真説日本古代史 特別編の十


   
謎の聖域!伊勢神宮




  1.日本の総社である伊勢神宮



  伊勢神宮は、国内にあまたある神社の頂点に立つ神社、いわゆる「総社」
 であり、正しくはただ「神宮」というのが、正式な称号である。
  そしてそれは、皇大神宮である内宮と、豊受大神宮である外宮を中心と
 する、125社の神社群の総称である。つまり、境内の別宮、摂社・末社
 に至るまで、すべて「神宮」なのである。

  内宮はアマテラス(天照大神)を主祭神とし、相殿東にテジカラオ(天
 手力男命、あめのてじからをのみこと)、西にトヨアキツヒメ(万幡豊秋
 津姫命、よろずはたとよあきつひめのみこと)の二神を祀る。
  外宮は、トヨウケ(豊受大神、とようけおおかみ)を主祭神とし、相殿
 に「御伴神」(みとものかみ)を東に一座、西に二座の三座を祀る。

  この内宮と外宮を中心とした、伊勢神宮の別宮・摂社・末社、神社群の
 成立については、諸説があって定かではないが、内宮の起源については、
 『古事記』・『日本書紀』(以下『記紀』)『古語拾遺』の諸伝が、知ら
 れているのではないだろうか。
  これは、天孫降臨の際、アマテラスから御孫ニニギ(瓊瓊杵尊)に授け
 られた「八咫鏡」(やたのかがみ)を、歴代の天皇が道床に・共殿に祀っ
 ていたが、崇神天皇の御代に、神威を恐れて宮殿の外に祀り、その後、近
 江・美濃を経て、垂仁天皇の二十六年九月、伊勢の五十鈴川上に鎮座した
 という。
  宮殿外に出されたのは、なにもアマテラスだけだったのではない。実は、
 時を同じくして「倭大国魂」(やまとおおくにたま)宮殿外に出されてい
 た。このこともまた『記紀』に記されていることである。

  さて、アマテラスが最初に鎮座した場所は、大和の笠縫邑であって、こ
 こは、三輪山の神域の西端であったとされている。

  外宮については、『記紀』は一切語っていない。これはこれでまた不思
 議なことであるが、延暦二十三年撰上の『土由気大神宮儀式帳』に、記さ
 れている由来には、雄略天皇の二十二年、天皇の夢にアマテラスのお告げ
 があり、丹波の比治の真奈井原から、アマテラスの「御饌神」として、ト
 ヨウケを伊勢に迎え、高倉山麓の山田原に祀ったというものである。

  これらの所伝はともに、伊勢神宮の創建から数百年を経た8〜9世紀に
 整えられたものであり、どの程度史実を反映しているかは、はなはだ疑問
 であるが、ことこのような歴史に関しては、すべてそうである。
  また、スサノオ(素戔嗚尊、すさのおのみこと)とアマテラスが誓約を
 した場所を、『記紀』は天真名井であったと記すが、トヨウケを考える場
 合、大変興味深いことである。

  伊勢神宮は、内宮・外宮という二つの中心を持つ神社であり、このよう
 な形態を持つ神社は、国内に例を見ない。ただよく似た例では、上賀茂神
 社・下鴨神社をあげることができるかもしれない。



  
2.祀られることのない素戔嗚尊


  両宮には、計125もの別宮・摂社・末社があることを前述したが、こ
 れらには様々な神々が祀られている。
  しかし、これら神々の名に、スサノオやオオクニヌシ(大国主命、おお
 くにぬしのみこと)といった、いわゆる国津神(出雲の神々と言い換えて
 かまわない)は見られない。スサノオ・オオクニヌシは、全国の至る所で
 祀られているのだが、伊勢神宮では境外末社にすら祀られていない。
  『記紀』では、高天原の天津神に対峙する国津神の図式で書かれている
 ので、国津神は支配される側であることからかもしれないが、少なくとも
 スサノオは、高天原の住人であったのであり、三貴神のひとりであること
 は、今さら言うまでもないことである。「尊」の称号が、それを表してい
 る。
  しかし、『記紀』に書かれた高天原でのスサノオの所行は、アマテラス
 が天の岩屋の籠もってしまうほどであったというから、祀られないのは、
 いたしかたがないことなのだろう。一言で言えば敵なのである。

  ただ、こうも言えるのではないだろうか。

  伊勢神宮の成立は、『記紀』がどのように記そうとも、『記紀』よりも
 あとである。(筆者は、『古事記』は平安時代の産物と考えるので、『日
 本書紀』よりも後、を正解としたい)

  内宮の宇治橋を渡り第一鳥居をくぐると、五十鈴川の御手洗場の脇に、
 「瀧祭神」(たきまつりのかみ)を称する石神を祀っている。御垣と御門
 だけで社殿はない。祭神は、五十鈴川の水神であるというが、御神体は石
 そのものであり、極めて縄文的な神祀りであるように思う。由来によれば、
 延暦二十三年(804)神祇官に奉った『皇大神宮儀式帳』にも、瀧祭神
 が記されている、とあるので、1000年以上の歴史があることになる。

  現在では、別宮に準じた奉祭がされているが、鎌倉時代には、五十鈴川
 の対岸にあって、この神こそアマテラスの前身とされていたらしい。
  また重要な祭りに先立って祭られる社であったともいい、このことから
 滝祭神は伊勢神宮の原型であったのだろう。
  『日本書紀』以前の伊勢神宮は、縄文的な石神を祀る社であったと推測
 できる。

  皇祖神宮の最初は、天武天皇以降であったと思われ(伊勢神宮行幸の具
 体的な記述は、持統紀以降からである)、その後社が整備され、『記紀』
 史観に乗っ取り、さらに整備されていったものと思われる。

  このように創造された、伊勢神宮にスサノオが祀られていないことは、
 むしろ当然と考えられるが、興味深いことには、『古事記』にスサノオの
 子と記されているオオトシ(大歳御祖命、おおとしのみおやのみこと)、
 ウカノミタマ(宇賀御魂神、うかのみたまのかみ)は、内宮の摂社で湯田
 神社、江神社、外宮の摂社で小俣神社など、数社に祀られている。
  ただし、小俣神社のウカノミタマは、イザナギ(伊弉諾尊)とイザナミ
 (伊弉冉尊)の子とされている。
  これは、『日本書紀』による史観であり、『古事記』のそれではない。

  こうした『記紀』の矛盾が、そのまままかり通っていることは、各々の
 神社伝承を整理する際に、『記紀』が深く関わっていたことを窺わせる。



  
3.内宮の別宮と外宮の別宮


  伊勢神宮とは、内宮・外宮を頂点とする計125社の総称である。この
 ことは既出であるが、すべてを紹介すると、それだけで一冊の本になって
 しまうだろう。詳しいことは、伊勢神宮のガイド本が出版されていること
 であろうから、ここでは、伊勢神宮付属神社中、第一位に列せられている
 別宮に限って紹介することにした。


 
 内宮(皇大神宮)の別宮


  1)荒祭宮(あらまつりのみや)
 
  内宮に属する10の別宮のうち、第一に位置する別宮で、内宮正殿のす
 ぐ北に隣接して鎮座し、アマテラスの荒御魂を祀る。正宮に続いて祭典が
 行われる。


  2)月読宮(つきよみのみや)
    月読荒魂神(つきよみのあらみたまのみや)
    伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)
    伊佐奈弥宮(いざなみのみや)

  伊勢市中村町にある内宮の別宮で、月読宮が主な社であるが、他三社も
 同格の社殿を持ち、四社並んで鎮座している。祭神はツキヨミ(月読尊、
 つきよみのみこと)と、その荒御魂。そしてイザナギ・イザナミである。


  3)瀧原宮(たきはらのみや)
    瀧原竝宮(たきはらならびのみや)
 
  度会郡大宮町に鎮座するともに内宮の別宮で、昔から「大神の遙宮(と
 おのみや)」とも言われている。祭神は「天照坐皇大御神御魂」(あまて
 らしますすめおおみかみのみたま)であり、社殿は両社同格で、二社並ん
 で鎮座している。
  瀧原宮の三社ある所管社の一つ若宮神社には、神体を入れる御船代を納
 める御船倉(みふなぐら)が併設されているが、御船倉を持つ別宮は瀧原
 宮のみである。


  3)伊雑宮(いざのみや)

  三重県志摩郡磯部町大字上之郷に鎮座する内宮の別宮で、アマテラスの
 御魂を祀る。ここもまた古くから「大神の遙宮」と呼ばれ、漁師や海女の
 信仰が深い。
  寛永(1624〜43)のはじめ、幕府により発禁処分とされた『先代
 旧事本紀大成経』は、ここ伊雑宮を伊勢神宮の本宮であったとしている。
  これは江戸時代の中期に、僧であった「潮音道海」によって出版された
 「物部氏」の史書と言われた『先代旧事本紀』を下敷きとして、膨大かつ
 独特の神道論を展開したものである。発禁処分後も信奉者は絶えず、多く
 の神社が自社の縁起を作るときなどに引用するなど、その影響力は測り知
 れぬものであったらしい。正確な祭神名は「天照坐皇大御神御魂」(あま
 てらしますすめおおみかみのみたま)といい、これもまた瀧原宮と同じで
 ある。
 

  4)風日祈宮(かぜひのみのみや)

  内宮の宮域内に鎮座する内宮の別宮。祭神は、イザナギの子である紙長
 津彦命(しなつひこのみこと)と、紙長戸辺命(かみながとべのみこと)。
 ともに風の神で、風の災害がないように、ここで神事が行われる。


  5)倭姫宮(やまとひめのみや)

  伊勢市楠部町に鎮座する内宮の別宮で、神宮を五十鈴川沿いに創建する
 のに功績のあったヤマトヒメ(倭姫命、やまとひめのみこと)を祀る。ヤ
 マトヒメは、垂仁天皇の皇女である。創立年は新しく、大正十二年。


  外宮(豊受大神宮)の別宮


  1)多賀宮(たがのみや)

  外宮の四つの別宮のうち第一の別宮。外宮宮域内に鎮座し、トヨウケの
 荒御魂を祀る。この別宮だけは、本宮に続いて勅使が参向し、奉幣の儀が
 行われる。


  2)土宮(つちのみや)

  外宮の宮域内に鎮座する外宮の別宮で、地上の神である大土御祖神(お
 おつちみおやのかみ)を祀る。この地方の人々の信仰が厚かったため、宮
 川治水の守護神として別宮に列せられた。


  3)月夜見宮(つきよみのみや)

  伊勢市宮後町に鎮座する外宮の別宮で、月夜見尊(つきよみのみこと)、
 月夜見尊荒御魂を祀る。この宮は崇敬者の団体「月夜見講」があって、春
 秋に礼典が行われる。


  4)風宮(かぜのみや)

  風日祈宮と同じく、紙長津彦命と紙長戸辺命の二神を祀る外宮の別宮で、
 外宮の宮域内に鎮座する。農業に深い関係がある風と天の須調を祈る。


  取り急ぎ別宮だけの紹介に留まったが、内宮・外宮、これらを含めて、
 摂末社に至るまでの、すべての総称が「神宮」なのであり、例えば、内宮
 だけを取って、「神宮」というのは本来間違った用法なのであるが、伊勢
 神宮と言われて、真っ先に思い浮かぶのは、伊勢内宮のほうであろう。

  筆者にしたところで、そんなわけであるから、外宮の立場とすれば、決
 しておもしろい話ではないだろう。
  実は、内宮・外宮、両宮の間には、神地に相応しからぬ流血の歴史を有
 するのである。それは、近代明治に至るまでの600年間という長きに渡
 る、どちらが先かに端をなした権力の争奪戦であった。

  詳しくは、こちらをご覧いただきたい。
 『二つの伊勢神宮 内宮と外宮』
 (『歴史読本』昭和六十二年三月号より 鈴木庄市 著)
 
  

  
4.伊勢神道とは度会神道である


  両宮の禰宜は、もと荒木田神主・根木神主・度会神主の三姓の人が補せ
 られていたのだが、根木神主家は早く絶え、後になって内宮の禰宜は、荒
 木田氏の、外宮の神主は度会氏の氏人が世襲するようになっていた。
  度会氏は、神宮御鎮座以来の旧名族で、鎌倉時代に神国思想が興隆した
 ときに、神宮の伝承を基にして度会神道を成立させた。
  この度会神道が、現在の伊勢神道へと受け継がれているのである。従っ
 て、伊勢神道とは、外宮思想で成立した度会神道そのものである、と言っ
 ても過言ではないだろう。

  古来から内宮はもっとも高貴な神とされていた。そのため、ある時期か
 らは、外宮以上に尊重されてきた。これを遺憾に思った外宮・「度会家」
 は、外宮を内宮と同等以上に引き上げようとしたのである。
  外宮の祭神は、トヨウケであり、「御饌の守護神」すなわち、食物の神
 とされていたが、度会神道では、トヨウケをクニトコタチ(国常立尊、く
 にとこたちのみこと)あるいは同格神の、アメノミナカヌシ(天御中主神、
 あめのみなかぬしのかみ)であると比定した。
  この両神は『記紀』によると、万物の最初の神であり、アマテラスの祖
 神と位置づけられている。すなわち、クニトコタチ・アメノミナカヌシは、
 天地の始まり、宇宙の始まりとともに現れた大元神であり、アマテラスよ
 りも時代的に早く現れたのみならず、万神万物の根源となる最高神である
 という。

  度会神道は、直接的にはそのことを言及してはいない。しかし、クニト
 コタチを水徳の神、すなわち、人間に一番必要な「水」の神としている。
  アマテラスは、「日」の神である。「日」は「火」であり、水は火を消
 してしまうから、火<水である。つまり、内宮<外宮でありことを匂わし
 ているのである。

  ただし、度会神道は、外宮のみを尊いとしているのではなく、二宮一光
 として、天下を治められるとしている信仰である。

  アマテラスとクニトコタチことトヨウケとは、太古の昔、我々がように
 察知ることのできない神秘な約束、幽閉を高天原で結ばれていて、月日の
 相い並んで照らすがごとく、天下を治められることになった点を、明らか
 にしている。
  しかし、日本神道の書とも言われている『記紀』には、これらの諸事情
 については、全然語っていないため、これらは度会氏の独自の神道論を展
 開しているにすぎない。
  とは言え、度会神道からは『記紀』を無視していることからも、体制に
 屈しない根源的な力を、感じ取らないわけにはいかない。

  度会神道は、南北朝の争乱で「度会氏」が南朝側に与したため、室町時
 代以降。論理的な展開を阻まれた。江戸時代中期に至り、「度会氏」から
 出た「出口延佳」が、伊勢神道として再興し、従来の学説に易学と朱子学
 の理気説を採り入れて、神儒習合の伊勢度会神道を唱えた。

  内宮・外宮、両宮の合戦の歴史は、このような思想の下で、起こったも
 のには違いない。しかし、それは単なる外宮上位論だったのはなく、「度
 会氏」の出自からすれば、当然の主張であったはずである。
  


  
5,天村雲命


  「度会氏」の起源は古く、内宮・外宮、両宮の創始当時と伝えるが、奈
 良時代の律令制度に伴い、外宮に「度会氏」の姓を賜ったのだという。
  そして「度会氏」の祖神としては、その系図の筆頭にクニトコタチが、
 あげられている。これは言うまでもなく、祭神論争において、内宮・アマ
 テラスに対抗する形で掲げた外宮祭神であり、度会神道の成立により、系
 図に採り入れられたものであろうが、注目すべきは、クニトコタチの十代
 後に、アメノムラクモ(天牟良雲命、あまのむらくものみこと)が挙げら
 れている点にある。

  「天牟良雲命」とは、「天叢雲命」あるいは「天村雲命」であろう。

  「天村雲命」であれば、『海部氏本紀』に名を連ね、始祖ホアカリ(火
 明命、ほあかりのみこと)から数えて三代後である。

  「度会氏」の系図では、アメノムラクモの子に「天火別命」(あめのひ
 わけのみこと)を挙げているが、この人物は、『記紀』の神武東征におい
 て、天孫族側の将軍として登場しているが、外宮家として体制側の目を気
 にして、採り入れたものと考えれば良いのだろうか。

  アメノムラクモの名に馴染みはなくても、「草薙剣」であれば聞き覚え
 もあるであろう。アメノムラクモ剣と言えば、「草薙剣」の前の名称であ
 る。このような由緒正しい?名がそうそうあろうはずがない。

  『先代旧事本紀・天孫本紀』の、度会神主の祖として名を連ねる「天牟
 良雲命」と、『同・天孫本紀』、「尾張氏」の祖である「天村雲命」が、
 別神であるとは、到底考えられない。
  さらに度会神道の思想は、『先代旧事本紀』を基にしているとすれば、
 この考えにも賛同いただけるものと思う。

  鎌倉時代のことになるが、僧・「慈遍」は、『先代旧事本紀』を神道の
 思想の中心と考えて、その注釈書『舊事本紀玄義』を著した。これが度会
 神道に大きく影響を与えた、ということである。
  また、室町時代、「吉田兼倶」が創始した吉田神道でも、『先代旧事本
 紀』を重視し、『記紀』並びに『先代旧事本紀』を「三部の本書」として
 いる。この『先代旧事本紀』から『先代旧事本紀大成経』七十二巻が作ら
 れ(たのではないか?と言われている)、別宮・伊雑宮を舞台とした、世
 に言う「先代旧事本紀大成経事件」が起こっている。これは、別項であら
 ためて論じてみたい。

  このように、「度会氏」と「尾張氏」との祖先が同じであった、という
 ことは、度会神道の外宮上位論も、少し意味合いが違ってくるかも知れな
 い。
  「度会氏」系図の第一の祖神は、アメノミナカヌシということになって
 いるが、「尾張氏」と同祖であるので、実際にはホアカリであったことに
 なる。ホアカリは、「物部氏」の祖神であるニギハヤヒ(饒速日命、にぎ
 はやひのみこと)と異名同体に扱われることが多いが、筆者は別神として
 いる。しかし、『先代旧事本紀』の話も出たことであるし、ここではあえ
 て逆らわないつもりでいるので、ホアカリの正式名は「天照国照彦天火明
 櫛玉饒速日尊」(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはや
 ひのみこと)という、長ったらしいが格調高い名前であるとする。
  また、「天照御魂神」(あまてるのみたまのかみ)、「天照玉命」(あ
 まてるたまのみこと)という別名も持っている。

  アマテラスは「大日靈女貴尊」(おおひるめむちのみこと)が実名であ
 り、亦の名を「天照大神」という。
  そのアマテラスは、高天原では、田を作り神穀の神事をし、神に奉る御
 衣を織らせているという。自身が大神であるのに、誰のための神事であろ
 うか。アマテラスは、本来その名の通り大日巫女であったにすぎない。
  これらは何度となく述べてきたので、これ以上引っ張ることはしないが、
 ホアカリとは、女性神アマテラス以前の男性神アマテラス、原始アマテラ
 スであり、後世、女性神に取り替えられたのである。

  ホアカリ系である「度会氏」は、体制に迎合しながらも、内宮の祭神・
 アマテラスが、「大日靈女貴尊」であることを、快く思っていなかったの
 ではないかと思う。
  このことが、独自の神道論を展開していく要因となり、ここに、両宮が
 繰り広げた合戦の本質を見ることができるように思う。



  
6.天照大神は卑弥呼なのか


 
 「とにかく現在手にしうる文献にもとづいて日本の古代史を研究するこ
 とにすると、応神朝以前において、天照大神と考えることのできる人格は、
 この卑弥呼以外にない。とすれば、純歴史的立場から、日本の古代史の研
 究をすすめる場合には、その人が好むと、好まぬにかかわらず、結局この
 卑弥呼をもって、天照大神の素材とみなし、そこから事実上の歴史を引き
 だしてこなければならないことになる。」(昭和20年10月刊行、『天
 皇制の歴史的根拠』村尾反次郎氏より)」


  『記紀』にいうアマテラスは、ヒミコ(卑弥呼)であるとの説は、その
 モデル説を含めて、今や大勢を占めているように思う。
  ヒミコとは、言わずと知れた『魏志倭人伝』にある「邪馬台国」の女王
 のことである。アマテラスはヒミコであると率直に述べた学者は、多くは
 ないかも知れないが、少なくとも『記紀』のアマテラスのモデルがヒミコ
 であろうことは、比定されていないのではないか。

  『記紀』のアマテラスと、『魏志倭人伝』のヒミコとは、それほど共通
 点が多いという。例えば、シャーマン的性格、男弟がいること、矛・刀・
 剣・鏡・玉・鉄・稲作・織物についての記述などがあげられている。

  筆者個人的には、そう似ているとは思わないのだが、ヒミコという名称
 に関してだけは、納得させられてしまう。
  「卑弥呼」の文字は、日本語の表音を、「魏」の文字をもって(それも
 中華思想によってだ)表現したものであり、一般に「ひみこ」と発音して
 いるが、実のところ「ひめこ」・「ひみか」など、実際、当時の発音は定
 かではない。しかし、いずれにしても「ひみこ」に遠くない発音であった
 のだろう。でなければ、発音についても、「邪馬台国」候補地と同等の論
 議になっているはずである。

  『日本書紀』によれば、アマテラスは、その名をオオヒルメムチ尊(大
 日靈女貴尊)といった。このうちの「大」・「貴」・「尊」は美辞句なの
 で、その実名の部分は「日靈女」になる。「靈女」は「巫女」であるから、
 「日靈女」は「ひみこ」とも発音できる。これは「卑弥呼」と同じになる
 わけだ。『日本書紀』編纂者は承知の上で、「日靈女」の文字を当てたの
 ではないか、と勘ぐりたくなる。つまり、まず「卑弥呼」があって、次に
 彼女をアマテラスに仕立てたというわけだ。

  従って、アマテラスはヒミコである。しかし、それは『日本書紀』に記
 された、オオヒルメムチの別名としてのアマテラス、すり替わった女性神・
 アマテラスのことにすぎない。

  いつの頃から、『記紀』のアマテラスと神宮のアマテラスが、同一神と
 して扱われるようになったかはわからない。否、『日本書紀』の編纂時が、
 その時期だったのかも知れない。

  ここに内宮家「荒木田氏」の伝承がある。


 
 「天照大神は蛇神で、斎宮はその后である。そのため斎宮の御衾の下に、
 毎朝蛇のウロコが落ちている、とみえている。」


  これはとりわけ重要である。この証言は、アマテラスが男性神であるこ
 とを、認めていることになるからだ。それも「荒木田氏」自らである。
  代々、内宮神職を世襲している「荒木田氏」自身が、『記紀』に真っ向
 から対立する主張をしていたということは、この主張の真実性を裏付ける
 結果になっている。

  もう少し考えを進めると、『記紀』のいう女性神・アマテラスは、男性
 神・アマテラスに奉仕する立場であった、ということができそうだ。すな
 わち斎宮(いつきのみや)である。
  斎宮とは、伊勢神宮における斎王のことであり、アマテラスを奉斎する
 女性のことであり、時には神懸かって神託を下す。言うなれば巫女のこと
 だ。しかも、天皇の未婚の皇女を代々斎宮として選任していた。
  『記紀』では初代斎宮を、垂仁天皇の皇女「倭姫命」としているが、実
 際の斎宮制度は、早くても天武天皇より後のことだと思う。
  伊勢神宮では、様々な神事を、斎宮が中心となって行っていた。この斎
 宮の立場は、高天原におけるアマテラス(オオヒルメムチ)と、瓜二つで
 ある。

  内親王による奉斎をしていた神社に、賀茂別雷神社がある。通称上賀茂
 神社と呼ばれるこの神社には、川から流れてきた丹塗矢と同床して妊娠し
 た「玉依姫」の縁起がある。神との聖婚である。上賀茂神社は、伊勢神宮
 の斎宮に対して、斎院(いつきのいん)というが、役目は同じである。

  ちなみに斎宮も斎院も、本来は居所のことであり、職制としては斎王が
 正しい。

  「荒木田氏」の伝承は、まさに神との聖婚を思わせる。

  前述した「倭姫命」は、「日本武尊」の東征の時、「草薙剣」を手渡し
 た人物である。この説話自体、神話の域を出ないことは、今さら説明する
 必要もないだろう。
  『記紀』神話では、スサノオが「八岐大蛇」(やまたのおろち)を倒し
 て手に入れた「草薙剣」は、オオヒルメムチの手に渡った後、なぜか伊勢
 神宮に居たという、「倭姫命」から「日本武尊」に授けられている。
  強引に言ってしまえば、神話であれば、「倭姫命」であってもオオヒル
 メムチであっても、大した違いはない、ということなのだろうか。
  むしろ、高天原のオオヒルメムチは、現世界の「倭姫命」の投影だと、
 考えるべきではないだろうか。



  
7.豊受大神


  豊受大神は御饌神である。すなわち食物神だ。

  外宮の祭神として、全国に知られる神なのであるが、『記紀』から、そ
 の姿を読むことはできない。
  トヨウケは雄略天皇の時、アマテラスの告げにより、「丹波国」の「比
 治真奈井原」から伊勢に迎えられ、高倉山山麓に鎮座した。

  このトヨウケの元の地とは、あの『海部氏本紀』の籠神社である。

  アマテラスは、崇神天皇の御代に、「大和」の「笠縫邑」を出た後、吉
 佐宮に遷座している。吉佐宮とは、籠神社の前身であり、このことが、籠
 神社を元伊勢神宮と呼ばせる所以である。(吉佐宮は京都府加佐郡大江町
 の元伊勢皇大神宮も、名乗りをあげている。しかし、この神社は、内宮・
 外宮・天の岩戸・猿田彦神社・宮川・五十鈴川など、伊勢神宮に関する名
 称がすべてそろっている。筆者にとってこのことが、良い印象を与えてい
 ない。つまり、元伊勢説話が完成した後の創建である、と思わざるを得な
 いのである。あるいは、籠神社への遷座前後の頃に、ここに立ち寄った可
 能性が無いとは言えないが、ここが吉佐宮であったということはないと思
 う。)
  籠神社には摂社に、真奈井神社があり、古称を与謝宮と言い、現在はこ
 こを奥宮として、別名、豊受大神宮と呼んでいる。

  また、当地こそが「比治の真奈井」であるとしており、大化改新以降、
 与謝宮を籠神社と改称し、養老三年(719)、現在地に遷座し、旧地を
 奥宮と定めたのである。

  祭神は、彦火明命であり、アマテラスではない。

  『記紀』には見られない豊受大神であるが、その縁起は『風土記』や、
 『止由気大神宮儀式帳』などに伝わっている。
  そのうち『風土記』の記述は、次の通りである。


  『丹後国風土記』

  昔、丹後国の丹波の郡の比治の里の比治山頂上に、真奈井という井戸が
 あった。この真奈井で八人の天女が、水浴びをしていた。その様子をこっ
 そり見ていた老父と老婦が、羽衣を一つ隠したので、一人の天女が、天に
 帰ることができず、地上にとり残されてしまった。この天女は、老夫婦の
 養女となり、十年余年に渡って共に生活した。
  老夫婦は、天女のおかげで財を得たが、ある日、「汝は、吾が児にあら
 ず」言って、天女を、家から追い出してしまった。失意のうちに天女は、
 竹野郡船木の里の奈具の村に到り、ここに泊まり住んだ。
  この天女こそ、「奈具の社に坐す豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)」
 であるという。



  『摂津国風土記』

  昔、豊宇可乃売神はいつも稲倉山に居て、この山を台所にしていた。後
 に訳があってやむを得ず、ついに丹波の比遅の麻名韋に遷られた。


  『丹後国風土記逸文』

  丹後国は、もともと丹波国であったが、元明天皇の時、丹波国の五郡を
 差し割いて丹後国とした。ここを、丹波というのは、昔、豊受大神が、こ
 の国の伊去奈子獄に降臨した時、天道日女命などが、五殻や桑蚕の種をも
 らい、真奈井の井戸を掘り、水田や陸田を開いて蒔いたところ、瑞穂が田
 に充ち満ちたので、豊受大神は大いに喜び、「あえなし田庭なるかも」と
 言われたので、ここを丹波と言うようになった。



  ただし、トヨウカノメはその発音から、女神であることは容易に推察で
 きる。
  トヨウカノメは、『摂津国風土記』が記すとおり、本来、飯盛り、膳厨
 の神であって、『丹後国風土記』のトヨウカノメは、天女羽衣説話と結び
 ついて成立したものであるらしい。従って、「豊受大神」と「豊宇賀能売
 命」は、呼称こそよく似てはいるものの、まったくの別神である。

  しかしながら、トヨウカノメが御饌を炊き供えて、「与佐宮大神」をお
 祭りしていたという所伝が、伊勢の『御鎮座本縁』、『御鎮座本紀』等に
 見られるという。詳しくは、『元初の最高神と大和朝廷の元始』(「海部
 穀定氏 著、桜楓社 刊)を読んで欲しい。

  トヨウケが御饌神とされているから、膳厨の神であるトヨウカノメと、
 混同視されたのだろうが、いずれにしても、これらの伝承は、「真奈井」
 に関係しており、トヨウケは、三丹地方に大変縁の深い呼称ということが
 できる。

  この伝承で重要な点は、『丹後国風土記逸文』にある「天道日女命」の
 記述である。アメノミチヒメは、ホアカリの后である。つまり、ホアカリ
 とトヨウケは、同時代人(神であるから、人と言うには、いささか抵抗が
 あるが)であるわけだ。

  『但馬故事記』は、ホアカリがその后であるアメノミチヒメ等、多くの
 神々を連れ、「田庭の比地真奈井原」に降臨した後、いわゆる三丹地方を
 巡り、井戸を掘り、水田を開き、五穀桑蚕の種子を広めた、としている。
  面白いことに、そのホアカリにトヨウケが志楽(舞鶴市の東部)の地を
 授けたのだ、ともいう。
  『但馬故事記』は、『丹後国風土記』と似通った記述が多く、その伝承
 の基の資料は、同一だろうと充分想像できる。そして、このホアカリとト
 ヨウケの伝承もまた、同一の資料に依ったものではないかと、思えてなら
 ない。

  すなわち、豊受大神は火明命と同体である。

  これは後述するが、本来、豊受大神とは天照大神そのものであったと思
 う。
  雄略天皇の二十二年、天照大神が天皇の夢枕に立って、


  「私は高天原にいた時に、求めていた宮処に鎮まることができた。しか
 し一所に居るのはまことに苦しい。大御食を安らかに召し上がることがで
 きない。丹波国比治の真奈井原から止由気大神を迎えて欲しい。」



  と言ったという。これは、『止由気宮儀式帳』に記されているが、私は
 トヨウケのほうが先であり、アマテラスが後だった、と考えている。
  むしろ、この雄略天皇の二十二年こそ、天照大神が迎えられた年であろ
 う。
  それは、「丹波国比治の真奈井原」からであり、後にトヨウケと名を変
 えられた、原初のアマテラスであった。

  『但馬故事記』は、ホアカリをニギハヤヒと同一視してはいるが、その
 讃え名は「天照国照彦櫛玉饒速日天火明命」と呼び、『先代旧事本紀』で
 いうニギハヤヒと名前の順列が入れ替わっている。
  同書は異録四書、いわゆる際物扱いの書であり、学術的には偽書である
 かも知れないが、『記紀』をはじめ、他の古史古伝と共に、提供される民
 族伝承は貴重な情報であることに違いはない。



  
8.内宮と外宮


  伊勢神宮の社殿は、唯一神明造りと呼ばれ、その形状は高床式倉庫に由
 来する、と言われているが、もっと積極的に、棟持柱を持つ高床式倉庫そ
 のもの、と言えるように思う。

  伊勢神宮には、現代では他に例を見ない「式年遷宮」という、神宮最大
 のイベントがある。これは二十年に一度社殿の建て替えを行うものである
 が、その歴史は、持統天皇二年(688)に制度の定めがあり、その四年
 後に内宮の遷宮、六年後には外宮の遷宮が行われたという。しかし、『日
 本書紀』にその記録があるわけではない。

  継承されている歴史には、古代の建築様式や儀式だけでなく、古代の技
 術や人々の心をも受け継がれていると言うから、現存する社殿は、第一回
 の遷宮当時と違いはないことになる。
  建築様式は、茅葺き・堀立柱に切妻造りの平入りという簡素なものだが、
 その形容美は、他に例がないほどである。
  先に述べたように、高床式倉庫を類推できるこの社殿は、極めて弥生建
 築的なものであることから、祭祀制度が整備されたのは、第一回の式年遷
 宮と、時期をほぼ同じくするものと思われるが、伊勢神宮自体の歴史は、
 古くからあったものと思われる。しかし、『垂仁紀』にある説話から、創
 建はその時代とすることには、簡単にはうなずけない。説話自体が、『垂
 仁紀』に収まるだけの短い時間に完結したとは、到底思えないし、現在の
 伊勢神宮の前身の宮は、すでにそこに存在していた、と考えるからである。

  大社造りで名高い出雲大社の本殿も、同様の弥生建築様式である。伊勢
 神宮の倉庫に対して、出雲大社は屋敷という違いはあるが、出雲大社を最
 古の神社建築とするならば、伊勢神宮もまた最古の部類に入る。
  おそらく第一回目の式年遷宮当時の社殿は、その建築様式から、旧来か
 ら存在していた、社殿を基に建築されたものと推察される。
  その旧来の社殿の建築時期はというと、これは何とも言い難いが、出雲
 大社の創建と、大きく離れていないであろう、と思われる。
  もっとも、第一回目というのは、単に立て替えた、ということにすぎず、
 二十年という定められた期間をおいて、立て替えが行われた第二回目の式
 年遷宮こそ、本当の意味での式年遷宮になるわけである。

  さて、現況の伊勢神宮に話を戻そう。

  内宮と外宮は、その通称からも判るように、陰陽思想のもと建築設計さ
 れている。


  「内宮と外宮では、寸法、千木の切り方、鰹魚木の数、桁を組む位置と
 梁の関係等に相違があり、千木の切り方の水平と垂直、鰹魚木の十本と九
 本など、内宮を陰、外宮を陽とする陰陽思想で構成されている。」
 (『歴史読本』昭和六十二年三月号、『伊勢神宮と日本人』村上重良氏 
 論文より引用)



  というように、外観には明確な区別がある。陰・陽はそのまま内・外の
 意味である。これは偶然ではなくて、陰陽の陰だから内宮であり、陽だか
 ら外宮と呼称するのだと思われる。

  また陰・陽は、女性・男性にもあてはまる。

  「荒木田氏」の


  「天照大神は蛇神で・・・」


  論は、ひとまず棚上げしておくが、陰である内宮の祭神が、男性神であ
 ることはありえない。逆に、陽の外宮が女性神であることも、ありえない
 ことなのである。
  従って、内宮の祭神がアマテラスだというならば、アマテラスは我々が
 認識しているように女性神であり、外宮のトヨウケは男性神でなければな
 らない。

  そこで、過去には耳にされたことがあると思うが、内宮の祭神はヒミコ
 であり、外宮の祭神は「台与」(トヨ)である、という説は、見当はずれ
 である。ヒミコは先に述べたように、アマテラスと同一視する説もあるか
 ら、それはともかくとして、ヒミコの宗女、トヨは、女性であり、男性神
 を祀る外宮から飛び出してしまう。
  トヨウケとトヨという、たんに音韻が似ているだけで、ささやかれてい
 た説であるにすぎず、また「壱与」ではなく「台与」と決めつけたからこ
 そ、成り立つ説でもある。

  もちろん、外宮の祭神は『丹後国風土記』の「豊宇賀能売命」でもない。
 羽衣伝説のこの神もまた、女性神である。

  さて、「荒木田氏」の言うアマテラスは「蛇神」であるから、れっきと
 した男性神である。
  おそらく、こうなったのにはある種のからくりがあるのだろう。

  そもそも、伊勢の宮(神宮の前身である宮)は、前述した瀧祭神を祀っ
 ていたものと思われる。
  この宮は、五十鈴川底におられる龍神が御神体ともいうらしい。すなわ
 ち「蛇神」である。「荒木田氏」の言い分は、このことだと思う。「荒木
 田氏」も「度会氏」同様、女性神・アマテラスのことを、内心快く思って
 いなかったのではないだろうか。

  伊勢神宮の創祀は、垂仁天皇の皇女「倭姫命」による、アマテラスの伊
 勢鎮座に、始まったことになっている。「荒木田氏」は、このときから奉
 仕したと伝えられるから、創祀以来の禰宜職であるわけだ。
  これが伊勢の瀧祭神の鎮座の時かと問われれば、そうではないだろう。



  
9.「倭姫王」


  まずヤマトヒメであるが、私はこの伊勢鎮座の時期を、垂仁天皇の時代
 とは考えていない。

  斎宮制度成立以前の斎宮には、
 

 
 「倭姫命」(垂仁天皇皇女)
  「五百野皇女」(景行天皇皇女)
  「伊和志真皇女」(仲哀天皇皇女)
  「栲幡姫」(または稚足姫)皇女(雄略天皇皇女)
  「荳角皇女」(継体天皇皇女)
  「磐隈皇女」(欽明天皇皇女)
  「菟道皇女」(敏達天皇皇女)
  「酢香手姫皇女」(用明天皇皇女)



  が、挙げられるが、言ってみれば、伝承上の斎宮である。

  制度後の「大来皇女」(おおくのひめみこ)以降と比較すれば、具体性
 に乏しいことがすぐにわかる。
  「大来皇女」は天武天皇の皇女であったが、考えてみれば、日本の制度
 はすべて、天武時代に大きく発展していった、と言っても良いだろう。
  その皇女が事実上の初の斎王になり、それ以降、国史における伊勢神宮
 の具体的な記述が格段に増えている。

  事実、『扶桑略記』は、「大来皇女」を


 
 「大来皇女を以て伊勢神宮に献する斎王の始めと為す」


  と記している。

  それでは、皇祖を祀るという伊勢神宮ながら、それ以前の沈黙は、いか
 なることであろうか。

  ヤマトヒメによる伊勢鎮座が『日本書紀』紀年から、西暦紀元前5年と
 換算される。(これは無茶な論理だということは承知の上だが)天武元年
 が672年であるので、677年もの間、何ら音沙汰がないことは、皇祖
 皇大神宮として、異常としか言いようがない。
  言い換えれば、皇祖皇大神宮としての歴史は、天武天皇からだった、と
 言えるのではないだろうか。

  それ以前と言えば、「蛇神」・「瀧祭神」を祀る伊勢の宮だったのであ
 る。

  「荒木田氏」はヤマトヒメに随行して、伊勢の地にやってきたらしいが、
 私は、このヤマトヒメを垂仁天皇の皇女とは、考えていない。

  ヤマトヒメは、垂仁天皇の皇女以外にもいたのではないか。

  それは、「古人大兄皇子」の娘であり、天智天皇の后であった、「倭姫
 王」(やまとのひめのおおきみ)のことである。私見ながら、「古人大兄
 皇子」とは、「大海人皇子」と同一人物である。すなわち天武天皇だ。
  エピソード「壬申の乱」でも、述べたことであるが、「高市皇子」に加
 勢した、「伊勢」から吹いた神風とは、「倭姫王」のことであったと思っ
 ているし。『倭姫命世記』のヤマトヒメもまた、「倭姫王」のことであろ
 う。
  逆に、垂仁天皇のヤマトヒメは、この「倭姫王」がモデルだった、と考
 えたい。

  制度上の初代斎宮は「大伯皇女」であったが、『垂仁紀』のヤマトヒメ
 同様、「倭姫王」は「伊勢」に向かっていたのではないか。
  天智天皇崩御後の「倭姫王」の動向は、一切わかっていない。「大海人
 皇子」は、天智天皇の病床に際して、「倭姫王」の即位と、「大友皇子」
 の太政大臣就任を薦めた。
  開戦後、敵方の娘となった「倭姫王」は、直ちに「近江朝」を脱出し、
 「荒木田氏」に付き添われ、「伊勢」(地方としての伊勢)に身を寄せて
 いたのではないだろうか。

  「大海人皇子」は、「桑名」へ向かう道中、アマテラスを遙拝している
 が、これは「伊勢」にいる「倭姫王」の身を、案じての行動だったのでは
 ないかと想像したくなる。この時のアマテラスは、男性神(詳細は後述す
 るが)であった。『記紀』の言う、女性神で皇祖のアマテラスでなければ、
 「大海人皇子」とは、全然関係なくなってしまうからだ。

  伊勢の宮は、もともと漁労に従事していた「度会氏」の氏神であったと
 思われる。ヤマトヒメが向かった先が、五十鈴川上の磯宮であったという
 から、「伊勢」とは「磯」の訛りではなかったか、と思われるが、その磯
 宮の祭主が「度会氏」であったのだと思う。
  「度会氏」の氏神こそ、五十鈴川の龍神(もちろんアマテラスである)
 であったのだが、そこへ制度改革があり、「倭姫王」専守の功績もあって、
 その奉仕を「荒木田氏」が任命された、ということになったのではないの
 だろうか。
  「度会氏」が、素直にそれを認めたのかどうかは不明であるが(常識的
 に考えて、素直に従ったとは到底思えないし、こうした無理強いの結果が、
 後世起きた『大成経発禁事件』の一要因のようにも思える)、これは「壬
 申の乱」のことであろうから、時の勢いには逆らうわけにはいかないのだ
 ろう。

  このとき、伊勢の宮が国家守護の神宮となった、始まりでもあったと思
 う。



  
10.皇大神宮


  「『持統紀』六年五月、『使者を遣して、幣を四所の、伊勢・大倭・住
 吉・紀伊の大神に奉らしむ』とあり、同年十二月、『新羅の調を、五社、
 伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟足名に奉る』とある。
  この記事について直木孝次郎は、『伊勢は筆頭に記されてはいるが、大
 倭以下の神々と同格にならべられていることも、伊勢神宮が天皇家にとっ
 て特別の神社であるという認識が、さして強くなかったことを語っている』
 といって、八世紀以降になると、『伊勢神宮及び七道の諸社』(『続日本
 紀』慶雲三年閏正月)という書き方がされていることをあげている(藤谷
 俊雄・直木孝次郎『伊勢神宮』)。」
 (『歴史読本』昭和六十二年三月号、『天照大神の誕生』平野仁啓氏 論
 文より引用)



  六年五月に他の大社と同格だった伊勢の宮は、八世紀には別格になって
 いる、ということだが、それよりも、突如として伊勢が、主要大社と同格
 になったことのほうが驚きである。しかも筆頭でである。

  これより以前の三月三日、持統天皇は「中納言大三輪朝臣高市麻呂」の
 職を賭けた諌めを振り切って、伊勢に行幸している。

  それに付随して、


  「十七日、お通りになる神郡(度会・多気の両郡)と伊賀・伊勢・志摩
 の国造らに官位を賜り、当年の調役を免じ、また供奉の騎士・諸司の荷丁・
 行宮造営のための役夫のその年の調役を免じ、全国に大赦をされた。」


  と、ものすごい大盤振る舞いである。

  この後二十三日、近江・美濃・尾張などにも、同様の赦免をしている。
 このことは、「壬申の乱」の功績への恩賞など、と言われているようであ
 るが、確かにそれもあるだろうし、過去にも説いたが、太上天皇になって
 からの参河行幸のように、文武天皇の将来を案じての、王権安泰のための
 根回し行幸であった可能性も考えられる。

  ところが、この伊勢行幸だけに関しては、実は伊勢神宮へ行幸であった
 とするならば、また違った意味合いになる。
  つまり、この持統六年とは、第一回目の式年遷宮の年に当たるからであ
 る。
  結局持統は、真新しく築かれた伊勢神宮を、一目見たかったのではない
 だろうか。
  正式な伊勢神宮の成立は、これを期にしたのだろうし、これは多額の国
 庫金を投じての、一大事業であったはずである。だから、持統の個人的な
 思惑で成り立ったものではないだろう。当然、「壬申の乱」の功績から、
 強く推したことはあったと思われる。
  これによって伊勢(神宮)は、延喜式でいう旧官幣大社筆頭の地位を得
 られることになった。しかし、それは表向きのことであって、裏では、持
 統(持統の即位は私的なものである。エピソードの三『持統天皇』)−不
 比等ラインに密談があったのではないだろうか。

  その証拠が、「大三輪朝臣高市麻呂」の諫めである。このとき「高市麻
 呂」は、


  「農繁の時の行幸は、なさるべきではありませぬ。」


  と言って諫めているのだが、このとき伊勢が皇大神宮と言われていなく
 ても、少なくとも持統の先祖神を祀った宮であったならば、「高市麻呂」
 の諫めは的はずれなのだが、そうではなさそうなところに、朝廷と持統と
 の間に、見解の相違が見て取れるのだ。
  朝廷は、伊勢(神宮)を東海道の拠点として、筆頭ながら他の主要官弊
 社と同格扱いにしたにすぎない。

  旧東海道の熱田−桑名間は、海上交通だったことは有名である。奈良時
 代のそれは、海人の雄「尾張氏」が掌握していたのだが、「尾張氏」から
 の影響力を嫌った「大海人皇子」は(エピソードの二『壬申の乱』)、伊
 勢−渥美に別のルートを求めたのだと思う。

  そこに白羽の矢が立った土地こそ、五十鈴川上の磯宮だった。

  「尾張氏」と同族の「度会氏」にとっても、その地は東国ルートの拠点
 であり、であるからこそ、安全祈願のため五十鈴川底にすむという、龍神
 を祀っていたのである。「織田信長」の「北畠氏」攻めに協力した「九鬼
 水軍」が、この地方を拠点にしていたことからも、この地方の重要が証明
 できる。

  持統の行幸が、単なる神社詣だと疑わない朝廷は、諫めるのが当然であ
 ろう。ただここでも問題がある。天皇を諫めることができた、という点で
 ある。裏を返せば、持統はこの時点では、権力者だったのではないという
 ことだ。それもそのはずで、国家中枢の中心人物は、「高市皇子」だった
 からである(エピソード3【持統天皇】)。
  持統にとってみれば、権力を自分に引き寄せるためには、伊勢神宮が絶
 対的であることが必要だった。結果的に伊勢神宮が女帝伝説第一章の始ま
 りでもあったから、どうしても行かなければならなかった。真新しく築造
 された伊勢神宮は、創造された天皇神話の実証になるからである。
  それは持統と、その権力を巧みに利用しようとした、「藤原不比等」と
 の画策であり、朝廷といえども、その真意は見抜けなかったということで
 ある。何しろ、「藤原氏」の私邸で持統を即位させたくらいであるから、
 それが公認でないにせよ、大胆にも公然と既成事実を作っていったのであ
 る。

  かくして、女性神の宮を装った伊勢神宮という器は完成したのであるが、
 祭神は五十鈴川の龍神である。それは皇女により神祭りをするという、男
 性神アマテラスであった。

  その後、女性神アマテラスへの祭神入れ替えがあったことになるのだが、
 それは、神主家であった「荒木田氏」の言葉が証明している。
  その時期は、『日本書紀』の編纂開始以降であり、持統−「不比等」体
 制が完成した早々といえるだろう。

  『日本書紀』の本文でのアマテラスの最初は、たんに「大日靈女貴尊」
 と称され(アマテラスとは呼ばれていない)、太陽神をお祭りする巫女で
 しかない。ところが、挿入されている一書や、続いていく本文を読んでい
 くうちに、「大日靈女貴尊」=天照大神という図式が完成していってしま
 い、いつしか「大日靈女貴尊」は消えている。
  これは、意図的にそう編集されているとしか思えないほど、読者にすり
 込まされていく。
  ここまでが第一段階であり、ヤマトヒメを依り代にして、「伊勢」五十
 鈴川の川上に鎮座した説話が第二段階である。

  『日本書紀』は養老四年に完成された後、その翌年に「日本紀講」なる
 講義が催されている。これは大臣以下の官人のために催された、朝廷主催
 の講義であり、その後は、弘仁三年(812)、承和十年(843)、元
 慶二年(878)、延喜四年(904)、承平六年(936)、康保二年
 (965)の約三十年に一度の割合で開催されている。

  天皇家の祖神がアマテラスであると言うのならば、天皇家は本来、神を
 祀る側であったことになり、女王であり大巫女であった「邪馬台国」のヒ
 ミコにぴったり重なってくる。
  そして、祀る側が祀られる側になるために必要だった道具こそ、『日本
 書紀』だったのである。
  事実『景行紀』では、東国に赴く「日本武尊」が、伊勢神宮に居た「倭
 姫命」訪ねているが、「草薙剣」を授ける「倭姫命」は、アマテラスその
 ものである。

  『日本書紀』には天皇家の祖、女性神アマテラスが書かれていて、ある
 べきところに、伊勢神宮がある。天皇とは名誉大王の持統であったが、こ
 うした後付の既成事実によって、天皇=最高位になっていき、同時に、最
 高位としての大王位は消滅してしまったのである。

  しかし、それは大和朝廷内に限られたことであり、当の伊勢神宮は、そ
 んな国政について、一切関与がなかった。
  現代のように、情報伝達手段が無い古代において、中央でなされた政治
 決定が、地方に伝わっていく時間を想像してみると、それは、数日間であ
 ろうはずがない。早くて数週間、積極的に伝えようという意思が働かなけ
 れば、数ヶ月、あるいは数年後ということも考えられる。
  この場合は、どうであったろうか。祭神の入れ替えを企んだ持統にとっ
 て、伊勢に知らせて良い情報は何もない。
  ここは成り行きに任せたものと考えられ、事実は二年後の外宮移転の宣
 命とほぼ同じくして、もたらされたのではないだろうか。

  「荒木田氏」の


 
 「天照大神は蛇神で・・・」


  発言には、このようの背景があったものと思われる。

  元来は男性神を祀っていながら、十本の鰹魚木を持たされた女性神の宮
 とされたという矛盾は、実は少なからず現代までも残っている。

  天照大神の御装束は、なんと男装束なのである。



  
11.豊受皇大神宮


  雄略天皇の二十二年、外宮が迎えられている。迎えた元は、与謝宮であ
 り、現在の籠神社の元宮である。
  そして、内宮に遅れること二年、外宮の遷宮が行われたことになってい
 る。

  しかし、この遷宮以前、外宮は本当にあったのだろうか。

  私は、この雄略天皇の二十二年は、このとき迎えられた神が、結果的に
 外宮に遷座されたからこそ、外宮という表現になってしまったのであって、
 実際には、「度会氏」の祖神であった「龍神」が、五十鈴川上に鎮座され
 た時が、この記録に成り代わっているのだと考えている。

  つまり、遷宮以前には外宮はなく(もちろん、外・内という一対の呼称
 を与えられている内宮もない。おそらく内宮という呼称は、外宮成立時以
 降の産物であると思う)、雄略天皇の二十二年以降存在したのは、内宮の
 前身である瀧祭神だけだったのではないか、と思うのだが。
  そもそも、遷宮以前の史書である『日本書紀』に、外宮の記述がないこ
 とが、これを裏付けていると思う。

  外宮の第一回目の遷宮、実は外宮の創建であったと考える。

  外宮の創建は、このときの皇室の権威が、より大きくなっていったこと
 の、証明であろう。
  皇祖神としての天照大神の重要性が高まり、従来のアマテラス、すなわ
 ち瀧祭神とは別の天照大神を、皇室唯一絶対の氏神として昇格させる必要
 があったというわけだ。

  天照大神を私物化できるほどに、皇室は強大になっていったわけである。

  その結果、旧アマテラスは、外宮という宮を与えられ、そちらに遷座さ
 せられたのだが、その外観は内宮と同格である。
  皇室の祖神と国家原初の祖神を同格にしなければ、批判を回避できない
 と考えたのだろうか、それだけ原初の祖神が大きかったわけである。

  外宮の鰹魚木は九本である。これは、初めから男性神のための宮である
 ことは明白だ。
  その男性神とは、五十鈴川の龍神であった。そうであるならば、その元
 である籠神社の「籠」とは、「龍」が本来の文字であったのではないか、
 と思えてならない。
  籠神社の名称の由来は、彦ホホデミが籠に乗って竜宮に行った故事にち
 なんでいると言うが、竜宮は龍宮であり、彦ホホデミが龍になって、とい
 うのが本来の故事であり、それが名称になったのではなかったかと思われ
 る。

  というのは、籠神社には籠神社の祭神と賀茂別雷神社の祭神とは、異名
 同体であるという伝承があり、「山城国」の『風土記』には、


  「賀茂建角身命に玉依日子と玉依日売という二人の子があった。玉依日
 売が石川の瀬見の小川に川遊びをしたとき、川上から丹塗矢が流れてきた。
 玉依日売はその矢を持ち帰って、床のかたわらに挿しておくと、やがて妊
 娠し、男の子を生んだ。それは賀茂神社の上社の祀られている賀茂別雷神
 である。」



  とある。これは、流れてきた丹塗矢が陰処を突いたという、『古事記』
 のイスケヨリヒメの説話とそっくりであるが、丹塗矢とは、男性神の象徴
 であり、降雨をもたらす雷神は龍神でもあった。

  すなわち籠神社は龍神を祀る神社でもあったことになる。

  その祭神がホアカリであるならば、神格としてのホアカリは龍神であり、
 籠神社の真相は、やはり龍神社であったと思われる。

  ところで、『伊勢国風土記逸文』(『風土記』ではないかもしれない、
 という注釈がある)の『安佐賀社』の項として、大変興味深い説話が残っ
 ている。

  それは、


  「伊勢の風土記。天照大神が美濃国より廻り来て、安濃の藤方の方樋の
 宮に到った時に、安佐賀山に荒ぶる神がいた。その神は百人通れば五十人
 を殺し、四十人通れば二十人を殺した。これによって、倭姫命は、度会郡
 宇治村の五十鈴川上の宮に入ることができず、藤方の方樋の宮に天照大神
 を祭った。そして、安佐賀山の荒ぶる神の所行を、中臣の大鹿嶋命・伊勢
 の大若子命・忌部の玉櫛命を遣いに出し、天皇に報告した。天皇は、「そ
 の国は大若子命の先祖、天日別命の平定した山である。大若子命がその神
 を祭り鎮めたうえ、倭姫命を五十鈴の宮にお入れするように」と言い、さ
 まざまな幣を賜って、遣いを返してきた。大若子命は、その神を祭り鎮め、
 安佐賀に社を立ててお祭りした。」



  なのであるが、これは、かなり核心を突いていると思う。

  まず、初代斎宮は「大来皇女」であることを考えると、このヤマトヒメ
 は、天武天皇の妹のことになる。もっとも、『垂仁紀』のヤマトヒメの実
 在を認めていないので、当然のことなのだが、そうであれば、ここに記さ
 れている人物の時代考証は、あてにはできない。
  『伊勢国風土記逸文』では、「天日別命」(「天日鷲命」とも書く)は、
 神武天皇の命を受けて、国津神であった「伊勢津彦」を東方に至らしめ、
 「伊勢」を平定した神とされている。また「度会氏」系図に見える「天牟
 羅雲命」の孫である。「大若子命」は「天日別命」の六世孫、「天牟羅雲
 命」の八世孫となる。「天日別命」はその名からして太陽神、あるいは太
 陽神の子、太陽神の分身であろう。

  安佐賀に建てられたという社は、松阪市小阿坂町の阿射加神社と比定さ
 れており、祭神は「猿田彦神」、「伊豆速布留神」、「竜天大神」の三神
 である。

  さて、これらを総合して結論づけると、通行人の半数を殺したという荒
 ぶる神「天日別命」であるが、神である「天日別命」が殺すというのは、
 現実的ではないので、新しい神の流入に対して、旧来の神を奉斎する氏族
 の抵抗と考えられる。これは外来氏族の侵入であり、土着氏族の抵抗と言
 うよりも、かなりの争乱であったことを物語っているのではないか。
  やむを得ず安濃郡の藤方(三重県津市藤方か?)に、基地を構えたので
 あるが(これが後に斎宮へと移っていくのだと思う)、五十鈴川流域を、
 東国経営の一大拠点と考えている朝廷は、「壬申の乱」で功績のあった伊
 勢国王を通じて、天津神の宮と等しい社を建てるという条件で、抵抗勢力
 を説き伏せたのではないだろうか。このあたりは『古事記』に記された、
 オオクニヌシ命の出雲大社の手法と同じだと思う。

  「天日別命」は安佐賀の社を歴た後、外宮の創建を待って、外宮に祀ら
 れたのだと考えている。
  「度会氏」の祖であり、太陽神である「天日別命」とは、同族関係にあ
 る「尾張氏」・「海部氏」の祖、ホアカリやトヨウケと異名同体と考えら
 れる。

  「山田宗睦」氏の小論文の一説に、


  「天武から文武、聖武にかけて、斎宮・斎宮寮は、急速な発展をとげて
 いる。この時代は、『古事記』『日本書紀』、『大宝律令』、伊勢神宮、
 または初期万葉など、思想的な事業が併行してすすんでいる。
  一方で、持統朝のころ<高天原−アマテラス>の観念が成立して、記紀
 の神代巻の構想が確定した。他方、その前代の天武朝から、壬申の乱のさ
 いの伊勢の望拝が起源となって、伊勢神宮を造営する政策構想も、できあ
 がってきた。この二つが関連して、天皇家の祖神アマテラスを祀る伊勢神
 宮が生まれたのである。」(『歴史と旅』神話と歴史を結ぶ聖地 伊勢神
 宮 昭和六十四年二月号)



  とある。まったくその通りだと思う。ただ、持統朝と言えば「藤原不比
 等」の関わりをも、付け加えたい。

  しかし、これで問題が解決したわけではない。

  安佐賀の社に祀られたという「天日別命」であるが、そこには、「猿田
 彦神」、「伊豆速布留神」、「竜天大神」の三座が祀られている。
  「竜天大神」は龍神のことであろうし、「伊豆速布留神」は『倭姫命世
 記』では「天日別命」と同じ所行を行う神として記されているので、共に
 異名同体であろう(その名からニギハヤヒと関係を感じさせるが、現状で
 はよくわからない)。

  同様に「猿田彦神」も異名同体であろう。つまりこの三座の神は、同一
 神と考えられるが、問題とは、この「猿田彦神」(さるたひこのかみ)の
 ことである。

  サルタヒコは、佐太大神(さたのおおかみ)と同体とされている。その
 佐太大神は、島根県八束郡鹿島町にある佐太神社に祀られる神である。つ
 まり、俗にいう出雲神、国津神だ。

  出雲大社が神無月における神様の会議場であることは、よく知られてい
 ることであるが、会議の前半は出雲大社で、その後半は佐太神社に場所を
 移して行われるということをご存じだろうか。
  佐太神社の大祭は、浜に打上がった海蛇(「龍蛇様」りゅうじゃさま、
 と呼ぶのだそうだ)を奉納するのだそうだ。
  龍蛇様が海上を渡ってくるときは、さながら金色の火の玉に見えるとい
 うが、これなどは光を放って海上を渡ってきた、大物主神を連想させるし、
 神無月に諸国から訪れる神々を先導する神であるというから、導きの神で
 あるサルタヒコの性格は、ここから来たのではないだろうか。

  サルタヒコが導きの神であるとされた理由には、邇邇芸命(ににぎのみ
 こと『古事記』表記)が天降りしようとしたとき、


  「天から地へ通じるいろいろな道が集まった要の場所に居て、光って上
 は高天の原に輝き、下は葦原の中つ国に輝いている神がありました。」
 (『古事記』)


  と、立ちはだかっていた神であって、その後、ニニギを高千穂峰に案内
 すると、自らは故郷の「伊勢」に帰っていった、という説話があげられる
 が、これなどは、ヤマトヒメを妨害した「天日別命」を連想させるのには、
 十分な説話であろう。

  しかし、サルタヒコに言及しようとすればするほど、この章では収まり
 きらず、その言及が、いわゆる『捨てざりがたい説』の方向へ行ってしま
 う。
  従ってサルタヒコについての今後の展開は、『【封印された古代史妄想
 的話】其の10』に頁を譲って述べることを、ご了承頂きたい。

  そして、伊勢神宮の最期の問題が伊雑宮である。



  
12.伊雑宮


  伊雑宮の何が問題ないのかというと、ここは古く内宮と本家を争った宮
 だからである。

  ことの発端は、享禄四年(1531)、伊雑宮の神領地を守護していた
 「的矢氏」が、「九鬼家」に滅ぼされたことによる。その結果、神領地は
 「九鬼家」に横領され、庇護のなくなった伊雑宮は、経済的に自立できな
 くなり、その困窮は悲惨なものであった。

  その後、領主「九鬼家」と衝突を繰り返していた伊雑宮の神人は、時代
 が過ぎた正保二年(1645)に神訴。
  このときの訴状では、


 
 「日本第一の大社、大神宮」


  と記され、つづく正保三年(1546)では、


 
 「伊雑皇太神宮」


  と称し、「伊勢三宮説」を唱えた。さらには「伊勢三太神宮御同体」と
 エスカレートし、明暦四年(1658)の上訴では、添付した『伊雑宮旧記
 勘文』で、


  「則ち天照大神は、伊雑村之下津磐根にある伊雑皇大神宮に鎮座し…」


  と、神宮の本家を主張した。

  この事態に、協力的だった内宮との関係が一気に冷え込んでしまった。
 それでもなお、


  
「伊雑が内宮の本宮」


  と主張しつづける伊雑宮は、内宮・外宮を完全に敵に回し、係争状態と
 なった。

  その後も紆余曲折があり、しかし状態は硬化したまま、最終的には、朝
 廷の決裁により、伊雑宮は「伊射波登美命」(いざわとみのみこと)を祭
 神とする、内宮の別宮であると裁定された。

  寛文三年(1663)、伊雑宮の神人は、将軍綱吉の行く駕籠を待ち受
 けて直訴するも、結局は神人47名が追放処分を受けることになった。

  ところが、それ以上に世の中を論争の渦に巻き込んだのが、『先代旧事
 本紀大成教』の発刊であった。

  『先代旧事本紀』という史書は、実は複数存在する。ここでも、よく例
 に取り上げているものは、通常「十巻本」と呼ばれているもので、他にも
 「三十一巻本」・「七十二巻本」がある。
 
  『先代旧事本紀大成教』は、このうちの「七十二巻本」のことで、延宝
 七年(1679)、江戸の版元「戸嶋惣兵衛」(とじまそうべえ)のより、
 『神代皇代大成教』(かみよこうだいたいせいきょう)として刊行された
 ものであり、おそらくは僧侶「潮音」(ちょうおん)が、持ち込んだもの
 と考えられている。

  『大成教』は発刊当初から、学者や僧侶などの知識人や、エリート階級
 などに大評判となったが、その後、たちどころに焚書・発禁の憂き目にあ
 う。
  天和元年(1681)、荒唐無稽な偽書であると幕府に断定され、版元
 の「戸嶋惣兵衛」は追放、「潮音」(後に減刑)等は出版関係者とみなさ
 れ流罪となったのだが、その関係者として伊雑宮の神人が含まれていた。

  偽書だとはされたが、はたして内容を吟味したのかどうかは、はなはだ
 疑問である。というのも、幕府が裁定を下した理由は、激昂した内宮・外
 宮神人たちの、熱心な詮議の申し立てがあったからである。

  両宮が問題にしたのは、伊雑宮は両宮よりも社格が上であるとする記述
 であり、言ってしまえば、伊雑宮こそが本来の内宮、ということである。
  これは先の伊雑宮事件と同じ主張であることから、伊雑宮神人の関与が
 あったものと裁定され、伊雑の神人もまた処分されたのだが、「潮音」は
 なおも、『大成教』が本物であることの主張をつづけた。

  結局『大成教』事件は、「処分不徹底」ということで、その版木が焼却
 され、焚書目録の筆頭に名を記されることになった。

  ところで「潮音」が減刑された理由は、将軍「徳川綱吉」の生母、「桂
 昌院」(けいしょういん)の取りなしがあったからである。
  実のところ「潮音」は、黄檗宗(おうばくしゅう)の傑僧「潮音道海禅
 師」のことであり、仏教界では知らぬ者はいないほどの超有名人だった。
  中国から来朝した「隠元禅師」(いんげんぜんじ)の法孫であり、「隠
 元禅師」の名は知らずとも、インゲン豆は誰もが知っていよう。インゲン
 豆は禅師が伝えたから、その名が残されたとい言われているくらいだ。
  「潮音」がどれくらいすごいのかと言うと、「桂昌院」だけでなく、将
 軍「綱吉」でさえ、帰依していたというのである。両宮神官の激しい申し
 立てがあったからこそ、やむなく裁いたというのが実情であったのだ。

  そんな「潮音」が、なぜ『大成教』に強くこだわったのであろうか。

  『大成教』は「潮音」の著作品ではない。聖徳太子と「蘇我馬子」との
 編纂という肩書きであるものの、どちらかといえば神道の書である。
  『大成教』七十二巻の聖徳太子が偽書では困るのなら、抜粋して編集す
 ればよかったではないか。現に『大成教』以前に、『聖徳太子の五憲法』
 と題した書物を出版している(これが七十二巻本にある同タイトルの記述
 とまったく同じであるらしい)。

  従って、そこに伊雑宮が関わりがあったのであれば、


 
 「伊雑宮=真の内宮」


  が根底にあったからと、考えたくなる。

  伊雑宮は本来、五十宮と記すのが正しいという説がある。伊雑は後世改
 められたものらしい。伊雑宮は“いぞうのみや”とも発音する。すなわち、
 “いそうのみや”(五十宮)=磯宮である。

  伊雑宮は、内宮・外宮、両宮の争いに一枚加わった格好になったのだが、
 両宮が抗争中であるにもかかわらず、協力して伊雑宮を叩いたという事実
 には、何ともやりきれない気持ちになる。

  伊雑宮の祭神は「伊射波登美命」と下されたものの、それ以前は、「天
 照大神御魂」(延暦二十三年(804)『皇太神宮儀式帳』)が祭神であ
 り、明治以降は再び「天照大神御魂」を祭神としている。

  明治に到るまで争いが続いた両宮と伊雑宮であったが、共通していた思
 想は、「荒木田神主」の伝承や、外宮が国常立尊を祭神とするなど、祭神
 は男性神であるということである。
  また、伊雑宮の「天照大神御魂」とは、アマテラスの荒御魂のことであ
 ろうか。
  内宮の荒祭宮は、アマテラスの荒御魂を祀る別宮であるが、祭神は「天
 照大神御魂」ではない。あくまでも荒御魂である。

  ここには、明確な区別がある。

  「天照御魂神」を名乗る神社は、全国に数カ所あるが、そのいずれもが
 天照国照天彦火明命を祭神とする神社なのである。


                            了