「椎名林檎最高?再考」再考
まず、椎名林檎について再考する機会を与えてくれたアスク氏にとりあえず
感謝の意を表しておきます。
また、このような反論めいた投稿が、このレビューの性質にそぐわないものであることを危惧しております。さらに、また、私の反論が感情に流され、いらぬ感情的対立をあおるようなことも恐れています。
しかし、それでも、アスク氏のいわゆる「取り巻くファン」の端くれとして、何か発言せずにいられない気持ちになってしまうことを、ご理解下さい。
さて、最初に、私が「彼女の作り出す詩の世界観に全く」はまってしまった者であることを告白しておきます。従って、アスク氏とは、出発点から、発想の根底から、かみ合っていない存在とも言えるでしょう。
アスク氏は、「室見川もベンジーもモラトリアムもとりあえずよさそうだから入れておけというレベル」と切り捨てていますが、これが、まず私には全く理解できません。
「室見川」と「ベンジー」は、それぞれの詩において、その位置付けや効果の異なる詩句ですし、「モラトリアム」に至っては歌詞でさえない。
歌詞でないものを歌詞中の断片的語句と、なんの前提もなく同列に扱い、切り捨てるというのは、全く論理的でなく、著しく感情的かつ乱暴な断罪であるように私には感じられるのですが、いかがでしょうか。
さて、それでは、ここで、「室見川」と「ベンジー」のについても考えてみましょう。
「室見川」は、ご存知の通り、「正しい街」中の詩句であり、博多に実在する地名でもあります。その限りにおいて、「正しい街」は、彼女の、出身地博多での超私的体験を歌っただけのように受け取られがちですが、本当にそれで良いのでしょうか。
彼女が博多でのみ活躍する地方ミュージシャンならいざ知らず、彼女は明らかにメジャーデビューした存在として、アルバムを発表しています。とすれば、「室見川」という地名がどのように受け取られるか、は計算済みのはずです。
ごく一部のマニアと博多在住者を除けば、享受者にとって、「室見川」は、どこかわからない、実体としてのイメージを伴わない、ただ地名という意味だけを持った語句です。とすれば、一般的享受者としては、「正しい街」を彼女の私的体験とは受け取らず、架空の女性の体験として、受け取るのが自然でしょう。
ちょうど、「歌舞伎町の女王」の「九十九里浜」と同じように。
まさか「歌舞伎町の女王」を彼女の私的体験と聞く人もいないでしょうから。
そこでは、「室見川」「百道浜」「九十九里浜」といった地名は、架空の詩の世界にある種のリアリティーとその音調韻律のもたらす郷愁にも似た何かのアトマスフェアを付加する詩句として機能していると考えられます。
と同時に、見逃せないのは、「室見川」「百道浜」という極めて普遍性を欠く地名を用いることによって享受者側に投げかけられた新鮮なインパクトです。
表現者と享受者が普遍的な「意味」を共有しないことに対する驚きがそこにはあります。
そうした新鮮な詩的体験が我々ファンを「正しい街」の世界へと惹きつけてやまないのです。
「ベンジー」については、どうでしょうか。
「ベンジー」は、彼女の敬愛するブランキージェットシティの浅井氏の愛称であることが、(マニアの間では)知られています。
しかし、一般的享受者にとって、意味の自明な語句でないことは明らかです。
しかも、「ベンジー」の用いられた「丸の内サディスティック」の中で、「ベンジー」は、浅井氏の愛称という固有の意味から解き放たれた詩句として用いられています。
「ピザ屋の彼女になってみたい、そしたらベンジー、あたしをグレッチでぶって」
「ベンジー」のところに「浅井さん」を代入してみれば、そんなことは明らかでしょう。何故、ピザ屋の彼女になった椎名林檎を浅井氏がギターで張り倒さなけりゃならんのですか?
このような実験から明らかなように、「丸の内サディスティック」は、日常的文脈や日常的意味の世界を離れた純度の高い言葉遊びの世界なのです。アスク氏は、「それらの言葉に根本的な意味はありません」と言っていますが、少なくとも「ベンジー」に関しては、そんなことは、誰にでも判る当然なことです。
詩句には、日常的意味と断絶することによって、享受者にインパクトを与える類のものもあるのだと知ってほしいと思います。無意味であることが意味なのです。無意味だから面白いんです。
「室見川」も「ベンジー」も、一見、「彼女自身のなまぬるい世界」に属する語句のように見えますが、これまでに述べてきたように、それらは、彼女の超私的語彙であるがゆえに、表現者と享受者とが普遍的意味によって結ばれるという常識的構図から我々を解放し、我々を新鮮な詩的感動へと誘う、詩人によって計算された言葉遊びなのではないでしょうか。「気を引くため」の、単なる奇をてらった行為とは訳が違うと思うのです。
しかも、それは単なる「無意味」ではなく、魅力的なメロディーとあいまって、
本物の詩の持つ不思議なアトマスフェアで我々を包み込むのです。多分、それは、彼女の持つ「情念」の力なのかもしれません。そこの所は、私にもよく判らないのですが、彼女の言葉の世界の「魔力」とでも言うべき何かです。
人を感動させる詩って、いつでも、言葉遊びと情念のバランスの上に成立するのではないでしょうか。もし、詩句という物が「根本的な意味」だけを持つべきものだと考えるなら、詩ではなく、論文か演説でも歌っていれば良いということになりませんか。
もしかして、アスク氏は、メッセージソング以外の歌詞をお認めにならない方なのでしょうか。だとしたら、椎名林檎の詩の世界は百万年たっても、アスク氏のお気にめすようにはならないでしょう。
彼女の詩の世界は断じて「メッキ」ではないからです。それは、言葉遊びと「情念」が織り成す、本物の詩の世界なのだと私は思います。
「室見川」「ベンジー」が用いられた「正しい街」「丸の内サディスティック」は、椎名林檎ファンには、特に人気の高い作品です。椎名林檎ファンは、多分、「室見川」や「ベンジー」から新鮮なインパクトを受け、その詩的アトマスフェアを嗅ぎ取り、それを「悦楽」と感じる者達なのだと思います。
それを少しもお感じになろうとしないあなたに、「椎名林檎が好きだ」などと言ってほしくありません!
少なくとも、アスク氏の文章には、現在の椎名林檎の音楽に対する愛情が全く感じられません。愛情の無い者は批評するべきではないと、このレビューでもどなたかが書いてましたよね。私も同感です。彼女を取り巻くファンや批評家に不満はお有りかもしれませんが、そのことと、彼女の音楽に対する批評をすり替えないで下さい。