Visitor's Review
はじめから読む

O.K.internet(2)
Published Enemy

ではタイトルにもパロっちゃったから、持ち出しておこう。

97年、レディオヘッド、「O.K.Computer」。
今ごろそんなもん持ち出すなと言われそうだが、最近のうち記憶に明確で大きな動きだったので引合にする。
僕は初め、この作品が苦手だった。単純に、音的にはすごいと思った。プログレ的音響系でもありながらポップの骨格は崩していない。が、どうも違和感が先だったのだ。
典型的な白人中産階級の苦悩。めっちゃ観念的な悩み。そんなもん、視界をスッと近目にずらせば間違いなく回避可能な、個人の枠のまた外の「余剰トラブル」。
そんな反則気味に大きな概念を持ち出してまでおおっぴらにしたがった、「僕の無力」。

「フィッター、ハッピアー」なんていう、アカデミックにありきたりなメッセージを敢えてメインに据えて歌うことの、なんというか虚しさをどうも受け入れづらかった。
だって、過適応の危険、なんてお前グリーンピースか、って感じじゃん。
システムへの不信と社会全体の不安そのものを鳴らす、その在り方は僕自身が欲していたポイントと合致しない、むしろズレを感じさせるものだった。だって、やっぱり当たり前だから。前提すぎて別次元というか。

「エアーバッグ」で「死んで生まれ変わりたいけれど、それもできないッス」。
トムが「できないッス」と言ったかどうかは知らないが、とにかくこんな言葉を美しく歌いあげるのを聴いても、「それを言ったらさあ、、」というくらーい思いに因われる。だってよわっちいにも程があるよ!
トムのヴォーカルはまたそれをうまいこと響かせるものだから、その意図が成功すればするほど僕には辛い。
「わかった、わかったから。行こうよ。楽しくなるほうにさあ。」
このときは、僕もまだ能天気だった。今もそうといえばそうだけど。

ところが、このアルバムは聴けば聴くほど妖しく攻撃性を増すことに気づく。
なんというか、縛られた囚人が拷問を受ければ受けるほど、その眼光に宿した光が凶悪さを深めていくみたいなものか。いや、拷問したこと無いから知らんけど。
がんじがらめの体勢から吐き出す唾。栓無い反逆といえばそれまでだが、その精神にあるのは、抑圧がでかければそれだけ攻撃性は増すというバカバカしいほど単純な一事だ。
いや、もしかしたら攻撃性の強い人間が抑圧を感じるのかもしれないが、まあ同じか。わざわざ強大な鎖に己を絡めとってとことん絶望に追い込むマゾヒズム。そしてそれをリスナーに波及させてしまうサディズム。

いずれにせよ、レディオヘッドはリスナーにとっては最も大きな共通項を持った反逆性なのだったということに気がつくのだ。当たり前だ。相手は社会なんだから。集団のシステムに対して、個は小さく弱い。システム側の視点に立てばそれを云々するのは馬鹿らしい限りだが、僕達はなぜかとりもなおさずその弱い「個」の視点からその状況を見上げた。
で、結果「O.K.Computer」はあれだけのムーブメントになった。
似たようなメッセージ性は、例えばある種のサイケデリックロックや目先を変えれば民族性へと帰りたがるワールドミュージックにも見られることはある。だが、この大きな反逆性を97年という時代の気分において、しかも音楽的な説得力を伴って訴えるバンドが他に無かったということだろう。
あの音の暗さ、複雑さ、メロディの寂しさは、端的に説得力がある。
だからレディオヘッドはすごい。と、思うのだけどどうだろう。それは本当に思いつき。あ。言っちまった。

ただ、こうしてみるとやっぱり、発現の仕方はともあれどこかロックは対体制なのだ。それは各人の攻撃性がどこを向こうが、いずれぶつかる外壁だからだろう。

話を戻す。
「弱いよねえ」と言った、その言葉の裏には、「あんたら、何やってんの」という半ば呆れ顔のいぶかった表情が見える。一見非生産的な行為の数々への。
これはつまり、システム側の視点に近い。集団の益にならない。だからまずい、と。

いいのだ。僕達は集団社会にいるしそこから絶対逃げられないが、せめてそれを憎むことぐらいはしてもいいのだ。「個」にしがみついてダダをこねてもいいときもあるのだ。
それを「O.K.Computer」を聴きながら考えた僕なりの考えを言ってみたい。

もうちょいつづくのだ。

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