捨てざり難い説


   
仲哀天皇



  第14代天皇である仲哀天皇は、その名を「足仲彦尊」といい、その名
 乗りに名前らしいものが無いことから、実在を否定されております。
  同時に第13代成務天皇(「稚足彦尊」)も、同じ理由から実在してい
 なかったとされています。

  そう考えること自体は問題と感じられませんし、『真説日本古代史』本
 編では、非実在であったとしました。
  おそらく、成務・仲哀は、垂仁天皇と応神天皇をつなぐ役目を持たされ
 た天皇であったと思います。『記紀』は、応神が九州から「大和」へ向か
 う際、「大和」は仲哀天皇の皇子「かご坂王」と「忍熊王」が軍を率いて
 待ちかまえていた、と記しています。しかし、この二人の皇子は、仲哀の
 皇子ではなく、垂仁の皇子であったと考えています。このことは、『本編』
 で述べています。

  応神が九州からやってきたため、彼の父である仲哀を、まず九州にやっ
 ておかねばならなかったのでしょう。

  従って『仲哀紀』は、捏造・創作の類になるのですが、創作であったと
 しても、かなり首を傾げたくなる箇所があります。

  それが、次の文です。


  「八年春一月四日、筑紫においでになった。岡県主の先祖熊鰐が、天皇
 がお越しになったことを聞いて、大きな賢木を根こそぎにして、大きな船
 の舳に立てて、上枝に白銅鏡をかけ、中枝には十握剣をかけ、下枝には八
 尺瓊をかけて、周芳の沙麼の浦にお迎えした。…山鹿岬より廻って岡の浦
 に入った。」



  そしてもう一箇所、


 
 「(皇后も)潮が満ちてきて岡津に泊まられた。また筑紫の伊都県主の
 先祖、五十迹手が天皇がおいでになるのを聞いて、大きな賢木を根こそぎ
 にして、船の舳艫に立て、上枝には八尺瓊をかけ、中枝には白銅鏡をかけ、
 下枝には十握剣をかけ、穴門の引島にお迎えした。…儺の県に到き、因っ
 て橿日宮に居た。」
 


  という箇所です。

  まず初めの文章ですが、岡県主の「岡」とは「福岡県遠賀川口」なので
 す。そこのクマワニは、「筑紫」に天皇が来たというので、山口県の東部
 である「周芳」の沙麼(防府市佐波)の浦にまで迎えに行って、クマワニ
 の地元である「岡の浦」までお連れしたわけです。
  次ぎの文章は、「伊都」のイトデは、「岡津」から来る天皇を迎えに、
 下関の「彦島」に行ったのです。

  これは、常識に的に考えると大変おかしなことです。

  「筑紫」から来る天皇を、「筑紫」を通り越し山口県まで迎えに行った
 クマワニ。「岡津」から来る天皇を「下関」に迎えに行ったイトデ。
  彼らは、例えて言えば、名古屋から大阪に来る天皇を東京へ迎えに行っ
 たようなものです。

  これらは、「山田宗睦氏」がすでに指摘しており(『古代史と日本書紀』
 (株)ニュートンプレス)、「山田氏」の説に従えば、


  「これは逆なのかも知れない、と。…主人公は、実は天皇(仲哀)では
 ないからxとする。橿日の宮を出て、儺津(那珂港)で乗船、周防の沙麼
 をめざした。xの船出を、西隣の伊都の県主、イトデが送ってきて、岡津
 (岡水門)、さらには穴門の引嶋まで見送り、そこから引きかえした。岡
 津からは、岡の県主・クマワニも見送りに加わり、イトデが引き返した引
 嶋から、さらに周防の沙麼まで見送った。このように仲哀紀八年条の文を
 逆にすると、へんなところは一つもなくなる。」


  であり、さらに「周芳の沙麼」に着目して、この文章は本来『景行紀』
 十二年の条に、一つづきに繋がっていた、と説明しています。

  それは次の箇所です。


 
 「十二年、秋七月、熊蘇が反して朝貢しなかった。
  八月、乙未が朔の己酉、筑紫に出かけた。
  九月、甲子が朔の戊辰、周芳の沙麼に到いた。この時天皇は南を望んで、
 群卿に詔し『南方に烟気が多く起こっている。必ず賊が在る』と曰った。
 (天皇は沙麼に)留まって、多臣の祖の武諸木、国前臣の祖菟名手、物部
 君の祖の夏花を先遺して、その状を察べさせた。」


  結局、もともと一つづきだった文章を、紀の作者が二つにわけて、一つ
 は『景行紀』に、二つは逆さにして仲哀紀に利用した、というのがこの箇
 所についての「山田氏」の結論です。

  実はこのxの移動には前段階があって、もとより橿日の宮に居たのは、
 カシツヒメであったといいます。カシツヒメは「鹿葦津姫」と書きますが、
 別名をコノハナノサクヤヒメといい、こちらの名ほうが馴染みがあるかも
 知れません。

  降臨後のニニギ尊と結婚し、一夜にして妊娠したことを疑われ、火の中
 に飛び込み、三人の子を産んで潔白を証明した説話はご存じだと思います。

  そのカシツヒメのことを、


 
 「カシツヒメは、鹿葦津姫と書く。大野晋によると、kaasi→kasiとなっ
 た。奈良時代の日本語は、母音が二つ重なると一つが落ちた。私は、kaashii
 →kasii→kasiではないか、と考えている。すなわちカシツヒメは、橿日の
 姫である。」



  と「山田氏」は解説しています。

  ニニギ尊は、橿日の宮で亡くなり、『神功紀』の熊祖征伐、羽白熊鷲の
 誅殺記事は、その実カシツヒメの記事とみなされるとし、


 
 「女同士なので神功紀にはめこんだ、というよりも、神功じしんがカシ
 ツヒメの身代わりという方が当たっていよう。」



  としています。そしてxの正体は、ニニギ尊とカシツヒメの子、ヒコホ
 ホデミであったといいます。

  この図は、『古代史と日本書紀』から借用したものです。

  白抜きの矢印は、ニニギ上位陸の方向と地点、灰色の矢印は、カシツヒ
 メの筑紫平定の進路と地点、黒い矢印は、ヒコホホデミの九州北半平定の
 進路と地点、となっておりますが、「山田氏」は、ニニギが天降った日向
 の襲の高千穂峯を、


  「上田正昭が、この日向は『のちの日向国とは断定し難い』としたのが
 いい。古事記は筑紫の日向の高千穂と書いていて、後代、この日向をのち
 の日向国(宮崎県)にあてたものだから、筑紫を九州の総称とせざるをえ
 なくなった。」



  として、宮崎県の「日向」と『日本書紀』の「日向」とは、まったく別
 の土地であったという見解を示しています。具体的には、室見川とその支
 流の日向川との河内の地を言います。その全文をここに記載すると、


 
 「日向の高千穂を、『博多湾岸と糸島郡との間、高祖山を中心とする連
 山』としたのは、古田武彦である。福岡市の西は西区だが、東隣の早良区
 との境は、室見川だ。西隣の前原市との境は、高祖山を中心とする連山だ
 が、その南の鞍部に日向峠がある。峠の東を源にして、室見川支流になる
 のが日向川。考古学者の森浩一は、重要な弥生遺跡が二つの川の間にある
 ことを指摘したが、西区の南端。室見川と日向川の河内の地を、吉武とい
 う。一九八一〜五年の発掘調査で、ここ吉武に、大石、樋渡、高木の三弥
 生遺跡が確認された。とくに吉武高木遺跡の、弥生中期初頭の3号木棺墓
 からは、多紐細文鏡、ヒスイ製勾玉、細型銅剣などが出土し、王墓とみな
 された。さらに巨大な柱穴の列も発見され、日本最初の宮殿といわれた。
 遺跡群に示すものは、魏志倭人伝に記されたクニの名に該当しないので、
 早良王国などとよばれたが、これこそが紀にのこる日向の地である。紀は、
 死んだニニギを筑紫の日向の可愛の山稜に葬った、と記している。
  <一部略>吉武高木の王宮、王墓は、ニニギの日向の宮、山頂なのであ
 る。
  日向はのちの日向国(宮崎県)ではない。まさしく筑紫(福岡県)の日
 向である。そして筑紫は、九州の一部の名で、九州全体の名ではない。こ
 れが紀を読むときの原則である。」



 となります。

  ここでは、あくまでも結論だけを簡単に引用させて頂いたにすぎません
 が、氏の著書のほうは、しっかりと論証されておりますので、ご興味があ
 れば、そちらをご一読下さい。
  『古代史と日本書紀』著者:山田宗睦(株)ニュートンプレス発行

  このようにみると、『仲哀紀』は、史実を切り貼りして創られた物語で
 あったことがわかります。
  しかし、人物の移動の痕跡は判明したものの、そこにニニギとかヒコホ
 ホデミという記紀神話の人物名があれば、それを史実とするのには抵抗を
 感じます。

  実際問題として、移動した人物やその氏族は、「山田氏」流に言えばx
 ですが、どういった者たちであったのでしょうか。
  その者は橿日の宮を発ち、関門海峡を経て「下関」に渡り、「防府」ま
 で行った後に、再び海を渡り「宇佐」(あるいは「行橋})に戻っていま
 す。
  この「防府」から「宇佐」への海路は、周防灘を越えることになり、決
 して安易な航海とは言えません。むしろ危険であったと言えるのではない
 でしょうか。その危険をあえて冒したとすれば、それは、そうしなければ
 ならない理由があった、ということです。

  さらに、橿日の宮を発たなければならなかった理由を、合わせて考えま
 すと、橿日の宮を何者かに攻撃されたxは、味方に守られながら「防府」
 まで退却し、そこで体制を整えた後に周防灘を渡航して、何者かを背後か
 ら攻めた、ということにはならないでしょうか。

  『景行紀』によれば、討ったのは「土蜘蛛」であるといいます。とすれ
 ば、橿日の宮を攻めた者達は「土蜘蛛」だった、と思われます。

  『日本書紀』には、「蝦夷」、「熊襲」、「隼人」など、蔑視された諸
 賊が記載されていますが、「土蜘蛛」もその一つであり、朝廷に従わない
 討伐の対象である賊の中では、真っ先に登場します。
  この「土蜘蛛」ですが、『景行紀』以外では『神武紀』に記されていま
 す。それが神武東征の終盤に登場する「高尾張邑」の「土蜘蛛」です。
  もちろん、討伐の対象になっています。

  この「高尾張邑」の「土蜘蛛」は天皇軍によって殺されましたが、その
 方法が


 
 「葛の網を作って、覆い捕らえてこれを殺した。」


  ことから、「高尾張邑」を「葛城」と改めた、と『神武紀』に記されて
 います。つまり「葛城」とは、かつては「高尾張邑」だったことになりま
 す。
  「高尾張邑」と言えば、「尾張族」の元々の地であるわけですから、そ
 こに居た「土蜘蛛」とは、「尾張族」にほかなりません。
  すると、九州に居たという「土蜘蛛」も「尾張族」だったのでしょうか。
  「熊襲」、「隼人」はどこに居ても「熊襲」、「隼人」であるように、
 「土蜘蛛」もまた「土蜘蛛」であると思います。従って「尾張族」だと考
 えます。

  注意したいことは、「尾張氏」=「尾張族」ですが、「尾張族」=「尾
 張氏」とは考えておりません。
  私は「尾張氏」を、いわゆる尾張地方に移住した「尾張族」の一派だと
 考えております。

  『真説日本古代史』本文ですでに紹介しておりますが、「尾張」とは中
 国で「憂婆畏」と書くのと同じ意味で、元来はインド語で「ウパイ」と呼
 ばれた、女性仏教徒を指す名詞で、後に仏教集団を指す名詞になりました。
  従って「尾張族」とは、女性仏教徒を中心にした仏教集団を指していた
 のです。これは尾張地方に移住した「尾張氏」の祖が、「宮簀媛」であっ
 たことも傍証になると思います。

  『景行紀』でも帰順した「土蜘蛛」の国に「神夏磯媛」(かむなつそひ
 め)、また別の国に「速津媛」(はやつひめ)、という女首がいたことを
 記していますから、これらの国も女性仏教徒の国です。
  ただし仏教とは言っても、原始仏教であるアショカ仏教のことであり、
 今日でいう仏教とは違っており、「シバ神」信仰です。「シバ神」は太陽
 神であることから、卑弥呼の信仰した神とも考えられます。卑弥呼が「ウ
 パイ」であったことは、本文中で述べてあったと思います。

  「土蜘蛛」は、大きな意味での「邪馬台国」(つまり統一奴国)とも考
 えられますが、この時代はすでに、卑弥呼政権より後のことだと思います。
 このことは、後で説明します。
  崩壊した邪馬台国政権では、和平派と抗戦派に分かれていたことと思い
 ます。「神夏磯媛」は当然和平派であり、


 
 「皇命には従わない」


  と言っている「鼻垂」(はなたり)や「耳垂」(みみたり)などは、抗
 戦派になり、あいかわらず「土蜘蛛」と呼ばれているわけです。

  そう言えば、『魏志倭人伝』にも、


 
 「官を彌彌と日い、副を彌彌那利と日う。」


  という人物が記されていました。

  xを攻めた「土蜘蛛」は、崩壊した後の邪馬台国の抗戦派だったと考え
 られますから、これを便宜上「旧邪馬台国」とします。

  さて、いよいよxについてです。

  「山田氏」は、xをヒコホホデミと解いておりましたが、『日本書紀』
 ではヒコホホデミが二人登場します。そのもう一人は、「神日本磐余彦火
 火出見尊」(かみやまといわれひこほほでみのみこと)すなわち神武天皇
 です。

  私見では、神武天皇は狗奴国王「卑弥弓呼」です。

  「卑弥弓呼」には、「ひみきゅうこ」、「ひみここ」、「ひみくこ」な
 どの発音が当てられているが、私はこれを「ひ、みけひこ」とし、「三毛
 野彦」の別名持つ神武天皇に比定しました。神武天皇とすれば=アメノヒ
 ボコです。(本編第二部「建国の幕開け」

  アメノヒボコには、ツヌガアラシト、ウシキアリシチカンチ、ソナカシ
 チという別名がありました。『記紀』は、それぞれ別章で記載しておりま
 すが、その内容から同一人物であると一読でわかります。

  それは理解できるのですが、名前のほうが納得できません。なぜこんな
 にも違った名前があったのでしょうか。
  実は、これは違った名前ではなくて、同じ文字を違った発音を当てただ
 けであったのです。
  本編では述べませんでしたが、歴史言語学者「加治木義博」氏は、次の
 ように述べています。

  簡単に抜粋しますと、


  「『都怒我』は沖縄語で読むと『チヌカ』なのである。この『チヌカ』
 も耳で聞くと『チンカ』に聞こえる。
  そこで今、沖縄の人『チンカ』と言って、それを漢字で書いてもらうと、
 十人が十人みな『天下』と書く。これで分かることは、沖縄の人たちには
 『都怒(チヌ)』と『天(チヌ)』とは同じなのである。ここまでわかる
 と『日』もまた『カ』という発音をもっている。『天日矛』の『天日』は
 『都怒我』と同じものだったのである。」


  であり、「矛」については、


  「『蘇那曷  叱智』
   『都怒我阿羅斯等』
    ソナカ  シチ(阿羅の部分がない)
    ツヌカ  シト
  よく似ていることは一見して分かる。」


  としたうえで、「シチ」、「シト」、「ホコ」の関係は、


 
 「『ホコ』はこの二つとは別物のようにみえるが、これもまた同じもの
 変化したものである。
  東京周辺と鹿児島周辺で『シ』と『ヒ』が入れかわることは、もう一度
 説明するまでないと思う。だからこれは『火』という文字を当てても、少
 しも不都合ではない。この『火』は古代には『ホ』と発音されていたので
 ある。神武天皇の名は『ヒコホホデミノミコト』で、『日本書紀』では、
 『彦火火出見尊』と書いたのであるが、この『火』が『ホ』と読まれるの
 は、『古事記』に同じ名を『日子穂穂出見命』と書いてあるからである。
  また『木』は『木の花開耶姫』『コのハナサクヤひめ』と読むのでも分
 かるように、『コ』とも発音するし、沖縄語では『君』を『チミ』と発音
 するように、『キ』は『チ』になる。
  だから『火木』と書いたものは『ヒコ』『ヒキ』『ヒチ』『シコ』『シ
 キ』『シチ』『ホコ』『ホキ』『ホチ』と読めるのである。」



  ここでは述べませんが、当然省略された『阿羅』の部分も、この後説明
 されています。

  『日本書紀』ではアメノヒボコを「天日槍」と記しますが、「槍」は、
 「やり」「そう」と発音はするけれども、「ほこ」とは到底発音できませ
 ん。これは「天日矛」から何かを連想されるのを、意図的に避けているよ
 うに思えてなりません。

  実は、ソナカシチとは「足仲彦」ではないかと、考えていたのです。
 「足仲彦」とは、言うまでもなく仲哀天皇のことです。『記紀』では「タ
 ラシナカツヒコ」と読むようですが、「ヒコ」=「シチ」であり、「足仲」
 を「ソナカ」と発音すれば「蘇那曷叱智」と同一人物になります。もちろ
 んこれは、「加治木義博」氏の指摘でもあります。

  もちろん、仲哀天皇=アメノヒボコというわけではなく、アメノヒボコ
 の創世記を仲哀天皇の記録とした、とうことです。それだけでなく、景行
 天皇と世代をまたがって記録し、そればかりか、記録順を逆にして造作し
 ていたことになります。また記録は、アメノヒボコに限らず、複数の人物
 の寄せ集めであろうと思われます。

  『景行紀』・『仲哀紀』にまたがるxの記録は、北九州平定か奪還のい
 ずれかであるように読めます。
  『記紀』に記されたアメノヒボコは、朝鮮半島から来たことになってお
 り、その後すぐ、九州平定物語などに結びつくはずがありません。それ故
 に、ここに二人以上の介在があると思われます。
  アメノヒボコはツヌガアラシトの別名がありますが、ツヌガアラシトと
 は、「角がある人」だと思います。初めてアメノヒボコを見聞した人は、
 「角がある人」だと思ったのでしょう。

  この「角がある人」という普通名詞から想像してしまう固有名詞とは、
 「牛頭天皇」なのです。「牛頭天王」とは素戔嗚尊のことです。
  いやそれは、スサノオと宗教上の「牛頭天王」が結びついただけで、同
 一に考えることは間違っている、と解かれる方もいらっしゃいますが、そ
 の説にうなずいたとしても、スサノオと「牛頭天王」が同一神と思わせる
 何かが、そこにあったからに違いありません。何かとは外観的特徴だと考
 えられます。スサノオには角があったのだと思います。もちろん実際に角
 が生えていたわけではないでしょうから、そのような風貌、たとえば兜の
 ようなものを被っていたのでしょう。

  アメノヒボコ=スサノオではありませんが、孫と祖父の関係と考えてお
 ります。

  ツヌガアラシトは朝鮮半島より、一人の若い乙女を追って渡来していま
 すが、その乙女は、比売語曽社(ひめごそのやしろ)の神になったと言い
 ます。

  この乙女、つまり比売語曽社の祭神については諸説あります。


 
 1.都怒我阿羅斯等が追って来た、白石から生まれた女神
  2.新羅の王子・天之日矛の妻
  3.新羅王・波沙寝錦の妃
  4.大己貴の娘・下照姫命
  5.辛国息長大姫大目命
  6.真野の長者の娘・玉依姫=般若姫



  1.と2.は同一人物と考えられます。5.は香春神社(福岡県田川郡
 香春町)の祭神であり、その縁起は辛国から渡ってきた神であるとし、奉
 祭は「辛嶋氏」です。「辛嶋氏」はスサノオを祖とする氏族であり、「辛
 国息長大姫大目命」は神宮皇后を想像させる神名です。
  神宮皇后と言えば、3.の波沙寝錦の妃は、三韓征伐の人質として渡来
 しています。4.は今更説明することもないでしょう。
  6.は大分県に伝わる民話の『真名野長者伝説』に基づいており、伝承
 は後世の用明天皇の時代ですから、民話によって後付けされた形であり、
 「比売語曽の神」とは言えないと思います。

  この1.から5.までのうち、4.の「下照姫命」を除き、朝鮮半島か
 ら姫神であることが共通しています。しかも1.と2.はアメノヒボコ、
 3.と5.は神功皇后に直結するとすれば、これらはもともと同一の伝承
 (史実?)であったものが、脚色されたものと考えられます。

  4.の「下照姫命」は、どのように考えればいいのでしょうか。

  これは、テーマである『仲哀天皇』からは逸脱してしまいますので、次
 章以降のテーマにさせて頂きたいと思います。

  実在が疑われている天皇記は、このようにどこかから持ち寄った、つな
 ぎ合わせの記録にて造作されているのかもしれません。


                        2009年 3月 了