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ナガオカ大好き!

岡市は新潟県のほぼ中央部にある、人口28万、新潟県第2の都市です。 上越新幹線で東京から約1時間半、関越自動車道で練馬から約3時間で到着します。 越後平野に広がる街の中央部を南北に大河・信濃川が流れ、その東西に与謝野晶子が「長岡の東山をば忘れめや雪の積むとも世は変わるとも」と詠った東山、そして西山と呼ばれる丘陵地がひかえています。また、豪雪地長岡は冬には多くの雪が降り、 積雪は1メートルをこえます。しかし長岡の街はたとえ雪が一晩で1メートル積もろうとも 動いています。オフィスや学校も平常どおりですし、電車もバスもしっかり運行されます。 長岡では「大雪で・・・」は遅刻の言い訳にはなりません。しかし雪の積もった夕刻の市街地は、 長岡の控えめな夜景がふんわり積もった白いぼたん雪をほんのりと照らし出してとても幻想的です。

長岡の歴史−もうひとつの日本近代史−

戊辰の悲劇

岡は日本史の裏側でいつも重要な役割を演じつづけてきた。しかし裏側であるからこそ、それはしばしば悲劇の歴史でもあった。

江戸時代、長岡藩は石高七万四千石の城下町であった。藩主牧野家は譜代大名として徳川家に仕え、特に幕府が危急存亡の危機に向かった幕末には、将軍からその能力を高くかわれて老中など要職を任されている。 1868年、薩長はついに倒幕の旗印を掲げて蜂起し、戊辰戦争が勃発。時局がどうあれ、薩長軍の行為は幕府側から(あるいは国際社会から)見れば、合法的に存続している現行政府の転覆を狙うクーデターであった。とはいえ時の勢いは薩長。幕府軍は瞬く間に守勢に転じた。

このとき、長岡藩家老・河井継之助は薩長にくみすることを潔しとせず、長岡藩を中立藩とする構想を描いた。藩の財政建て直しに成功していた継之助はプロシアの商人スネルから当時世界に数門しかなかった最新兵器・ガトリング砲を2門購入し、洋式軍備を整え、武装中立藩としての準備を進めた。もちろん、西軍と実際に交戦状態に入る事は避けたいというのが実際のところであったろう。「何が正しいのか?」「自分は何をすべきなのか?」混乱を極める時勢の中で、継之助が考えたのはまず長岡藩の武士として藩を維持し、護ることであったのかもしれない。継之助は頭の中で、ちょうどスネルの故郷である中欧にあるような独立国・「長岡公国」の実現を思い描いていたのであろうか?ちなみに、当時長岡藩では攘夷思想はほとんど育たず、むしろ西洋科学や外国事情などには強い関心を抱いていたようである。

継之助は侵攻してきた西軍との和平を模索するため、長岡の南、小千谷で西軍高官との会見を願い出た。継之助の名はすでに西軍にも知られており、越後方面西軍の指揮をとっていた黒田清隆山県有朋との会談が行われるはずであった。しかし実際に継之助と会見したのは岩村精一郎という若い士官で、血気盛んな岩村は継之助のことばをはじめから受け入れようとすらしなかったのである。この小千谷会談決裂は後に、近代日本史の痛恨の極みと評されることになる。継之助と会見できなかったことについては山県らも後年、忸怩たる思いを抱きつづけたらしい。ともあれ、こうしてついに長岡は戦場となる。この戦いで、長岡城は二度落城、城下は壊滅的打撃をこうむった。継之助もまた銃弾に倒れた。会津方面へと敗走する中、草深い国境の八十里越峠で「八十里こしぬけ武士の越す峠」と、銃創の激痛をこらえながら自嘲したという。八月十六日、死去。42歳であった。

歴史に「もし」は禁物だが、「もし」継之助による和平交渉がうまく進んだとしたら−そしてそれはありえないことではなかったかもしれない−長岡は維新の歴史の中で独自の道を歩み、今ごろは本当にヨーロッパにある公国のような独立都市国家として存在していたかもしれない、というのは空想が過ぎるであろうか。

なお、この河井継之助の半生を、司馬遼太郎は小説「」にまとめている。一読されたい。

廃墟からの理想

に敗れ荒廃した城下で、藩士たちをはじめ、長岡の人々は食べ物にも事欠くほど困窮していた。 そんなおり、長岡藩の支藩・三根山藩から救援のため百俵の米が届いた。早速分配しようとする藩士たちを、長岡藩大参事・小林虎三郎は制止した。 「この米を分けても一人ぶんはわずかにしかならない。私はこの米を売り、学校を作ろうと思う」 小林の突然の提案に対し、このひもじい時に何を、と反対する藩士たち。しかし小林は、このような時だからこそ、いくさが起こらぬよう、優れた人物を育てなければならない、と説いた。

この小林虎三郎、かつては佐久間象山のもとに学び、師・象山をして「我が門下に二虎あり」と言わしめた俊英であった。二虎のうちのもう一人は吉田寅次郎(松陰)である。小林は、世界をある意味で俯瞰的に見る政治思想家として活躍した吉田松陰とは対照的に、世のあり方を「人間」という視点から、つまり一番の基本から考えようとしたといえるかもしれない。「つくづく人だ。人物だ。国が興るのも、まちが栄えるのも、ことごとく人にある・・・。

こうして、長岡に国漢学校が設立された。その教育システムは日本で初めての公共教育学校といってもよいものであったようである。ちなみにこの経緯は、山本有三によって戯曲「米百俵」として発表され、近年ドナルド・キーンの手になる英訳も出版されている。ともあれ、以来長岡の人材教育重視の伝統は営々と受け継がれ、日本を支えた数多くの人物を輩出してきたのである。

悲劇再び。そして焼けあとから立ち上がる人々

1941年、日本はハワイ・真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争に突入した。 この作戦を指揮したのが、帝国海軍連合艦隊総司令官・山本五十六である。山本もまた、心ならずも日本の悲劇を一身に背負った長岡人であった。山本家は戊辰戦争で河井と共に戦った山本帯刀の名を継ぐ名門である。長岡に生まれ育ち、後に海軍でその頭角をあらわした山本は、軍ではきってのリベラル派として知られていた。対米開戦についても、彼我の国力差を冷静に分析し(実は彼には駐米武官としてアメリカで生活した経験もあった)、「アメリカと戦争を始めたら、東京などは3度くらい丸焼けにされてしまう」と、一貫して非戦の立場をとっていたといわれる。その山本は、日増しに高まる開戦論の声の中、次のように述べたという。 「戦えというならば、1年2年は存分にあばれてごらんに入れましょう。しかしその後は、まったく保証をいたしかねる。」 山本のこのことばは、帝国海軍を任された軍人として、どのように行動するべきかを懸命に熟慮した結果だったのではないだろうか。そしてこの一言を、当時の政府首脳部は一体どの程度重大に受け止めたのであろうか。山本の和平への必死の努力もむなしく、結局日本は対米戦争の泥沼に入り込んでゆくことになる。山本は自らの「予言」が悲惨な成就を遂げるのを見ることなく、南方戦線に散った。

1945(昭和20)年8月1日。長岡市民にとっては忘れられない日である。この日夜、長岡市はアメリカ軍B29爆撃機編隊による集中的な焼夷弾空襲を受けた。長岡市は当時まだ人口約8万の小都市であった。にもかかわらず、人口比の使用弾薬量が世界史上最悪とも言われるこの爆撃(投下焼夷弾量約925トン。ちなみに人口500万人の東京大空襲で使用された焼夷弾量は1800トン前後といわれる)で全市街の80パーセントが壊滅、約1500名の市民が犠牲になった。 長岡は、またも瓦礫と失意の中から立ち上がらねばならなかった。 しかしその後、長岡は市民の血のにじむような努力によってふたたび復興を遂げたのである。現在の長岡市の市章には、不撓不屈の精神を象徴する不死鳥、フェニックスの姿がデザインされている。

震災の悪夢。傷つく街と大地から不死鳥はもういちどはばたく

潟県中越地震(新潟県中越大震災)。2004年10月23日午後5時56分、マグニチュード(M)6.7、最大震度7という巨大直下型地震が中越地方を襲った。死者49人、5000人近い負傷者を出したこの地震で、中越地方の中心都市・長岡でも震度6弱を観測、市東部の郊外を中心に多数の死傷者が出たほか、市内を走行中の新幹線が地震動の衝撃による脱線という未曾有の事故を起こした。さらに本震後も、数日以上にわたり震度5弱以上の地震が約20回発生、避難中の市民と各方面の復旧作業を直撃した。1995年に発生した阪神淡路大震災でも震度4をこえる余震は1度もなかったこと、地震速度は阪神の134.6cm/sを大きく上回る154cm/sであったこと、地震加速度も約2.5Gという観測史上最大値であったことを考えても、この地震がいかに世界的地質学上もまれに見る激しいものであったかがわかる。避難者は長岡市を中心に一時10万人を超えた。ただ、秋の夕刻であったものの火災の発生件数は9件と少なかった。揺れの中、多くの人が比較的冷静に行動したものと考えられる。

とはいえ、2005年長岡市に編入された山古志地区など郊外の中山間地域の被害が特に甚大であった。山古志では「日本のふるさとの原風景」といわれた棚田や養鯉池、山林が一瞬にして壊滅、約2200人の全村民が自衛隊ヘリなどで長岡市街に長期にわたる避難生活を余儀なくされる。家々は潰れ、がけ崩れの土砂にせき止められあふれた川の水と相次ぐ余震、さらに19年ぶりとなったその冬の豪雪が追いうちをかけた。

しかしそのような被害の中で、長岡は今度もまた、少しずつたちあがってゆく。東京都内で行われた被災者支援への感謝イベントでは、「震度7 余震840回あまり それでも我が大地を愛す」という横断幕が高々と掲げられたという。2005年の長岡大花火大会では震災復興花火「フェニックス」が夜空を染め、市民に大きな感動と勇気を与えた。

長岡大花火大会

長岡花火を見にゆこう! 三尺玉花火

岡の夏の風物詩は何といっても長岡市民のアイデンティティの源泉・長岡まつり・大花火大会。毎年8月2、3日の両日、市街地に近い信濃川河畔で約2時間半にわたって大花火の競演が繰り広げられる。そのスケールは日本一の名に決して恥じない。そのクオリティは世界的にも高く評価され、ロサンゼルスオリンピック閉会式などでも打ち上げられたことは有名である。そんな長岡花火の内容を少しだけ紹介しておこう。長岡花火を見ずして花火を語ることなかれ!

正三尺玉
30号とも呼ばれる。玉の重さ約300kg、直径3尺(約1メートル)の超大玉花火。特大の打ち上げ筒にクレーンを使用して搬入される。約600メートルの高さで直径約600メートルに開く。1日2発ずつ、計4発が打ちあがる。危険防止のため長生橋上流の「善喜島」と呼ばれる中洲から打ち上げられ、打ち上げ前にはサイレンがならされる。特に長生橋ナイアガラとの同時打ち上げは圧巻。「日本一!」の掛け声を忘れないこと(?)。
ナイアガラ
全長1キロメートル近い長生橋・大手大橋にかかる。両日各橋1回ずつ、計4回。特に長岡のシンボル・長生橋のナイアガラは三尺玉と同時打ち上げとなり、「日本花火の誉れをかけた」This is 長岡花火というにふさわしい(笑、でもマジ)。
スターマイン
長岡花火は基本的にスターマイン中心のプログラム構成なのだが(単発花火はインターミッションとして打ち上げる)、このスターマインは
  • スターマイン
  • 大スターマイン
  • ベスビアス大スターマイン
  • ベスビアス超大型スターマイン
の4種にランク分けされる。長岡花火スターマイン最大の特徴は10号(尺玉)など大型玉を多用するところにある。ベスビアス超大型スターマインになると4号、5号、7号などが次々と打ちあがるその上で、さらに大きな10号玉がこれまた次々に開いてゆく。花火のディスプレイがぐんぐん高まってゆく、この高度感、スケール感が長岡花火スターマインの本領である。これでもか、これでもかといわんばかりに息もつかせず打ちあがる、大迫力の美しい「演技」のスターマインには惜しみなく拍手を送りたい。ちなみに、「ベスビアス」とはイタリアの大火山ベスビオ山からとった名称。
ワイドスターマイン
近年新作として、花火にうるさい長岡っ子を久しぶりにうならせた、コンピュータ制御でパノラマ状態に打ちあがる超大型スターマイン。おすすめ花火のひとつ。何がどうパノラマ状態で「ワイド」なのかは見てからのお楽しみ。両日1回ずつ打ちあがる。
10号100連発(2日)/超大型ウルトラスターマイン(3日)
1986年、市制施行80周年記念の年から、10号玉を市制施行からの年数だけ打ち上げたのが始まり。100連発は3ヵ所から同時に打ちあがるので、数を数えるのはとても無理。一瞬の間もなく豪華絢爛な10号玉が次々と夜空を染めつづける。3日は新型花火「超大型ウルトラスターマイン」に再編成された。こちらも豪華絢爛。
フェニックス花火
両日1回ずつ打ち上げ。震災復興の象徴として、2005年に打ち上げられた。平原綾香の「Jupiter」(歌詞が共感を呼び、地震後被災地からリクエストが多く寄せられたという)にあわせ、約3分間、実に1.5km幅という超ワイドレンジから打ち上げられる。その光のリフレインと壮麗な迫力は、世界の花火史上に残る傑作といって決して過言でない。2005年の打ち上げでは、感きわまって涙を流している観客が何人もいた。(この花火を観た平原綾香氏も「花火を見て泣いたのはこれが初めてでした」と告白している。)2006年以降も数年間は継続して打ち上げられることになり、市民や全国・海外の長岡花火ファンからの寄付でその打ち上げ費用がまかなわれる。合言葉は「みんなであげよう、フェニックス」。長岡花火をご覧になる方は、ぜひ趣旨にご賛同を

花火大会会場までの地図 その昔、長岡遊郭の女たちの呼びかけではじまったとも伝えられる花火大会。第2次大戦中は中断したものの、戦後まだ空襲の傷跡が残る中、戦災復興を願うまつりとして復活を遂げた。その後「長岡まつり」と名を変え今日に至っている。真夏の夜空を華麗に彩る長岡花火には実は、あの夏の夜に全てを焼き尽くした戦火がオーバーラップしている。長岡花火には、長岡市民の平和への熱い願いが込められているのである。街じゅうで長岡まつりの興奮が高まってゆく8月1日、市内の平和公園などで平和祈念式典や灯ろう流しが厳かに行われる。もし花火大会の前日に長岡を訪れたら、そうした平和を願う市民の集いもぜひ覗いてみていただきたい。

長岡人が教える 花火会場へのアクセス必勝法!

長岡まで

電車なら東京から上越新幹線ときで約90分。当日市内の各幹線道路は大混雑するので車での来岡は避けたほうがよい。どうしてもという方は関越道長岡ICの利用は絶対に禁物。大渋滞は必至で、料金所を通過したら花火が終わっていたということにもなりかねない。隣の小千谷ICまたは中之島見附ICから長岡東バイパス(国道17号)を利用するか、国営公園方面へ(ただ、これらの道路も昼以降はかなりの混雑が予想される)進み、郊外の各臨時駐車場からシャトルバスを利用しよう。帰路にも注意。市内の渋滞が解消するのは夜半頃になってしまう。やはり電車の利用をおすすめしたい。

会場まで

長岡駅大手口から徒歩約20分。駅前通り(大手通り)を人の波に乗って歩いて行けばよい。トイレは大手通り沿いのスーパーやデパートで済ませておいたほうが賢明。時間があれば飲み物や食べ物もここで仕入れておきたい。会場近くの商店やトイレは大混雑する。ともあれ、浴衣姿の越後ナガオカ娘たちの黄色い声を聞きながら、ざわつく夕暮れの人波を、涼やかな川風のにおう方向へ・・・なんて、なかなかいいカンジである。時折打ち上げられる前触れの花火も、開演前の興奮をかきたててくれる。

さて、大手通りを直進すると大手大橋の東詰に出る。ここから左手方向、長生橋までの河岸堤防沿いが観覧スペース(無料自由席、有料自由席、花火大会協賛者用観覧席)。一定間隔で護岸堤防の斜面に降りるための仮設スロープゲートがつくってあるので、ここから河べりに下りよう。対岸堤防までの距離は約1キロ、広い河川敷に大きな視界が開ける。傾いた真夏の夕日がまぶしいこの空が、まもなく世界一の火の芸術のキャンバスとなるのだ。観覧席は右岸、左岸両側にあるので、事前に位置関係をよく確認しておくとよい。なお、大手大橋・長生橋はナイアガラ花火の前後には通行止めとなる。

無料観覧席を利用する場合、仮設スロープゲートは午後2時まで開放されず、場所取りはもちろん観覧スペースに降りることすらできない。場所取りの観覧客はゲート前に並ぶことになる。昼ごろには各ゲート数十人程度の列ができるが、ここに並び、午後2時の開放と同時に譲り合いながらレジャーシートで場所を確保するのが確実だ(なお、レジャーシートを石やブロック等で固定するのはつまづくなど危険なため厳禁。堤防は芝生敷きのためシートやテント用のペグが使えるので、かならずペグを使用し、しっかりと打ち込むこと。ルール違反の場所取りシートは撤去される)。あまり川面近くまで降りすぎるとせっかくのナイアガラが見えなくなってしまうので、大手大橋と長生橋ともにある程度良く見える護岸中段くらいのポイントがおすすめ。場所取りが済んだら、近くのショッピングセンターやコンビニに買出しに出かけてもよいだろう。(ただし、会場はどんどん混雑してくるので、迷子になってせっかく確保した場所に戻ってこられない、などということにならないように!)無料観覧席が場所取りのシートで埋め尽くされると、あとから来た観覧者に対しては入場制限が行われることもある。2,3人が腰を下ろせるスペースがあれば、という方でも、夕方できるだけ早い時間に行動を開始したほうがよい。

場所取りの時間が確保できない、という市外・県外の方には、有料自由席の利用をおすすめする。2007年から有料自由席の制度が拡充され、多少利用しやすくなった。1人1500円で、7月初旬からローソンチケット等のシステムを利用して購入可能。こちらの開放は午後5時。有料自由席のエリアは観覧場所としても無料席より条件がよく、検討に値する。くわしくは長岡まつり協議会へ。

なお、少しでも三尺玉に近い長生橋側で観覧したい場合には、混雑する堤防上を移動するよりも大手通アーケードの終端・表町の交差点で左折するとよい。道なりに歩けば通りは「長生橋通り」となり、長生橋東詰に出ることができる。また、長生橋東詰を横切って観覧席を過ぎ、堤防上をさらに上流方向に歩くと、三尺玉の打ち上げを間近に見ることができる。他の花火は小さく見えてしまうことになるが、視界いっぱいに開く三尺玉は迫力満点。マニアックな向きにはオススメ。市立劇場裏のあたりが絶好のポイントである。観客の数も比較的少ない。2日間どちらも観覧できるような場合には、どちらか一日をこのポイントで見るのもよいかもしれない。


おまけ情報

長岡市民は三尺玉以外の夢を見るか?

 −長岡の意外な素顔を探せ!−

長岡はなんといっても花火やお米で有名です。しかし他にも隠れた横顔を持っているのです。え?田中眞紀子?・・・いや、そういうんじゃなくて(笑)。長岡市民も知らないナガオカの隠れた魅力、特徴を探してみました。

天然エステ都市・長岡に住もう!

長岡の女性は美しい。と言ってこんなところで点数を稼いでもなんにもならないのだが、確かに長岡の女の子達は(そして男の子達も?)色白でかわいらしい気がする。電車に乗って帰郷する際、車内にきれいな人が多くなってくることで故郷が近づいてきたなと思えるのは幸せである(ちょっとほめすぎか!?)。しかし越後美人、なんていう言葉が全国的に市民権を得ているくらいだから、それなりの根拠があるのかもしれない。

これにはじつは当地の環境が関係しているといわれる。長岡地域は特に冬期の日照時間が少なく、UV(紫外線)量がかなり低い。その一方で冬期の湿度が高いため、肌の保湿効果を高める環境であると言える。また、信濃川の水質には美肌効果があるといわれている。当然ながら長岡人は毎日信濃川の水を飲み、信濃川の水のお風呂に入っている(笑)。さらに長岡は地理的条件上気温差が激しい。この温度環境が、肌に天然のマッサージ効果をもたらすというのだ。まさに街全体が巨大な天然エステサロンといっても過言ではないのである(?)。さあ、綺麗になりたい女の子達、天然エステシティ・ナガオカを目指せ!

長岡人はマニア志向?

長岡はなぜかサブカルチュア志向、もっとはっきり言えばいわゆる「マニア」志向の人が多い印象を受ける。長岡市内主要書店のベストセラーランキングを見ても、全国の傾向と微妙に違う(しかしある明確な)傾向をもっているような気がする。

漫画やアニメの同好者が集まって自作を販売するコミックマーケットは長岡では「ガタケット長岡(ガタは新潟の意)」「オカケット」などの名で盛大に開かれ、全国的にも有名らしい(なんでも新潟県内のコミックマーケットはコスプレの女の子がかわいいのも人気の理由だとかそうでないとか)。ひょっとすると長岡人にはサブカルチュア的なものをクリエイトする独特の資質があるのかもしれない。もともと新潟地方は著名な漫画家を多数輩出していることで知られる。赤塚不二夫(「天才バカボン」など)、魔矢峰雄(「パタリロ!」など)、高橋留美子(「うる星やつら」「めぞん一刻」など)、水島信司(「ドカベン」など)、新沢基栄(「ハイスクール奇面組」など)・・・挙げ出したらきりがない。(そう言えば大ヒットしたアニメ映画「THE END OF EVANGELION」の一部も新潟の地で製作されていたことはあまり知られていない。)ちなみに長岡出身で現在活躍中の漫画家には「るろうに剣心」の和月伸宏氏、「君の瞳に三日月」の桑田乃梨子氏らがいる。そう言えばかの宮崎駿監督(「風の谷のナウシカ」「となりのトトロ」「もののけ姫」など)も家系のルーツは長岡近辺にあるらしいとか。クリエイター的な資質は必ずしも単なる趣味の領域にとどまるものでなく、全国的に見ても通用するようなクオリティであるようだ。もしかすると、このような「デスクでの緻密な作業」を主とする趣味に長じているのは冬期間雪に閉ざされる当地の手工業の伝統に一脈通じるものがあるのかもしれない。

さて、こんな長岡には実は偉大なる「元祖・マニア」がいた!それこそ誰あろう「井上円了(1858-1919)」その人である。長岡洋学校(現長岡高校)に学んだ井上は、後に東洋大学を創始する偉大な学者となる。で、その井上なのだがなんと「妖怪学」の権威で、「妖怪博士」「おばけ博士」と呼ばれていたという。また井上は晩年、精神修養のため現在の中野区新井薬師のあたりに哲学堂という庭園を造営する。この庭園には「無尽蔵」という小さな蔵だの、池にかかる「桃源橋」という石橋だのわけのわからないオブジェがそこかしこに配されている上、中心となる祠にはブッダ、孔子、ソクラテス、カント(すごいとりあわせだな)が「四聖」としてまつられているという、まあなんともモノズキ&なんじゃそりゃ、というスポットなのである。現在は公園として開放されているのでぜひ一度足を運んでみていただきたい。


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