「シロエ」
怯えを含んだ子供と、キースの、群青と青碧の瞳が交差した。
まじり合い、溶け合う、永遠とも思えるような一瞬。逡巡の果ての──理解。
子供はこくりと小さく、だが確かに頷いた。そしてシロエは再び生身の肉体を得た。
キースはユグドラシルを後にした。テラの地の底、旧体制の人間ならそこを地獄と呼ぶだろう。収穫はあった。キースは満足していた。
子供はキースにすぐに馴れ、初めて目にするはずの地上にもとくに臆するところはないようだった。
キースは子供を抱き上げ、ユグドラシルであてがわれた自室には立ち寄らず、そのままエアポートへ向かった。出迎えたマツカは当然、驚く。
「閣下、その子は……一体」
目を丸くしているマツカには肩を竦めて見せるだけにとどめた。何かくだらないことを口にしてしまいそうだった。マツカはキースのそういった対応には馴れているはずだが、さすがに食い下がってきた。
「閣下、ご説明を! こんな小さな子……何の説明もなしに、艦には乗せられません。テラにこんな幼児が居るのも変です。この子は一体、何なのですか」
マツカにしたら、悲壮な覚悟でのキースへの諌言だ。キースは短く答えた。
「カナリアだ。縁あって、ノアへ連れていくことにした」
「カナリア……」
マツカは絶句し、まじまじとキースの、それから子供の顔を見くらべた。キースはそれ以上の質問を拒絶した。
シロエを抱いたまま、先に立って艦へ上がる。マツカも慌ててキースの後を追い、ハッチが閉じられた。テラの重く垂れ込めた、人体には害のあるスモッグ、カナリアのシロエにとってはなおのことだろう。長居は無用の地だ。
シロエはキースに抱き上げられ、肩に顔をうずめたきり一言も口をきかない。
専用艇は手狭ながら一応キースの個室が用意されていて、キースは傍らのソファにシロエを降ろした。
「……怖くはないか?」
首を振る。離陸の振動にはややたじろぎ、キースの服の裾を掴んだ。キースはぎこちなく微笑んだ。
「いい子だ、シロエ」
愛しいシロエ。私の殺めたシロエ。
シロエは容赦なく、キースの半身を抉り取っていった。一度は過去を全て清算し、失われた半身を取り返そうとも思ったが、それは間違いで、シロエははじめからずっとキースの中にいたのだ。
十三年間、ずっと。
シロエの魂を取り込んで、今では、キースはこうして生身のシロエに触れることが出来る。
カナリアのシロエを抱き寄せ、膝の上に座らせる。小さな頭、つややかな髪に頬を寄せると、甘い、優しい香りを胸いっぱいに吸い込んで、キースの頬を涙が伝り落ちた。
想定していたことだが、カナリアのシロエにパーソナル・データというものは存在しない。
カナリアとは何か?
はじめキースは、カナリアも、自分と同じ水槽生まれなのだろうと思った。だがそれならアクセス出来るデータが存在しているはずだ。
リボーン、地球再生機構は完全に国家騎士団をはじめ人類統合機構とは管轄を異にしているため、内部の機密に関しては、元老院のキースといえども容易には踏み込むことが出来ない。
おそらくカナリアとは、ミュウ因子を完全に廃絶した、完全なる人間のサンプルなのだろう。
キースの心に、ひとつの迷いがある。それが重く心に圧し掛かり、キースの視界を狭めている。
セキ・レイ・シロエのパーソナル・データも、同様に存在しない。が、それは作為的に消去されたものである。
キースの指が踊り、キィを叩いた。
──セキ・レイ博士。
セキ夫妻。
ふとした思い付きだった。今まで考えたこともなかった。
夫妻のデータは存在した。十八年前、エネルゲイアでミュウ掃討作戦に関わったこともあるセキ博士、シロエの養父母は、現在ノアに移り住み、一人の少女を養育している。
会って、シロエの話を聞きたいと思った。
だが……一体どの面を下げて? シロエが語ったセキ夫妻の人柄を考えれば、彼らがシロエを掌中の珠のように大切に養育していたことは伺い知れる。
シロエを撃ったのはキースだ。知らせれば、夫妻はキースを悪魔のように憎むだろう。
その考えはひどく魅力的なものにキースには思えた。
自分でもどうかしているとしか思えなかったが、キースはすでに彼らとの面会を決意していた。
多忙なキースでは手が行き届かないから、カナリアのシロエの面倒はほとんどマツカが見てやっている。
マツカは子供のあしらいが巧い。子供が好きなのだろう。はじめは反発したマツカだったが、任せてみると楽しそうにシロエの世話をやいている。シロエもマツカによく懐いて、二人の姿はほほえましかった。
柔和な、女性的とさえ言えるマツカの横顔に目を奪われる。ミュウのマツカ……シロエもミュウだった。カナリアのシロエはミュウではない。ひどくかき乱される。
マツカから引き離そうとするとシロエは抗った。
セキ夫妻との面会に、マツカは伴わないつもりだった。
「シロエ、いい子だから……。閣下の手を煩わせてはいけない」
マツカの白い手がシロエの髪を撫で、シロエはしぶしぶながらこくんと頷く。シロエを抱き上げたマツカの腕から、キースはシロエを受け取る。
「僕は何も言いません。でも僕は──」
閣下に危ない橋は渡ってほしくないのだと。亜麻色の瞳が雄弁に語った。