真説日本古代史 特別編の八


     二つの伊勢神宮 内宮と外宮


   神地にふさわしからぬ流血の惨事を招いた、
   六百年にわたる内宮と外宮の相克!
   (『歴史読本』昭和六十二年三月号より 
鈴木庄市 著)




   
三姓の禰宜


  「この神風の伊勢の国は常世の浪の重浪の帰する国なり。傍国のうまし
 国なり。この国に居らんと思う。」と国ほぎの言葉をもって、内宮の御鎮
 座は語られている。とこよの国つまり変わらぬ国という上代人のユートピ
 アが、伊勢の国であった。とこよの浪が打ちよせる国、伊勢の国こそは、
 かた国の美しいうまし国であった。五十鈴川上に、天照大御神の宮がまつ
 られ、皇室の弥栄、国民生活の平安が祈られた。
  度会の山田原の高倉山の麓には、外宮がまつられ、大御神の御食の神、
 食事の守護神、豊受大神が迎えられれ敬拝されて朝夕のお祭りがつとめら
 れ、さらに豊かなみのりが祈られた。
  大御神の御杖代として祭祈に関わる皇女または女王を、斎王として奉仕
 せしめられた。この神宮の職員として最高の地位にいるのが祭主であった。
 祭主は中央の神祇官に本官をもち、神宮祭主を兼ねていた。勅使として参
 向するとき以外は都に住み、直接に神官の官務にはつかなかった。神宮の
 神政は、大神宮司が主として掌るところであった。禰宜以下は大神宮司の
 下で祭務に奉仕した。禰宜は「忌火の飯を食い、忌わり慎しみ、聖寿の無
 窮、皇室の繁栄、天下の平安、五穀の豊穣を祈る」のがその職掌であった。
  両宮の禰宜はも荒木田神主、根木神主、度会神主の三姓の人が補せられ
 た。根木神主は早く絶えた。後になって内宮の禰宜は荒木田氏、外宮の禰
 宜は渡会氏の氏人が任用されることに定まった。
  禰宜の定員は初め両宮ともに一員であったが、のち両宮ともに漸次増員
 せられ十員になった。その第一の禰宜を長官あるいは官長といい、宮中の
 神務を統べた。また政印を預かったから執印ともいった。禰宜各十員のほ
 かに、多くの権禰宜があった。権禰宜には、権官と権任とがあり、権官は
 職掌があり、禰宜にしたがって祭務に奉仕した。権任には職掌がなく、た
 だ公卿勅使が参向の際、または遷宮の際に勤めるだけだった。



   
度会神道の成立と二宮両立


  渡会氏は神宮御鎮座以来の旧族名家であったので、古伝古例を相承下し
 た。鎌倉時代に神国思想が興隆したときに、両宮の御鎮座についての伝承
 を基として度会神道を成立させた。
  古来、内宮は最も尊貴な神として、朝廷からも国民からも外宮以上に尊
 重されてきた。外宮の神官はこれを遺憾に思って、両宮について御由緒を
 つくり、外宮を内宮と同等以上に引き上げようとしたのである。
  外宮の祭神・豊受大神は御食の神・食物の神であるが、これを国常立尊、
 天御中主神とした。内宮の祭神は天照大御神であるから、その祖先の神と
 した。外宮国常立尊は水徳の神であるとし、内宮の祭神・天照大御神は日
 の神であるから、火徳の神である。水は火に克つという中国の五行説を利
 用して、外宮が内宮に克つということを匂わせたのである。
  度会神道は外宮の祭神豊受大神を主神とし、次の諸神と異名同体である
 と主張する。天御中主神、国常立尊、御饌都神、大元神はいずれも豊受大
 神の別名である。大元神以外は古典の神である。天御中主神と国常立尊は
 「記紀」の初めに出る神である。この神を大元神と同一神視した。
  大元とはオオモト、始原の意である。外宮の神はまず初めに生まれた神
 である。すなわち大元の神である。天照大御神出生以前の神である。した
 がって尊貴の神であるという考えが先に立っている。「初めに神ありき」
 という万神万物に先がけて出生した神こそは最高神である。最高神は、時
 間的に他神に先行して生まれるという型であって、固有の信仰とは異なっ
 た型の信仰をはっきりと打ち出した。
  初めに出る神は、時間的に早く現れたのみでなく、その後、現れる神の
 根拠として第一原理のカミであるとみなすのである。全知全能の神があっ
 て、万物をつくる過程以後は堕落に向かうと見なす史観であり、歴史の始
 原を黄金時代とみて、次第に退化し下降するとする史観である。神道本来
 の信仰は、天照大御神の天壌無窮の神勅にみられ、時代の経過は生成発展
 をともなうと見るのである。
  また二宮一光というのは内宮外宮相まってご神威は発揚され、世人の救
 済も完うするという信仰である。度会神道は、外宮のみを尊しということ
 を強調しているわけではない。太古、天照大御神と豊受大神とは、われわ
 れが容易に察知することができない神秘な約束、幽契を高天原で結ばれて、
 日月の相並んで照らすごとくともに天下を治められることになった点を明
 らかにしているのである。



   
御厨・御園の争奪


  神宮は初め度会・多気二郡を神領としていった。平安中期の寛平九年に
 は(八七九)、この二郡のほかに飯野郡が神領に加えられて三郡となり、
 これを神三郡といった。のち、平将門追討御祈願の報賽としてて、員弁郡
 一郡二百畑を寄進されるなど、五郡の寄進があり、神八郡と称することに
 なった。
  律令制の支配組織が有名無実となり、荘園が神郡にもでてきた。御厨・
 御園と呼ばれる神宮の荘園も増加していった。禰宜や権禰宜たちは、豪族
 たちに伊勢神宮の御神威を説き、寄進を進めた。伊勢の国以外の三河・遠
 江・美濃・信濃・下総・下野などの諸国の神戸・神田・御厨・御園を、禰
 宜や権禰宜たちを仲介として寄進する豪族が多かった。
  この仲介者を口入神主といい、神宮に納める年貢の一部を口入料として
 納めた。殊に、在地の末端である権禰宜が、神宮領の拡大に活躍した。権
 禰宜は口入神主として、特定武家の祈祷師の姿をとるようになった。
  寄進した豪族は、荘官としてその土地に対する権利を保有した。ただ名
 前だけの領主権を有力な社寺寄進し、その保護を得ようとした。神宮の御
 神威にたよって、その土地の実権をにぎりながら寄進したことが、東国に
 おける神宮御厨増加の原因であった。
  建久三年(一一九二)、源頼朝が鎌倉に幕府を開き、その勢いが盛んに
 なると、外宮の権禰宜等は祈祷師(御師)として頼朝に近づき、その保護
 を得て御厨・御園を広げた。のち、これらの御園や御厨も武力によって押
 領された。
  下総国相馬御厨は「神威に募らんが為めに」、永く伊勢皇太(明治以前
 は「太」を使用)神宮に寄進され。権禰宜荒木田神主延明が口入神主とし
 て、毎年上分米ならびに土産の鮭等を備進してきた。田一段につき米一斗
 五升、畠一段に五升のほか、鶏百羽、塩曳鮭百尾を奉り、その半分を供祭
 料とした。のち仁安二年(一一六七)、外宮禰宜彦章にもこの御厨の口入
 が渡され、相馬御厨は両宮領となった、また、下総国葛西御厨も内宮領で
 あったが、建治元年(一二七五)、口入職を外宮禰宜定行神主にも与えて、
 領宮領になった。名主・百姓等は、領主に対し御厨の押領を企てた。外宮
 の禰宜は幕府に書類を進めて違乱を停止せんことを請い、内宮の禰宜も、
 解状を幕府に送り、百姓等の上分米押留の停止を請うた。幕府は御教書を
 鎌倉の管領上杉憲実に下し、滞納中上分米を弁済することを命じた。神領
 押妨はやむことなく、御厨・御園は有名無実のものとなってゆくのである。
  延元三年(一三三八)北畠顕能が伊勢国司となり、以来九代にわたり北
 畠氏が南伊勢を領国大名化した。荘官である各地の土豪は北畠氏の被官と
 なり、その目的を達しようとするようになった。



   
「皇」の次をめぐる争い


  永仁四年(一二九六)、領宮の神領である伊勢国員弁郡石河御厨の両宮
 の上分米を没収して、奉らなかった。両宮の禰宜等は連署して解状を上り、
 勅裁を仰いだ。その解状の外宮側の署名の首に、「豊受皇太神宮」とあっ
 た。従来、外宮の官号は「豊受太神宮」と書いてきたにもかかわらず、今
 度「豊受皇太神宮」と書いたのは先例にもとるものであるといして、内宮
 側の禰宜は外宮に向かって抗議した。しかし、外宮側では決して不条理で
 はないとした。そこで、内宮側では証拠の提出を要求し、一方、そのこと
 を朝廷に訴えた。
  外宮側は以下のように述べた。「皇」の字は二所太神宮の尊号、八百万
 神の通称である。その大元を思い、その原初の起こりを案ずるに、すべて
 の言語の及ぶところではない。筆墨に記すべきではない。『延喜祝詞式』
 に「豊受皇太神宮の前に申さく」とあり、その後の神宝を進め奉るときの
 宣命にも「豊受皇太神宮の広前に」とある。内宮の禰宜の新儀の訴えこそ
 不当である。そして、そのことの是非について勅裁を仰いだ。
  これに対して内宮側では、「天照大神は惟れ祖、惟れ宗、尊きこと二無
 く、自余の諸神は乃ち子、乃ち臣、孰れか能く抗せんや」である、宣命の
 文には「皇」字をのせられいても、社司の訴訟の時には決して「皇」の字
 は書かない。したがって『日本書紀』にも『儀式帳』にも「皇」の字は用
 いないのである、と主張する。
  外宮側では「二所皇太神宮は天地の重責、日月の大元である。ゆえに化
 を乾坤に布いて、万物を養い、徳を陰陽につらね、すなわち群品に照臨す。
 神祇の本源、君臣の高祖、八挺(八方の遠い果て)の社稷、四海の宗であ
 る。「皇」の字の源は天祖より起こり、王家に流伝し、徳は天地にひとし
 くしている。またりょうぐうの宣命にも、ともに「皇」の字を載せられな
 い例もあり、さらに両宮の解状にともに「皇」字を書いたものもある。内
 宮側の言うように、一定の準拠はない。もしこの問題について速やかに勅
 裁を賜らないならば、両宮の禰宜に禁河を許され、同時に参洛の上究決を
 遂げられたい。」と請うた。(禰宜は最も神前に近く奉仕するので、古来
 禁河の制があって、宮川を超えて外に出ることを禁じられていた)。
  内宮側では、「外宮側から「皇」字使用の根拠として提出された延喜十
 四年正月廿七日の本系帳、天慶九年四月七日の解状、飛鳥本記、倭姫皇女
 正記、伊勢宝基本記以下の書状は浮言をもって支証を申し立てるもので、
 信を取るに足らない」と言上した。
  その後、幾多の曲折を経て、外宮側では内宮側の主張に対していちいち
 批判を加えた。「天照は二宮の通称、大神は大廟の本号なり」「両宮は天
 神地祇の大宗、君臣上下の元祖也。天下の大廟なり。国家の社稷なり」
 「徳・天地に合するを皇となす。智・神霊に合するを命となす」「天照止
 由気皇太神は大日靈女貴天照太神と予め幽契を結び、永く天上天下を治め
 給うなり」とし、「天照皇太神は等由気皇太神と明を合し、徳を斉しうし
 給うことと天上の儀の如く一処に並び座す」とした。また「二所太神宮は
 百王の宗祖として、四海の内に照臨し、万世の尊神となり、八挺の外に明
 徴し給う宗祖であり、尊神である」ことを申したて屈しなかった。
  朝廷においては永仁五年五月、外宮の「皇」の字のこと、宗廟尊号の件
 については内宮の禰宜が頻りに訴え申すけれども、沙汰未断の最中で、こ
 れを止め難い旨の宣旨を下された。外宮側は二宮兼行、天照両皇太神宮の
 思想を基として、度会神道の神道五部書など編述と一連のものである。鎌
 倉時代以来起こっていた両宮対立の思想の現れと見ることができる。この
 ような思想上の対立が、この後の神宮の歴史の上の事件にいろいろな形で
 現れ、江戸時代に至っても後をひき、明治維新の際に至って清算された。



   
放火・流血の戦国時代


  室町時代は庶民階層が社会の表面に浮かび上がってきた下克上の時代で、
 各地で乱争が絶えなかった。神宮鎮座の伊勢の地もこのような時代の大勢
 に流された。宇治と山田、内宮と外宮の神人がしばしば相争った。両宮は
 戦を交えるに至り、触穢に及んだ。正長二年(一四二九)、山田外宮の神
 人(地下の権任)と山田の神役人(異姓の職掌人)の土一揆とが、徳政の
 ことについて争い、放火があり山田の民家数百軒が焼けた。神人は負け、
 外宮の社頭を戦場として合戦に及んで宮城内を血でもって穢すに至った。
 このことは「先代未聞、開闢以来之無き由、言語道断、浅間敷き事也」と
 記され、宮中触穢三十日に及んだ。御饌の毎日の共進を求め、朝廷にては
 祈年祭の奉幣を延期された。
  翌年、幕府は御教書を下して山田三方土一揆に起請文を進めさせ、山田
 の神人と地下人とを和睦させるために、宇治五郷の地下人中、しかるべき
 輩を召し進むべきことを祭主に伝えた。
  宝徳元年(一四四九)、大名武田氏の参拝にあたって、外宮からその指
 南人を内宮まで出した。内宮側では、これを違法なりとして、内宮の一鳥
 で留めた。外宮の指南人は我意を張って内宮側の指示に従わず、そこで子
 良館にいた宮守物忌父弘憲はめようとしたが、喧嘩となり刃傷に及んだ。
 内宮側では外宮の指南人二人を殺害した。
  これがもととなって外宮側では山田より南の内宮への参宮道路を遮断し、
 両宮神人が弓矢をとって戦うに至った。幕府は事が穏やかでないとして、
 祭主に下知して外宮側に通路を開かせるようにした。
  翌年正月、両宮和睦のために、幕府の奉行飯尾備中守、前祭主清忠、当
 祭主の弟房直らはともに伊勢に下り、二月、外宮の一鳥居において両宮神
 人の間に和睦が成立した。この争いのために月次祭の奉幣が遅れ、翌正月
 一日に行われた。同七日の若菜の御饌の御料の若菜も、進めることができ
 なかった。二月十一日に「地下静謐祈祷として」一般において、一万度御
 祓を勤仕した。五月になって、山田においては再び内宮の道者を抑留して
 通行を止めた。
  利害関係を異にした両宮神役人等の争いは、この時代には下知で治める
 ことができなくなっていた。
  寛正六年(1465)、山田岩淵の郷民が「小田の神役造営の関所に押
 し入り関銭を押収したので、宇治側から発向したが、郷民は逃げたため郷
 民の住宅を焼いた。十一月、山田の米屋が北畠氏の田丸城を襲った。北畠
 氏は書を宇治神役人に送り、宇治方がこの企てに与しなかったことを賞し、
 山田に発向する旨を報じ、北畠氏に協力すべきことを望んだ。
  宮川以東の神領地はいわゆる守護不入の地で、古来、軍兵が進められた
 ことがないから、宇治六郷の神役人は北畠氏の奉行に書を送り、国司の山
 田への発向を止めようとした。この時、北畠氏の兵は小俣の辺りに来てい
 た。両宮の月次祭は外宮の触穢と北畠氏のこの出陣とによって延引、その
 退陣をまっておこなわれた。
  神領地は清浄を尊んだから、触穢になると、内宮は桜宮の南参道に黒木
 の鳥居を立て、御帆をかかげ、ここっで参拝人の拝をした。外宮は第二鳥
 居、北鳥居に雲型幕を張って、その中央に尊号をかけた。触穢の神事は延
 引した。
  文明十七年(1485)、山田の岡本に番屋を建て、宇治内宮への参拝
 人をとめた。宇治六郷の神人は多気に使をつかわし、北畠氏に祈願した。
 一時は事がおさまったが、また宇治と山田の神人が戦いを交えるに至った。
 宇治に神人が山田を攻め、宮後において戦って死者百人を出し、三十日間
 の触穢になった。この山田の村穢により宮司は月次祭に参勤せず、荷前の
 絹も供えなかった。
  九月、山田の神人村山武則らが有尓の役田を押領した。土器調進に支障
 をきたしたので、有尓三郷から両宮に訴え出たが、この成敗は困難であっ
 た。武則らは傍若無人に振る舞うようになり、勢田川を航行する志摩国崎
 の船にも、新儀の課役を強行するに至った。北畠氏の奉行政内政勝は村山
 武則らを責め、北畠氏の被官であることを免じた。この成敗によって村山
 も屈し、岡本の番屋を撤廃したから、代官職だけは旧に従って申しつけた。
  文明十八年、宇治と山田の神人の不和ははなはだしくなり、互いに参官
 を止めるに至った。北畠氏の奉行は両者和解を策したが、聞き入れられな
 かったから、武力で弾圧するほかないようになった。げぐうの長官朝敦は
 内宮の長官氏経に無事斡旋を請うたが、北畠氏は兵を宮川以東に進め、宇
 治の神人を助け、山田の神人を討ち、山田三方を焼き払った。山田方は外
 宮の御山に入って御殿の御床下にこもり、日を放った。村山武則は自刃し、
 その首は宇治方に奪われた。この戦いによって、山田は百ヶ日、宇治は三
 十日お触穢になり、正月元旦、七日、十五日の神事が延引した。村山の乱
 は未曾有の一大不祥事であって、内宮長官氏経は神慮を畏み病を得て、翌
 年、世を去った。この乱に村山を失った山田方は、しばらく雌伏していた
 が、宇治方北畠氏の所行によるところと憤りを抱き、報復の機を待ってい
 た。一方、宇治の神人は北畠氏の威をかって驕慢となった。山田三方の神
 人は、浜三郷の郷民、宇治の中村、朝熊・鹿海を糾合し、延徳元年(14
 89)、宇治を攻め、内宮に放火し、上館・御廐および・子良館を焼いた。
 宇治は三十日、山田は七日の触穢となった。
明応二年(一四九三)北畠材親は山田三方に放火し、宮中も穢した。同
 五年、山田の一揆が北畠氏を田丸城に攻め、宇治の郷民は山田衆と戦った。
 この後しばらく、宇治と山田の争いは表面に現れなかったが、永正十五年
 (一五一八)、宇治と山田の神人が争い両宮の通路が杜絶した。同二十三
 年、山田の一揆が土倉を襲い放火した。焼死者もあって両宮は三十日の触
 穢になった。
  以上の諸合戦は殺伐なもので、神地にふさわしくないものであった。宇
 治と山田の神人が戦うことはこの後止まったが、根本的には融和しなかっ
 た。

  鎌倉時代以降発達した度会神道は、このような状況から世上から忘れら
 れたが、江戸時代初期に出口延佳が出て復興された。度会氏の伝統精神を
 継ぎ、慶安三年(一六五〇)に著した『陽復記』には、「尊神出生の次第
 をいへば、外宮は先にして国常立尊、内宮は後にして天照大神なり」「天
 照者二宮之通称、太神宮者大廟之本号とも古記に侍ればいよいよ偏頗すべ
 からざる事歟」と述べている。



   
両宮世襲の停止


  慶応三年(一八六七)、徳川慶喜が大政を奉還し、翌四年、五箇条の御
 誓文が示され、明治と改元された。神宮にも改革があり、同四年五月、大
 政奉還により「神社の儀は国家の宗祀にて一人一家の私有すべきに非ざる
 は勿論の事に候……中略……今後御改正在らされ伊勢両宮世襲の神官を始
 め天下大小の神官社家に至る迄精撰補任致すべき」旨が仰せ出され、神官
 の世襲は終わった。ついで七月、神祇官から神宮の御改正が達せられた。
 それによると、「皇大神宮、豊受大神宮の儀は元より差等有るべき処、中
 古以来同一に相なり、甚だ謂無き事に候、第一両党御大裁の別を始め諸事
 釐革在らざるべく候、此旨心得違無き様篤と申達すべき事」と最初にあり、
 また「荒木田度会両姓の儀は豊受宮御鎮座以来両宮分仕致居候事に候へと
 も今般御評議の次第も有り、其姓に拘らず同く権任を以て豊受宮権禰宜よ
 り次第に転任太神宮禰宜以上へ昇進致すべく」また「両姓の儀は格別の御
 由緒も有る事に候へ共進退黜陟に於ては自今臨機の御処置有るべき事」と
 ある。
  この達によって、古来内宮は荒木田氏、外宮は度会氏の世襲によってい
 た神官の神官の世襲はやめられ、両宮相通ずるようになって、中世以来の
 内宮・外宮両党対立のことがやまった。


                        2007年 1月 了