真説日本古代史 本編 第五部 崇神系王朝と応神系王朝 1.開拓者としての尾張氏 さて、ここからしばらく続くストーリーは、『日本書紀』には全然書か れていない。本誌の主題でもある、「尾張氏」のその後の動向である。 大和を去り、一旦は丹波地方に落ち着き、丹後王朝(と思われる)の先 駆けとなった「尾張氏」も、同族のヒコイマスオウが、原大和朝廷と同盟 を結んだことにより、丹波地方を後にした。 おそらく、二手に分かれ、一方は新潟へ、もう一方は「近江・美濃」を 経て「尾張」へと向かったのだと想像する。 尾張地方へ向かった「尾張氏」は、それこそ「尾張」の本宗家であるが、 新潟へ向かった別動隊は、弥彦山を聖地と仰ぎ、この地方の開拓の先駆者 となったらしい。これは、新潟県西蒲原群弥彦村にある「越後」の一宮・ 彌彦神社の伝承から推測するものであるが、海路よりやってきたアメノカ グヤマは、この地に上陸し、携えていた杖を地中に挿すと、芽を出し根を 張って大木になったというから、日本海の巨木文化との強い関係をうかが わせる。 そういえば、長野の諏訪大社の御柱祭も巨木である。祭神は、タケミナ カタであるが、出雲神であるイセツヒコと同一神であろうことは、前述し ている。この地方の安曇族も海人であったことは、よく知られているが、 水上交通の巧みな海人たちは、巨木の扱いは手慣れたものであったのだろ う。現在でも、貯木場は運河である。 また同族には海人族の勇の証である「大海」あるいは「凡海」(ともに おおあまと読む)の名乗りや「五百木」・「伊福」(ともにいほきと読む) の名乗りがある。 また、「尾張氏」を始めとする海人族らが住み着いた地域が、海部であ り、「海部氏」の名乗りになったことは容易に判る。住吉大社の宮司家で あった「津守氏」も、「尾張氏」とは同族であるが、まさに港の灯台守の 名乗りである。 尾張地方をなぜ「尾張」というのだろうか。『熱田国風土記逸文』には、 ヤマタノオロチの尾を割って見つけた剣が『草薙剣』であったから、尾張 の語源となったように記しているが、これは、まあこじつけであろう。 想像するにこの地方は、大和朝廷の支配の及ばない東国地域、まさに終 わりの地域であったのだと思う。大和からみれば、尾張地方は、鈴鹿山脈 という自然の要害を越えなければ、たどり着けない終わりの地域であった のだと思う。 ただ、この私見では、「葛城」の高尾張邑についての説明ができない。 「尾張」の名乗りに関しては、前述の歴史言語学者・加治木義博氏が、 まことに興味深い説を展開している。 「『尾張=オワリ』は、倭国人も日本国人も双方とも元沖縄・鹿児島か らの移住者だったことを考えると、その発音は『オワリ』ではなく、『ウ ワイ』で『倭』と同じである。このウワイは、・・・『憂婆畏』という女 性仏教徒国およびその支配者をさす代名詞なのだから、尾張が倭国女王の いたところということになる。」 『謎の天存降臨と大和朝廷の秘密』(KKロングセラーズ) これだけの文だけでは理解しにくいだろうが、加治木氏のいう「尾張」 は、尾張地方のことでは無く、十世紀に「源順」(みなもとのしたがう) の書いた『倭名類聚鈔』に記載されている、「安宿郡」(あすかべ郡、大 阪市羽曳野市飛鳥)を構成する三つの村、「賀美」(かみ)・「尾張」・ 「資母」(しも)の「尾張」ことである。 また、倭国人と日本国人についてであるが、『旧唐書日本国伝』にある 一文で、 「あるいは云う。日本は旧小国。倭国の地を併せたり、と。」 とあるが、日本が倭の地を統一する以前は、「日本国」と「倭国」とが、 並立していたという。この説は、おおむね賛成であるが、「倭国」とは、 私見では「奴国」の将来である。 「憂婆畏」は「うばい」・「うぱい」と発音するらしく、「賀美」=上 「資母」=下であるらしい。「尾張」は「憂婆畏」の訛った発音の当て字 であることになる。 さて、その「憂婆畏」が、女性仏教国とその支配者をさす意味であるな らば、「邪馬台国」は女王・ヒミコの統治する仏教国であったことになり、 事実、加治木氏は、そう述べられている。 そこで、加治木氏の説に私見を交えて修正させていただくと、次のよう になる。 「女王・ヒミコの鬼道とは原始仏教であり、アメノカヤマはヒミコの側 近(『魏志倭人伝』のいう男弟)であったことから、女王国の支配者層で ある。そこで、アメノカヤマ一族は、「憂婆畏」すなわち「尾張」を名乗 り、定住先を「尾張国」とした。」 これでいくと、「尾張氏」は初めから「尾張」を名乗っていたことにな り、葛城の高尾張邑の語源も説明ができるが、別姓同族の説明ができなく なってしまう。 これらのことを総合して考えると、これまで「尾張氏」という単一氏族 で考えてきたが、実は、血縁で結ばれた氏族ではなく、「尾張氏」や「津 守氏」・「五百木氏」などといった、ホアカリを神祖とする複数の海人族 の氏族集団であったことになる。また、ここでいうホアカリも、神ホアカ リであったり、人間ミケヒコであったりするわけだ。 そして、「尾張氏」は「邪馬台国」時代より、「尾張」を名乗っていた ことになるわけだが、「尾張氏」が最終的に定住した先が、偶然、大和か らみて終わりと呼ばれていた地域であったことになる。 それは、完全な同音では無く、また大和側から見て蔑んだ呼称だったの かも知れないが、音韻が近かったことを利用した、一種の洒落ではなかっ たと思われる。 「尾張のやつらが、終わりの地へ逃げていった。」 とでも言って、笑いものにしたようなものと想像する。 その、「尾張氏」が尾張地方に定住してからは、単一氏族の「尾張氏」 なのだが、それ以前は、ホアカリ族とでもすべきだったのかも知れない。 ただ、これらことは、「尾張」の語源の由来を記述する、『熱田国風土 記逸文』ですら、明確な答えを用意できていないので、結論には到底到達 できないが、「尾張」の意味は、『憂婆畏』と言われた女王統治の仏教国 徒または支配者であった、という加治木氏の説は重要である。 また、その仏教は原始仏教であるとしたが、現代でいう仏教や、欽明天 皇の時代に、「百済」から伝わったと言われる、「蘇我氏」がもたらした 仏教とは異質なものであろう。 本来、「釈迦」が説いた仏教とは、人形(ひとかた)を崇高せず、仏閣 を必要としない、どちらかと言えば古神道に近いものであった。 そこには、神・仏の区別は無かったと思う。欽明天皇の時代に、今で言 う仏教が伝わり、美術・建築を伴って伝わったため、その対抗上、神道が 社を有するようになったのである。 従って、それ以前の古神道は自然との、原始仏教は自然摂理との共存で あり、説く者の有無こそあれ、平たく言えば同じなのである。 話が、横道にそれてしまったが、「尾張氏」は、尾張地方に定住したが、 いわゆるホアカリ族は、「尾張」から伊勢湾を渡り、伊勢地方にまで及ん でいる。 2.縄文人と「尾張氏」 実は海上交通を考えた場合、「尾張」よりも「伊勢」のほうがより便利 なのである。それは東国経営をも、もくろんだものであったことだろう。 現在の伊勢内宮には、宇治橋を渡り、御手洗場(みたらし)から参道に もどるすぐ右手に、石畳の上に「瀧祭神」という石神を祀っている。社殿 はなく、御垣と御門だけが存在している。延暦二十三年(804)の『皇 大神宮儀式帳』にも社殿がないと記載があることから、社殿など初めから なかったのであろう。鎌倉時代には、五十鈴川の対岸にあって、この神こ そアマテラスの前身とされていたらしい。 その「瀧祭神」であるが、現在でこそ別宮に準じた奉祭がされているが、 古代では、重要な祭りに先立って祀られる社であり、これこそ、伊勢神宮 が大和朝廷により奉際される以前の姿であろう。 ここに祀られていた神こそ、ホアカリであることは容易に想像がつく。 海人たちにとって、海は交通の難所などであるはずがなく、むしろ、大量 運搬を可能にする交通手段であった。 陸路を移動するよりも、何倍も早く大量に物資を運ぶことができる。ま た、尾張氏系ホアカリ族は、国力の充実を東国経営に求めたに違いない。 そのためには、濃尾平野に東国経営の軍事拠点を置くよりも、伊勢にお いたほうが、ずっと有利なのである。 例えば、伊勢から遠州灘に達するには、まず渥美半島に渡るために、約 10Kmほど伊勢湾を横断するだけでよく、その後は、海岸伝いの海路を 運航すればよいが、名古屋からは、50Km以上伊勢湾を縦断しなければ ならない。 後の大和朝廷が東国支配のために「伊勢」に目を付けたことも、当然な のである。後の時代の、強大な九鬼水軍もこの地方であった。 「尾張氏」が政庁を置いたのは、もちろん尾張地方であるが、『尾張名 所図絵』によれば、この土地が「愛智郡」(あいちごおり)と呼ばれてい たことがわかるる。また、この地方に伝わる文献や伝承には、「年魚市潟」 (あゆちがた)との記録もある。現在の愛知県の県名の由来のように思う が、愛を知るなんて、なんとも日本一ロマンチックな県だと思っていたら、 「尾張氏」を調べていくうちに、その語源はどうやら違っていることがわ かってきた。 大和朝廷の古代の関所に「三関」と呼ばれるものが『日本書紀』・『続 日本紀』に記されている。「壬申の乱」で天武天皇が「三関」を越え、東 国の救援を受けたことは有名だ。「三関」と呼ばれる理由は、三つの関所 であるからなだが、文献上のその位置は、岐阜県不破郡関町付近・福井県 敦賀市南部の旧愛発村付近・三重県鈴鹿市関町付近である。愛発の関と不 破の関は、発掘により確認されているが、一般的には、謀反人が東国へ逃 れるのを阻止するためであるとか、東国へ使者を送って東国の挙兵を未然 に防ぐためとか言われている。そして、1974年から始まった、不破の 関の発掘調査の結果、不破の関は畿内に向けて設置されたものであること が確認された。 簡単に述べると、関の東側は無障害なのに対して、西側は堅固な地形的 障害線であるのだ。換言すれば、西国からの侵入を阻止するために設置し たとも言える。 しかし、その設置年代は、はっきりしていない。 ここで問題にしたいのは、「愛発」という地名である。これは、“あち ら”と発音する。滋賀県に「愛知川」・「愛知郡」が存在し、こちらは、 “えち”と発音する。そもそも、「あいち」・「あち」・「えち」は、同 音韻であったと思われる。越の国も越前・越後と書けば、「えち」と発音 する。「えち」・「こし」と呼ばれていた地方に「越」の文字が当てられ たのだろうと思う。 そもそも、「越」とは、高句麗族が住み着いていた土地であったからこ そ、付いた地名であったのだが、この地方を「えち」と呼んだ民族が、後 に移住してきたと思われる。「越後」の一宮である「彌彦神社」に、主祭 神としてアメノカヤマが祀られており、しかも開拓者であるとの由来があ ことから、「越国」に移住してきたのは、「尾張氏」に間違いない。 「越」の文字を国語辞典で調べてもらいたい。それは、「渡り移る」と か「経過する」などと訳されているはずだ。これを「こし」と発音すれば 高句麗族が移り住んだ意味になろうし、「えち」と発音すれば「尾張氏」 が移り住んだ土地の意味になると思われる。いずれにしても、後世ではそ の語源が失われ、ともに「越」の文字が当てられたと考えている。 そして「尾張氏」が移動を始めた最初の土地が、「愛発」(あちら)で あり、移住先を「越」(えち)・「愛知」(あち)・「愛智」(あいち) と呼んだのである。もちろん。これらは本来、同音韻であったのであるが、 時間の経過とともに、訛ったものと推測する。 「尾張氏」は、各移住先で土着の豪族らと血縁関係を結びながら、後の 継体王朝の基礎を築いていったのであろう。さらに、濃尾平野から、海を 渡り「伊勢」に移り住み、先住の「磯部氏」と結びついた氏族が、「度会 氏」なのである。 1998年1月10日の新聞記事で、三重県安芸郡安濃町の大城(だい しろ)遺跡から、「奉」と読める刻み目のある、二世紀中頃の土器片が発 掘されている。ほど近い嬉野町片部遺跡からは四世紀代の「田」文字のあ る土器も発掘されている。 土器は、東海地方特有の山中式で、「邪馬台国」以前の二世紀に、漢字 を有する文化があったこと自体驚きだが、「秦」の「始皇帝」の時代(紀 元前219年)に、不老長寿霊薬を求め、東海の蓬莱山を目指してやって きたという「徐福」伝説と微妙に重なり、まことに興味深い。 この地方にも、「邪馬台国」と同じ頃か、それ以前からホアカリ族やス サノオ族による先進文明がもたらされていたのであろう。 尾張氏系ホアカリ族は、伊勢湾を渡った伊勢地方で、同族に巡り会うの である。 度会とは、「渡り来る」あるいは、「渡り相う」の当て字であると思わ れる。「渡会氏」と「磯部氏」の関係は、『続日本紀』によれば、元明天 皇の和銅四年(711)三月六日に 「伊勢国の人、磯部祖父・高志の二人に渡相神主の姓を賜った」 とあることで証明できる。 高志は「こし」であり、「えち」であるから、「伊勢」も尾張氏系「ホ アカリ族」の移住の地であったことは、疑いないと思われる。 ところで、この「尾張氏」の移住ルートは、神社伝承学によって解明し ている、タケミナカタの出雲から諏訪までの逃亡ルートに奇妙にだぶって いるのである。 最終的な移住先は、「諏訪」と「尾張」との違いこそあるが、全然関係 ないとは言い切れない何かがある気がしてならない。 神社伝承学で解明したタケミナカタの逃亡ルートは、「出雲」から能登 半島の入口、石川県羽咋市に隣接する志雄町付近に逃げ、さらに日本海を 北上し、「越後」から信濃川伝いに内陸に入り、長野−松本−塩尻を経て 「諏訪」まで落ち延びている。 ところが長野県上伊那郡辰野町にある、矢彦神社にもタケミナカタ伝承 が残っている。 この神社の伝承によれば、オオナムチがコトシロヌシ・タケミナカタを 従えて、この地のやってきたというものである。しかし、コトシロヌシが この地にやってきたとは、到底考えられず、『古事記』を題材にした創作 であると思われるのだが、タケミナカタについては見過ごせない伝承だ。 主祭神は、タケミナカタであるのだが、並んでアマノカグヤマが祀られ ている。しかも神社名が矢彦神社だ。「矢彦」は「彌彦」であろうから、 神社伝承学的に言えば、タケミナカタ=アメノカグヤマである。 タケミナカタとアメノカグヤマとの共通性は、これだけではない。タケ ミナカタの母親は、「越」の「沼河姫」である。アメノカグヤマの母親は、 アメノミチヒメであるが、ここでは「越」を重視したい。 また、長野県松本市の北に位置する安曇郡は、安曇族に由来する地名で あるが、南安曇郡穂高町にはある穂高神社には、 「『安曇族』は海神系の宗族として北九州に栄え、大陸とも交渉をもち 文化の高い氏族であり、四国・中国・近畿・中部に移動し信濃国を安住の 地と定め、安曇のを開拓、稲作文化を普及させた。」 との伝承がある。この神社の祭神は「穂高見命」であるが、穂高町は細 長い湖であったのを、タケミナカタが干拓し、水田にしたと伝えられてい るところから、「穂高見命」はタケミナカタの別名であろう。 アメノカグヤマもタケミナカタもそれぞれの地方の開拓者として祀られ ているのである。 「安曇族」の祖は「海神」であるというが、同じ祖を持つ氏族に「凡海 連」がいる。「凡海」とは「大海」(おおあま)であるが、『新撰姓氏録』 は、「凡海連」をホアカリの末裔としている。「安曇」族も「尾張氏」と 同族でありホアカリ族であるのだ。穂高神社の伝承は、まさに、ホアカリ 族の移動の歴史であると言えるのではないだろうか。 タケミナカタ=アメノカグヤマを結論づける、決定的な証拠は発見でき なかったが、「尾張氏」と「安曇族」が同祖であることは絶対間違いない。 このようにしてみると、中部・北陸は「尾張氏」とその関係氏族で占め られたことになり、「三関」をはさんで、東西二国の様相となっている。 ただ、この時代に、「三関」が成立していたかどうかは、定かではない が。 『尾張国熱田太神宮縁起』は、「尾張氏」が「尾張国」に定住したのは、 崇神天皇の時代で、「乎止与命」(おとよのみこと、以下オトヨ)が「尾 張国」の初代国造であるように、記しているが、国造制度はもっと後世に なってからで、この時代にはありえない。この場合は「一国王」であり、 『日本書紀』編纂時に崇神天皇時代から、中央集権国家が成立していたよ うに捏造されたものである。 そして、西国からの侵入を拒む形で設置されている、不破の関の構造か ら考えてみても、本来「三関」は、東国側が設置したものであり、東西が 統一された後、大和朝廷が管理するものとなったと考えるほうが無理がな く、「三関」の東側に位置する「尾張氏」が、大和朝廷に属していたとは とうてい思えないのである。 むしろ、「三関」を挟んで対峙していたのではないか、という推論に達 してしまう。つまり、「三関」は「尾張氏」らに設置されたものなのだと 思う。 この時代より以前の日本列島の人口分布は、西低東高であったことは、 よく知られているが、西から起こったの稲作文明の東進により、急速に平 均化している。この頃が、三世紀後半〜四世紀初頭と言われており、大和 に前方後円墳が出現するのと、ほぼ同時期である。稲作文明は、組織力を いっそう強固にし、開墾ための鉄器は武器へと変化していく。持てるもの と持てないものの貧富の格差を生じさせた時期であり、その頂点に位置し たのが、天皇家であったのだろう。 「尾張氏」の東国入りも、東国に稲作文化をもたらす結果となったので あるが、関東にまでに稲作文明がもたらされるには、さらに時代が必要で あった。稲作文明は中部・北陸まででいったん停滞しているのだ。 近畿地方に水田稲作農耕がもたらされたのは、弥生時代前期であり、弥 生時代前期後半から中期にかけて尾張地方に伝播したものの、関東地方に 稲作が伝わったのは、弥生時代後期であるとされている。 濃尾平野より東は落葉樹林帯であり、食料となりうる植物や昆虫、ある いは、それに群がる動物などが豊富であった。つまり、東国は狩猟採集民 族と言われる、縄文人の住み着く地域であったのだ。 狩猟採集民族というと、野蛮人であったように聞こえるが、縄文人が弥 生人と同等以上の文化圏を形成していたことは、今や定説となっている。 それどころか、縄文時代の遺跡である富山県の桜町遺跡から出てきた木 組みは、凹型・凸型の組み合わせにより、クギなしで組み合わせるように なっていたのである。これを「わたりあご」と言うが、この技術は、法隆 寺が歴史の上限であり、弥生時代の遺跡からは、未だ発見されていないの である。 弥生人と縄文人との差は、単に、その食料調達方法と大規模組織力によ るものにすぎない。それに、狩猟採集民族と言えども、定住して畑作に従 事していたことも判っている。 この頃の海岸線は、現代よりもずっと内陸よりであったことから、極地 の氷山が少なかった時代であろう。東国と言えども、現代よりもずっと温 暖であったのである。 「尾張氏」は、稲作技術を伝播しながら北陸から尾張地方にかけての開 拓者となっていったのである。特に濃尾平野は、水に恵まれた肥沃で広大 な平野である。稲作にはもってこいと言えるであろう。 すべてが平和にというわけではないだろうが、先住民族である縄文人と 尾張氏一族は、互いに融合していったのだろうと思われる。 海人族である「尾張氏」は稲作技術を携えていたとはいえ、航海漁撈民 族であり、狩猟採集民族である縄文人との結びつきは、容易であったと思 われる。特に、海人族の特権とも言える製塩技術は、歓迎されたことと推 測できる。 こうして、中部・北陸地方は急速に弥生化していったのであるが、尾張 地方よりさらに東国は、まだ縄文文化圏のままなのである。従って、東国 への稲作伝播は、文明の進行上からみて遅れたのではなく、弥生文化の進 入がなかったため、伝わらなかったというのが正解だと思う。 さて、濃尾平野に定住することになった「尾張氏」・オトヨは、おそら く、土着の縄文人の族長であろう「尾張大印岐」(『先代旧事本紀』尾張 氏の系図より、オワリオオイキ)の娘、「真敷刀俾」(マシキトベ)を妃 にしている。 マシキトベは、熱田神宮の境内摂社・「下知我麻神社」の祭神であるが、 古くから旅行安全の信仰があり、獲物を求め猟場へ旅する、狩猟採集民族 の姿が想像できよう。 そして、オトヨとマシキトベの二人から、『先代旧事本紀』で丹波国国 造とされる「建稲種命」(たけいなだねのみこと、以下、タケイナダネ) が生まれているのであるが、この人物も『古事記』で重要な位置に記述さ れながら、『日本書紀』には、全然、記されない謎の多い人物である。 「尾張氏」と縄文人の結びつきは、大和朝廷にとって大変な脅威であっ たに違いない。『日本書紀』が、「蝦夷」と記述するのは、まさに彼らの ことではないだろうか。 「尾張氏」とその関係氏族で占められた濃尾平野が、近畿の文化とは異 質であり、それこそ、対峙していたと思われる遺跡が発掘されている。 それは、岐阜県養老郡養老町で発掘調査された、象鼻山古墳一号墳であ る。 この地域は、合計62基もの古墳からなる一大古墳群であるが、その中 でも、象鼻山古墳一号墳は最大規模で、濃尾平野を一望できる最高所を選 地している。 詳しい調査報告は別頁に譲るが、出土した土器は甕型土器で東海独特の 形式だが、高坏は畿内系であるらしく。「尾張氏」が畿内からの移住者で あったことの傍証にもなろう。 (象鼻山古墳一号墳調査報告書) しかも、前方後方墳は東日本に多く、東海地方に特に多い。調査報告書 では、「狗奴国」を尾張地方に比定する考えを記しているが、当たらずと も間違ってはいないことは、「尾張氏」が、旧奴国王・ミケヒコの流れを 汲む一族であったことを証明している。 また、調査報告では、 「前方後方墳の出現契機は、日本列島中央部に広く存在しているが、そ れが成長して他地域に情報発信した地域は、東海地方であることは疑いな い。」 としている。 「尾張氏」が、東日本経営を視野に入れて尾張地方に定住したことは、 前方後方墳の地域分布から容易に想像でき、東国・縄文人の族長らと手を 結んで、勢力を増していったものと思われる。 そして、畿内勢力の進入を拒むための三関を設置し、関ヶ原以東に大和 朝廷に属さない、「尾張王朝」を形成していったのではないだろうか。 小椋一葉氏は、著書・『伝承が語るヤマトタケル』の中で、 「日本武尊の今度の遠征で最大の鍵を握っているのは、なんと言っても 尾張氏の動向であった。陸軍の方は、吉備武彦、大伴武日をはじめ多数の 雄将が出動しているので強力だったが、水軍の方は尾張氏と穂積氏に頼ら ざるをえない状態で、特に伊勢湾東部一円に、圧倒的な水軍を擁する尾張 氏が快く応じてくれるかどうかが、東征の正否を大きく左右することにな る。」 と記している。 「日本武尊」(やまとたけるのみこと、以下、ヤマトタケル)の実在性 に関しては問題があろうが、『崇神紀』の十七年秋七月一日に、 「船は天下の大切なものである。いまだ海辺の民は船がないので献上物 を運ぶのに苦しんでいる。それで国々に命じて船を造らせよ。」 という一文を記載しているが、大和朝廷にはそれ以前、船さえも無かっ たのだ。何ともお粗末な朝廷であったのだろう。 3.日本列島における勢力分布と朝鮮半島 ここで、日本列島の様子を簡単に整理してみたい。時代は、垂仁天皇の 活躍していたと思われる四世紀初頭である。 まず、原大和朝廷のある「新奴国」であるが、この当時には「出雲」や 「丹波・丹後・但馬」の三丹と「近江」を含めた地方、そして「吉備」も 「新奴国」の協力国であったはずなので、軍事・政治的には引っくるめて 一国と考えたい。 そして、「越・尾張・諏訪・伊勢」など「三関」以東の「ホアカリ族連 合国」があり、さらに東の、関東・東北・北海道などにも、それぞれの地 方に王国があったことは間違いない。 九州には、「旧奴国」が健在である。四国にも族長クラスの率いた王国 らしきものは、当然存在していたことだろう。 政治圏的には、九州、本州西日本、中部・北陸、関東以東と大きく四つ に分けても、差し支えないと思う。 朝鮮半島では、313年から翌年にかけて、中国(西晋)の出先機関で あった帯方群と楽浪郡が「高句麗」に滅ぼされてしまい、316年、中国 は五胡一六国の時代に入る。まもなく、「西晋」は滅びてしまうのである が、この中国の国力の低下をきっかけとして、朝鮮半島南部の「馬韓」・ 「辰韓」・「弁韓」は、それぞれ、「百済」・「新羅」・「伽耶」として 独立していく。「伽耶」は『日本書紀』で「任那」と記されている国のこ とである。 また、「六伽耶国」とも言われており、小国家連合体であったらしいが、 562年に「新羅」に吸収されてしまう。 「百済」は、「馬韓」の王権を「扶余」の亡命貴族が乗っ取って建国し た国であることは前に説明してあるが、実は、「高句麗」も「扶余族」に よる国家なのである。 余談ではあるが、第二部で、スサノオの出身地を「伽耶」であると説い たが、『日本書紀』編纂時に「伽耶」は存在しないので、スサノオが「新 羅」から来たとする『日本書紀』の記述も、こじつけではあるが、あなが ち間違いではないし、アメノヒボコについても、『日本書紀』は新羅王の 子としているが、スサノオの孫に当たるので、新羅王の子でも間違いない ことになる。 この時代までに、倭の地に存在していた氏族らを、以降に来訪した「渡 来者」と区別するために、あえて、「倭人」と呼ぶことにする。 ここでいう「倭人」とは、これより過去に朝鮮半島や南方海上の国など から来訪した氏族や、その氏族と融合した先住氏族、大昔からの土着の氏 族、縄文人など、この時代までに日本列島に住んでいたすべての者のこと である。 例えば「尾張氏」の祖は、南方系の氏族と北方スサノオ系氏族との結び つきによったものであり、明らかに「渡来者」なのだが、この時代に日本 列島に定住しているので「倭人」である。 このうち「伽耶」については、その諸国の全部ではないにしろ「百済」 「新羅」とは、毛色が違っていたようである。 例えば「百済」・「伽耶」の位置について、『後漢書』は次のように記 載している。 百済・「その北は楽浪と、南は倭に接し、辰韓は東にあり」 伽耶・「その南また倭と接す」 『三国志』でも同様に、 百済・「南は倭と接す」 伽耶・「倭と境を接す」 と記している。 『後漢書』・『三国志』に記された「百済」・「伽耶」は、それぞれ、 「馬韓」・「弁韓」であるのだが、これらの四つの証言からすると、中国 から「倭」と認識されている国が、後の「百済」・「新羅」・「伽耶」 に挟まれる形で存在していたということになる。 これこそ「任那」だったのではないだろうか。つまり、「伽耶」=「任 那」ではなくて、「任那」は「伽耶」として独立する際に、伽耶連邦に参 加した一小国であったのではないかと思う。 そして、その小国こそ、『日本書紀』に云う「任那日本府」だったのか もしれない。(後述するが、時代からみて考えにくい。) 4.創られた神功皇后 こうした、朝鮮半島の情勢をふまえた上で、『応神紀』を見てみたい。 景行・成務・仲哀の三天皇は、後述することにしたい。 応神天皇を語る場合、どうしても応神の母・神功皇后の実在性について ふれなければならない。 『日本書紀』では、神功を「邪馬台国」のヒミコに比定しようとしてい るのである。神功の三十九年・四十年・四十三年に『魏志倭人伝』の一文 を掲載しているのである。 「三十九年、この年太歳己未−魏志倭人伝によると、明帝の景初三年六 月に、倭の女王は大夫難斗米らを遣わして帯方郡に至 り、洛陽の天子に、 お目にかかりたいといって貢ぎをもってきた。大守のケ夏は役人をつき添 わせて洛陽に行かせた。」 「四十年−魏志にいう。正始元年、建中校慰梯携らを遣わせて詔書や印 綬をもたせ、倭国に行かせた。」 「四十三年−魏志にいう。正始四年、倭王はまた使者の大夫伊声者掖耶 ら、八人を遣わして献上品を届けた。」 「難升米」が、初めて「魏」の帯方郡に朝貢したのは、239年(景初 三年、私見では238年の景初二年とする)であるので、それが神功皇后 の三十九年であるとするならば、神功=ヒミコ説は、絶対に成り立たない。 なぜなら、ヒミコは遅くとも248年には亡くなっている。この年は、 神功の四十八年に相当するが、神功は六十九年に亡くなっていると『日本 書紀』が証言しているのである。 さらに神功の四十六年には、「百済」の「肖古王」が登場するが、「肖 古王」は、166年から213年までの、48年間が在位期間であると伝 えられており、神功の四十六年には、亡くなっているのである。 ましてや、この年代には「百済」は建国されていない。 では、この本当の年代はいつ頃かというと、実は、『日本書紀』にその ヒントが隠されている。 「五十二年秋九月十日、久氏らは千熊長彦に従ってやってきた。そして、 七枝刀一口、七子鏡一面、および種々の重宝を奉った。」 石上神宮に現存している「七枝刀」が、この時のものと言われているが、 その銘文を判読すると、だいたい次のようになるらしい。 「東晋の泰和四年(369年)四月十一日に、百済王とその太子が、倭 王のために鋳造して壬申の年に献上する。」 鋳造されたのが369年ならば、その次の壬申の年は372年に当たり、 『日本書紀』は七枝刀の年を252年としているので、実際とは120年 の隔たりがあることになる。 120年という数字は干支二運(干支一運は60年)であり、60年に 一度同じ干支が巡ってくるので、干支年は変わらない。 『日本書紀』では、120年くり上げることによって、ヒミコを神功に したてあげ、『魏志倭人伝』の記述と抵触しないように、捏造しているの である。 この神功が造作である証拠を、『日本書紀』は残している。 それは、前述した七枝刀は372年に献上されたものであったが、この 時の百済王が、「肖古王」であると『日本書紀』は記していることだ。 『三国史記』によれば、第五代「肖古王」も第十三代「近肖古王」も、 「肖古王」である。まぎらわしいので第十三代を「近肖古王」として区別 しているのであろうが、二人の「肖古王」は明らかに造作である。 「近肖古王」の在位が345〜375年であることから、『神功紀』は 「近肖古王」の時代に当たる。 ちなみに第六代と第十四代に「仇首王」が記されているが、同じように 第十四代を「近仇首王」と呼んでいる。 『神功紀』では「肖古王」の孫として「枕流王」を登場させているが、 彼は「近仇首王」の息子とされているので、ここでは第五代「肖古王」は 該当しないことになる。 仮に『日本書紀』の記述通り七枝刀が252年に献上されたものだとし よう。それにしてみても「肖古王」の時代ではありえない。この時の百済 王は「古爾王」である。 しかし、神功が架空であるからといって、『神功紀』に記述されている 朝鮮半島との外交関係の記述まで、否定してしまうことはどうかと思う。 神功に直接関わりのない外交記事まで捏造したのでは、『日本書紀』は 諸外国から歴史書として認められないばかりか、大和朝廷の信用も無いも のになってしまう。 従って外交関係の記述は、信用に値する記録とみて差し支えないと思わ れる。 さらに「新羅」侵攻に関してだけ言えば、けっしてでたらめではない。 以下は、『三国史記』に記された「倭」の「新羅」侵攻の記録と、その 時代の王の在位年代である。 倭の侵攻記録 三国史記の在位年 南解王11年* 西暦4〜24年 脱解王17年 西暦57〜80年 祇摩王10〜11年 西暦112〜134 年 奈解王13年 西暦196〜230 年 助賁王3〜4年 西暦230〜247 年 沾解王3年 西暦247〜261 年 儒礼王4・9・12年* 西暦284〜298 年 訖解王37年 西暦310〜356 年 奈勿王9・38年 西暦356〜402 年 (実聖元年 倭国に未斯欣を人質として差し出す) 実聖王4・6・14年 西暦402〜417 年 訥祇王2・15・24・28年 西暦417〜458 年 慈悲王2・6・19年 西暦458〜479 年 上記記録の*に関しては、より具体的な記述になっている。 「南解十一年、倭人が兵船百余艘を遣わし、海辺の民戸を掠む。六部の 勁兵を発して以てこれを禦ぐ。」 「儒礼十二年春、王、臣下に謂て曰く、倭人度々我が城邑を犯す。百姓 安居するを得ず。吾、百済と謀りて、一時に、海に浮かび、入りて其の国 を撃たんと欲す。舒弗邯弘権対えて曰く、吾人水戦に習ず。」 ただし、『三国史記』の在位年代も『日本書紀』と同じように、より昔 へと繰り上げようとしているので鵜呑みにはできないが、「新羅」の初代 王である「赫居世」(『三国史記』在位年、前57〜4年)の即位年を、 「邪馬台国」以降と考えているので、三世紀後半になると思う。 事実、『三国史・魏志東夷伝・韓の条』には、「邪馬台国」時代の「新 羅」について「辰韓」十二カ国を記すのみであり、「百済」も「馬韓」五 十四カ国の一国として記されているだけである。 年代繰り上げの証拠として、次の記録を掲載したい。またこの記録の原 典こそ、ヒミコをモデルに神功を生み出す原因になったと思われる。 「阿達羅二十年夏五月、倭の女王卑弥呼が使者を送って来訪させた」 『三国史記』による「阿達羅王」は第八代新羅王であり、在位年154〜 184年であるが、実際には四世紀中以降の人物であろう。 『三国史記』の記録で注目すべきは、 「実聖元年 倭国に未斯欣を人質として差し出す」 の部分である。これに呼応する記事が『神功紀』に見られるのである。 『神功紀』九年冬十月三日の条に 「新羅王の波沙寝錦(はさむきん)は、微叱己知珍干岐(みしこちとり かんき)を人質とし、金・銀・彩色・綾・羅・かとり絹を沢山船にのせて 軍船に従わせた。」 とある。 このあたりの年代は七枝刀の献上年からみても、とりわけ整合性がみら れ、「倭国」の「新羅」攻略は史実と思われる。 しかし、この「倭国」は当時の政権勢力、つまり原大和朝廷ではない。 応神を即位させた勢力であると思っている。 『神功紀』は、応神の出自に問題があったからこそ、捏造せざるをえな かったものだと思う。なぜなら応神天皇を即位させた勢力とは「尾張」の 勢力だったからである。 5.応神天皇の謎 応神の出生秘話は、『日本書紀』の『神功紀』、『古事記』の『仲哀記』 に記されている。 『記紀』によれば、応神の父は仲哀天皇であり、母は神功である。神功 に神懸かり、新羅を討てという神のお告げを信じられなかった仲哀は、熊 襲を討ったものの敗れて死んでしまった。 神功は、お告げ通り「新羅」に出兵し勝利するのだが、この戦争の時、 既に臨月であり、腰に石を巻いて約二ヶ月出産日を延ばしたという。 そして、神功は自ら斧鉞(おのまさかり)を手にして、戦場に赴き最前 線で戦闘に参加した。いわゆる三韓征伐であるが、実際に討ったのは「新 羅」だけであり、「百済」・「高麗(高句麗)」は、自ら降伏してきたの である。 これだけでも、神話としか言いようがないのであるが、さらに、『応神 紀』には、割り注として気になる一説を紹介している。 「上古の人は、弓の鞆のことを、『ほむた』といった。ある説によると、 天皇がはじめ皇太子となられたとき、越国においでになり、敦賀の笥飯大 神(けひのおおかみ)にお参りになった。そのとき大神と太子と名を入れ 替えられた。それで大神を名づけて去来紗別神(いざさわけのかみ)とい い、太子を誉田別尊(ほむたわけのみこと)と名づけたという。それだと 大神のもとの名を誉田別神、太子のもとの名を去来紗別尊ということにな る。けれどもそういった記録はなくつまびらかでない。」 この記述を信じれば、応神の元の名は「去来紗別尊」ということになる のだが、なぜ名を入れ替えなければなかったのだろうか。 このあたりに応神の出生の秘密があるような気がしてならない。 現在の気比神宮(けひじんぐう)は、福井県敦賀市曙町にあって、「伊 奢紗別命」(いざさわけのみこと)を主祭神としているのだが、その摂社 に角鹿神社(つぬがじんじゃ)がある。 角鹿神社の祭神はツヌガアラシトであり、この地を「敦賀」と呼ぶよう になったのは、ツヌガアラシトの「ツヌガ」に由来しているらしい。 ところが、地名に名を残すほどの人物にも関わらず、気比神宮の主祭神 が「伊奢紗別命」では、どうにも納得がいかない。 本来、気比神宮の主祭神はツヌガアラシトであり、例えば『日本書紀』 成立事情から、摂社格に落とされたのではないだろうか。つまり、祭神の 入れ替えがあったのではないか。 祭神の入れ替え・すり替えの件は、信じにくいかも知れないが、現代で も有名な例がある。 東京都千代田区神田・湯島台にある神田神社では、昭和59年5月14 日午後7時から、将門公をあらためて主祭神として迎えるための、遷座祭 が執行されたのである。 この時の事情を『毎日新聞』朝刊・東京版は次のように記していた。 「明治7年、明治天皇の同神社参拝のとき、明治政府は『将門公は朝廷 に抵抗した』として格の低い末社に降ろし、代わりに少名彦命を迎えた。」 神田神社といえば、神田明神である「平将門」を祀っているものと、誰 しも思っていたにもかかわらず、密かに祭神が入れ替えられていたのであ る。 このような事実は、神社を調べればいくらでも存在し、気比神宮にして も例外ではないと思われる。 ツヌガアラシトと言えば、アメノヒボコと同一人物であるらしいことは、 既に証明済みである。しかも、アメノヒボコ=ホアカリ=神武天皇だ。 『日本書紀』の記述に従えば、応神と名前を交換した者は、アメノヒボ コであったことになるのだが、時代的に見てもあり得ない。 しかし、アメノヒボコ系の人物と何らかの関係があったのではないか、 という推論はかまわないであろう。 この件に関して『日本書紀』は、これ以上のことを語っていない。とこ ろが『古事記』は、さらに興味深い記述をしている。 『古事記』には、「品陀和氣命」(『日本書紀』では「誉田別尊」)が、 「品陀眞若王」(ほむだまわかおう)の三人の娘を娶ったと記している。 その三人の娘とは、「高木之入日賣命」・「中日賣命」・「弟日賣命」で ある。(順に、たかぎのいりひめ・なかひめ・おとひめです。) さらに割り注が挿入されており、 「この女王等の父、品陀眞若王は、五百木之入日子命、尾張連の祖、建 伊那陀宿禰の女、志理都紀斗賣を娶して生まれる子なり。」 とある。 「五百木」姓が「尾張氏」と同族であることは、既に述べてきているの だが、ホムダマワカ王がイホキイリヒコの子であり、ホムダマワカ王の娘 が応神の皇后になったということは、この時代が婿取り婚であることを考 えれば、応神はホムダマワカ王の養子になった言い換えることができる。 ホムダマワカ王は、この系譜から尾張族であることは疑いない。という ことは、応神も尾張族に吸収されたことになろうか。 崇神朝が「物部氏」系の王朝であったのに対して、応神朝は「尾張氏」 系の王朝であったという推論が成り立たないだろうか。 『古事記』の証言が真実ならば、応神は王朝の交代により天皇に成り得 た人物であろう。 ところが、応神が王朝の交代により即位できた天皇であったとしても、 『日本書紀』が応神の出自を神話にしてしまった謎は解けない。 この謎を解明するためには、もう一度『垂仁紀』まで遡って考えなけれ ばならないのだが、そこには意外な事実が隠されている。 6.「誉津別命」 『垂仁紀』では、垂仁の第一皇子として「誉津別命」(ほむつわけのみ こと)が登場しているが、「誉津別命」は第一皇子にもかかわらず、次期 皇位に着くことができなかったばかりか、非常に不当な扱いを受けている。 時期天皇の景行は、垂仁の第三子で、しかも、後妻である「日葉酢媛命」 の子である。 なぜ初めの皇后であった「狭穂姫」の第一皇子である「誉津別命」が皇 位を嗣ぐことができなかったのか。 正当な皇位継承権を有する者は、第一皇子である「誉津別命」であるこ とは誰の目にも明白であろう。 それは、「誉津別命」の母方の「狭穂姫」が崇神朝以前の王朝、すなわ ち葛城王朝の出身であるからとも、兄「狭穂彦王」が謀反をはたらいたか らとも考えられるが、どうやらそれだけではなさそうだ。 「誉津別命」の原像は、『記紀』によりある程度の異同があるが、『古 事記』の記述が詳しいので、抜粋させてもらうと、 「反乱軍の将・『狭穂彦王』の燃える稲城のなかで誕生する。」 「八拳髭が胸の先に至るほどの大人になっても、物を言わぬ唖(おし) であった。」 「白鳥の泣き声に反応し、はじめて口を動かして声をだすものの、まだ 物は言えない。」 「唖の原因は、出雲大神の祟りであった。出雲詣でを決行し、道中、皇 子の名を残すために誉津部を定め、出雲大神を礼拝した後、突然物を言う ようになった。」 「肥長比売」と一晩すごすが、彼女の正体が蛇であることを知り逃げ帰 る。」 このように神秘的色彩の強い人物であるのだが、このあとは『記紀』と もに、まったく記されていない。『日本書紀』によれば、この時30歳で あるという。 垂仁の第一皇子・「誉津別命」は、その消息すらわからなくなってしま うのである。 出雲詣での道中には、「誉津別命」の名を残そうと誉津部を定めている ほどの人物であるのだが、何か秘密があるとしか思えない。 ところが、この謎は上古代において既に解明されているようであり、そ のことを伝える文献が『釈日本紀』であるらしい。 1994年4月号の『歴史読本』に掲載、篠原幸久氏の『古代英雄の神 話的性格』という小論文において、「誉津別命」について次のように記し ている。 「ホムツワケ物語は、原初この人物が“大嘗祭神話”の主人公である、 王権を担う偉大な聖者として現れる過程が語られていた形跡を感じさせる。 彼に関して注目すべきは、推古朝遺文とされる『上宮記』逸文(『釈日本 紀』所引)にあって、応神天皇の名に『凡牟都和希』(ホムツワケ)がみ えることである。これは最終的に記紀に結実する七世紀以降の王権の統一 的修史事業(王権史の固定化)が完成に近づく以前には、応神の名として 各々ホムタワケ・ホムツワケを主張する伝承、伝承者が並存していた段階 があったことを示す。このホムツワケはホムタワケと基本的属性において は同様に結像されながらも、伝承加担氏族の政権内における位置・利害関 係にもとづき、ある程度ホムタワケとの間に乖離が進行していた可能性が あろう。・・・・《中略》・・・・彼は天皇であることを否定され、その 後半生が描かれず後裔ももたない存在として、垂仁の皇子に据えられた。 同時に彼は年を重ねても幼児のごとくであり、唖であるとされるように、 天皇の資質を欠くべき存在にも化さねばならなかった。応神に残る英雄の “王者登場”を語る神話は、その影を引きずりながらも王者になれなかっ た人物の物語に転じていった。」 『釈日本紀』の主張する「誉津別命」=「誉田別尊」が真実ならば、葛 城王朝の後裔である「狭穂姫」の子「誉津別命」は、応神と同一人物にな り、応神の出生が神話的であることも、「誉津別命」の後半生が描かれて いないことも、一気に説明がついてしまう。 正当な皇位の継承者であった「誉津別命」は、その血統のまずさから皇 室を追われた形に陥ったのだろう。 気比の大神と名前を交換したという『日本書紀』の証言は、「誉津別命」 =「誉田別尊」であることを隠すための記述ではないかと疑ってしまう。 事実は、尾張族のホムダマワカ王と結びつき、政権交代の機会をねらっ ていたのではないだろうか。 応神の時代に「葛城氏」が活躍することも、これなら納得がいくのだが。 7.「武内宿禰」 さらに、『日本書紀』は垂仁朝の最後を克明に記述している。 『神功紀』には、山城国に攻め入ろうとする神功と「武内宿禰」に対し て、仲哀の皇子・「かご坂王」と「忍熊王」(おしくまおう)が相対する 場面が見られる。結局「かご坂王」は赤い猪に喰い殺されてしまい、「忍 熊王」ただ一人が軍を率いて宇治に陣取るのだが、「忍熊王」は、「武内 宿禰」の策謀により琵琶湖で亡くなってしまう。 仲哀の実在性は、検討しなければならないものの、この二人の皇子が、 正当なる皇位の継承者であろうことは想像できよう。 しかも、応神を率いた「武内宿禰」の軍隊は、畿内を攻めているのだか ら、畿内を制するものが実権を握ることができたのだろう。 さて、この場面には何の前触れもなく、ある一人の人物が二人の皇子の 後見人のように記述されている。 「五十狭茅宿禰」(いさちのすくね)である。しかも「忍熊王」は死を 確信したとき、「五十狭茅宿禰」を呼んで歌を詠んでいる。 「率吾君五十狭茅宿禰・・・《後略》」 読み下せば、 「さあ我が君、五十狭茅宿禰・・・《後略》」 となるのだが、一見すると何でもないようなこの歌の中に、重要な意味 が込められていると思う。 この時代の氏姓は「臣」・「君」・「連」・「宿禰」などがあるが、こ のうち「君」は、渡来人によくみられる姓である。しかし、「我が君」と 称する場合は天皇家に限られてくるのではないだろうか。 「忍熊王」が君と呼びかける「五十狭茅宿禰」は、「忍熊王」以上の皇 族となる。 「五十狭茅宿禰」は、これ以外の場面では全く登場しておらず、謎の人 物と言えるであろう。 ところが、垂仁の和風名が、「活目入彦五十狭茅天皇」なのである。 これを分解すれば「活目入彦」・「五十狭茅」・「天皇」であり、「五 十狭茅宿禰」とは垂仁その人ではないかと思われるのだ。 ただし、この時は四世紀半ばであり、垂仁が生存しているはずがない。 従ってこの記述は、「忍熊王」が垂仁直系の皇子であることを、 強調しているのではないかと疑ってしまう。 「誉田別命」=「誉津別命」が垂仁の実子であり、「忍熊王」が垂仁の 直系であるならば、「誉津別命」は垂仁が、かなりの老齢になってからの 子で、「武内宿禰」に引率されて畿内に侵攻してきた応神もまた、この時 既に老齢であったことになる。もっとも『日本書紀』のどこをみても、そ んな記述はいっさいないのであるが。 ただ「五十狭茅宿禰」の素性は、判らないこともない。「忍熊王」につ いた者は、「五十狭茅宿禰」の他にもう一人いる。「倉見別」(くらみわ け)である。 この名にある「別」を持つ者は、「大足彦忍代別天皇」(おおたらしひ こおしろわけのすめらみこと)すなわち景行の皇子であると、ちゃんと、 『景行紀』に記されている。もちろん、景行の皇子の中には「倉見別」は 記されていないが、『景行紀』がそう語っているのである。我が君と称さ れる「五十狭茅宿禰」もまた、景行に血縁的に近い関係と考えられよう。 『古事記』によれば、「かご坂王」・「忍熊王」は景行の娘・「大中比 賣命」(おおなかつひめみこと)が母であると記している。 「誉田別命」=「誉津別命」にしても、『垂仁紀』として記述されてい るものの、その実、景行の子であるかもしれない。そうであれば、年代的 なつじつまが合ってくる。 応神の出自を曖昧にするために、『日本書紀』編纂者等が、意図的に、 『垂仁紀』として記述した可能性は十分にあると思うが、垂仁の実子であ るものとする。 従って、応神は「忍熊王」の弟などでは断じてない。叔父・甥の関係と なろう。 もっとも、景行の和風名である「大足彦忍代別天皇」の「忍代別」は、 名前らしきものを感じさせるが、仲哀・成務天皇に至っては、それぞれ、 「稚足彦」(わかたらしひこ)・「足仲彦」(たらしなかつひこ)であり、 美辞名だけで構成されている。これでは架空の天皇としか言いようがない。 景行にしても、『日本書紀』は熊襲を平定したように記しているが、記 述に従えば仲哀は熊襲に討たれており、とても平定したとは思えない。 崇神が扶余族の力を借りて、一旦は連邦国家的な統一が見られたと思う 西日本であったが、垂仁の死後、そのまとまりは崩壊しつつあったのでは ないだろうか。 垂仁の死後、景行がなんとか大王として立ったものの、邪馬台国時代か らの官であった崇神・垂仁と違い、大王としての資質が乏しかったのかも しれない。 さて、この項も終章にさしかかってきたが、応神朝以降しばらくの間、 王朝は大和を離れ河内に基礎を築いていく。俗に言われる河内王朝である のだが、大和の残存勢力を嫌ったためとみることもできる。 その河内の大王がパートナーに選んだ豪族こそ「葛城氏」である。これ などは、応神の出自の謎を考えた場合、むしろ当然であろう。 応神については、次章のテーマでもある「倭の五王」の項で言及してい くつもりなので、ここではこのあたりで終わりにしようと思うが、応神朝 に至って、「物部氏」が政界より追放されていく様子を、示唆していると 思われる記述が『日本書紀』にみられる。 『崇神紀』・『垂仁紀』では、アマテラスを宮廷外に出し笠縫邑に祀っ た後、諸国を回され伊勢地方に落ち着いたという記述こそ、「尾張氏」没 落を匂わしてあったのだが、『応神紀』では「武内宿禰」の弟・「甘美内 宿禰」(うましうちのすくね)が、「武内宿禰」は天下をねらう野心があ ると天皇に讒言してからの一連の行動が、それではないかと思われるので ある。 この結末は、罪なきことを弁明する「武内宿禰」が、「甘美内宿禰」と 探湯(くがたち)をして勝利するのであるが、「甘美内宿禰」が「物部氏」 の祖・ウマシマジと発音がそっくりなので、「甘美内宿禰」=「物部氏」 であることは容易に想像がつくが、「武内宿禰」はと言うと、これが何と タカクラジの言い換えであり、タカクラジ=アメノカヤマを祖とする「尾 張氏」の例えであると考えている。 もっとも「武内宿禰」は、「葛城氏」の祖であると『日本書紀』が証言 しており、「葛城氏」は単一氏族ではなく、かつての葛城王朝を構成して いた複数氏族の総称であろうことから、「尾張氏」を含んだ旧葛城王朝系 豪族の復活であると言って良い。 「武内宿禰」は、孝元天皇の孫として生まれながら、活躍次期は六代後 の仲哀天皇からなので、年代的にみてもまるで当てにならないし、実在性 も疑わしい。 『記紀』には記述されていないが、「武内宿禰」の母親が実は「尾張連」 の娘であったという説もあるらしく、「武内宿禰」という人物は架空であ ろうが、その事績は応神天皇の義父・ホムダマワカ王のものであった可能 性は充分あると思われる。 応神がホムダマワカ王の入り婿となることにより、尾張以西の日本列島 は政治的に統一されたことになる。 それは、かつての「旧奴国」勢力によって達成されたものなのであるか ら、まさにスサノオの「統一奴国」の復活である。 8.歴史年表 253年頃 磯城地方を大和(首都)と定め、「奈良」(新奴国)の自治 権を行使した崇神朝ではあったが、先住民から反乱・反逆に 遭い政治活動は困難を窮めた。 254年頃 「物部氏」の政策により、宮廷内に祀られていたニギハヤヒ を、先住民らの崇める神・オオモノヌシとして三輪山に祀り、 さらには、「日本大国魂神」と名を変えてまで祀る念の入れ ようであった。これらは、神威により奈良を納めようとした ものであったが、同時に宮廷内のアマテラスは、笠縫邑の小 さな祠に移された。 255年〜 「物部氏」との政治抗争に敗れた「尾張氏」は、アマテラス とともに大和を離れ「丹波国」に逃走する。土着の豪族らと 連合し「ホアカリ系連合国家」(丹波・但馬・丹後の三丹連 合国家)を成立させる。 259年〜 崇神天皇の「奈良」は、朝鮮半島西北部の遼東郡の覇権争い に疲れていた扶余の貴族らの亡命を約束、軍事応援を取り付 ける。 扶余の亡命貴族の軍事応援により畿内はまり、「奈良」は日 本列島最大規模の軍事国家となっていく。葛城族の孤立。 四世紀初頭 「吉備国」・「三丹連合」と連合を結んだ「奈良」は、さら に勢力の拡大を図り、「出雲国」の内戦に関与していく。 「奈良」は西出雲勢力に加担し、東出雲を制圧する。この結 果、「出雲国」も連合に参加することになり、九州・四国・ 東日本を除く西日本連合国(大和朝廷)を成立させていく。 「尾張氏」らホアカリ系氏族は、「近江」・「越」・「諏訪」 「伊勢」・「尾張」地方などに分散定住し、それぞれ国を形 成していく。 崇神天皇死す。旧邪馬台国の官・「伊支馬」立つ。(垂仁天 皇) 四世紀前期 葛城王朝最後の王・「狭穂彦王」が、大和朝廷転覆を謀るが 後半 失敗、「狭穂彦王」の妹で垂仁天皇の后である「狭穂姫」と ともに自殺。皇子・「誉津別命」のみ生還するが皇位継承権 の剥奪と追放に遭う。 垂仁天皇死す。景行天皇立つものの国力は著しく低下する。 362年 景行天皇、九州遠征を決行。熊襲(旧奴国)征伐を企てるが 返り討ちに遭い戦死。 四世紀後期 西日本連合国の完全崩壊。 中頃 密かに「誉津別命」を傘下に加えた旧奴国勢力は、一挙に東 征し「奈良」の王・「忍熊王」を討ち、河内に新王朝を形成 する。 東征した「旧奴国」勢力は「誉津別命」を大王とし、東国の 代表・ホムダマワカ王と同盟することにより、尾張以西の日 本列島はほぼ統一されることになる。 2000年1月 第5部 了 |