中書省 | 中国歴史コラム |
第一回 三国時代の蜀漢昭烈帝、劉備玄徳は本当に 「漢の中山靖王劉勝の末孫、景帝の玄孫」なのか? さて、このコラムの初回として、こんな話題を選んでみました。 日本で「中国の歴史に興味がある」という方の多くは、何らかの形で「三国志」を読んだことがあると思います。 特に「三国志演義」の翻訳本、時代小説「三国志」(吉川英治著)、漫画版「三国志」(横山光輝著)の内、どれか1つでも読んだ・見たことのある方が殆どではないでしょうか(ちなみに、私は全部読んでいます(^^))。 その中で「三国志(演義)に主役は居るのか?また居るとしたら誰?」という事を考えたことがおありでしょうか?私は有ります。で、主役が居ると仮定した場合、結論としては結構月並みかも知れません(^^;が「前半が曹操、後半が諸葛亮」と言うことで妥当だと思います。 しかし、「全体の」というか「物語上建前の(^^;主役は?」という話になると、やはり蜀漢の昭烈帝、劉備玄徳の名前をあげざるを得ないでしょうね。 この劉備ですが、他のゥ群雄とは違って身分・財産もかなり低い部類に入ります。その為、代わりによく称されたのが、「私は元を正せば漢の中山靖王劉勝の末孫、景帝の玄孫である。今はこのように落ちぶれているが…」というお話です。 ところで、この「漢の中山靖王劉勝の末孫、景帝の玄孫」という劉備の金看板は本当なのでしょうか?今回はこの点をちょっと調べてみましょう。 先ず、「三国志演義」の第20回、曹操と劉備が徐州において呂布をようやく討伐し、都に戻って献帝に拝謁した際、劉備がその出自を問われ、献帝が宗正卿に系図を調べさせるくだりがあり、そこでは、 孝景皇帝十四子を生む。その第七子、中山靖王劉勝也。勝、陸城亭侯劉貞を生む。貞、沛侯ミを生む。ミ、…(中略)…恵、東郡范縣令劉雄を生む。雄、劉弘を生む。弘出仕せず。劉備は弘の子也。 と記載されています。それを図にしたのが左の系図です。 しかし、この系図はどのくらい信憑性が有るのでしょうか?まあ「三国志演義は小説だから嘘も書いてあるよ」と言ってしまえば確かにそうですが、それではあまりにも寂しい(^^;ので、検証してみましょう。 最初に、金看板で名前の出てくる「景帝」とは、劉備が生まれた後漢(東漢)時代の皇帝ではなく、その前の前漢(西漢)時代の皇帝です。その在世中に「呉楚七王の乱」が起き、または匈奴・西域征伐等で有名な武帝の父にあたる帝ですね。前漢第4代皇帝にあたります。 次に「漢の中山靖王劉勝」ですが、これも後漢ではなく前漢の王です。景帝は確かに子供の内14人を王に封じています(その内1人はその後皇太子になる、のちの武帝です)が、その中に中山王劉勝の名前も見えます。また、王の諡号も確かに「靖王」となっています。 (詳細は「宗正寺」-「前漢帝王系図」のページを見て下さい) また、確かに中山靖王劉勝の子供に陸城侯劉貞という人物は存在していますので、少なくともここまではある程度事実をふまえて書かれています。 しかし、その後の「沛侯劉ミ〜」以降の内容は頂けません。なぜなら、この家系は陸城侯劉貞が在世中に罪を犯して(酎金の律に違反)侯位を召し上がられて以来、その子孫から新たに侯に封じられた人物が居ないからです。 それに、この劉貞以降の子孫の名前は、信頼できる資料には何処にも名前が出ていません。子孫を残せたのかも分からないくらいです。 更に、疑問点・おかしな点を何点かあげると、次のようになります。 1.中山靖王劉勝が王に封じられた紀元前154年から、その末裔の劉備が若年の際黄巾族の乱が勃発した紀元184年まで、約330年程の間があります。それに対し、中山王劉勝から劉備まで至るのに17代も存在しています。 寿命の短い古代とはいえ、平均して1代で30年位のサイクルになることが多いですから、17代×30年=510年で、これでは幾らなんでも代が多すぎます。これを1代20年として、17代×20年=340年と考えれば確かにある程度妥当ですが、これはちょっと苦しいでしょう。 実際、中山王劉勝の兄弟、長沙王劉發の子孫は後漢の皇室になっていく家系ですが、長沙王劉發から、後漢のラストエンペラー献帝劉協(劉備より年下です)まで至るのに12代しか経ていないことを考えても、17代というのは少し多すぎる代数です。 2.他の時代はいざ知らず、前漢・後漢の時代は一度与えられた侯の土地から、代ごとにあちこち転封されると言うことは先ずあり得ません。 また代替わりの際、王家ならその子供のうち、嫡子が「王位」を次ぎ、それ以外の庶子が一段下がる「侯位」に封じられて分家と成すことは有ります。 が、本家が既に列侯(侯家)の場合、代替わりした際に「侯位」を継げるのはその嫡子だけで、それ以外の子供は「侯位」の様な位を貰うことは一般的に出来ません。 ですから、この両方(転封・分家)の点による「代ごとに侯地(列侯名)がころころ変わる」というこの系図は非常に不自然な侯位継承をしていることになります。 3.系図の途中で、前漢−新−後漢という大きな王朝の交代が有ったはずなのにも関わらず、何事もなかったかのように「侯位」を保って続いている。実際は、前漢時代に封じられていた殆どの諸侯王、列侯が、新の王莽によって「王位」「侯位」を剥奪され、それらは後漢王朝が成立後も復活されることはありませんでした。 以上の3点を見ても、この系図がいかに「いい加減(出鱈目)」かはお分かりになったと思います。 しかし「史実七割、虚構三割」と言われる(^^;「三国志演義」、ある程度は事実が含まれている事が多いのです。ではどの程度までは「史実」なのでしょうか? 一般的に「三国志」という場合、小説の「三国志演義」を指す場合が多いのですが、それとは別に歴史書としての「三国志」という書物があることは、ある程度以上三国志のことを勉強した方ならご存じだと思います。 この書の「蜀書 先主伝(劉備の伝記)」を読んでみると… 先主は姓を劉、諱を備といい、郡縣の人であり、漢の景帝の子、中山靖王劉勝の後裔である。元狩六年、郡の陸城亭侯に封じらるるも、酎金の件で罪を得、侯位を失って、この地にそのまま定住することになった。 先主の祖父は劉雄、父は劉弘といって、代々州郡に仕えた。劉雄は孝廉に推挙され東郡の范縣の令まで登った。 と、言うような内容が書かれています。多少記載内容に間違いがあります(侯に封じられたのは元狩六年ではなく元朔二年だとか、「亭侯」という侯のランクは前漢時代存在しなかった等)が、ここから読みとれるのは、 ・ 劉備の祖先として、父劉弘と祖父劉雄が居たのは間違いない。 ・ それ以前の祖先については、「中山靖王の後裔」と言う事以外、「演義」に書かれているような系図の人物に関しては一切記されていない。 ・ 「三国志」という正史に「中山靖王の後裔」だと書かれる位なのだから、当時劉備自身か、その周辺がこのように主張(自称(^^;)していたらしい。 ・ 劉備の祖父劉雄は、孝廉に推挙され官職に就き、縣令職まで任じている。 です。 これらの内容から推理すると、 ・ 劉備は中山王劉勝が封じられた中山国に近い郡縣に生まれた為、この事実を利用している可能性はある。 ・ しかし、祖父の劉雄は「孝廉」として中央政府に推挙される程の行動をとった人間なので、完全な農民とは思えない(当時は「孝廉」として推薦されるためにも、それなりの財政的余裕がないと出来ないことだった)。 ・ また、劉備はむしろを織って生計をたてていた農民とあるが、いざとなれば叔父の資金援助の元、都に遊学するほどの財政的余裕が一族には有ったようだ(しかも劉備はその遊学中、ファッションなどに心を奪われており、勉学には不熱心だったとか(^^;)。 また、実は劉備が祖先としている中山靖王劉勝は、子供を120人以上(^^;も遺した人物としても有名で、子供で分家として「侯」に封じられた人物だけでも20人居ました。 こうなると、それから350年近く経った劉備の時代に「中山靖王劉勝の子孫」に該当する人物は、実は数千人、いや数万人くらい居たのかも知れません(^^;。これでは「金看板」にも価値を見いだせないですね(^^;;;。 で、色々と書いてきましたが、結論としては、 「劉備が本当に中山靖王劉勝の子孫なのかは分からない(^^;が、例え子孫であっても、その土地の勢力家(資産を持っている土着の豪族)程度でなければ、その有難味は殆ど無いに等しかった」 と言う事になりますね。実際、三国時代の有力な群雄だった劉表・劉焉等は、前漢の魯共王劉餘の子孫であり、しかもその一族に勢力が有った為世間でも重んじられたのです。 (ちなみに、魯王劉餘も中山王劉勝同様、景帝の子供です。なんか因縁が有るのでしょうか(^^;) 以上です。何となくすっきりしない結論でした(^^;けど、この話にまつわる、ある程度の背景事情は知ることが出来たのではないでしょうか? |
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