真説日本古代史 本編 第二部


   
建国の幕開け 




   
1.謎の歴史書『日本書紀』


  『日本書紀』 は、養老四年(720)に成立したものと言われている。
 これは、『続日本紀』の、養老四年五月癸酉の条の、次の一文によるもの
 である。


  
「是より先、一品舎人親王勅を奉りて日本紀を修す。是に至りて功成り
 て奏上す。紀三十巻、系図一巻。」


  これには、『日本紀』とあって『日本書紀』ではないが、『日本紀』と
 『日本書紀』を別の書物と考えるのは、まず不可能であろう。系図一巻は
 現在に伝わっていない。
  撰修が命ぜられた時期に関しては、諸説あって定かではないが、天武天
 皇による勅命であろうことは、一般的に通説とされている。そのため『日
 本書紀』は、天武天皇にとって、都合のいいように、記述されていると思
 われがちであるが、これは大きな間違いである。養老四年に天皇であった
 のは、元正女帝であった。しかも先帝である元明女帝は、今だ健在であっ
 た。そして、この二人の女帝の時代に暗躍した人物が、天才政治家「藤原
 不比等」である。

  梅原猛氏は、著書『神々の流竄』の中で、おおよそ次のように述べてい
 る。


  「成り上がり者の藤原不比等は、自らの永続性を、天皇家の権威を借り
 て保障しようとしたために、古代に遡って女帝統治の既成事実を作る必要
 があった。」


  まさに、その通りであると思う。それが、皇祖神で女神である「天照大
 神」であった。女帝の時代に生きた「藤原不比等」だから、皇祖を女神に
 求めたのは、むしろ当然であったのかもしれない。
  ホアカリ=ホホデミ=神武天皇を、皇統の一番最初に位置づけながら、
 初代の天皇を、崇神天皇としたり、「天照国照彦火明命」をニニギの兄の
 ように記しながら、まったく無視したりなど、元明天皇の頃の「藤原氏」
 の立場を、暗示してるように思う。

  後述することになるが、これらは壬申の乱にて大活躍した、元祖・「尾
 張氏」と本家・「天皇家」との立場を、考えた上での記述であり、この頃
 の「尾張氏」の実力を伺い知ることができよう。
  では、『日本書紀』はでたらめかと言うと、けっしてそんなことはない
 と思う。これは、戦後になって皇国史観の呪縛から放たれた歴史学者が、
 一斉に『記紀』批判を始めたからであって、すべてを批判的に見るのは行
 き過ぎではないのだろうか。

  『古代史の真相』の著者、黒岩重吾氏は、韓国の忠清南道公州の宋山里
 で、「百済」二五代王、「武寧王」の陵が発掘されたが、その墓誌銘に記
 載された没日から生年を逆算すると、『日本書紀』の雄略紀に記述されて
 いる、「武寧王」の生年と一致する事実を発見し、『日本書紀』の歴史的
 記述を見直した、と記しているが、私も賛同する者である。一国の歴史書
 がでたらめでは、日本は世界から理解を得ることはとうていできず、まし
 てや、古代の日本の歴史は、中国の歴史書に、はっきりと記載されている
 ことから、まったくのでたらめを書くことなどできないはずである。

  批判的に見なければならない記述とは、「藤原不比等」の創作と思われ
 る、神代と、それに続く人皇の神話の部分、具体的に言えば、『応神天皇
 紀』あたりまでの神話の部分、そして、「藤原氏」存続の正当性に関わる
 部分、すなわち、「蘇我氏」立脚から「大化改新」とそれ以降の王朝の姿
 であろう。
  しかし、これとて、都合よく書かれているか、都合の悪い記述はされて
 いないだけであって、よく読めば、ちゃんと真実を伝えているところは、
 「藤原不比等」の天才たる所以である。ただし、その時代の流れは、つじ
 つま合わせによるものが多く、同時代を別時代のように記したり、過去に
 遡って記してあったりしているので、その点は、見極めが必要である。



   
2.『古事記』の秘密


  『日本書紀』は、官撰の歴史書であり、『続日本紀』に、完成した時期
 が記されている。ところが『古事記』は、その『序』(上表文)から、和
 銅五年(712)正月二八日に、「太安萬呂」(おおのやすまろ)が撰進
 したことが判るが、この撰進のことは『続日本紀』に記されていない。
  従って、その真偽をめぐっては、古来より議論のあるところであるが、
 「太安萬呂」の名が、『続日本紀』に、何度か記されているのに加えて、
 「勲五等太朝臣安萬侶」の墓誌が発掘され、『古事記』の表記とまさしく
 一致していることから、『序』の記述通り、和銅四年(712)成立とい
 うみかたが有力である。

  しかし、個人的には、その内容に平安時代以降の記述としか思えない部
 分があることと、『続日本紀』にその記述がないことから、『古事記』の
 成立は、平安時代であるとみている。おそらく、『先代旧事本紀』の成立
 と、時期をほぼ同じくするのではないのだろうか。

  『序』の内容は、諸家に伝わる帝紀・旧辞の誤りを改め、撰録しようと
 した天武天皇の亡き後、その意志を嗣いだ元明天皇が、「太安萬呂」に献
 上させた、というものであるが、天武天皇が選録させた方法とは、「稗田
 阿礼」(ひえだのあれ)なる者に誦習させたというのである。

  前述の梅原猛氏は、「稗田阿礼」は「藤原不比等」であると断言してお
 り、『古事記』は「藤原不比等」が元明天皇だけのための書いた、歴史物
 語であるとしているが、私は、そうは思わない。「稗田阿礼」が「藤原不
 比等」であることは賛同できるが、そうであるならば、天武天皇の時代、
 まったく重要なポストについていない「藤原氏」に、天皇の勅命がけられ
 るはずがなく、それこそ『序』は偽物と言わざるを得ない。

  私は『古事記』の『序』こそ、『日本書紀』の嘘を暴露するために記さ
 れたものではないかと思う。天武天皇が撰録した内容を、「稗田阿礼」=
 「藤原不比等」が元明にあて、内容を改竄して献上した、と読めてしまう
 のである。

  『古事記』の内容は、『日本書紀』の内容をほぼ踏襲しているのだが、
 『古事記』にあって『日本書紀』に記述のないものは、「天照大神」の直
 系以外の、いわば脇役の系譜である。天皇家とは、おおよそ関係ないと思
 われる、脇役の系譜を詳しく記しているのだ。
  また、天皇の妃方の記述も若干異なっている。『古事記』が言わんとす
 ることは、まさにこのことではないのだろうか。『日本書紀』の記述にな
 らい『日本書紀』に記されていないか、でたらめに記されている、真の系
 譜を伝えることを、目的とした書ではないだろうか。ただし、その成立は
 平安時代を下らず、誤ったままの系譜も少なくはなかろう。

  『古事記』と同じ意図で書かれたと思われる文献に、『先代旧事本紀』
 『但馬故事記』・『古語拾遺』の他、古史古伝があげられよう。さらに、
 『風土記』や神社伝承等の、古文献を参照することにより、『日本書紀』
 に記されていない隠された歴史が見えてくるのである。

  そして、日本の古代の様子を最初に記述しているのは、何と中国の古代
 文献なのである。



   
3.『漢書』に記された「倭国」


  『記紀』については、以上のような見解を持っている。しかし、いくら
 『記紀』を詳細に読んだとしても、日本国の成立事情は、ぜんぜんわから
 ないばかりか、かえって混乱してしまう。『日本書紀』は、後の大和朝廷
 にとって都合の悪いことを、神話の世界へ封じ込めてしまっているばかり
 でなく、まったく記していないこともあるからである。

  それでは、その資料をどこに求めたらよいのだろうか。残念ながら、我
 国の史書にはそれはない。ただ、我国にあった中国の史書にはある。『倭
 人伝』で有名な『三国史』は、中国の「魏」・「呉」・「蜀」の時代のこ
 とについて書かれた史書であるが、なぜか現存する最良の版本は、日本に
 あったと、『邪馬台国はなかった』の古田武彦氏は、その著書の中で述べ
 ている。

  それはさておき、日本のことが最初に記述された文献は、中国の『山海
 経』であり、次いで『前漢書』であるが、有名なところでは『後漢書』
 一文であろう。


 
 「建武中元二年(57)倭奴國、貢を奉じて朝貢す。・・<中略>・・
 賜うに印綬を以てす。」


  志賀島で発見された『漢委奴國王』の金印は、この時のものだと言われ
 ている。安帝永初元年(107)には、倭国王・「帥升」が朝献してい
 る。
  後漢は、魏より前の国家なのだが、『後漢書』の成立は、『三国志』よ
 りも後であり、その『倭国伝』などは、『三国志』の『魏志倭人伝』を参
 考にして書かれたとしか思えないが、この記述だけは、『後漢書』独自の
 記述であり、「邪馬台国」以前の、日本を考える場合、大変参考になる記
 述であることは疑いない。紀元後のこの時期に、中国に朝献できるだけの
 国家があったことを、この記述は裏づけているのである。もっとも、この
 国家なるものは、小国家であったのかもしれないが、まぎれもなく「奴」
 という国があったと記述されているのだ。さらに、『前漢書』には、


  
「楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為す。歳時を以て来り献見す
 と云う。」


  と記され、倭国が100以上の国に分かれて存在しており、その全部か、
 あるいは、そのいくつかの国が楽浪郡の役所に通貢していたことを記して
 いる。
  『前漢書』は年代を記していないが、「前漢」は、紀元八年に滅びてい
 るので、紀元前一〜二世紀頃の「倭」の様子であることは、ほぼ間違いな
 い。この時代に、既に日本海を航行して、中国に朝献できるということは、
 日本人の航海技術には、侮れないものがある。



   
4.『後漢書』の「倭面土国」と『魏志倭人伝』の「邪馬台国」


  『魏志倭人伝』(正しくは、『三国志、魏志東夷伝・倭人の条』)は、
 日本を「倭国」としている。これを何と発音するかと言えば、「わこく」
 であるが、『古事記』は「倭」を「やまと」と読ませている

  『後漢書』には、「倭面土国」という表記も見られるが、これこそ「や
 まと」の発音を、中国風の当て字を用いて、表記したものではないだろう
 か。                ○  ○          ○
  (『翰苑』所引の『後漢書』に「倭面上国王師升」とあり、「倭面土国」
 とするのは北宋版他の『通典』です。)

  もちろん、この当て字は中華思想によるもので、文字通りは「小さい顔
 のやつらの国土」というような意味になり、けっして褒められるものでは
 ないが、古代から、日本の国号が「やまと」と発音されていたことが、判
 るだけでも収穫は大きい。

  ただし、中国から見た「倭国」とは、日本の国号ではなかったと、思わ
 れる。単に、中国から見て、東方海上の島の意味で、使われていただけで
 あろう。それは、朝鮮半島の一部も含まれたのかもしれないが、中国人が
 「倭人」と呼んだ人々の住む、土地の意味で使われていたのだと思う。
  事実、『魏志倭人伝』には、「倭国」の中に、二十一もの国名が記され
 て いるが、「倭国」自体は、国の意味で使われていない。
  現代では、日本列島と「日本」と、国号としての「日本」が、同じ表記
 なので、混同して使われているが、“アメリカ大陸のカナダ”と言った場
 合、アメリカは国号ではない。大陸の名称ではないか。

  古代中国では、固有名詞を、特徴のある一字を以て、表記していたと思
 われ、例えば『宋書倭国伝』は「倭の五王」を「讃」・「珍」・「済」・
 「興」・「武」と一字で記しており、「やまと」も「倭面土国」の一字を
 以て、「倭」と表記したものと推測できるが、「倭人」が先か、「倭面土
 国」が先かは、わからない。

  日本側は、外交上の理由から、中国の表記法を、そのまま受け入れたの
 だろう。

  国内向けには、「倭」は「和」と当て字され、さらに「大」の美辞をつ
 け、「大和」(おおやまと)としていた。もちろん、中国では「やまと」
 などと発音しているわけではなく、「倭」は、単に「わ」だ。それも、日
 本列島の名称であったのだが、日本側が受認し、否定しなかっただけであ
 る。

  さらに、『旧唐書、倭国・日本伝』には、次のような一文がある。


  
「日本国は倭国の別種なり。其の国日辺にあるを以て、故に日本を以て
 名となす。あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日
 本となすと。あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと」


  いろいろと、問題の多い一文ではあるが、国号が日本となった理由であ
 る。『日本書紀』は、「日本」と書いて「やまと」と読ませているので、
 発音は一貫して「やまと」なのである。ただ、そうとう訛った発音であっ
 たと想像できる。例えば、九州地方と奥羽地方の訛の差は歴然であり、同
 じ文字を発音していても、全然違って聞こえるではないか。
  『魏志倭人伝』には、「邪馬台国」が登場する。これは、「やまたいこ
 く」と発音されているが、「邪馬台」は「やまと」ではないだろうか。

  『魏志倭人伝』を普通に読めば、「邪馬台国」の場所は、九州のどこか
 であろうことだけは判るので、九州の「やまと」と近畿の「やまと」に連
 続性があるように思えてしまう。(連続性がないとは、言っていない。)

  『真説ノストラダムスの大予言』シリーズで有名な、言語学者の加治木
 義博氏は、「邪馬台」を古代日本では「ジャムデイ」と発音したとしてお
 り、その意味はずばり「首都」であったと述べている。
  こう考えれば、その当時、九州のどこかにあった「邪馬台国」とは、九
 州地方に存在した国の、「首都」であったことになり、近畿の大和は大和
 朝廷時代の「首都」であった、と言えなくはない。そして近畿の大和は、
 長く「首都」がその地にあったため、地名として定着したと考えることに、
 無理はなかろう。

  「やまと」は、古くは「じゃまっとぅ」と発音されていたとしたい。中
 国側では、それが「ぅわまとぅ」と聞こえたのだろうか。
  日本側は、「やまと」を首都の意味で使っていたのだが、大国・「漢」
 からみれば、日本列島のわずか一国の「首都」など、認識しているはずも
 なく、「倭人」の住む島から使者が来たと、大ざっぱに、考えていたのだ
 と思う。
  例えば、現代の日本人でも、北京からきた人も、上海からきた人も、中
 国からきたと認識してしまいがちなので、それと同じである。モンゴルで
 さえ、中国と言う方もいるくらいである。言語的にも文化的にも異質であ
 るのだが、当時の中国でも、しょせんその程度の認識であろうと思う。



   
5.倭国王・「帥升」


  日本の民族史は、『前漢書』に記された紀元前一〜二世紀の倭国のよう
 すから、推測していくしかない。しかし、この頃、百余国に分かれていた
 とある。この時代は弥生時代初期であり、弥生文化圏を持った大集落から、
 縄文文化圏の家族単位まで、さまざまな集団が点在していたと考えられる。

  次が、『後漢書』の


  
「建武中元二年(57)倭奴國、貢を奉じて朝貢す」


  である。

  この時の印綬と言われている『漢委奴國王』の金印が、志賀島で発見さ
 れており、その位置から北九州のどこかに、ある程度統一されて、中国へ
 朝献できるほどの国力を有した、国家らしきものができていた。
  この国が「倭奴国」なのか、「倭」の「奴国」なのか、と問われれば、
 「倭」の「奴国」である。この頃の中国では、「倭」を国号とみなしてい
 るとは思えない。次いで、安帝永初元年(107)には、倭国王・「帥升」
 (すいしょう)が朝献している。この「倭国」が前述の「倭面土国」であ
 る。

  「倭奴国」と「倭面土国」に連続性があるかどうかは不明であるが、私
 見では連続性があるものとみている。
  安帝永初元年(107)に朝献した「帥升」は、正確には、「倭」の地
 から来た、国号が「奴国」の王・「帥升」である。そして、「奴国」の首
 都こそ「倭面土国」である。
  たいした通訳もいなかったであろうから、ちんぷんかんぷんな、やりと
 りをしたのだろうことは、想像に難くない。「倭」の解釈については、双
 方に誤解があったとしても、しかたがないのではないだろうか。

  「奴国」は、一般的に「なこく」あるいは「ぬこく」と発音されており、
 「帥升」は「すいしょう」と発音されている。この倭の奴国王・「帥升」
 は『後漢書』によれば、漢の都、落陽まで行って皇帝の孝安帝に会見を申
 し入れたと言うから、なかなかの勢いである。おそらく、そうとうに統一
 された国家であったに違いない。また、日本列島である「倭」の地で、初
 めて外国に認知された国でもある。それも、その当時最大の国・「後漢」
 にである。

  さらに、『後漢書』は


  
「桓・霊の間倭国大いに乱れ・・・・主なくして年を歴る」


  と伝えている。いわゆる倭国大乱である。通説では、167年〜168
 年にまたがって倭国大乱が勃発したというのであるが、異論はない。
  倭国大乱の理由を、70〜80年間続いた男王が、居なくなったので内
 紛が発生したとしている。居なくなったとは、亡くなったことだ。
  その後、女王を共立したら治まったらしい。この女王こそ『魏志倭人伝』
 のヒミコであろう。
  この文脈から推測すると、「倭」の地の奴国王・「帥升」の死が、倭国
 大乱の原因のように思う。さらに、女王を共立したというのだから、「奴
 国」は「帥升」の死後、分裂したことになる。奴国王・「師升」の死によ
 り、「奴国」は分裂し、一斉に独立戦争を始めたことになる。「奴国」自
 体、「帥升」により統一されていた、多民族国家であったのだろう。

  奴国王・「帥升」の死により、「奴国」が分裂、独立戦争を始めたのが、
 167年であり、男王時代を仮に70年間とすれば、倭国王・「帥升」が
 王位についたのは、97年頃ということになり、57年に朝貢した「倭奴
 国」は、「帥升」の時代ではあり得ない。しかも、「師升」は非常に若く
 して、王位についたことになる。仮に、85歳で死んだとすれば、15歳
 で王位についている。また、先王から「帥升」に、位が渡った時期には、
 『漢書』に戦争の記録が無いことから、このときは多民族国家でない「奴
 国」の話であり、その後、「帥升」により周辺諸国も併合された、多民族
 国家ができたものと考えられる。これを、「統一奴国」とするが、「統一
 奴国」ができたのは、「帥升」が朝献し皇帝に会見を申し入れた、107
 年直前のことであろう。

  若き王が、「統一奴国」を「漢」に認めさせるために、朝献したと考え
 られるからだ。

  前述した年齢にて計算すれば、このとき「帥升」は25歳である。 私は、
 この倭国王・「帥升」その人こそ、若きスサノオであったと思う。
  スサノオは、「帥升王」(すいしょうおう)の音韻変化であろうと考え
 ている。あるいは、「帥升」とは、「統一奴国」の初代であることから、
 「始祖」であり、「始祖王」(しそおう)と呼ばれていた人物を、漢書が
 「帥升」の漢字を、当てたのかも知れない。神社伝承学から、「スサノオ
 は建国の始祖」であることは、判明しており、案外、的を射ているように
 思う。

  また「奴国」の「奴」は、「な」「ぬ」と発音されるが、これを「ね」
 の変化とすれば、「奴国」は「根国」であり、「根の国」である。『記紀』
 によれば、「根の国」とは、「伊弉冉尊」(いざなみのみこと 以下、イ
 ザナミ)が、死して行った国であり、スサノオの治めた国「出雲」だ。

  この時代の発音は、相当訛っていたものと思われる。というのは、現代
 でも出雲地方は、東北弁に近いズーズー弁である。「すいしょうおう」・
 「しそおう」・「すさのお」を口を開けずにズーズー弁で発音してもらい
 たい。ほとんど、同じ発音になることに、お気づきになるものと思われる。
  これと同様に「なこく」も「ねこく」も同じ発音になる。

  イザナミは伊弉諾尊(いざなぎのみこと 以下、イザナギ)の妻であり
 ながら、『記紀』におけるその死後の姿は、悪意を以て記されている、と
 しか思えないほどである。結局、イザナミも出雲系の神として、描かれて
 いるようである。

  スサノオが、イザナミの実子であるかどうかは、推定できないが、「出
 雲」は、イザナミが「根の国」に行ったという『記紀』の記述から、本来
 女王国であったのかもしれない。 



   
6.渡来集団・スサノオ族


  「帥升」とは「始祖王」であり、スサノオのことであったと結論づけた。
 しかも、「奴国」は『記紀』で「根の国」と記されている国、すなわち、
 「出雲」であったとした。しかし、「奴国」以前のスサノオの行動は、全
 然不明であり、それこそ推測するしかない。

  『日本書紀』の一書・第四によれば、スサノオは、高天原を去ったあと
 「新羅」に降臨している。そして、船で「出雲」に渡っている。しかも、
 一書・第五には、船の材料に適した木材にまで言及している。朝鮮半島か
 らの渡来人である可能性は大である。九州が、かつて「筑紫」(つくし)
 と呼ばれており、この音韻がズーズー弁で発音した「ツングース」と同じ
 であることから、モンゴル系であったとも考えられる。もっとも日本人が
 モンゴロイドであることは、よく知られていることであるので、いまさら
 記述することでもないのだが。

  朝鮮半島から日本海を渡って、たどり着く地と言えば、北九州と新潟の
 間であろう。到着地点が、「出雲」であったとしても不思議はないが、こ
 こは、朝鮮半島から壱岐・対馬を経て、北九州のどこかへ落ち着いたとし
 たい。
  もちろん、スサノオが渡来したわけではなく、一族(スサノオ族)によ
 る集団渡来であったはずである。渡来した直接の原因は、朝鮮半島を南下
 してくる高句麗族に、抵抗しきれなくなったと考えているが、日本海側の
 鉄資源を求めての、渡来であったのかも知れない。

  『魏志東夷伝』をみると、朝鮮半島は、「馬韓」・「弁韓」・「辰韓」
 に分かれており、南朝鮮では鉄がでるので、「倭」その他の諸国は、その
 鉄を求めて来往した、とあるが、スサノオ族は、南朝鮮にいて製鉄に従事
 していた一族であり、支配階級であったのだろう。当然、この地は侵略支
 配の中心であったことは、想像に難くない。
  結局のところ、度重なる交戦に疲れたスサノオ族は、故郷を離れ、日本
 列島に活路を求めたのである。

  古代の文明は、朝鮮半島経由であったことを考えてみても、スサノオ族
 の文明は、その当時の日本列島の文明よりも、発達していたことは間違い
 なく、農業・漁業・航海術に長けていた(と思う)スサノオ族が、九州の
 土着の勢力らを懐柔していくには、そう時間のかかることではなかったと
 思う。
  百余国もあった日本列島の国(といっても西日本の一部であろうが)の
 中で、スサノオ族を中心に結束した「奴国」が、徐々に頭角を現してきた
 のである。

  「漢」への朝貢は、満を持してのことだったはずだ。そして、初代奴国
 王こそ、スサノオの父であろう。当然、他に百余国もあるのだから、妨害
 工作や、先に朝貢を試みた諸国は、あったと考えられるが、『漢書』に、
 「奴国」以外の朝貢の記述が無いことから、諸国も納得せざるを得ないほ
 ど、「奴国」は強大な国になっていたのだろう。また、スサノオは、九州
 で生まれていると思う。

  そして、初代奴国王である父から、王位を引き継いだ、スサノオの時代
 が、おとずれるのである。推定、紀元前97年のことである。



   
7.建国の始祖「素戔嗚尊」


  初代奴国王から、王位を受け継いだスサノオを、推定15歳としたが、
 スサノオの死亡年齢から推定すれば、このとき10〜20歳であったこと
 は、間違いないと思われる。幼き王に、一国を治めるだけの力があろうは
 ずがなく、当然、参謀格の武将なり智将なりが、政治を司っていたものと
 思われる。彼らは、「もののふ」と呼ばれる武闘派であり、呪術集団でも
 あった。もちろん推定でしかないが、その中でも、卓越した指導力を発揮
 した者こそ、後の「物部氏」である。


  
「ひふみよいむなやこと ふるへ ふるへ ゆらゆらとふるへ」


  これは「物部氏」に伝わったとされる呪文であるのだが、「十種の神宝」
 (とくさのかんだから)を用いて、この呪文を唱えると、死者もよみがえ
 るという。
  また、武士のことを、「もののふ」とも言うことから、参謀格には後の
 「物部氏」を比定したい。「十種の神宝」については、後述することにし
 よう。
  神社伝承学は、「物部氏」の始祖を、スサノオと解明しているが、従事
 する者と、その王の関係と考えてみると、直系とされたとしても納得がい
 くのではないだろうか。

  スサノオを王とした「奴国」は、107年までに九州全土をほぼ掌握し
 たものと思われる。スサノオ尊、その息子・「大歳」(おおとし)ととも
 に、鹿児島県に至るまで、九州地方の神社に広く祀られている。
  そしてその年、「奴国」を「倭面土」(首都の意味である)とした一大
 国家・「統一奴国」の国王となったスサノオは、「後漢」の首都、洛陽に
 おもむき、孝安帝に面会を求めたのである。
  この時の推定年齢は、20〜30歳であろう。大国・「後漢」の皇帝に
 直接面会を求めるという大胆な発想は、血気盛んなこの若さでないと、で
 きないことだと思う。ちなみに、生口を160人つれていってのことであ
 ると、『後漢書』は記している。

  スサノオは、その勢いに任せて、関門海峡を渡り「出雲」へと向かった
 のではあるまいか。「出雲」の鉄資源の噂を、どこからか聞いたのかも知
 れない。ところが、その地は既に、八岐大蛇(やまたのおろち、以下、ヤ
 マタノオロチ)が支配する土地であった。

  『記紀』神話では、高天原を追われたスサノオが、出雲の地で、ヤマタ
 ノオロチの人身御供にされようとしていた、「櫛稲田姫」(くしいなだひ
 め)をヤマタノオロチを倒して救い、夫婦になったと記している。『古事
 記』では、「高志」(こし)の、ヤマタノオロチとしている。「高志」と
 は「越」であり、今の、新潟県のことではないか。

  また、『日本原紀』の著者である朴炳植氏によれば、「越」とは、「高
 句麗」のことであり、朝鮮半島から日本海を渡って、高句麗人が住み着い
 ていた地が、「越」であるという。ヤマタノオロチとは、大勢の「オリ」
 とか「オロ」と呼ばれた、「越」の人々であるらしく。「オリベふんどし」
 「オロッペふんどし」が、「越中ふんどし」のことであることからも、そ
 れを裏付けているとしている。さらに、「語りべ」・「下僕」と言うこと
 から「べ=人」であり、他にも、人の意味を表す古語として、「ち」があ
 るという。

  『記紀』には、「越」のの中心地である能登半島に、「高句麗国」の使
 節が、いつも到着するところであったとも記している。この頃の「高句麗
 国」は、建国後約70年経過しており、国力も充分で時の勢いもあった。
 「高句麗」は、「こうくり」と発音されるが、実際には、「コーリ」であ
 り、「やっぱり」が、「やっぱし」になるように、「り」は、簡単に「し」
 と音韻変化することから、オロチとは「高句麗」の人・高句麗族のことで
 ある。

  もともと、スサノオ族は、牛頭山を聖山として、「高木の神」を崇めて
 いた、「伽耶」の製鉄集団の支配階級であった。これに関しては、後述す
 るが、朝鮮半島を南下してくる、高句麗族の勢力に押され、日本列島に亡
 命して来たのだが、高句麗族は、既に、日本列島まで達していたのである。
  しかも、「越」から「出雲」に至る地方を支配していたのである。
  
  さらに、前述の朴炳植氏は、ヤマタノオロチが毎年さらっていったとい
 う「櫛稲田姫」(くしいなだひめ)の姉七人とは、稲田の収穫であったと
 も述べている。
  つまり、「越」(新潟県)からきた高句麗族が、「出雲」の斐伊川の水
 利のよい平野で、稲作に従事していた人々から、毎年、収穫されたばかり
 の稲を、奪っていく暴挙が、七年もの間続いていたと言うのである。
  朴氏は、稲作に従事していた人々を「伽耶」の人であると述べているが、
 もしそうであれば、スサノオ族とほとんど同じ時期に朝鮮半島から来た、
 渡来者の別集団であるとも考えられる。

  スサノオ族は、南下する高句麗族の迫害から逃れるための、日本列島へ
 の亡命であったであろうが、出雲地方にも同民族が、同じ理由で亡命して
 いた、と考えることに無理はないし、むしろ当然でもある。
  後述するが、スサノオの「出雲」進出も、鉄資源の確保とともに、増加
 する、「統一奴国」の人口に、対応するため、肥沃な耕作地帯を開拓する
 目的があったと思われる。結局は、戦争をしかけていったのだろう。

  毎年、「越」の高句麗族に悩まされ、支配され続けてきた、「出雲」の
 人々にとってみれば、「物部」の大軍を率いてやってきた、若きスサノオ
 の姿に、怖れを抱きながらも、ついには、高句麗族追放のために、ともに
 戦う決心をしたのではないだろうか。
  「出雲」の人々は、航海術に長け、「統一奴国」を成し遂げた、スサノ
 オの敵にまわることは考えにくい。スサノオと「出雲」は、同郷とされて
 いるのである。

  ここで、両者は取引に応じた。スサノオに「出雲」の統治権を約束する
 代わりに、高句麗族を討つことである。ここで言う「出雲」とは、西出雲
 地方である。
  取引に応じたスサノオは、その年の秋、何も知らない高句麗族を迎え撃
 ち、西出雲を支配下に治めたのである。草薙剣(くさなぎのつるぎ)こと
 天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は、高句麗族からの戦利品であろう。

  天叢雲剣のことを、『日本書紀』は、


  
「大蛇のいるうえに常に雲があったので名づけられた。」


  と説明しているが、曇り空のような輝きだと解釈すれば鉄剣であり、ス
 サノオの剣は、大蛇の尾を切ったとき刃こぼれしたというので、青銅剣で
 あったことを意味する。

  神社伝承学では、その後、オロチ族からの、報復を怖れたスサノオは、
 「出雲」の国を逃げ隠れたとしているので、偶然的要因で勝利したにすぎ
 ないかもしれないが、その後、何とか高句麗族を制圧することにより、ス
 サノオは、「出雲」の統治者として君臨することになる。
  そして、スサノオはその本拠地を、島根県大原郡大東町須賀にある現在
 の「須賀神社」に定めたらしい。


 
 「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる この八重垣を」


  この和歌は、スサノオがこの地を居住地に定めたとき、詠んだと『古事
 記』は記している。それ以来この国は「出雲」と呼ばれるようになったの
 である。

  この結果、スサノオは、九州地方と西出雲地方を、掌握したことになっ
 た。
  スサノオは、この地方がよほど気に入ったらしく、神社伝承学によれば、
 この地方で亡くなっているのだという。亡くなった場所は、松江駅より南、
 13Kmの八束郡八雲村の地で、居住地とは反対側の、意宇川のほとりで
 あるらしい。
  住居にこの地を選んだ理由として、清太(西利太)の製鉄所に近いこと、
 その清太から、当時でも要衝であった、松江市に通じる途中であったこと
 かららしいが、居住地であった「須賀神社」の後方に、現在でも八雲山が
 あることは、後のストーリーで、非常に重要なポイントになってくる。

  古代八雲山は、三室山と呼ばれていたのである。

  さらに、神社伝承学では、スサノオは、非常に勇猛で強く、一生涯のう
 ち戦って敗れることなく、「出雲」・「隠岐」を186村に分け、それぞ
 れに村長を置き(この村長が、現在その地方の神社に、神として祀られて
 いる)、西出雲には、支庁を置いていたという。これらは、神社伝承以外、
 調べる手段はないが、仁慈の名君であったことは、否定するつもりもない
 し、その通りであったと思う。
  『出雲国風土記』には、名君であった、との記載がなされているのであ
 る。

  スサノオの讃え名は「神祖熊野大神奇御食野尊」(かむろぎくまのおお
 かみくしみけぬのみこと) と言い、現在は、島根県八雲村の「熊野神社」
 に祀られている。「出雲」の神と言えば、出雲大社の「大国主命」(おお
 くにぬしのみこと、以下、オオクニヌシ)を連想するが、「出雲国」で、
 もっとも尊い神と言えば、「大穴持命」(おおなむちのみこと、以下、オ
 オナムチ)と「熊野加武呂乃命」(くまのかむろぎのみこと)なのである。
 オオナムチとは、オオクニヌシのことであり、(実は、そうでは無いが)
 「熊野加武呂乃命」とは、「神祖熊野大神奇御食野尊」つまり、スサノオ
 のことなのである。

  『出雲国風土記』には、『記紀』とはまったく違う国引き神話がある。
 「八束水臣津野命」(やつかみずおみつぬのみこと、以下、ヤツカミズオ
 ミツヌ)が、「新羅」と「北門」や「越」の岬から引っ張ってきた土地に
 よって、小さな「出雲」が大きく縫い広められたという。これらの国は高
 句麗族の支配していた土地であった。

  この後、さらに東出雲地方から、「越」まで軍を進め、高句麗族を制圧
 したスサノオ(実は、オオナムチ命を軍師に任命している)は、故郷であ
 る南朝鮮の鉄資源を求めて、渡航していったのだと思う。スサノオの武勇
 は、海を渡り朝鮮半島にまで、伝わっていたことであろう。
  スサノオ族を、日本列島に追いやった、朝鮮半島の高句麗族は、大した
 抵抗もみせずに分散していったに違いない。こうして、北九州から「越」
 にかけてと、南朝鮮との日本海文化圏を、形成していったのだろうと思わ
 れる。



   
8.「大国主」となった「大己貴命」


  『出雲国風土記』では、国引き神話のヤツカミズオミツヌこそ、出雲国
 の名付け神になっている。それは、ヤツカミズオミツヌが、この地を「八
 雲立つ出雲」と呼んだから、というものであるが、和歌こそ詠んでないも
 のの『古事記』に記されたスサノオのそれと、まったく同じ内容である。
 ヤツカミズオミツヌは『古事記』こそ、スサノオの四世孫としているが、
 案外、スサノオの別名ではなかろうか。
  それはスサノオの「出雲」における呼称なのかも知れない。

  話は前後するが、西出雲を、高句麗族の勢力下から、奪取したスサノオ
 は、高句麗族の激しい抵抗に相いながらも、東出雲地方にまで、進出して
 いった。
  意宇郡に達した頃、この地方でも、高句麗族に、悩まされ続けていた人
 物がいた。オオナムチである。オオナムチは、スサノオに助けを求めてい
 る。

  前述の、言語学者の加治木義博氏は、古代、国を「ラ・マ・ヤ・ナ」の
 いずれかで発音したと言う。従って、オオナムチとは、人名ではなく、オ
 オナの貴い人の意味となり、オオナとは、「意宇国」(おおな)である。
 すなわち、スサノオに助けを求めにやってきたのは、東出雲地方の「意宇
 国」の国王であった。

  『古事記』によれば、オオナムチはスサノオから、生大刀、生弓矢、玉
 飾りのついた琴を奪って逃げ、スサノオは、それを許している。これは、
 オオナムチを、軍師に命じたことに他ならない。この時スサノオは、50
 歳にさしかかってしたと思う。オオナムチが軍師になれたのは、スサノオ
 の娘である「須勢理姫」(すせりひめ)が、オオナムチに惚れてしまった
 という、『古事記』の記述を信用するしかないが、以外にも、本当なのか
 も知れない。いずれにしても、スサノオの後押しがなければ、不可能な話
 であろう。

  軍師であるからには、スサノオの率いて来た、「物部」の大軍を自由に
 使ってもいいわけだ。オオナムチは、「越」の八口を討ったと、『出雲国
 風土記』は記している。この記述が、「越」の高句麗族の最後の時だ。
  これにより「出雲」・「越」とも平定され、スサノオは、その後、南朝
 鮮に渡り、先に述べたとおり、南朝鮮を含めた日本海文化圏を、形成して
 いくのである。

  この文化圏は、鉄資源を元手にした通商連合であった。貿易を生業とし
 ていたのである。
  通商を生業とした、早い話が商売人は、江戸時代の堺衆がそうであった
 ように、何者にも屈しない、強い結束力を備えていたのであるが、一度、
 メリットが無くなれば簡単に崩壊してしまう。
  オオナムチは、スサノオの後押しもあって、最大の貿易相手である「少
 彦名命」(すくなひこなのみこと、おそらく朝鮮半島の「昔」《すく》姓
 の一族。以下、スクナヒコナ)と、共同して貿易に携わり、国土経営をし
 ていたのであるが、そのスクナヒコナは、常世の国に行ってしまう。すな
 わち、死んだのである。

  この結果、オオナムチは、スポンサーを失ってしまうこととなった。

  オオナムチは、『古事記』によれば様々な地方の女性を妻にしている。
 スサノオの娘である「須勢理姫」(すせりひめ)を始め、「因幡」の「八
 上姫」(やがみひめ)、「越」の「沼川姫」(ぬまかわひめ)、「宗像」
 の「多紀理姫」(たぎりひめ)、「鳥取」の「鳥取神」(ととりかみ)、
 「神屋楯姫」(かむやたてひめ)がそうである。

  これらの女性出身地からみても、海を通じた交流の様子が窺い知れる。
  「神屋楯姫」の出身地は明記されていないが、オオナムチの地元、「意
 宇国」であろうか。

  さて、オオナムチは、オオクニヌシという別名がある。一般的には、こ
 ちらの方がよく知られているのであるが、『但馬故事記』には、「彦坐王」
 (ひこいますおう)が、「丹波」・「但馬」の二国を賜り「大国主」の称
 号を得たとの記述がある。従って、オオクニヌシとは、今で言えば県知事
 のような職制上の称号であったのだろう。オオナムチはスサノオから、オ
 オクニヌシの称号をもって、「出雲」の自治権を許されたということであ
 る。他の地方には、その地方のオオクニヌシがいたのであり、『記紀』に
 記される、オオクニヌシの別名が、異常に多いのもこれで、説明がつく。

  この頃の、オオナムチの勢力範囲は、「大和」までに拡大していたらし
 い。

 『古事記』には、「出雲」から「大和」(倭国)にオオクニヌシが、出張
 していく様子が記されている。このことは、「須勢理姫」との歌のやりと
 りとともに記されているのだが、「須整理姫」が、オオクニヌシに対して
 「八千矛神」と呼びかけているので、「大和」を勢力範囲にしたのは、ス
 サノオだったのかも知れない。「八千矛神」とは、神社伝承学によれば、
 スサノオのことであった。

  「昔」姓の「少彦名命」が亡くなることにより、スポンサーを失ってし
 まったオオナムチは、南朝鮮の資金源(鉄資源)を、絶たれてしまう可能
 性があった。もともと、南朝鮮の鉄資源は、スサノオ族が押さえていたの
 だが、その後、高句麗族に奪われた。スサノオは、「統一奴国」を成し遂
 げ、高句麗族を追放することにより、再び南朝鮮の鉄資源を奪取した、と
 推測している。その地盤をオオナムチが受け継いでいたのであるが、「昔」
 族は、スサノオ族と同郷であろう。「昔」族もスサノオ族もともに、「高
 皇産霊尊」(たかみむすびのみこと、以下、タカミムスビ)を、崇める一
 族であったのである。



   
9.「高皇産霊尊」と「素戔嗚尊」


  『記紀』では、スクナヒコナは、タカミムスビの子であると言うが、タ
 カミムスビの別名に「高木の神」がある。
  古代、韓国の人々は、天上界の神々は、山岳にそびえ立つ高木から降臨
 すると信じていた。「高木の神」とは、きわめて朝鮮的な神なのである。
  スサノオとタカミムスビの関係は、どうであろうか。
  『富士宮下文書』は、スサノオは、タカミムスビの曽孫(ただし養子で
 ある)であるとし、


 
 「祖佐之男命、朝鮮新羅国王の四男・太加王」


  と具体的に記している。

  この「太加王」(たかおう)説の真偽のほどは、諸説あり定かではない
 が、スサノオとタカミムスビとの関係の深さはわかる。タカミムスビは、
 実在した人物ではなく、観念的な神であろうが、スクナヒコナに代表され
 る「昔」族とスサノオの親密ぶりを、伺い知ることができる。
  前述の朴炳植氏は、スクナヒコナのことを、「昔」姓の王家が、「金」
 姓の王家にその王座を奪われた事件と説明している。もっとも、この事件
 を355年としているので、私見とは年代があわないが、スクナヒコナの
 死は、これに近いことであったと考えている。

  スサノオが、「出雲」に侵攻して以来、「統一奴国」の本拠地は「出雲」
 であったはずである。従って、「統一奴国」の国土経営は、「出雲」に政
 庁をおいて繰り広げられていた。「出雲」のオオクニヌシであったオオナ
 ムチは、「統一奴国」の総理大臣的な存在であったのだろう。その上に君
 臨していた人物こそ、「牛頭天王」ことスサノオである。文字通り、天皇
 だ。

  しかし、スポンサーであったスクナヒコナの死により、この法則は崩れ
 始めた。朝鮮半島での基盤を失ったのである。
  さらに、オオナムチに、追い打ちをかける衝撃の事件が起こった。スサ
 ノオの死である。
  『記紀』には、去っていったスクナヒコナのことを、オオナムチが、嘆
 いていると、海を照らして神がやって来たと記す。この神は、「大和」の
 三諸山に住みたいと言い、三輪山の神だとするが、この物語こそ、スサノ
 オ尊の死を暗示していると思う。

  『日本書紀』は、この神は次のように述べたとしている。

  
  
「もし私がいなかったら、お前はどうしてこの国を治めることができた
 ろうか。私があるからこそ、お前は大きな国を造る手柄を立てることがで
 きたのだ。」


  これはスサノオが死に際して、オオナムチに述べた、最後の言葉に他な
 らないと思う。そして、スサノオは、自らを三諸山に祀るように、オオナ
 ムチに依頼したのである。もちろん、「大和」の三諸山では断じてない。
  オオナムチが、国土経営を成功させたのは、「出雲」においてである。
 そこに、おおよそ関係がないと思われる、三輪山の神が、どうして入り込
 めようか。
 確かに、「大和」は勢力範囲であったかもしれないが、三輪山の神に比
 定するには、かなり無理がある。

  三諸山は三諸山でも、「出雲」の三室山すなわち、八雲山である。そこ
 は、スサノオが住居を定めていた場所であり、出雲発祥の地であった。



   
10.倭国大乱


  荒ぶる巨神スサノオの死は、またたく間に、「統一奴国」全体に伝わっ
 た。この瞬間から多民族国家であった「統一奴国」に、緊張が走ったこと
 は言うまでもない。

  かつて、中国大陸を統一した「秦」が、「始皇帝」の死後、急速に国力
 が衰え、各国が独立戦争を始めたことからもわかるように、カリスマ的で
 偉大なる指導者亡き後の、大国の末路は決まっているようである。
  結局は、スサノオによる統一国家であり、各民族の事情によった統一で
 はなかったのだ。独立の機運は高まり、相乱れての戦争状態となった。自
 治権確保のためでもあり、王権争いのためでもあった。幸いにも「出雲」
 は、オオナムチの国土経営と、スサノオの本拠地であったためか、難を免
 れたようである。九州と海を隔てていたことも、原因の一つであろう。こ
 の時点で、「出雲」は独立国となっているが、後世、東西に分裂し争うこ
 とになる。

  しかし、九州地方は、独立をかけての戦争状態である。この時、167
 年。
 『後漢書』にいう「倭国大乱」である。スサノオの死から1年と経ってい
 ないだろう。
  九州の「奴国」も戦火にまみれた。しかし、他国とは少々事情が違って
 いたはずである。「奴国」は独立する側ではなくて、独立を阻止する側で
 あった。「物部」を将とした「奴国」は、独立反対派制圧のために、戦争
 をしていたことと思われる。

  「統一奴国」の次期王権は、「奴国」のオオクニヌシが握ることが当然
 である。

  しかし、再び統一は、なかった。

  この戦争状態は、『後漢書』が記すように、「桓・霊の間」続いた。桓
 帝147〜167年、霊帝168〜188年であるから、20年近くの長
 きに渡り戦争状態が継続していたものと考えられる。戦争初期こそ、民族
 をあげての大戦争であっただろうが、後半は小康状態であったことだと思
 う。自治権の行使できる範囲内で、の小競り合い程度であろう。小国に分
 裂した後も、長く続いた戦争状態により、各国力は劣悪になり、よそに干
 渉する余裕がなくなっていたはずである。



   
11.連合国の出現


  推定185年、長く戦争状態であった九州地方も、ようやく事態収集の
 道が開けてきた。女王を共立して、連合しようというものである。
  しかし、スサノオの時代のとは、少々訳が違っていた。自ら連合の道を
 選ぼうとしたのである。理由を記す文献は存在していないが、戦争状態が
 長きに渡ったため、自治権を確保した各国の国力は、底をついていた。し
 かも、「奴国」の後ろ盾になっていたはずの「後漢」が、184年の黄巾
 の乱をきかっけにして、中国は戦乱の世と化してしまっていたのである。
  これにより、九州地方はかつて悩まされ続けた、高句麗族の脅威にさら
 される怖れがでてきたのである。

  スサノオ族が、高句麗族から朝鮮半島を追われた時代は、漢王朝末期の
 戦乱の時代であった。つまり、中国と「高句麗国」のパワーバランスが崩
 壊した時、高句麗族は朝鮮半島を南下してくるのである。
  漢王朝末期は、「後漢」が早い時代に成立し、スサノオが「統一奴国」
 を成し遂げたことにより、危機を免れた。しかし、今回はどうなるかわか
 らない。

  小国単位の防衛では、「高句麗国」に立ち向かえるはずもない。そこで、
 連合の提唱である。どちらかというと連合と言うより同盟であったろう。
  提唱を呼びかけたのは、やはり「奴国」であろう。女王の共立というの
 は、まことにうまい案である。この女王こそ、「邪馬台国」のヒミコだ。
 この時の、ヒミコの年齢は15歳くらいであろう。おそらくヒミコは、ス
 サノオの血を引いているはずである。言うなれば孫である。そうでなけれ
 ば、各国は納得しないであろう。

  スサノオの孫で、しかも若き女性であったからこそ、この共立は成功し
 たのだと思う。スサノオの孫ということで大義名分がたち、若い女に政治
 など務まらないと考えるのは、世の常だ。当然、各国の代表が政治の中枢
 を担うことになり、女王は傀儡だと誰もが予想した。
  この提唱は、一見うまくいくようにみえた。ところが、伏兵は思わぬと
 ころにいた。かつての「統一奴国」の保守派が、猛反対したのである。
  「奴国」は、「後漢」から「漢委奴國王」の印綬を授けられた名門中の
 名門である。かつての「統一奴国」の属国にすぎなかった、諸国と対等の
 連合には絶対賛成できないというのである。

  この結果「奴国」は連合推進派と、連合に反対の保守派とに分裂した。
 連合は成立し、連合各国の抵抗もあって、保守派は「奴国」を追放されて
 しまった。その多くは、遠く南九州の地に新たな国を建国した。
  連合国側は、保守派の建国した国を「旧奴国」と呼んだ。
 『魏志倭人伝』に記されている「邪馬台国」の最大の敵国、「狗奴国」で
 ある。



   
12.狗奴国と邪馬台国


  連合関係となった九州地方の各国は、かつての「統一奴国」の都とは別
 の地に、新しい都を定めた。それは、どこの国にも属さない地であったと
 思う。
  それが、「邪馬台国」であり、「邪馬台」とは、首都の意味であった。
 連合国の政府機関が設置された場所をさして、首都のある国、すなわち、
 「邪馬台国」と呼んだのである。

  女王の共立に反対し、連合に逆らった「奴国」の保守派は、南九州地方
 に国を建国し、「狗奴国」(以下、旧奴国と記述)と呼ばれ連合国側と対
 峙することになる。後に、この「旧奴国」が、一国で連合国側に戦争を仕
 掛けるのだから、「奴国」の大半の勢力が、「旧奴国」となったのだろう。

  ヒミコは、スサノオの孫ではあったが、正当な「奴国」の王位継承者で
 は、なかったと思われる。正当な王位継承者とは、『魏志倭人伝』で狗奴
 国王と記述されている「卑弥弓呼」である。第一、これほど似た名前は、
 姉弟であるとしか考えられない。一般的には、「ひみここ」「ひみくこ」
 「ひみきゅうこ」などと発音されているようであるが、ヒミコが「日の巫
 女」であるならば、「卑弥弓呼」も「卑」の字を除いた「弥弓呼」の部分
 が職業なり、名前なりを表すのだと考えたい。

  「ひみ○こ」、この○の部分にはいる発音は、「けひ」ではないか。

  「みけひこ」、これに『日本書紀』風に漢字を当てれば「三毛彦」であ
 り、「卑弥弓呼」は「日の三毛彦」あるいは、「火の三毛彦」である。
 「ひのみけひこ」であれば、「ひのみきゅうこ」と聞こえてもおかしくは
 ないし、「きゅうこ」だけをみれば、宮崎県にある「日向」(ひゅうが)
 が同音といえる。ちなみに、神武天皇は日向の「三毛野命」が、本名であ
 る。
  あるいは、『魏志倭人伝』の「狗奴国」の官「狗古智卑狗」が「きくち
 ひこ」ではないかと言われていることから、「か・き・く・け・こ」は同
 音に聞こえたとも推測でき、「ひみきこ」とも考えられる。「き」は「ひ」
 に簡単に変化するから「卑弥弓呼」は「ひみひこ」であったとも言える。
  こじつけて言えば「ひのみやこ」かもしれない。

  ヒミコも「卑弥弓呼」(以下、ミケヒコ)も、スサノオの孫に当たり、
 ミケヒコは次期奴国王、ヒミコは生まれながらにして、太陽神を斎祀る巫
 女として育てられていた。後の時代に、天皇家の皇女が「伊勢神宮」の斎
 宮となったことと無関係ではない思う。

  その当時の奴国王(おそらくスサノオに任命されたオオクニヌシの職の
 者)は、「統一奴国」からの独立を目指す周辺各国に対し、南下する高句
 麗国の脅威を訴えた。「奴国」の基礎を築いたスサノオ族は、高句麗国の
 脅威に、直接さらされてきた過去を持っている。後漢が衰退した今、高句
 麗国は、今度は日本海を越え、九州まで進出してくるかも知れない。内乱
 どころの騒ぎではないのである。この事態を収拾するには、「後漢」から
 認められた「奴国」による再統一が、一番望ましい。しかし、スサノオの
 いないこの時代、「奴国」にそれだけの実力もなく、後ろ盾となっていた
 「後漢」も、黄巾の乱のありさまである。そこで自らは引退し、ミケヒコ
 を王に立てようとした。ところが、それでは「奴国」主導の政権と変わら
 ない。連合のためには、女王を立て、しかも政治の中枢を「奴国」以外の
 地方に置くという条件を、飲まざるを得なかったのである。 



   
13.「邪馬台国」


  保守派の建国した「旧奴国」と、推進派による連合国という二国に分裂
 した「奴国」の様子は、幸いにも『魏志倭人伝』に記されている。

  女王・ヒミコの都に属する国は、


 
 「対馬国」(千余戸)
  「一大国」(三千許の家)
  「末廬国」 (四千余戸)
  「伊都国」(千余戸)
  「奴国」 (二万余戸)
  「不弥国」(千余の家)
  「投馬国」(五万余戸)


  が主要各国であるらしく、その南に位置するところに、ヒミコの都「邪
 馬台国」(七万戸)があるという。

  現在発表されている『魏志倭人伝』の書き下し文は、


 
 「南、邪馬台国に至る。女王の都する所なり。」


  としているので、「邪馬台」が首都の意味であることは、「魏」の使節
 団も承知していたようである。

  『魏志倭人伝』には、その他、遠方の小国として、二十一カ国を掲載し
 ている。そしてその南に「旧奴国」がある。女王の国の東側、海を渡って
 千余里のところに、また倭種の国があるとしているので、これが「出雲」
 のことであろうか。朝鮮半島の南岸に「狗邪韓国」があるが、この国につ
 いては、女王国との関連が記載されていない。これは、「伽耶韓国」と理
 解している。

  かつてのスサノオ族と同族であり、敵対こそしていないものの、連合国
 ではないのであろう。
  この各国の戸数は、「邪馬台国」時代のもの(と思う)であるから、連
 合国と対等に戦争ができる「旧奴国」は、おおよそ十万戸ほどあると考え
 られる。

  さて、景初二年(238年、三年とする説有り)六月、ヒミコの遣いで
 「難升米」らが、帯方郡に朝貢している。「難升米」は、魏の都、落陽ま
 で送られている。魏の明帝は異常に喜び、献上物とは比較にならないほど
 の贈り物の目録を「難升米」に渡している。この景初二年には、帯方郡は
 「魏」の支配地とは言えず、「燕」の支配するところであった。ちょうど、
 「燕」の「公孫淵」を襄平城に包囲した月が六月であった。「難升米」は、
 戦場の中を朝貢に走ったことになり、そのなりふり構わず走った「難升米」
 に対しての、明帝の異常な喜び、と解釈している。これが、ヒミコの策で
 あったならば、ヒミコは、大変な外交上手と言わなければならない。
  その後、「魏」が中国を再統一したことは、『三国史』により、誰もが
 知るところである。

  明帝は、「難升米」に最大級の賛辞を送ると共に、それに見合った贈り
 物を送る約束をした。難升米らの外交は大成功であった。「親魏倭王」の
 印綬はこのときのものである。



   
14.『魏志倭人伝』


  「難升米」が、帯方郡に朝貢したのが六月であり、落陽で明帝の賛辞と
 共に目録を受けとったのが、実は十二月であった。帯方郡から、洛陽まで
 到着するのに、6ヶ月はかかりすぎである。従って、朝貢の年は、景初三
 年ではなく戦争中の景初二年に間違いなかろう。戦争中であったから6ヶ
 月もかかったのである。
  ところが、魏からの贈り物が到着したのは、二年後の正始元年(240
 年)である。元号が変わったということは、先帝が亡くなったためである。
 つまり、贈り物は、明帝の喪が明け、斉王の時代になってからなのだ。
  ヒミコは、なぜ238年に魏に朝貢したのだろうか。連合国の成立は、
 私見では、185年である。この間53年間ある。連合当初は、「邪馬台
 国」に政府機関を置きながらも、連合各国の牽制が続いていたことと思う。

  ヒミコの傀儡政権を目論んでいた、各国の要人は、『魏志倭人伝』の記
 述からすると、ヒミコの祭事に心を惹かれていたらしいので、年月が経つ
 につれ、ヒミコ政権は絶対になっていったことだろう。幼い頃から、斎王
 として教育を受けていたヒミコが、いよいよ本領を発揮したのである。
  それでも、53年間は長すぎる。これは、「旧奴国」と常に戦争状態に
 あったからだと思う。戦争当初は、「旧奴国」も国力が充実せず、国境付
 近の小競り合い程度であったが、「邪馬台国」としても、内政に切磋琢磨
 しており、朝貢は二の次になっていたことだろうと思う。しかも、中国で
 は、「魏」・「呉」・「蜀」が対峙していたのである。次期動向を見据え
 ていたこともあろう。
  ただ、53年経ったこの時期でさえ、大した進展はなかったことと思う
 が、この時期をはずしてはだめだったのである。

  ヒミコが、女王として共立された歳を、私見では15歳とした。朝貢の
 時、ヒミコは68歳である。ヒミコは、自らの死を予見していたのではな
 いだろうか。自分が死んだ後の、連合はどうなってしまうのか。各国は、
 スサノオの死の時のように、独立戦争を始めるのではないだろうか。「旧
 奴国」が、占領してしまうのではないだろうか。そんな懸念が頭をよぎっ
 たのであろう。それが、大国・「魏」への朝貢と結びついたのである。
  ただし、「魏」を選んだのは、ヒミコの先見の目であろう。
  かくして、「魏」との外交は成功した。「魏」の明帝は、ヒミコに対し
 て「親魏倭王」の称号を授け、「邪馬台国」は、大国「魏」という後ろ盾
 を持った。

  しかし、「魏」の使節団が、九州に到着したときは、遅すぎた。

  「魏」の使節団が到着したのは、正始元年(240年)である。この時、
 既にヒミコは、亡くなっていたのである。

  『魏志倭人伝』のどこを読んでも、「魏」の使節団が到着したときに、
 ヒミコが死んでいたという、記述はないぞ。とおっしゃる方が大半を占め
 るであろう。しかし、ヒミコは死んでいるのである。

  『魏志倭人伝』もそれを暗に証明している。

  『魏志倭人伝』は、「魏」の使節団が、九州に到着するまでの、倭国王
 の記述は、一貫して女王で通していた。それが、使節団に会った王は、倭
 であり、女王ではない。そして、同じ年の四年、8人の使節団を「魏」に
 遣わしたのも、倭王と記述されているのである。
  『魏志倭人伝』に記述されている、「邪馬台国」の地理的記述とその様
 子を除いて、簡単に書き下すと次のようになる。


  「郡使たちが、『邪馬台国』を訪れたときには、ヒミコは既に老齢であ
 り、女王になって以来、人前にはあまり姿を現さなかった。一人の男性だ
 けが彼女に接していた。宮殿・高楼があり、城柵が厳重に廻らされていて、
 宮殿は、見張りと護衛が立っており、城柵の周りは、兵士によって守られ
 ていた。
  景初二年六月、難升米らが朝貢してきた。一二月に、洛陽の都で皇帝よ
 り、『親魏倭王』の印綬を始めとする、たくさんの贈物の目録が『難升米』
 らに渡された。

  先帝の喪の明けた正始元年、その時の約束通りの贈物を持った、『魏』
 の使節団が、『倭』にやってきて倭王に会い、倭王はいたく感激した。

  其の四年、倭王が8人使わして朝貢してきた。

  其の六年、皇帝直々の命令で、『魏』の軍旗である黄色の旗が、帯方郡
 経由で『難升米』に与えられた。

  其の八年、帯方郡の太守が洛陽にやってきて次のように説明した。

  『倭の女王ヒミコは、『狗奴国』の『卑弥弓呼』を、もともと宿敵とし
 ており、両国は、今戦争状態です。『倭』より、使いの者が援助を請うて
 きました。 この数年の成り行きから、事態はかなり深刻です。
  すぐに、魏の軍旗と詔書を軍事顧問に持たせ、『倭』に派遣した。これ
 らは、『難升米』に渡され、『魏』側作成による檄文をもって諭した。
  ヒミコが死んだので、大きな墓を造り、奴隷ら百人が殉死させられた。
  ヒミコの死後、男王が立ったが、国内従わず、入り乱れて殺し合い、そ
 のために千人近く死んだ。その後、ヒミコの血縁で女の十三歳になる『臺
 与』を女王に立てたところ、国内の収拾がついた。『魏』の軍事顧問は、
 『壱与』に王としての心得を諭した。軍事顧問が帰国する際、『臺与』は、
 使節団二十人を一緒に遣わして見送らせた。」


  ヒミコの墓の記述が「倭王の死」と記されていれば、こんな疑いは、持
 たなかったであろう。女王と説明しておいて、後の記述は倭王で統一した
 と考えられるからである。しかし、ヒミコの後を嗣いだ王は女であると、
 記述していることから、『魏志倭人伝』は、男女を明確に区別して記して
 いると考えられ、倭王は男であり、絶対ヒミコではない。魏の皇帝直々の
 命令による軍旗が、ヒミコではなく「難升米」に渡されたのはなぜだろう
 か。

  通信手段の乏しいこの時代には、皇帝直々の檄文と言えば、現代の大統
 領間のホットラインである。それを、外務大臣といえる「難升米」が相手
 をするのは、大国「魏」に対して、大変無礼なことのはずだ。
  つまり、この時ヒミコは既に亡くなっており、「難升米」が倭王の代理
 をしていた。ヒミコの死は、倭王の登場する正始元年より以前で、最初の
 朝貢より後であったとしたい。

  魏の使節団が会った倭王とは「難升米」であった。老齢で人前に姿を現
 さないヒミコには、会っていないのだ。結局、ヒミコが生きているように
 読めるのは、文脈が前後して記述されている(おそらく意図的に)からで
 あり、名詞に注意して読めば、通説とは異なった様相であることが判るの
 である。

  自らの死を予見し、「旧奴国」からの攻撃も日増しに強くなる中、ヒミ
 コは、「魏」に朝貢する決意をした。何らかの病気が進行中だったと思う。
  238年、ヒミコは「難升米」らに朝貢を命じた。ヒミコの死後の内乱
 と、旧奴国の侵攻からの防衛には、大国の後ろ盾が必要だったのである。
 その対象は「魏」であった。「魏」は後に、「呉」・「蜀」を滅ぼし、中
 国を統一し「晋」となっている。

  ヒミコの鬼道による選択であったのだろうか。

  「難升米」らは、「魏」と「燕」の戦場である帯方郡に走った。驚いた
 のは「魏」側の大守・「劉夏」であった。戦場の地へ海を越えて朝貢して
 きたのだ。なりふり構わない「難升米」らの姿に感涙した「劉夏」は、戦
火が落ち着くのを待って、首都・洛陽へ、使節とともに「難升米」らを遣
 わした。

  「難升米」らが持参した貢ぎ物は、奴隷男4人女6人、斑布二匹二丈と
 いうお粗末なものであった。同年一二月、使節からの報告を受けた明帝は、
 非常に感激してみせた。「難升米」らに「親魏倭王」の印綬とともに、過
 大なる贈物を送る約束をし、ここに、ヒミコの外交は成功した。
  明帝は、いずれ朝鮮半島に進出する野望を持っていたのだと思う。その
 ため、「倭」を味方にしておくことは、願ってもないことであったはずだ。
  そこで、明帝は「倭」を過大評価することにより、「魏」の底力を見せ
 つけておいたのである。

  その結果が、過大なる贈物へ結びついているのだ。

 数ヶ月を経て、「難升米」らは帰国し、ヒミコにそのすべてを報告した。
 ヒミコの病状はさらに悪化していたが、「魏」の友好国としてのお墨付き
 を確認したヒミコは、「魏」からの使節団を心待ちにしながらも、ついに
会うことはなかった。自分の後継者を決定しておかなかったことに、一抹
 の不安を感じながら亡くなってしまう。

  「魏」側は約束をしながらも、その後明帝がなくなり、喪に服していた
 のである。

  新帝・「斉王」の立った240年、「魏」からの使節団が到着した。ヒ
 ミコ亡きを知った使節は、「難升米」を倭王として、約束の贈物を渡し、
 「斉王」の言葉を伝えた。この場所が、「伊都国」であるらしいことは、
 『魏志倭人伝』から推測できる。また、『魏志倭人伝』には、「伊都国」
 には代々王がいると記されているので、「難升米」は伊都国王だったのか
 もしれない。

  ヒミコの死は、ゆっくりではあるが九州全土に広がっていった。後継者
 不在のままのヒミコの死である。「邪馬台国」の要人はひた隠しに隠した
 ことであろうが、それも長くは続かなかった。
  しかし、推定241年、ヒミコの死を確認した「旧奴国」が、ついに国
 境を越え、統率力の薄れた連合国の首都・「邪馬台国」に襲いかかろうと
 していたのである。



   
15.再び倭国大乱へ


  「旧奴国」軍の侵入を知った首都・「邪馬台国」は、それが、今までの
 ような小競り合いでないことくらいすぐにわかった。ヒミコの死が、つい
 に「旧奴国」へ知られてしまったのである。両国は、国力をあげての戦争
 へと突入していった。

  「邪馬台国」も『魏志倭人伝』の記述から、相当な軍事力を備えていた
 ことがわかる。しかし、この期をのがして、「旧奴国」の本来の領土を奪
 回することができないと考えた「旧奴国」は、攻撃の手をゆるめなかった。

  女王を失った連合国と、領土奪回に燃えた「旧奴国」。両国の勢いの差
 は歴然としていた。このことが引き金となり、連合関係が崩壊し始めた。
  日増しに劣勢となっていった「邪馬台国」は、243年、「魏」に援軍
 を求めた。
 「魏」の援軍が到着したのは、その2年後であり、しかも、「魏」の軍旗
 だけという有様であった。大国の威だけでは、「旧奴国」の攻撃は止まる
 はずもなく、「旧奴国」の勢力に怖れを抱いた連合各国は、スサノオの死
 の時と同様に独立を訴え始めた。この事態に驚いた「魏」の大使は、あわ
 てて引き返し、皇帝に直訴した。

  その2年後、「魏」の斉王直々の命令で、軍事顧問の「張政」らが、詔
 書・軍旗を持って再びやってきた。大国の伝達経路の悪さだろうか、皇帝
 が事態を軽く見ていたのか、「魏」は常に、他国と戦争状態であったから、
 やむを得ない感もあるが、この2年間で、事態はさらなる悪化を見せてい
 た。
  「魏」から軍事顧問が来るほどであるので、援軍をつれてきているはず
 である。
  そしてこれらは、すべて「難升米」に与えられている。しかし、『魏志
 倭人伝』の記述はここまでであり、軍事顧問の「張政」らの活躍を記して
 ない。
  ということは、すでに「邪馬台国」は「旧奴国」の手に落ちていたので
 あろう。


 
 「男王が立ったが国中納得せず、千人が殺し合った。」


  という記述の男王とは、『魏志倭人伝』に記された、「邪馬台国」の官・
 「弥馬升」か「弥馬獲支」であるか、「旧奴国」のミケヒコであると思う。
 ヒミコ亡き後、「伊都国」は外務大臣・「難升米」が、首都・「邪馬台国」
 の官であった「弥馬升」か「弥馬獲支」が統率していたはずである。

  「伊都国」で、「難升米」が「張政」らを迎えたときには、「邪馬台国」
 は「旧奴国」に前に壊滅状態であり、もはや、手の施しようがなかった。
  「張政」らはとりあえず、首都・「邪馬台国」に向かったものの、「張
 政」ら目前で、独立を訴え、各国入り乱れて争乱が繰り広げられている始
 末であった。その中心はむろん、「旧奴国」である。

  「旧奴国」軍が反乱分子を討っている最中、「張政」は、ミケヒコに面
 会を求めた。「張政」は、十三歳の「臺与」を女王に立てることを提案し、
 ミケヒコはこれを了承した。「臺与」がミケヒコの孫娘だからである。ヒ
 ミコとミケヒコは血縁関係であるから、「臺与」がヒミコの宗女であるこ
 とには、間違いない。その後、「難升米」は登場しない。おそらく、この
 騒動で殺されたのであろう。「張政」らを京城まで送ったのは、「掖邪狗」
 らである。

  「臺与」を立てることで、「奴国」は「旧奴国」により再び統一したが、
 以前の「統一奴国」のような勢力はなかった。その中枢は、この時期を前
 後して、九州を去ってしまったからである。首都・「邪馬台国」は焼け野
 原であり、機能するはずもなく、「奴国」は、新たな場所に首都・「邪馬
 台国」を定める必要があった。九州地方に「山門」(やまと)の地名が、
 複数散在しているのは、そのためであろう。

  『晋書倭国伝』によると、266年「臺与」は、「魏」の後身の「晋」
  へ朝貢していることを付け加えておく。


                      1999年3月 第2部 了