何にして如何なる順序に、手記、書信、証券、手続書、判決書その他の書類および重要信書の記録帳
              を保存すべきか。
第三十六章
     商人の元帳記入に関する規則および方法の総括。
 

以上の各章で、パチオリは、棚卸や諸取引の貸借記入、元帳への転記、試算表の作成、損益勘定の残高を損益集合勘定を経て資本勘定へ振り替えることによる締切法などについて記述している。これは、現在われわれが用いている複式簿記とほとんど差異はない。
 また、1494年にベニスで出版されたズンマは、1543年にインピン(  Ympyn :パチオリの複式簿記論をヨーロッパ全体に普及せしめた第一人者)によってオランダ語、フランス語及び英語に翻訳されたことを皮切りに、世界各国語に翻訳され、普及していった。
 この普及の原因の一つとして、当時の書物は一般的にはラテン語で書かれることが多かったのに対し、ズンマは一般の人々が読み得るイタリア語で書かれたこと、及びドイツで発明されたばかりの金属活字を使用したことなどがあげられている。

 

5、借方と貸方

簿記を初めて学ぶ者にとっての最初の難関は、「借方」「貸方」という特殊な簿記用語である。「借りる」「貸す」といった日常用語からは、「資産は借方」というイメージは湧いてこない。 
 「借方」「貸方」は、今では本来の意味を失って、単なる符号にすぎない。AでもBでも、甲でも乙でも、左右でも、何でもよい。

 字句にこだわると、100年たっても分からないのであるが、しかし、現代においては単なる符号に過ぎない「借方」「貸方」という言葉は、簿記が考案された時代においては意味を持っていたのである。
 複式簿記は、Double Entry Bookkeepingの訳で、「複記式簿記」のことである。これは単式簿記 Single Entryに対する言葉であり、一つの取引を「借方」「貸方」に分けて帳簿に記入する「貸借記入原則」を基礎とした記録体系である。
 「借方」「貸方」は、もちろん日本語であり、これは英語のDebitCreditの訳語である。西洋式簿記が本格的に日本に輸入されたのは、明治維新以降であり、翻訳にあたり、Debtorを借方、Creditorを貸方と訳したものであるといわれている。
 この訳語は、1873年(明治6年)に福沢諭吉がアメリカの学校用簿記教科書(
Bryant     Stratton’s  Common   School  Bookkeeping、1861)を翻訳した「帳合之法」(ちょうあいのほう)に、「借」「貸」として訳したのが最初であり、この訳語は福沢門下生等によって継承され、広まっていった。
 ちなみに、「帳合之法」における主な訳語は次の通りである。
 帳合       ブックキイピング
 略式       シングル・エンタリ    或イハ単記ト訳スモヨシ
 本式       ドッブル・エンタリ    或イハ復記ト訳スモヨシ
          デビト
          クレヂト      (1994東京経済情報出版  小林健吾編著「日本会計制度成立史」)

 ちなみに、「借方」「貸方」というのは、まことにわかりにくい表現であるが、もともとは、債権・債務の備忘記録から発生したもので、意味を持っていた言葉である。

 英語DebitCreditに該当する各国語の言葉は、字義的には“Give”、“Have”である。                   

Give

Have

英語

Debit  

Credit

フランス語

Doit 

Avoir

ドイツ語

Soll

 Haven

    これらの言葉は、記帳者の備忘記録が簿記の原形であり、記帳者の立場からの一種の責任性(Accountability)を含んだ表現である。
すなわち、この責任性は、「いま受け取るものは、後で返さなければならない」、従って「返す」「与える」義務を「
Give系の言葉」で表現し、「いま与えるものは、後で返してもらわねばならない」、従って「返してもらう」「得る」権利を「Have系の言葉」で表現したものである。
 「当時の記録形式は、おそらくは、より前の時代に用いられているやり方にならっていたものと考えられる。記録の中に、人称代名詞が記されたり、或るいは、人称代名詞がはっきり意味されていたりすることでわかるように、勘定の見方はつねに人的見解をとっていた。かつ、未来を期待する言葉で記録が行われていたこともわかる。「must  give 与えなければならぬ」、「shall  give与うべし」、「ought  to  give  与うべきである」などは未来を期待する字句である」(1978 同文館 片野一郎訳「リトルトン会計発達史〔増補版〕」)
 初期の頃は、債権・債務勘定の記録が中心で、従って、人名勘定が主であり、非人名勘定
(例えば名目勘定としての損益勘定)の概念がなかった時代の名残が、「借方」「貸方」として定着し、その後の簿記の発展においてもそのままの言葉で残ったものと考えられる
 これも、史料からの推測の域を出ないわけで、なぜ「借方は左側」「貸方は右側」になったのかは、依然として不明なのである。
 従って、教師によってなされる「借方」「貸方」の用語の説明及び左右の位置関係は、「水源は分らなくても、現に川の水はわれわれの眼の前を流れている」(フランスの数学・物理学者であり、科学評論家で有名なポアンカレの言葉)の暗記方式か、または比喩でなされている。
 16世紀の簿記書においては、「貸借の記入は、『貸し』は元帳の『右』側である。何となれば、信頼、信用は右手で表現されるから。財貨の受入れは左である。何となれば、保有することは『売る』『渡す』ことに先行するからである」(1986 一橋出版 上原孝吉「簿記の歴史」)という説明がなされているという。
 また、「バランスシートを考案したのが、イタリアのルカ・パチオリであってみれば、彼がいたのはイタリア半島の東海岸で、船の出ていく側が左で、右が陸地になる。陸地右側にいる貸方から資金を借りて、左側から船に積んで出て行く。従って、左側に商品勘定等の資産、右側に負債・資本勘定となる」といった説明もなされる。

 なお、借方・貸方の用語法は、イギリスや大英帝国連邦であったインドで用いられている英国式貸借対照表(左側に負債・資本、右側に資産)を左右の位置関係を無視して、言葉だけみれば日常の用語法と一致する。

6、簿記の機構
 十字軍によって、東方交易が盛んになり、貨幣経済が主役になると、商人間の信用取引が増大していく。

 信用制度の発達は、技術上の発明・発見とともに、資本主義経済の発達に不可欠のものである。
 「信用は資本主義経済の膨張を現実にした。それはこの膨張をうみ出した諸力を開放したからである。信用は指導的経済主体のうちにある経済的エネルギーを上向せしめることに貢献したのである。信用は経済過程に動態的なものを注ぎ入れて、経済循環をますます高速度化するように駆り立てた。それは帆に風を孕ませ、蒸気機関の圧力をたかめ、電流の力を強化して、航行の速度をますます早めたのである。――――――近代技術と信用経済とは、それらの虜となった企業家を媒体として生命ある人間となり、高度資本主義の経済組織をうち建てたのである」(1940有斐閣  梶山力訳 ゾンバルト「高度資本主義T」
 商人達は、信用取引の増大によって、貸付金や売掛金を確実に整理しておく必要があり、単なる備忘記録から、帳簿を備えるようになった。帳簿の記入形式は、史料によれば、当初は垂直方式であった。
 やがて、貸付金や売掛金が清算されたときは、記録を抹消していたものが、分割払いのような場合には不便なことから、次第に上下分離方式を経て左右分離の両側形式になっていった。
 この両側形式は、反対配置による減算方式であり、債権・債務の帳簿記録から長い歴史的生成過程をへて産み出された簿記特有の技術である。
 簿記は、詳細な報告をするための一種の分類機構である。同種のものを集計して説明づけるための統計的手法である。
 物事を理解するときに「分かる」というが、この「分かる」ということは、複雑なものであっても「分ければ分かる」という、分類・集計作業を通して理解できることを意味する。このような簿記の特性から、例えばパチオリは「数学・幾何・比例および比率要論」という数学書のなかで簿記を書いており、十九世紀までに書かれた簿記書の著者は、代数学、航海術、光学の権威、その他天文学とか火薬術の権威など、どちらかといえば数理系の学問領域で扱われている。
 さて、簿記は一種の統計的手法であるが、単なる統計機構とは異なる特徴を持っている。単なる統計機構であれば、同類の加算のみ行えば用は足りるが、簿記はプラスの要素とマイナスの要素のそれぞれを合計して計算して、結果として残高を求めるところに特徴を持っている。
 「計算資料のもつところのこの性質、すなわち『組』における量の増減という特徴は、実際に記録をおこなう場合にどうしても両側形式をとらざるを得なくなる。つまり、同類要素をあつめる側とそれに対する反類要素をあつめる側を必要とする。しかも、計算上根本的に重要なのはつねに組の残高、すなわち、同類と反類との差額である。このような残高のもとめ方にあっては、減算は反対配置の形式で示されるようになる」(1978同文館 片野一郎訳「リトルトン会計発達史〔増補版〕」)
 両側形式の記帳法式に加え、貸借関係の整理を繰り返すうちに、ある一定の法則関係、すなわち、貸付金の増加には現金が減少する、借入金の増加には現金が増加するといったように、一つの取引には二つの勘定が増減することに気づくようになる。

 この、二つの勘定が同時に増減するという事実の発見は、例えば現金の増加は貸付金が返済されたか借入を行ったかというように、財産の増減には原因と結果の両面の事実があるという発見である。
 この因果関係を同時に把握する方法・技術を体系化したのが、複式簿記である。大福帳などの単式簿記では原因、または結果の一面でしか把握できない。          

複式簿記

  単式簿記

すべての取引を原因・結果の貸借に分析して記帳 原因または結果の単記帳
貸借平均の原理から試算表によって記帳の正確性が検証可能 貸借平均の原理が働かないから試算表の作成は不可能
元帳に基づいて貸借対照表や損益計算書が作成できる  元帳では不完全であるから、貸借対照 表の作成は棚卸しの実施が必要 、損益計算書の作成は元帳の分析が必要

     このように、複式簿記は借方頁と貸方頁という「形式の二重性」と、因果関係を同時に記帳する貸借平均の原則によって行われるという「記入の二重性」を特徴としている。この記入の二重性(貸借同時記入)は、成果測定機能の発見をもたらす。
 貸借平均の原理による複式簿記の計算は、借方・貸方という簿記特有の用語と並んで、わかりにくいといわれている。この原因は、日本人の計算思考が西洋式計算思考と異なっており、この端的な例が釣り銭計算であるという。
 
「日本人の計算思考は、釣り銭の計算において、買い手の出した高額紙幣の金額から商品の代金額を引く算出方法に端的に現れるように、引き算を多用する。それに対し、西洋式釣り銭計算では、品物の代金と釣り銭の額を足して、その合計額を買い手の出した高額紙幣に一致させる。中世イタリアに端を発した洋式複式簿記でa―b=xという形ではなく、a=b+xという形で勘定記入することを『加法的減算』とか、『加法的減法』などと称するが、それは、ただ単に足し算による験算(ためしざん)の形で記録しているのに過ぎない」(1995 岩波書店  安岡重明・天野雅敏編「日本経営史1・近世的経営の展開」)
 従って、中世イタリア人は、計算能力の弱さを補う必要から、加法的減算を応用して、貸借を平均させる左右対称の記録計式を発明したのかもしれない。

 「記入の二重性」によって、複式簿記は、「財産計算(財産簿記)」「成果計算(成果簿記)」との結合という最大の特徴を獲得したのである。
 この因果関係を同時に把握する複式簿記は、業務遂行の結果責任としてのアカウンタビリティの方法として採用されるとともに、受託者の業務遂行(経営)に寄与することになる。すなわち、受託者である企業家は、委託された資本を増殖するという責務をまっとうするために、単に委託者の指令で動くのではなく、自らの創意と工夫であらゆる努力を払わなければならない。投資の判断、投資結果の分析、現状の判断、現状改革の判断などの経営上の課題に対し、その判断材料としての資料提供が、アカウンタビリティの方法以外に簿記に付け加えられた職能でもある。この企業家の行動に簿記の役立ちという発見が、簿記を発展させたのである。
 このことは、特に名目勘定(財産の増減の原因を示す収益、費用等の抽象勘定)が増加していることからもうかがうことができる。

 

                                                                                                       

 7、貸借対照表の意義と構成
 企業の経済活動は、簿記と会計理論というパートナーシップで結ばれ、財務諸表という様式で利害関係者に報告される。

 前6で、「財産計算(財産簿記)」と「成果計算(成果簿記)」が結合されたものが複式簿記であることを述べた。
 この財産計算(財産簿記)の結果として表され、報告されるのが「貸借対照表」(Balance  Sheet  B/S)である。
 貸借対照表は、企業の一定時点(決算日、それも“瞬間風速的”)における企業の「財政状態」を表すものである(あくまでも「財政」状態であって「財産」状態ではないことに注意。この点については、後述する)。
 さて、貸借対照表という言葉は、英語のBalance  Sheetの訳ではない。明治23年の旧商法の「貸方及び借方の対照表」に由来する。
 これは、債権を貸方、債務を借方と観念する日本語の発想から、ドイツ商法の「eine  Bilanz  seiner  Aktiven  und  Passiven」のAktivaを「貸方」、Passivaを「借方」と訳したのが、貸借対照表として定着したものと言われている。
 ちなみに、アメリカでは一般的にはBalance  Sheetであるが、この他に「Statement of  Financial  Position」または「Statement  of   Financial  Condition」という表記もある      。貸借対照表のあらわす機能を財政状態の表示であることを考えれば、「Statement of  Financial  Positioncondition)」の方が、内容を表している。

 また、会計学は、貸借対照表論であるという考え方が長い間支配してきた。

 会計学といった場合、ほとんどが貸借対照表中心に展開され、損益計算書が登場して、そしてその主役の座を占めるのはごく最近のことである。
 「歴史的にみると、会計学はきわめて若い未成熟な社会科学の一部門であって、当初は、貸借対照表問題を解決するために、十九世紀末あるいは二十世紀初頭に現れてきた学問であった。ここにいう貸借対照表問題とは、貸借対照表に記載すべき財産の評価問題にほかならなかった。当時は、貸借対照表重点主義ともいうべき時代で、損益計算書問題等他の分野が軽視されていたきらいがあり、会計学と貸借対照表とは同視されていたという時代もあった。貸借対照表論は、やがて、財務諸表の全体系を包含する財務諸表論に発展したのである」(1984 中央経済社 黒澤清「近代会計学入門」)


 
貸借対照表は、両側同形のT字型で表し、左側・借方には資産、右側・貸方には負債・資本が納められる。
 借方・資産は、調達された資金の企業における運用状態を表す。つまり、元本としての資金(資本金・負債)が、マルクスの言う「ずるい下心」(儲ける意志)が込められ、資金としての貨幣が具体的な実体に変化したものが資産である。
 貸方には、資本・負債の系列が納められる。貸借対照表における貸方は、元本資本の実体を表す借方資産に対して、その所有区分を表す。この所有区分は、借方資産を構成する「他人持ち分」(他人資本=負債)と、「企業持ち分」(自己資本=資本)とに、再区分構成したものである。つまりは、借方資産の性格分類したものが貸方である。 

8、損益計算書の意義と構成
 簿記は、債権・債務の記録の必要性から発明され、未成熟な経済状態における債務返還能力重視の考え方、及び所有資産に対する課税の要求などにより、長い間貸借対照表重視の時代が続いた。

 損益計算書が財務諸表の仲間入りを果たすのは、近世のことである。
 この損益計算書(Profit  and   Loss  Statement  P/L)を浮上させるトリガーとなったのは、株式会社の発明である。株式会社は、継続企業であり、投資額が1回の配当によって解散される投機とは異なり、定期的に配当が得られる長期的投資である。
 従って、長期継続を予定する株式会社における会計の主題は、「元手」とその「運用の成果である利益」の区別に焦点が合わされ、この区別の必要性から利益を峻別すべき損益計算の諸原理が整備されてきた。
 損益計算書は、経営成績(経営の結果としての「利益」または「損失」)を明らかにする目的で作成される。

 すなわち、(期末)貸借対照表を結果系として、その結果に対するプロセス系(原因系)を明らかにするのが、損益計算書であり、増減分析計算書である。
 


  
企業の第一義的な存在目的は、利益の獲得にあるから、利益達成のプロセスを表すのが損益計算書であり、利益達成の結果としての財務状況を表すのが(期末)貸借対照表である。

 

9、簿記と会計
 英米では、BookkeepingAccountingという言葉があり、わが国ではこれを「簿記」と「会計」と呼んでいる。
 会計という語は、中国古典にみられる「会稽」に語源を持つといわれている。「禹が大に諸侯を茅山に集めて天下のことを会稽す。よってその山を会稽山と呼ぶ。会計は会稽なり」。Accountの訳語に「会計」という語を充てたものとされる。

 
 会計(理論・制度)は、企業が営む経済活動を貨幣単位によって測定し、その結果をまとめて利害関係者に報告する全プロセスの理論的側面を担当する。
 対して、簿記は会計の技術的側面を担当する。従って、簿記は、会計の実践についての現実の手段である。
 簿記と会計の構造との関係は、簿記というものが会計のための記録としてもちいられるばあいに、その会計の構造というものが、簿記の仕組みに投影されるという関係なのであって、簿記の仕組みそれ自体は、多様な会計の構造に対応することができるのである。しかもまた、その会計の構造と機能の関係については、とりあえず、ふたつの面としてわけてはみたものの、この両者は相即不離のあいだがらにあり、構造は機能によって規定されるべき関係にあるが、会計(の機能)と簿記との関係はかならずしもそうではない」(1996有斐閣 友岡賛「歴史にふれる会計学」)
 発生史からみると、会計理論が整備されてきたのは、株式会社が発明され、固定資本が大きくなったごく近世のことであり、株式会社の簿記が近代会計理論を発展せしめたものである。

 企業の経済活動は、簿記と会計というパートナーシップで、貨幣単位という数量的表現に置き換えられ、財務諸表という様式で利害関係者に報告される。
 ところで、わが国では、簿記学と会計学の二本立てになっているが、アメリカにおいては、「簿記」という表題の本は40年前から姿を消し、簿記は会計学の一部とされており、その初期の段階で扱われているという。
 アメリカでは会計学(Accounting)あるいは会計学原理(Principles of  Accounting)という名称で簿記論と財務諸表論が一括して論ぜられている。『財務諸表論』とか『会計財務諸表』という表題の書物は、すでに1930年代にも出ているが(例えばMBDaniels Financial  Statements1939)、ごくわずかであり、それも学科の名称として用いられたのではない。現在でもそうである。
 したがって財務諸表論というのは、きわめて日本的な学科名称だと考えてよい。恐らく昭和23年の公認会計士法で第2次試験科目の一つとして挙げられたことが、この名称が一般化した最大の原因だとみてよいであろう」(1989 白桃書房 中村忠「新版 財務諸表論セミナー」)

【補足1 アカウンタビリティ】
 「英語では、(responsibility責任の)ほかにliability(ライアビリティ)やaccountability(アカウンタビリティ)という言葉があります。前者の「ライアビリティ」は、責任や義務、たとえば納税義務(liability  to  a  tax)とか兵役義務(liability  for  military  service)という意味で使われますが、法的な責任・義務という意味合いが強いように思われます。
 ところで近代株式会社は、有限責任を基本とします。株主は、会社の倒産の際、株券は反古と化しますが、会社の負債に責任を負いません。カンパニー・リミテッド(株式会社,company  limited)という表記はそのことを示しています。そしてこの際の有限責任という表現が、英語ではlimited  liability(リミテッド・ライアビリティ)と表記されるわけです。
 Accountabilityの場合は、「説明責任」と訳されている場合もあるかもしれませんが、「説明義務」という訳語のほうが多いように思います。アカウント(account)というのは、「説明する」という意味で、「アカウンティング」というと「会計」のことを意味します。つまり、会社は、会計によって経営内容を説明する「説明責任(アカウンタビリティ)」があるということになります。これがaccountabilityという言葉の意味するところです。」(1998講談社現代新書 桜井哲夫「〈自己責任〉とは何か」)
 経営用語では、
Authority《=権限》とResponsibility《=責任》とAccountability《=責務》の三つを“三面等価の法則”と呼ぶ。この三つはバラバラな概念ではなく三つ揃って初めて全体が成り立つものだといえる。すなわち、三位一体の概念である。
 責務(=
Accountability)という概念は、責任を果たすために、権限を使いながら行った結果、あるいは成果に対する“責任”のことである。いいかえれば、やった仕事のでき栄えがよくて所期の目標を達成できた時には初めてAccountabilityを満足させることができ、責任を果たせたと評価されるのである。 日本語では“責任”といういい方で一括りにしてしまいがちだが、英語では職務遂行責任(Responsibility)と結果責任(Accountability)とに使い分けている。 

 

【補足2 貨殖の禁止】
 「キリスト教と経済学との関係のうちでもっと特殊な関係は、利子をとることに関する法律にかかわるものであった。生産要素の一つとしての労働は良いものと見なされた。イエスも使徒たちも、労働をほめそやした。労働者は賃金を受けるに値すると考えられていた。また、地主の報酬も、ひどく批判されることはなかった。しかし初期のキリスト教の教義は、利子をとることを強く非難した。利子は、ギリシャ人の場合と同様に、資力を超えた必要や義務に迫られた不幸な人・愚かな人・貧窮した人から幸運な富者がまきあげるものと見なされていた。かねを借りた人が借りたかねからもっと多くのかねをつくることもありうるのだが、そうしたことはローマ時代にはまだ有効な地歩を築くには至っておらず、利子を取ることをそれによって是認するということもなかった。事実、その後の1800年(以上)の間、利子を正当化する理屈を見つける必要が、一部の革新的な人たちの心を捉えたのだった。この期間全部を通じて、かね貸しは、いかがわしい人物、さらには非難すべき人物であった。そしてかね貸しがユダヤ人であれば、彼が利子を取ることの禁止に服しているかどうかよくわからないので、彼は反ユダヤ主義のうってつけの目標とされた。欠陥をまぬがれない一見解によると、キリスト教が利子をとることを制限したため、資本主義の初期の発展においてユダヤ人が中心的役割を果たした、という」(1988  ダイヤモンド社 鈴木哲太郎訳 j.k.ガルブレイス「経済学の歴史」)
 下線部分の「欠陥を免れない見解」とは、ヴェルナー・ゾンバルトの説である。ガルブレイスは、ゾンバルトを「仕事熱心であるが、全面的に信頼のおける学者ではない」と評価している。なお、ゾンバルトの説は、「ユダヤ人と経済生活」(1994 荒地出版社)において展開されている。
 また、貨殖禁止の理由を、レオ・ヒューバーマンは「資本主義経済の歩み
()」(1953岩波新書 小林良正・雪山慶正訳)では、次のように述べている。
「もし、諸君が、貨幣を使用させる代償として利子をとったなら、諸君は、諸君が売ることをゆるされていない時間を売ることになるのだ。時間は神のものであり、諸君はこれを売る権利はもっていなかったのだ。
 そればかりではない。貨幣を貸して、元金ばかりでなく一定の利払いをも受けとることは、働かないで生活できることを意味した。そして、これは不正だった(中世の観念によれば、僧侶も戦士も、めいめい彼らにふさわしい仕事について『働いて』いたのだ。)ぼくの貨幣が、ぼくのかわりに働いていると答えれば、教会人を怒らせるだけのことだったろう。教会人は、貨幣は非生産的で、何もつくりだすことはできないと答えたろう。利子をとることは断然不正だーーーと教会は語った。」

 

【補足3 中世の教会の影響】
 
「考え方の刷新とは、今ある状態を変化させることだが、十字軍の時代の教会はまさに思想、秘蹟、教義の偉大なる統一体であった。教皇の崇高性により、また日常の生活規律の指示によって、中世の教会は、その教区の人びとの宗教行事にばかりでなく、俗事にいたるまでゆるぎない影響を与える立場にあった。教会による判断、行動、生活方法への影響は絶大なものがあった。当時、礼拝やその他の儀式ばかりでなく、人間としてのあり方すべてが、ほとんど教会の考え方によって指示された。教会の実業界に対する考え方、もっと具体的にいえば教会が考える企業倫理は、特定の経済的意義をもっていた。

 中世経済の急務の1つは、冒険資本を形成することであった。交通手段の限界が、資本が余剰となっている地域から資本を必要とする地域へ資本自体の移動させるのを困難にした。このような息のつまるような状況に加えて、中世の教会によって発せられた資本移動への特別な懸念のために、資本形成がほとんど完全に抑圧された。
 聖書による警告「もし、汝が金銭をみずから貧しい人びとに貸したならば、汝は彼にとって高利貸であってはならないし、彼を高利貸に委ねてもならない。(旧約聖書:「出エジプト記」第22章25項)」が、強制的に勧められた。利子は本来的に罪なものとしての烙印が押されていた。当然、そのような考えは、資本資金の融資を促進することはなかった。なぜなら、その取引にともなう危険の補償の欠如のためである。したがって、資本市場の類いは中世ヨーロッパではほとんど見いだせなかった。活力の要素たる資本、すなわち、17世紀、18世紀の動的資本主義経済は、中世では可能ではなかった。商業は利子収入に付随する汚名が取り除かれてはじめて繁栄しはじめたということに注目するのは興味深い。」(1993 同文館 
VK・ジンマーマン「近代アメリカ会計発達史」

 

 

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