戦後復興の過程で国産のオシロスコープも数多く登場した
日本で「オシロスコープ」が初めて製造されたのは、いつ頃だったのでしょうか? 今から六十年前、戦後の日本は貧困と食料難に喘いでいました。そんな世情の中で一般大衆の娯楽として一時の安らぎを得たのは映画とラジオ放送だったと聞いています。その大衆のニーズに応え資材不足の中で民生用ラジオ受信機の増産を始めた電機産業も戦後の復興に大きく貢献しました。その電機産業の発展を陰で支えた電子測定器を製造する企業も戦後のこの時期に数多く登場、後にマザーツールとなるオシロスコープもやがて大量に出回るようになったようです。
昭和12年(1937年)に発行された共立社の電子工学講座「陰極線管に依る諸測定」から、海外に於いてオシロスコープを製造している企業として名が挙がっているものの中から幾つかピックアップしてみると、
イギリスでは、A.C. Cossor Ltd
ドイツでは、Siemens Halske, A.E.G.
オランダでは、Philips
アメリカでは、R.C.A. Mfg. Co., General Radio Co. など現存する企業も多い様です。
この文献で紹介されている複数のモデルでは、ブラウン管以外に真空管が5本程度(整流管も含む)、ブラウン管自体は2インチから3インチが多い様に見て取れます。
垂直増幅器の周波数帯域については特に明示がなく100kc〜数100kcと推測され、掃引周波数も20c〜10kc程度の様です。
回路図を見ても入力回路に減衰器が無く可聴帯域あたりでの観測が主だった様に思えます。
ただし、欧米でのテレビジョン放送の開始に伴いビデオ信号が観測できる4Mc〜10Mc程度のオシロスコープもあったようですが、今は確認出来ていません。
余談ですが、和訳では「陰極線管オッシログラフ装置」とあるので、単に Oscillograph ではなく、Equipmentの様な単語が付いていたとも推測されます。
右は、昭和12年(1937年)時点での
3吋陰極線管オッシロスコープ
RCA model TMV-122B
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外観からフロントパネルのレイアウトまで、その後に登場した国産の3吋ブラウン管オシロスコープとよく類似していて、やはり、この辺りを手本にして日本のオシロスコープ作りが本格化したと思われます。
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回路図 (RCA model TMV-122B)
半波整流管:879、全波整流管:80、鋸歯波発生管:885、増幅管:57、3吋陰極線管:906
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オシロスコープの製造販売ではマンモス的な企業にまで成長したアメリカのテクトロニクス社は昭和21年(1946年)に創業していて、このジャンルではかなり後発であったことがわかります。その後、海外のオシロスコープに関わる企業が次々と脱落していく中で、独り勝ちの勢いで成長していき、入れ替わる様に日本でもオシロスコープを開発する企業が次々と台頭してきました。
前置きが長くなりましたが、今回、ここに提起したのは、従来なんとなく定説めいていた「国産初のオシロスコープは戦後に登場」に関して、いや、そうではなく、「既に戦前に製造販売されていた」と言う証になる文献が複数現存していることです。
65年前の「無線と実験」第27巻第1号に「オシロスコープ」の製品広告
その証のヒトツは、現在でも発売されている「無線と実験」のバックナンバー、昭和15年(1940年)1月1日付け発行の「皇紀二千六百年」の記念号にあります。
本文の目次や一部のページについてもご紹介しておきますが、広告のページにオシロスコープやブラウン管の製品広告が複数あります。この広告ページもご覧頂ける様にしてありますが、出版時期から考えて昭和14年(1939年)時点で、日本でもオシロスコープが製造販売されていた事になります。
昭和15年(1940年)1月1日発行の「無線と実験」一月号、「皇紀二千六百年」の記念号。
「無線報国」の文字がこの当時の時局を物語っています。定価は金壱円。
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これに関しての情報をお寄せください。
この文献の記述通りだとすると、従来から語り継がれて来た国産のオシロスコープの登場が、大戦を挟んで二十年位遡ることになります。ただ、六十数年前の事で今となっては、生き証人や物証を得る事が難しく、その詳細を知る手掛かりがありません。日本に於けるオシロスコープのルーツを知る上で、何かこれに関する情報をお持ちの方が居られれば、是非とも私宛にお知らせ頂ければ幸いです。
文責:「オシロスコープ入門」の著者 田中新治
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