「ここに愛がある」
新約聖書 ヨハネによる福音書3章16節
神は世を愛された
 クリスマス、おめでとうございます。クリスマスはイエス様の愛と祝福をお互いに祈り合う時でもあります。恐縮ですが、ちょっとお席をお立ちください。そして、両隣の方、前後の方と、握手をして「クリスマスおめでとうございます」と祝福の祈りをこめて挨拶をいたしましょう。

 クリスマスは楽しい日です。しかし、忘れてはならないのは、クリスマスというのはクリストのマス=キリストのミサ、つまりイエス・キリストを礼拝する日であるということです。クリスマスが楽しいのは、その日、神様がわたしたちに本当に素晴らしい贈り物をしてくださったからなのです。それはすべての人に真の喜びを与える神の御子イエス様を私たちに与えてくださったということです。

 聖書にはこう書かれています。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 今日はこの御言葉からクリスマスの意味についてお話をしたいと思うのです。三つのことをお話しします。一つは、「神は世を愛された」ということです。神様は世のすべての人を愛してくださったと、告げているのです。

 今日、巷には愛という言葉があまりにも陳腐な言葉になってしまっていることに、深い悲しみを覚えます。だいぶ前の話ですが、かつて「同情するなら金をくれ」なんていう心がヒンヤリするような言葉が流行ったことがあります。愛とか、同情とか、憐れみとか、そんなものは何の信用できない、信用できるのはお金だけだという世知辛い世相を鋭くついた言葉として印象的でした。不倫が大人の恋愛として美化され、もてはやされたこともありました。たとえ、そこで誰かが深く傷ついていたとしても、自分の内に起こってくる衝動的な情熱に身を任せて生きることが、本当の愛だと勘違いしている人が多いのです。子供をペットのように可愛がったり、逆にペットを子供のように擬人化したりという話しもよく聞きます。愛というのものがどこから勘違いされているのです。実際、愛というのは分かったようで、分からない言葉なのかもしれません。「神様は、あなたを愛してくださっていますよ」と言っても、いったい何のことなのかさっぱり分からない、そのメッセージに喜びを感じられないという人も多いのではないでしょうか。

 愛とは何でしょうか。愛という抽象的な言葉を抽象的に議論しても、決して愛とは何かという答えは出ません。愛というのは、愛するという具体的な行為があって初めて説明できるものになるのだと思います。では、愛するとはどんなことを言うのでしょうか。今日、愛と言う言葉が氾濫する一方で、とても薄っぺらになってしまっているのが人との関わりを持つということです。矛盾するようですが、愛と言う言葉がそこかしこで使われながら、孤独を感じている人が本当に多いと思うのです。

 たとえば、お節介をやく人が少なくなりました。お節介というのは時にはうるさく感じることもあります。しかし、お節介がうるさい時代の方が、実は「隣の人は何する人ぞ」という時代よりもずっと心の豊かな時代なのだと思うのです。

 お節介というのは、「余計なことだ」という人もあります。確かに、人の生活や人生に首を突っ込んであれこれと世話を焼こうとするのは余計なことのはずです。その余計なことが出来るということが、心の豊かさの証しだと思うのです。しかし、自分の一人のことで精一杯、他人のことなど顧みている余裕がないという貧しい世の中なのです。自分のことばかりではなく、あるいは自分のことを顧みないで、他人のことに関わりをもって生きようとする、それこそが実は、愛するということではないでしょうか。

 つまり、愛というのはお節介を焼くことなのです。もう少し丁寧な言葉で言えば、愛というのは人との関わりを持って生きることです。表面的な関わりであれば、愛も表面です。その人の心に深く関わりを持つならば、愛もそれだけ深いのです。また、何があっても切れない絆で結ばれているならば、それだけ強く確かな愛で結ばれていると言えましょう。神様が世を愛されたというのは、神様は世のすべての人と、イエス様を通して、あなたの深いところと、強く確かな関わりを持とうとしてくださったのだということなのです。ある人は、それを余計なお世話だというかもしれません。しかし、まさしく神様は私たちのために余計な重荷を負ってくださる御方なのです。その神様の愛があればこそ、私たちは自分の重荷につぶされそうになっても、なおそれに耐えて、神様と共に生きつづけることができるのです。
一人も亡びることなく
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 この聖書のお言葉から学びたい第二のことは、「一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである」と言われていることです。愛というのは、ただ深く、強く関わりを持てはいいだけではなく、もう一つ条件があります。それは、人を傷つけるような自己中心的な関わり方ではなく、人を大切にし、生かすような関わり方をしなければ、決して本当の愛とは言えないということです。

 それは「言うは易し、行う難し」です。関わりを持てば、必ずそこに摩擦が生じます。摩擦が起これば、そこで必ず傷つく人や思いがあります。お節介が煩わしいと言われるのは、そこにこのような人の思いと思いが傷つくような摩擦が起こるからなのです。

 人を傷つけないで、しかも真実に人と関わるためにはたった一つの方法しかありません。それは、すべての痛みを自分が引っ被るということです。自分が犠牲になることです。自分だけが痛い思いをすることを良しとした関わり方をすることです。

 神様は私たちを滅ぼしたり、傷つけたりするためではなく、私たちをどこまでも大切にし、いついかなる日にも私たちを生かすためにこそ関わろうとしてくださっているのだということが、ここで言われているのです。それは。そのために、神様ご自身が私たちのために痛みや、苦しみや、悲しみを感じてくださっているのだということでもあるのです。
独り子を与えてくださった
 最後に、「ひとり子をお与え下さった」ということについてお話しをしたいと思います。

 愛というのは、相手を所有しようとする愛と、相手に与えようとする愛があるのです。神様は私たちにイエス様を与えてくださいました。与えるということによって、私たちを愛してくださったのです。私たちに新しい命を与えるために、悲しんでいる人には慰め主として、傷ついている人には癒し主として、悩める人には道を照らす光として、孤独な人にはこよなき友として、不安に恐れおののいている人には祝福の約束として、絶望している人には新しい希望の光として、すべての人に真の喜びを与える贈り物として、イエス様を私たちにお与え下さったのだというのです。クリスマスの喜びがここにあるのです。

 クリスマスは楽しい日です。しかし、クリスマスを楽しく過ごしたいということだけであるならば、何も教会に来る必要はありません。今この時にも、巷にはもっと楽しいクリスマス、もっと素敵なクリスマスのイベントが、ホテルや、コンサートホールや、遊園地や、スキー場で、たくさん行われているのです。しかし、そこには肝心要なものがありません。「クリスマスはなぜ楽しい日なのか」ということがそっちのけなのです。

 昨日、教会ではこどもクリスマス会がありました。60人を超える子供達があつまり、楽しく、賑やかにクリスマスを祝いました。しかし、その楽しいクリスマス会の背後には、教会学校の先生方の並々ならぬ祈りとご苦労があったことは申すまでもありません。すべてのプログラムが無事に終わって、子どもたちがサンタクロースからもらったプレゼントを手にしながら、それぞれ満足げな顔をして帰っていくのを見て、先生方もさぞかしホッとなさったことだろうと思うのです。

 すると、まだ小学生にもならない一人の男の子が、玄関で子どもたちを送りだしている一人の先生に、満面の笑みを浮かべながら、「楽しいクリスマスをありがとうございました」と、大きな声で挨拶をしてくれたのです。なんと素晴らしい言葉でしょうか。この言葉を聞いて、先生の苦労は一遍に報われたに違いありません。

 さて、玄関の外では、中学生たちが子どもたちを送り出しながら、ハンドベルの演奏をしていました。何人かの子どもたちが、教会から離れるのを惜しみながら、立ち止まってその演奏を聞いていました。先ほどの男の子も立ち止まって、熱心にその演奏を聞いていました。そして、演奏が終わると、彼はまたもや、「ありがとうございました」と言ってぺこんとお辞儀をし、そしてお母さんに手を引かれて帰っていったのでした。別にお母さんが言わせているではありません。自分でそう言ったのです。

 本当に素晴らしい心をもった男の子だと思います。楽しみを楽しむことなら誰にでもできるでしょう。しかし、その楽しみというのは、誰かが与えてくれるものでもあるのです。そのために誰かが苦労したり、犠牲を払っていることもあるのです。そのことに気づき、その人に感謝するということは、大人でもなかなかできることではありません。現に、「クリスマスが何故楽しい日なのか」ということなどちっとも考えないで、ただ自分の楽しさだけを追求して遊んでいる人たちがいっぱいいるのです。ところが、この男の子は、自分に楽しさを与えてくれている人のことを自然に感じ取り、「楽しいクリスマスをありがとうございました」と言えたのですから、本当に素晴らしいではありませんか。

 私たちも、この男の子に見習わなくてはならないでありましょう。クリスマスを楽しむだけではない。このクリスマスの喜びを与えてくださったのは誰であるのか、どのように私たちに与えられたのかということについて考え、楽しむばかりではなく感謝の心をもってクリスマスを過ごしたいのです。
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